池井昌樹『冠雪富士』(6)(思潮社、2014年06月30日発行)
「幼心」は幼かったときの思い出を書いてる。「日曜の朝は嬉しかった。」なぜか。牛乳が飲めたからである。その牛乳の描写がすばらしい。
「陶然となった」というのは、私の感覚では子どものことばではない。大人のことばである。(大人のことばであるけれど、まあ、私はつかわない。)大人のことばであるというのは、つまり、ここに書かれていることは「思い出」であることの証拠になるのだが……。
その「思い出」を、それでは池井は「大人のことば」で書いているかというと、そうではない。子どもの「肉体」で書いている。
あ、ここが、いいなあ。
壜をなめる。最初は味がある。それがだんだん薄くなる。池井は「味が無くなる」と書いているけれど、私の感覚では、だんだん「ガラス(壜)」の味がしてくる。冷たく、硬い感じ。
だから、私の「味」と池井の「味」、「味」をつかみとる「肉体」は違うのかもしれないけれど、「味の無くなる」の「なる」が、きっと「共通」していて、そこにひっぱられていくのだろう。
「無くなるまで」味を追い求める。この「まで」の執着心のあとに「綺麗」があらわれる。欲望は最後まで満たされると、何か、欲望のなかがぱっと割れて空っぽになったように透き通る。その感じが「綺麗」なんだな。壜の口の透明な輝きと、池井のなかにある欲望が透明になる感じがつながる。「綺麗」ということば、こんな具合につかうんだね。
このあと池井は牛乳瓶の蓋でメンコをしたというような記憶を書き、そこから蓋の絵について書きはじめる。そこからがまた、とてもいい感じだ。
ここには池井の「思い」というよりも、幼いときに池井が暮らした「土地」に生きている「思い」が自然な形で広がっている。
飯野山の姿が美しい。それを見ながら、池井の周りの人は「讃岐富士」と言っていた。それは池井が生まれるはるか前からそうなのだろう。富士に似た美しい山を「富士」と呼びたい。自分の(讃岐の)富士と呼びたい。そういう「欲望」の「綺麗」な形が、そこにある。
それは何でもないような、ささやかな夢なのだけれど、そういう「命名」の仕方のなかに、「見えない人」が動いている感じ、人が暮らして互いの「夢」を動かしいてる感じがして、おもしろい。「飯野山」という名前があるのに讃岐「富士」と、富士山に結びつけて自分の見ているものを「大事」にする感覚。それが「綺麗」だ。人は、そんなふうに「自分」というものを大切にして生きている。ここには、不思議な、生きている人間の「温み」がある。あたたかさ、そのものがある。それを呼吸し、自分を整えている池井が「無意識」のまま書かれている。
この、自分を整える、欲望を夢に整えて、美しいものに育てる--というのは、もう一つ別のエピソードでも語られる。日曜の朝食のあとには「葡萄が出た。」その葡萄の思い出。
葡萄の皮から葡萄酒を造る--いま、ここにないものが新しく生まれる。いまあるものを、どこまでもつかい尽くして新しいものをつくる。そういう「暮らしの智恵と夢」が「暮らし」そのものを整える。人間の生き方そのものを整える。あのとき、整えた人間の暮らしの温みを、いま、池井は「ことば」でもう一度整えなおしている。
この詩集のどの詩にも、いわゆる「現代詩」っぽい、新しい、人を驚かせるような「わざと」はない。けれども、そこには人間が生きているときに発してしまう「体温」の温みがあり、しかもその「体温」をていねいに整えるときの「生き方」の自然な美しさがある。
「完成」は問題ではない。「完成」をめざして「暮らし(生き方)」を整えるということが美しいのだ。父が死んでも、その「生き方」の美しさは池井と「一緒に」生きている。「フジハト牛乳」がなくなっても、牛乳をのんだときの幸福と、「フジハト」という名前に籠められた「暮らしの夢」は池井のなかで生きている。それが、こんなふうにことばになって、いま、しっかりと、ここに「ある」。
池井は、これからももっともっとすばらしい詩を書き、すばらしい詩集を生み出すだろうけれど、この詩集は、これから始まる「人間の温み」(暮らしを整えて生きる美しさ)の出発点であり、到達点ともなる詩集だ。
(まだまだ感想を書くつもりだが、そう書いておく。)
「幼心」は幼かったときの思い出を書いてる。「日曜の朝は嬉しかった。」なぜか。牛乳が飲めたからである。その牛乳の描写がすばらしい。
水滴を弾いた分厚
い壜の広口から直に飲むその液体は驚くばかり濃く甘く、陶然とな
った。一滴残らず搾るように飲み干して、すっかり味の無くなるま
で広口を綺麗に舐ぶった。
