詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(6)

2014-06-27 11:06:28 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(6)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「幼心」は幼かったときの思い出を書いてる。「日曜の朝は嬉しかった。」なぜか。牛乳が飲めたからである。その牛乳の描写がすばらしい。

                      水滴を弾いた分厚
い壜の広口から直に飲むその液体は驚くばかり濃く甘く、陶然とな
った。一滴残らず搾るように飲み干して、すっかり味の無くなるま
で広口を綺麗に舐ぶった。

 「陶然となった」というのは、私の感覚では子どものことばではない。大人のことばである。(大人のことばであるけれど、まあ、私はつかわない。)大人のことばであるというのは、つまり、ここに書かれていることは「思い出」であることの証拠になるのだが……。
 その「思い出」を、それでは池井は「大人のことば」で書いているかというと、そうではない。子どもの「肉体」で書いている。

すっかり味の無くなるまで

 あ、ここが、いいなあ。
 壜をなめる。最初は味がある。それがだんだん薄くなる。池井は「味が無くなる」と書いているけれど、私の感覚では、だんだん「ガラス(壜)」の味がしてくる。冷たく、硬い感じ。
 だから、私の「味」と池井の「味」、「味」をつかみとる「肉体」は違うのかもしれないけれど、「味の無くなる」の「なる」が、きっと「共通」していて、そこにひっぱられていくのだろう。
 「無くなるまで」味を追い求める。この「まで」の執着心のあとに「綺麗」があらわれる。欲望は最後まで満たされると、何か、欲望のなかがぱっと割れて空っぽになったように透き通る。その感じが「綺麗」なんだな。壜の口の透明な輝きと、池井のなかにある欲望が透明になる感じがつながる。「綺麗」ということば、こんな具合につかうんだね。

 このあと池井は牛乳瓶の蓋でメンコをしたというような記憶を書き、そこから蓋の絵について書きはじめる。そこからがまた、とてもいい感じだ。

                     蓋には鳩の絵がやや
ぶれ気味に刷られていた。フジハト牛乳という地元の小さな製菓店
だった。フジとは窓の遠くに霞んでいる姿美しい飯野山--讃岐富
士のことだった。

 ここには池井の「思い」というよりも、幼いときに池井が暮らした「土地」に生きている「思い」が自然な形で広がっている。
 飯野山の姿が美しい。それを見ながら、池井の周りの人は「讃岐富士」と言っていた。それは池井が生まれるはるか前からそうなのだろう。富士に似た美しい山を「富士」と呼びたい。自分の(讃岐の)富士と呼びたい。そういう「欲望」の「綺麗」な形が、そこにある。
 それは何でもないような、ささやかな夢なのだけれど、そういう「命名」の仕方のなかに、「見えない人」が動いている感じ、人が暮らして互いの「夢」を動かしいてる感じがして、おもしろい。「飯野山」という名前があるのに讃岐「富士」と、富士山に結びつけて自分の見ているものを「大事」にする感覚。それが「綺麗」だ。人は、そんなふうに「自分」というものを大切にして生きている。ここには、不思議な、生きている人間の「温み」がある。あたたかさ、そのものがある。それを呼吸し、自分を整えている池井が「無意識」のまま書かれている。

 この、自分を整える、欲望を夢に整えて、美しいものに育てる--というのは、もう一つ別のエピソードでも語られる。日曜の朝食のあとには「葡萄が出た。」その葡萄の思い出。

食べ終えた葡萄の皮を一升壜に詰め、父が菜箸で突っ突き始めた。
葡萄酒を造るのだという。おさな心はまたときめいた。姉と弟は代
わる代わる壜の中を夢中で突いた。

 葡萄の皮から葡萄酒を造る--いま、ここにないものが新しく生まれる。いまあるものを、どこまでもつかい尽くして新しいものをつくる。そういう「暮らしの智恵と夢」が「暮らし」そのものを整える。人間の生き方そのものを整える。あのとき、整えた人間の暮らしの温みを、いま、池井は「ことば」でもう一度整えなおしている。

