詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(72) 

2014-06-02 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(72)          2014年06月02日(月曜日)

 「煙草屋の窓」は若い男色家の出会いを描いている。客観的な描写、芝居のト書きのような描写である。会話はなく、「身体」が無言のままことばを交わす。「身体の主観」を描いている。


 カヴァフィスは、そのふたりの出会いをたまたま目撃したのかもしれない。その「身体の主観」がカヴァフィスにことば(声)として聞こえたのは、カヴァフィスの「肉体」が、そういう声を発したことがあって、それをおぼえているためだろう。ことばにしながら、カヴァフィスは、そのうちの一人になっている。

たまたままなざしが合った。
おずおずと抑えつつ、まなざしは語った、
二人の身体の許されない希みを。

 まなざしは「たまたま」合ったのではなく、合わせようとしていて、やっと合ったのだ。「おずおずと抑えつつ」は、ほんとうは「おずおず」ではなく、性急に、隠しきれないまま、ではないのか。「語りたくてしようがない」という気持ちが「おずおず」と「抑えつつ」から逆に、はっきりとつたわってくる。だから眼が合った瞬間に眼は語り出す。ことばは、つかわず「無言」で。
 ことばは不思議だ。「愛している」というよりも「愛していない」といった方が、強い愛を伝えるときがある。それに似ている。「愛しているけれど、あきらめる」。
 いますぐに欲望を言いたいけれど、いわずに抑える。そうすると「抑えている」ということが伝わる。抑えなければならないほど強いものである、ということが伝わる。ことばで言わなくてもつたわるくらい強いものであると、互いが感じ取る。このときの「身体」の「声(主観)」のやりとりを、カヴァフィスは、くっきりと描き出している。

通りへとおぼつかなく二、三歩あゆみ、
ついに微笑みあう。かすかにうなずく。

それから後は扉を閉ざした馬車の中。
身体と身体が官能的に接して
手が手を取り、唇が唇と合って。

 実際に「身体」が接するまでは「おぼつかなく」「かすかに」という動作を説明することばがついてまわるが、接してしまうと行動は急激である。「官能的」ということばが出てくるが、どんなふうに「官能的」なのか、そういう無駄を書かない。ことばの経済学が徹底している。そのために、その出会いまでのゆっくりした動きが、それこそ「官能的」にみえてくる。「官能」は実際の行動が始まる前の方が濃厚なのだ。「官能」は欲望するこころのなかにあるのかもしれない。カヴァフィスがいつも「主観」を書こうとするのはこころこそが「官能」と知っているからなのだろう。

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