谷川俊太郎の十篇(7 なめる)
2014年06月16日(月曜日)
なめる
見るだけでは嗅ぐだけでは
聞くだけではさわるだけでは足りない
なめてあなたは愛する
たとえば一本の折れ曲がった古釘が
この世にあることの秘密を
*
『女に』を読んだときのことを私はいまでもはっきり覚えている。「詩学」から執筆依頼がきた。批評の依頼だ。テーマはなんだったか忘れたが、わりと自由に書いていいという感じだった。そのテーマを探しに書店に行って『女に』を見つけた。
詩の一篇一篇が短くて、薄い。立ち読みで、あっと言う間に読み終わった。読み終わった瞬間、批判を書きたいと思った。
『定義』や『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』『コカコーラ・レッスン』とあまりにも違いすぎている。軽い。そして弱い。よし、谷川批判を書こう、とその瞬間に思った。
そのとき思ったことを、思ったままを書くと、ことばの「勃起力」が弱い。たとえば中上健次は「長々と射精した」というような行をどこかに書いていたが(吉行淳之介が「弱々しく射精した」と書いたころである)、その激しさがない。読んでいて、その射精の感覚にあこがれる、というようなことがない。欲望をそそられることがない。
この詩集では「……」に
とエクスタシーを書いている作品もあるのに、セックスの充実感(射精感)がない。女と手を取り合って、それだけでうっとりとしている、恍惚状態になっている。
こんなんじゃつまらない。バタイユの向こうを張れとはいわないけれど、クンデラと拮抗するくらいの強靱さがほしい。
そう思った。
で、家に帰ってもう一度読み直し、どの作品を取り上げて批判すべきか……とことばを動かしているうちに、私の感想は一八〇度転換してしまった。批判するはずだったのに、感心してしまった。その感心したことを書きたいと思った。
谷川はこの詩集でひとりの女(佐野洋子)と出会い、愛し合うのだが、その仮定が、人間が生まれてから(生まれる以前から)死ぬまで(死んだあとも)の「時間」のなかで再現されている。両端のない長大な時間(永遠につながってしまう時間)の中を、それでは猛スピードで駆け抜けるかというと、そうではない。「少しずつ」進んで行く。
猛スピードで駆け抜けると中上健次やバタイユになるのだが、谷川と佐野は、まったく逆に「少しずつ」しか進まない。進むというより、ある一瞬に「時間」をとめさえしている。それなのに、生まれる前から死んだあとまでの「時間」がすぎている。
これはいったい何なんだ。
考えながら読み直したとき「少しずつ」に出会った。「少しずつ」は、『女に』のキーワードで、それは「会う」という詩の中に一回だけ出てくる。
という具合に出てくる。
「私はあなたに少しずつ会っていった」というのは、かなり奇妙な日本語だ。ふつうの日本語なら、「あなたに何度が会っているうちに、少しずつあなたのことがわかるようになった」というかもしれない。けれど、谷川は「わかる」とは書かずに「会う」ということばで世界をとらえている。そして、その会い方は(わかり方は)、「手に触れる前に /魂に触れた」という具合に、ふつうの順序とは逆なのである。手に触れて、ほかの部分にも触れて、その「肉体」の奥にある魂にようやく触れることができるのが一般の出会い方なのに、谷川は逆。手に触れる前に、いきなり「魂」と接触する。それも「過激に」ではなく、「少しずつ」の繰り返しで。
これは、とても不思議だ。
さらに不思議なのは、その「少しずつ」は詩集の中で一回限りしか書かれていないのに、実はどこにでも補うことができることだった。ほんとうは「少しずつ」はあらゆるところに書かれている。「少しずつ」がこの詩集の基本的な「生き方」なのである。
これは、『日本語のカタログ』の職業訓練について書いた部分を参照してもらえると、わかりやすいかもしれない。「カタログ」では身体障害者厚生指導所での訓練内容を羅列した部分があったが、そこでは「技術習得訓練」ということばはすべて取り除かれていた。それは「わかりきっている」ために書かれていなかった。同じように「少しずつ」は谷川にとって「わかりきっていること」なのでほかの詩篇では書かなかった。書かないと「意味」がわかりにくい「会う」という作品にだけ、それが書かれていた。(『日本語のカタログ』では「自動車操作訓練」にだけ「訓練」が書かれていた。)
「わかりきっていること」、その人の「思想の本質」は、ふつうは口に出されることはないのだ。