「陶然となった」というのは、私の感覚では子どものことばではない。大人のことばである。(大人のことばであるけれど、まあ、私はつかわない。)大人のことばであるというのは、つまり、ここに書かれていることは「思い出」であることの証拠になるのだが……。
その「思い出」を、それでは池井は「大人のことば」で書いているかというと、そうではない。子どもの「肉体」で書いている。
すっかり味の無くなるまで
あ、ここが、いいなあ。
壜をなめる。最初は味がある。それがだんだん薄くなる。池井は「味が無くなる」と書いているけれど、私の感覚では、だんだん「ガラス(壜)」の味がしてくる。冷たく、硬い感じ。
だから、私の「味」と池井の「味」、「味」をつかみとる「肉体」は違うのかもしれないけれど、「味の無くなる」の「なる」が、きっと「共通」していて、そこにひっぱられていくのだろう。
「無くなるまで」味を追い求める。この「まで」の執着心のあとに「綺麗」があらわれる。欲望は最後まで満たされると、何か、欲望のなかがぱっと割れて空っぽになったように透き通る。その感じが「綺麗」なんだな。壜の口の透明な輝きと、池井のなかにある欲望が透明になる感じがつながる。「綺麗」ということば、こんな具合につかうんだね。
このあと池井は牛乳瓶の蓋でメンコをしたというような記憶を書き、そこから蓋の絵について書きはじめる。そこからがまた、とてもいい感じだ。
蓋には鳩の絵がやや
ぶれ気味に刷られていた。フジハト牛乳という地元の小さな製菓店
だった。フジとは窓の遠くに霞んでいる姿美しい飯野山--讃岐富
士のことだった。
ここには池井の「思い」というよりも、幼いときに池井が暮らした「土地」に生きている「思い」が自然な形で広がっている。
飯野山の姿が美しい。それを見ながら、池井の周りの人は「讃岐富士」と言っていた。それは池井が生まれるはるか前からそうなのだろう。富士に似た美しい山を「富士」と呼びたい。自分の(讃岐の)富士と呼びたい。そういう「欲望」の「綺麗」な形が、そこにある。
それは何でもないような、ささやかな夢なのだけれど、そういう「命名」の仕方のなかに、「見えない人」が動いている感じ、人が暮らして互いの「夢」を動かしいてる感じがして、おもしろい。「飯野山」という名前があるのに讃岐「富士」と、富士山に結びつけて自分の見ているものを「大事」にする感覚。それが「綺麗」だ。人は、そんなふうに「自分」というものを大切にして生きている。ここには、不思議な、生きている人間の「温み」がある。あたたかさ、そのものがある。それを呼吸し、自分を整えている池井が「無意識」のまま書かれている。
この、自分を整える、欲望を夢に整えて、美しいものに育てる--というのは、もう一つ別のエピソードでも語られる。日曜の朝食のあとには「葡萄が出た。」その葡萄の思い出。
食べ終えた葡萄の皮を一升壜に詰め、父が菜箸で突っ突き始めた。
葡萄酒を造るのだという。おさな心はまたときめいた。姉と弟は代
わる代わる壜の中を夢中で突いた。
葡萄の皮から葡萄酒を造る--いま、ここにないものが新しく生まれる。いまあるものを、どこまでもつかい尽くして新しいものをつくる。そういう「暮らしの智恵と夢」が「暮らし」そのものを整える。人間の生き方そのものを整える。あのとき、整えた人間の暮らしの温みを、いま、池井は「ことば」でもう一度整えなおしている。
この詩集のどの詩にも、いわゆる「現代詩」っぽい、新しい、人を驚かせるような「わざと」はない。けれども、そこには人間が生きているときに発してしまう「体温」の温みがあり、しかもその「体温」をていねいに整えるときの「生き方」の自然な美しさがある。
葡萄酒は完成したかしなかった
のか。私の奥処には何事か指折り数え待ち侘びるおさない興奮が酵
母のように今もなお微かに弾ける。父は死んだし、あの家も、フジ
ハト牛乳も疾っくのむかしに絶えてしまったが。
「完成」は問題ではない。「完成」をめざして「暮らし(生き方)」を整えるということが美しいのだ。父が死んでも、その「生き方」の美しさは池井と「一緒に」生きている。「フジハト牛乳」がなくなっても、牛乳をのんだときの幸福と、「フジハト」という名前に籠められた「暮らしの夢」は池井のなかで生きている。それが、こんなふうにことばになって、いま、しっかりと、ここに「ある」。
池井は、これからももっともっとすばらしい詩を書き、すばらしい詩集を生み出すだろうけれど、この詩集は、これから始まる「人間の温み」(暮らしを整えて生きる美しさ)の出発点であり、到達点ともなる詩集だ。
(まだまだ感想を書くつもりだが、そう書いておく。)
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