和田まさ子「服になる」(「地上十センチ」7、2014年06月20日発行)
和田まさ子「服になる」は鏡の前で、きょうはどの服にしようか、思い悩む詩。「水色のワンピース/白いTシャツにジーンズ」「インド綿のチュニックとスパッツ」と試してみるのだが……
どんな服を着てみても
似合わない気がする
服の空気感がよどんでいる
肌にさっぱりした風が通らない
腐った自分にしかなれていない
うーん。
私はだいたい鏡を見ない。見るのは鬚を剃るときだけである。
で、ここに書かれている「似合わない」というという感じがだんだん変質(?)していく過程が、よくわからない。
と言いたいのだけれど。
いやあ、おもしろい。「服の空気感」か。へえーっ、そういものがあるのか。風が通らない、なんていうのは「素材」の問題じゃないのか。服に空気が通らないと「腐った自分」に「なる」のか。
そうか、それは、服のせいか、と突っ込みたくなるが。
「服の空気感」か、「よどんでいる」か、……「腐る」か。
わからないのに、服が気に食わない、いやな気分でいる和田の「肉体」が見えてきて、私の「肉体」に重なる感じがする。
このあと、和田は、これを別のことばで言い換えている。
あれの蓋とこれの蓋をまちがえた
ぐるぐる蓋をまわしても
永遠にぴったり合わない
まちがった蓋が空をふさぐ日がある
身体と服との関係がそんなふうだ
瓶の(?)蓋の比喩。わかるけれど、わからない--なのか、わからないけれど、わかる、なのか。私は読みながらちょっと混乱した。わかる、わからないの前に、おもしろいと思った。その「おもしろい」はもちろん「わかる」からおもしろいのだけれど……。
まちがった蓋を私は「永遠に」まわしたりしない。でも、そのすれ違いが「永遠」であることもわかって、ちょっと困るね。
こういう困惑のなかで、私の「肉体」はますます和田の「肉体」に重なっていく。うまくことばにできないものが、かってに動いていって、「肉体」を納得してしまう。ことばなんて、あとだしじゃんけんのようなもので、「説明」は強引に書いてしまえば書けるのだろうけれど、それは「にせもの」。うさんくさい。ことばになる前の「肉体」の親近感の方が「ほんもの」だと私は思っている。(ので、こんなふうに、あいまいな、ことばにならないことをごちゃごちゃと書いて、書きながら、それがことばに整っていくのを待っている。)
詩にもどる。
「蓋が空をふさぐ」も考えはじめると、変だけれど。でも、そのことばを読んだとき、私は瓶になっていて、瓶のそこから空を見つめて、「おーい、その蓋、まちがっているよ」と声を出していたりする。私の「肉体」はいつのまにか、瓶になって蓋に苦情を言っている。
ふわーっとした感じで、どこかへ紛れ込んでしまった感じ。「どこか」がはっきりしないから、ますます「肉体」(ことば以前の感覚の場)が一体になっていく感じ。
なんだかうまく言えないけれど、これ、好きだなあ、と思う。
服のことしか書いていないのだけれど、なぜか「肉体」が見える感じがする。「暮らし」が見える感じがする。「生きている」感じがする。そして、その「生きている」が、「肉体」の外の方へまで広がっている。
「肉体」の内部に「生きている」があるのではなく、「肉体」の外の方に「生きている」があって、それが和田以外のものと触れ合って、すれ違って、動いている。(和田は「身体」ということばをつかっているけれど、私はなぜが、この「身体」ということばになじめないので、勝手に言い換えている。--たぶん、和田の言う「身体」と私の書いている「肉体」は違うのだと思う。)
こんなとき、どうするのかな?
和田はどうするのかなあ。
そこで
鏡に背を向けると
わたしは服になり
わたしの身体はからっぽになった
インド綿のチュニックになってみると
服の縦糸と横糸の間を風が通っていく
布がインドの夢を見ている
わたしはインドの生まれだった
川で布が洗われたときの暑さと冷たさがよみがえる
あのときくっきりとした夕陽が染料の赤色を濃くした
世の中でもっとも美しい色彩の布なのだ
あ、驚くねえ。「わたしは服になり」か。和田はだいたい何でもなってしまう詩人で、そこがいつもおもしろいのだが、服になったとき「わたしの身体はからっぽになった」とある。--えっ、からっぽ?
何かになることは「身体」が「からっぽ」になることなのか。
ここでの「身体」はたしかに「身体」なんだろうなあ。私は「肉体」がからっぽになると感じたことも、考えたこともないので、こんなふうには書かないなあ。--ここをていねいに追いかけていけば和田の「身体」と私の「肉体」の違いが浮かび上がるのだろうけれど、きょうは省略。ほかのことを書きたい。私の「肉体」は和田の「肉体」と違って、「からっぽ」にならずに、他の何かになって充実するんだけれど……。
で、その「からっぽの身体」は脇においておいて。違いは違いとして、脇においておいて、おもしろいと思ったことを書きつなごう。
インド綿の描写が清潔でおもしろいなあ。インド綿になってみたい気持ちにさせられる。川で洗われ、夢を見てみたい。夕陽に染められてみたい。「世の中でもっもと美しい色彩」になってみたいなあ。どんなに幸せだろう。もう、このときは私の「肉体」はほとんとインド綿の「肉体」そのもの。写真でしか見たことがないが、夕日に染まったガンジス川のなかでゆっくりと美しい色に染まっている。布であることを忘れて「色」その「肉体」になっているかもしれないなあ。
しかし、不思議だなあ。
和田の詩を読むと、私はいつでも、そこに書かれている「もの」になってみたい気がする。「壷」だったり「金魚」だったり「あめんぼう(ミズスマシだったかな?)」だったりするのだけれど。そのときは和田のことは忘れてしまっているのだが……。
「なる」。何かに「なる」ということは、どういうことかなあ--と思っていると。
わたしは布であり
身体はもはや人ではない
それは
ぴったり蓋のあった世界。
「なる」とは和田にとって基本的に「身体(ひとの身体)」ではなくなるということ。これは実によくわかる。「からっぽ」で私は一瞬、和田の「肉体」を見失ったけれど、「蓋」が出てきたので、また和田の「肉体」に出会えた感じがした。
ここに「蓋」の比喩が出てくるのは、
あれの蓋とこれの蓋をまちがえた
ぐるぐる蓋をまわしても
永遠にぴったり合わない
まちがった蓋が空をふさぐ日がある
身体と服との関係がそんなふうだ
という前の比喩があるからなのだが。
ね、(何が「ね、」なのか、説明は難しいが、こういうつかい方をするねえ。)
この比喩のとき、和田も瓶になっていたのだ。和田の「肉体」は、はっきりとは書かれていなかったか、瓶の「肉体」になり、瓶のそこから上を見上げていた。蓋を見ていた。そのとき、その瓶は「からっぽ」だった。からっぽだから、和田はその瓶に入ることができた。
その「からっぽ」の記憶が、「肉体」のどこかにのこっていて、それが鏡に背を向け、服になったとき、和田の「肉体」を揺さぶったんだろうなあ。
あ、こんなことは書いていない?
でも、気にしない。私は、そうやって強引に、詩をひっくり返しながらことばを読むのだった。