筆者には「わかりきっている」ために省略されてしまうことばを探して行けば、筆者の本質に迫ることができると、この作品を読むことで私は発見したのだが、その省略されたことばを中心に詩集読み直し、この詩集がとてもよく「わかった」。そして谷川を新しく発見したと思った。谷川は、この詩集で生まれ変わっている。新しく誕生した。再生ではなく、完全に新しくなった。その新しい谷川に、私はこの詩集で出会った。
乱暴な言い方をすれば、それまでの谷川は「男の詩人」だった。しかし、『女に』を書くことで「女に」生まれ変わった。私はこの詩集のことばは勃起力に欠けると書いたが、女にはペニスがないのだから勃起しようがない。射精の愉悦がないと批判したが、女は射精しないのだからその愉悦もないのは当然である。
それでもこの詩集には、生きているよろこびがある。
それはこの詩集のことばが「女」のことばを生きているからである。「少しずつ」生きる変化していくというよろこびが「すこしずつ」大きくなって、男と女を超えて、いのちをつつんでしまう。
女と男は、どう違うか。
男はばかだから、一度始めたことを壊してやりなおすということができない。詩でも小説でもそうだが、ある作風(個性)をつくりはじめたら、それをただひたすら巨大にすることしかできない。女は違う。女は、いつでも「リセット」してしまう。月経のたびに、次の排卵期こそ授精して子どもを産もうと思うことができる。(男は次の射精のときこそ、なんて思わない。)女は出産することで、女をもういちどやりなおす。生まれ変わる。その生まれ変わりを肉体そのものの力として実感できる。
男も、女を妊娠させ、子どもの出産に立ち会うたびに男に生まれ変わる--と言えるかもしれないけれど、いやあ、これは空想だね。概念だね。肉体的には何も感じない。女が子どもを産むことは「肉体」をわけること(肉体が分離すること)だが、男はそれを概念としては理解できても実感できない。
だから「リセット」ということができない。どうしても、過去に始めたことをそのまま繰り返し修正するという形で拡大することしかできない。そして、どんどん概念的なことばの世界に閉じこもってしまうことになる。本人は閉じこもっているつもりはないだろうし、作り上げたことばの構造物の巨大さをほこるだろうけれど……。
谷川は、そうではない。生まれ変わった。「リセット」した。「リセット」することを覚えた。『女に』は『定義』『夜中に台所で』『コカコーラ』とつながるものはない。ことばを積み重ねることで、ことばを超えようとする暴力はない。むしろ、ことば以前になることで、生まれる前から死後の世界までをとらえてしまおうとする「矛盾」のような不思議なうごきがある。ことばがないなら、何もとらえられないのに、ことば以前、未生のことばをめざすのだから、これは矛盾としかいいようがない。
--というのは、男の「論理」であって、女の「リセット」を生きる生き方にとっては「論理」の矛盾は意味をなさない。「リセット」の瞬間、論理はなくなるのだから、矛盾もなくなるというのが女の肉体(思想)だろう。
どうやって谷川はそれを手に入れたのか。佐野洋子と出会うことによって、としかいいようがない。私は佐野洋子を知らないので、私の書いていることはいいかげんなものになってしまうが、ともかく信じられないような影響を谷川に与え、谷川を「リセット」させたのだ。
「リセット」した瞬間、谷川は、男でも女でもなくなった。「いのち」になった。
--と書いてしまうと、観念すぎて、うそっぽい。書きながら、私は、あ、ただ恰好よさそうなことばを並べているなあ、と思ってしまう。
二〇年以上も前のあのとき、ほんとうに思ったこと、前後の脈絡もなく、突然思ったことを書こう。
あ、谷川は女に生まれ変わった--そう思ったのが「なめる」である。
この詩の真ん中にある一行を読むと、「なめる」のはあくまで「あなた」(佐野洋子)であって、「私(谷川)」ではないが、「なめる」ことを書くとき、谷川のことばは実際に何かを「なめている」。
その次の行の「一本の折れ曲がった古釘」というのは何だか古びたペニスを連想させ、そうなると「あなた」がなめているのは「私のペニス」というエロチックな図が浮かんでくるが、そのエロチックなものはすこしわきにおいておいて、「なめる」ということそのものを考えてみると……。
「なめる」--これはかなり危険なことである。異物を口に入れることだから。なめたものが体内に入り、体内の組織を破壊するかもしれない。その結果、死んでしまうということだってある。それなのに、なめる。なめるは「受け入れる」という動詞の、原始的な形なのかもしれない。
谷川は「古釘」がなめられる快感の中で、なめる行為の強さを知ったのかもしれない。何でも受け入れ、受け入れてから考える「女」の思想というものを「肉体」で感じたのかもしれない。