 この詩集のどの詩にも、いわゆる「現代詩」っぽい、新しい、人を驚かせるような「わざと」はない。けれども、そこには人間が生きているときに発してしまう「体温」の温みがあり、しかもその「体温」をていねいに整えるときの「生き方」の自然な美しさがある。

                葡萄酒は完成したかしなかった
のか。私の奥処には何事か指折り数え待ち侘びるおさない興奮が酵
母のように今もなお微かに弾ける。父は死んだし、あの家も、フジ
ハト牛乳も疾っくのむかしに絶えてしまったが。

 「完成」は問題ではない。「完成」をめざして「暮らし(生き方)」を整えるということが美しいのだ。父が死んでも、その「生き方」の美しさは池井と「一緒に」生きている。「フジハト牛乳」がなくなっても、牛乳をのんだときの幸福と、「フジハト」という名前に籠められた「暮らしの夢」は池井のなかで生きている。それが、こんなふうにことばになって、いま、しっかりと、ここに「ある」。

 池井は、これからももっともっとすばらしい詩を書き、すばらしい詩集を生み出すだろうけれど、この詩集は、これから始まる「人間の温み」(暮らしを整えて生きる美しさ)の出発点であり、到達点ともなる詩集だ。
 (まだまだ感想を書くつもりだが、そう書いておく。)

冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(97)

2014-06-27 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(97)          2014年06月27日(金曜日)

 「ここに始まる」は、カヴァフィスの得意な男色の詩。許されない愛の夜をすごした二人が、朝、ひと目を忍んで宿から街へ出る。ふたりを見れば「さっき どういうたぐいの寝床を共にしたかが」他人にわかるだろうと思いながら。そういう描写のあとに、

だが、詩人の人生には何たる貢献。
明日か明後日か、何年のちか、いつの日か、
詩人は、今ここに始まる力強い詩の
何行かに現実の声を与えるはずだ。

 このカヴァフィスの感想には、おもしろい点がふたつある。
 ひとつは「明日か明後日か、何年のちか、いつの日か、」という「時間」の区別のなさ。「明日」と「何年のち」は「時間」的にはまったく違う。「きょう」を基準に言うと、「明日」は近いし、「何年かのち」は遠い。でも、思い出す人間にとっては、「過去」はいつでも「すぐ近く」にある。どんなに遠いところにある時間でも、思い出すときはすぐそばにある。「そば」というよりも「肉体の内部」(隔たりのないところ)にある。
 「いつの日か」という「特定」できないことでさえ、ひとは、それを思い出すことができる。明日か、明後日か、何年のちか、あるいは、いつの日か。
 そのとき、何が起きるのか。「詩」という「事件」が起きる。「いま」語ることばのなかに、「過去」が「いま」よりもあざやかにあらわれる。「いま」を「過去」に変えてしまって、ことばが感覚をひっかきまわす。いや「過去」が「いま」を突き破って、時間を「未来」へと押し進める。
 で、そのことばをカヴァフィスは「ことば」とは言わずに「声」と書いている。これがおもしろい点のふたつめ。カヴァフィスは、いつも「声」を聞いている。「声」がカヴァフィスには聞こえてしまうのだろう。
 引用が逆になるが、詩の冒頭にもどってみる。

ふたりはゆるされぬ愛を満たした。
起きて、素早く服を着けた、ものも言わずに。

 「ものも言わずに」とあるが、「耳」は聞いてしまっている。相手が何を言ったかを。また、相手が何を聞いているか、つまり自分の無言の声さえも聞いている。互いが「聞こえている」からこそ、「ものも言わずに」動く。
 それから通りに出て、ふたりを見つめる誰かの、やはり実際には口に出されなかった「声」を聞いてしまう。ふたりを見つめる誰かが隠れているときさえ、ふたりは見つめるひとの「声」を聞いてしまう。
 それは、自分の「肉体」の内部から聞こえてくる声と絡み合ってひとつになっている。だからこそ「ものも言わずに」いる。「ものが言えず」にいる。言ってしまえば、それが「現実の声」になる。



中井久夫の訳詩『リッツォス詩選集』が発行されます。
20年ぶりの訳詩の出版です。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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