あなたが「一本の折れ曲がった古釘が/この世にあることの秘密を」なめて知ったとき(確かめたとき)、私は「なめられる」ことをとおして、「なめる」は世界の秘密を解くことだと知ったのだ。「自分の中に入れてしまう」ことで、自分自身が生まれかわることを知ったのだ。
それは「古釘」をペニスに置き換えて言いなおせば、ペニスはなめられて、口の中で大きく成長していく。なめることは、なめたものを自分の中で成長させること、新しい力をよみがえらせ、誕生させることだ。他人が自分を突き破って育っていくことを受け入れることだ。自分を突き破っていくように促すことだ。
こんな例がほんとうに正しいのかどうかわからないまま書くのだが。
たとえば初期の作品の「ビリー・ザ・キッド」。あの作品では、谷川はビリー・ザ・キッドを自分の「肉体」のなかに入れていた(取り込んでいた)というよりも、自分の感性、思想をビリー・ザ・キッドの「死体」のなかに投げ込み、死体はこう感じるだろうと想像しているように思う。
しかし、最近の詩集『こころ』に登場する少女たち、女たちは、谷川の「肉体」の内部から生まれてきている。谷川が少女や女たちに自分の思いを代弁させているのではなく、少女や女たちが逆に谷川の「肉体」を借りてことばを発している--そういう「いきいき感」がある。
佐野洋子になめられて谷川のペニスがむくむくと育つように、谷川のなめた(口に含んだ、谷川の口のなかでことばになった)少女や女たちは、谷川を突き破って動いていく。谷川がどう考えているかとは関係なく、少女自身の、女自身のことばを動かす。それまでの谷川のことばを突き破って、自在に動く。その自在に動くことばの躍動を、谷川はなめて、口のなかで感じて、味わっている。
ことばのセックス、オーラルセックス。
『女に』を分岐点にして、谷川は生まれ変わった。「リセット」した。「リセット」する方法と「女になる」方法を、「なめる」という詩を書くことで、佐野洋子から吸収し、奪い取った。「女になる」は男の否定ではない。女になったあと、またリセットすればいいのだから。すべてを捨て去って、最初から、最初以前(未生のことば)からやりなおせばいいのだから。何度でも、何人の人生でも、そうやって生きることができる。
2014年06月16日(月曜日)
なめる
見るだけでは嗅ぐだけでは
聞くだけではさわるだけでは足りない
なめてあなたは愛する
たとえば一本の折れ曲がった古釘が
この世にあることの秘密を
*
『女に』を読んだときのことを私はいまでもはっきり覚えている。「詩学」から執筆依頼がきた。批評の依頼だ。テーマはなんだったか忘れたが、わりと自由に書いていいという感じだった。そのテーマを探しに書店に行って『女に』を見つけた。
詩の一篇一篇が短くて、薄い。立ち読みで、あっと言う間に読み終わった。読み終わった瞬間、批判を書きたいと思った。
『定義』や『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』『コカコーラ・レッスン』とあまりにも違いすぎている。軽い。そして弱い。よし、谷川批判を書こう、とその瞬間に思った。
そのとき思ったことを、思ったままを書くと、ことばの「勃起力」が弱い。たとえば中上健次は「長々と射精した」というような行をどこかに書いていたが(吉行淳之介が「弱々しく射精した」と書いたころである)、その激しさがない。読んでいて、その射精の感覚にあこがれる、というようなことがない。欲望をそそられることがない。
この詩集では「……」に
正義からこんな遠く私たちは愛しあう
とエクスタシーを書いている作品もあるのに、セックスの充実感(射精感)がない。女と手を取り合って、それだけでうっとりとしている、恍惚状態になっている。
こんなんじゃつまらない。バタイユの向こうを張れとはいわないけれど、クンデラと拮抗するくらいの強靱さがほしい。
そう思った。
で、家に帰ってもう一度読み直し、どの作品を取り上げて批判すべきか……とことばを動かしているうちに、私の感想は一八〇度転換してしまった。批判するはずだったのに、感心してしまった。その感心したことを書きたいと思った。
谷川はこの詩集でひとりの女(佐野洋子)と出会い、愛し合うのだが、その仮定が、人間が生まれてから(生まれる以前から)死ぬまで(死んだあとも)の「時間」のなかで再現されている。両端のない長大な時間(永遠につながってしまう時間)の中を、それでは猛スピードで駆け抜けるかというと、そうではない。「少しずつ」進んで行く。
猛スピードで駆け抜けると中上健次やバタイユになるのだが、谷川と佐野は、まったく逆に「少しずつ」しか進まない。進むというより、ある一瞬に「時間」をとめさえしている。それなのに、生まれる前から死んだあとまでの「時間」がすぎている。
これはいったい何なんだ。
考えながら読み直したとき「少しずつ」に出会った。「少しずつ」は、『女に』のキーワードで、それは「会う」という詩の中に一回だけ出てくる。
はじまりは一冊の絵本とぼやけた写真
やがてある日ふたつの大きな目と
そっけないこんにちは
それからのびのびしたペン書きの文字
私は少しずつあなたに会っていった
あなたの手に触れる前に
魂に触れた
という具合に出てくる。
「私はあなたに少しずつ会っていった」というのは、かなり奇妙な日本語だ。ふつうの日本語なら、「あなたに何度が会っているうちに、少しずつあなたのことがわかるようになった」というかもしれない。けれど、谷川は「わかる」とは書かずに「会う」ということばで世界をとらえている。そして、その会い方は(わかり方は)、「手に触れる前に /魂に触れた」という具合に、ふつうの順序とは逆なのである。手に触れて、ほかの部分にも触れて、その「肉体」の奥にある魂にようやく触れることができるのが一般の出会い方なのに、谷川は逆。手に触れる前に、いきなり「魂」と接触する。それも「過激に」ではなく、「少しずつ」の繰り返しで。
これは、とても不思議だ。
さらに不思議なのは、その「少しずつ」は詩集の中で一回限りしか書かれていないのに、実はどこにでも補うことができることだった。ほんとうは「少しずつ」はあらゆるところに書かれている。「少しずつ」がこの詩集の基本的な「生き方」なのである。
これは、『日本語のカタログ』の職業訓練について書いた部分を参照してもらえると、わかりやすいかもしれない。「カタログ」では身体障害者厚生指導所での訓練内容を羅列した部分があったが、そこでは「技術習得訓練」ということばはすべて取り除かれていた。それは「わかりきっている」ために書かれていなかった。同じように「少しずつ」は谷川にとって「わかりきっていること」なのでほかの詩篇では書かなかった。書かないと「意味」がわかりにくい「会う」という作品にだけ、それが書かれていた。(『日本語のカタログ』では「自動車操作訓練」にだけ「訓練」が書かれていた。)
「わかりきっていること」、その人の「思想の本質」は、ふつうは口に出されることはないのだ。
筆者には「わかりきっている」ために省略されてしまうことばを探して行けば、筆者の本質に迫ることができると、この作品を読むことで私は発見したのだが、その省略されたことばを中心に詩集読み直し、この詩集がとてもよく「わかった」。そして谷川を新しく発見したと思った。谷川は、この詩集で生まれ変わっている。新しく誕生した。再生ではなく、完全に新しくなった。その新しい谷川に、私はこの詩集で出会った。
乱暴な言い方をすれば、それまでの谷川は「男の詩人」だった。しかし、『女に』を書くことで「女に」生まれ変わった。私はこの詩集のことばは勃起力に欠けると書いたが、女にはペニスがないのだから勃起しようがない。射精の愉悦がないと批判したが、女は射精しないのだからその愉悦もないのは当然である。
それでもこの詩集には、生きているよろこびがある。
それはこの詩集のことばが「女」のことばを生きているからである。「少しずつ」生きる変化していくというよろこびが「すこしずつ」大きくなって、男と女を超えて、いのちをつつんでしまう。
女と男は、どう違うか。
男はばかだから、一度始めたことを壊してやりなおすということができない。詩でも小説でもそうだが、ある作風(個性)をつくりはじめたら、それをただひたすら巨大にすることしかできない。女は違う。女は、いつでも「リセット」してしまう。月経のたびに、次の排卵期こそ授精して子どもを産もうと思うことができる。(男は次の射精のときこそ、なんて思わない。)女は出産することで、女をもういちどやりなおす。生まれ変わる。その生まれ変わりを肉体そのものの力として実感できる。
男も、女を妊娠させ、子どもの出産に立ち会うたびに男に生まれ変わる--と言えるかもしれないけれど、いやあ、これは空想だね。概念だね。肉体的には何も感じない。女が子どもを産むことは「肉体」をわけること(肉体が分離すること)だが、男はそれを概念としては理解できても実感できない。
だから「リセット」ということができない。どうしても、過去に始めたことをそのまま繰り返し修正するという形で拡大することしかできない。そして、どんどん概念的なことばの世界に閉じこもってしまうことになる。本人は閉じこもっているつもりはないだろうし、作り上げたことばの構造物の巨大さをほこるだろうけれど……。
谷川は、そうではない。生まれ変わった。「リセット」した。「リセット」することを覚えた。『女に』は『定義』『夜中に台所で』『コカコーラ』とつながるものはない。ことばを積み重ねることで、ことばを超えようとする暴力はない。むしろ、ことば以前になることで、生まれる前から死後の世界までをとらえてしまおうとする「矛盾」のような不思議なうごきがある。ことばがないなら、何もとらえられないのに、ことば以前、未生のことばをめざすのだから、これは矛盾としかいいようがない。
--というのは、男の「論理」であって、女の「リセット」を生きる生き方にとっては「論理」の矛盾は意味をなさない。「リセット」の瞬間、論理はなくなるのだから、矛盾もなくなるというのが女の肉体(思想)だろう。
どうやって谷川はそれを手に入れたのか。佐野洋子と出会うことによって、としかいいようがない。私は佐野洋子を知らないので、私の書いていることはいいかげんなものになってしまうが、ともかく信じられないような影響を谷川に与え、谷川を「リセット」させたのだ。
「リセット」した瞬間、谷川は、男でも女でもなくなった。「いのち」になった。
--と書いてしまうと、観念すぎて、うそっぽい。書きながら、私は、あ、ただ恰好よさそうなことばを並べているなあ、と思ってしまう。
二〇年以上も前のあのとき、ほんとうに思ったこと、前後の脈絡もなく、突然思ったことを書こう。
あ、谷川は女に生まれ変わった--そう思ったのが「なめる」である。
なめてあなたは愛する
この詩の真ん中にある一行を読むと、「なめる」のはあくまで「あなた」(佐野洋子)であって、「私(谷川)」ではないが、「なめる」ことを書くとき、谷川のことばは実際に何かを「なめている」。
その次の行の「一本の折れ曲がった古釘」というのは何だか古びたペニスを連想させ、そうなると「あなた」がなめているのは「私のペニス」というエロチックな図が浮かんでくるが、そのエロチックなものはすこしわきにおいておいて、「なめる」ということそのものを考えてみると……。
「なめる」--これはかなり危険なことである。異物を口に入れることだから。なめたものが体内に入り、体内の組織を破壊するかもしれない。その結果、死んでしまうということだってある。それなのに、なめる。なめるは「受け入れる」という動詞の、原始的な形なのかもしれない。
谷川は「古釘」がなめられる快感の中で、なめる行為の強さを知ったのかもしれない。何でも受け入れ、受け入れてから考える「女」の思想というものを「肉体」で感じたのかもしれない。
あなたが「一本の折れ曲がった古釘が/この世にあることの秘密を」なめて知ったとき(確かめたとき)、私は「なめられる」ことをとおして、「なめる」は世界の秘密を解くことだと知ったのだ。「自分の中に入れてしまう」ことで、自分自身が生まれかわることを知ったのだ。
それは「古釘」をペニスに置き換えて言いなおせば、ペニスはなめられて、口の中で大きく成長していく。なめることは、なめたものを自分の中で成長させること、新しい力をよみがえらせ、誕生させることだ。他人が自分を突き破って育っていくことを受け入れることだ。自分を突き破っていくように促すことだ。
こんな例がほんとうに正しいのかどうかわからないまま書くのだが。
たとえば初期の作品の「ビリー・ザ・キッド」。あの作品では、谷川はビリー・ザ・キッドを自分の「肉体」のなかに入れていた(取り込んでいた)というよりも、自分の感性、思想をビリー・ザ・キッドの「死体」のなかに投げ込み、死体はこう感じるだろうと想像しているように思う。
しかし、最近の詩集『こころ』に登場する少女たち、女たちは、谷川の「肉体」の内部から生まれてきている。谷川が少女や女たちに自分の思いを代弁させているのではなく、少女や女たちが逆に谷川の「肉体」を借りてことばを発している--そういう「いきいき感」がある。
佐野洋子になめられて谷川のペニスがむくむくと育つように、谷川のなめた(口に含んだ、谷川の口のなかでことばになった)少女や女たちは、谷川を突き破って動いていく。谷川がどう考えているかとは関係なく、少女自身の、女自身のことばを動かす。それまでの谷川のことばを突き破って、自在に動く。その自在に動くことばの躍動を、谷川はなめて、口のなかで感じて、味わっている。
ことばのセックス、オーラルセックス。
『女に』を分岐点にして、谷川は生まれ変わった。「リセット」した。「リセット」する方法と「女になる」方法を、「なめる」という詩を書くことで、佐野洋子から吸収し、奪い取った。「女になる」は男の否定ではない。女になったあと、またリセットすればいいのだから。すべてを捨て去って、最初から、最初以前(未生のことば)からやりなおせばいいのだから。何度でも、何人の人生でも、そうやって生きることができる。
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