詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『リッツォス詩選集』予約受け付けしています

2014-06-25 22:07:09 | 詩集
『リッツォス詩選集』(中井久夫訳、作品社)の予約受け付けが始まりました。
このブログに掲載した訳詩、そのとき私が書いた感想が一冊になりました。
ブログの感想と比べると大幅な加筆、修正があります。
ぜひ読んでください。

予約するには、下の画像をクリックするとAMAZONのページが表示されますので、ページの右側にある「予約する」ボタンを押して必要事項を書き込んでください。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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和田まさ子「服になる」

2014-06-25 15:04:04 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「服になる」(「地上十センチ」7、2014年06月20日発行)

 和田まさ子「服になる」は鏡の前で、きょうはどの服にしようか、思い悩む詩。「水色のワンピース/白いTシャツにジーンズ」「インド綿のチュニックとスパッツ」と試してみるのだが……

どんな服を着てみても
似合わない気がする
服の空気感がよどんでいる
肌にさっぱりした風が通らない
腐った自分にしかなれていない

 うーん。
 私はだいたい鏡を見ない。見るのは鬚を剃るときだけである。
 で、ここに書かれている「似合わない」というという感じがだんだん変質(?)していく過程が、よくわからない。
 と言いたいのだけれど。
 いやあ、おもしろい。「服の空気感」か。へえーっ、そういものがあるのか。風が通らない、なんていうのは「素材」の問題じゃないのか。服に空気が通らないと「腐った自分」に「なる」のか。
 そうか、それは、服のせいか、と突っ込みたくなるが。
 「服の空気感」か、「よどんでいる」か、……「腐る」か。
 わからないのに、服が気に食わない、いやな気分でいる和田の「肉体」が見えてきて、私の「肉体」に重なる感じがする。

 このあと、和田は、これを別のことばで言い換えている。

あれの蓋とこれの蓋をまちがえた
ぐるぐる蓋をまわしても
永遠にぴったり合わない
まちがった蓋が空をふさぐ日がある
身体と服との関係がそんなふうだ

 瓶の(?)蓋の比喩。わかるけれど、わからない--なのか、わからないけれど、わかる、なのか。私は読みながらちょっと混乱した。わかる、わからないの前に、おもしろいと思った。その「おもしろい」はもちろん「わかる」からおもしろいのだけれど……。
 まちがった蓋を私は「永遠に」まわしたりしない。でも、そのすれ違いが「永遠」であることもわかって、ちょっと困るね。
 こういう困惑のなかで、私の「肉体」はますます和田の「肉体」に重なっていく。うまくことばにできないものが、かってに動いていって、「肉体」を納得してしまう。ことばなんて、あとだしじゃんけんのようなもので、「説明」は強引に書いてしまえば書けるのだろうけれど、それは「にせもの」。うさんくさい。ことばになる前の「肉体」の親近感の方が「ほんもの」だと私は思っている。(ので、こんなふうに、あいまいな、ことばにならないことをごちゃごちゃと書いて、書きながら、それがことばに整っていくのを待っている。)
 詩にもどる。
 「蓋が空をふさぐ」も考えはじめると、変だけれど。でも、そのことばを読んだとき、私は瓶になっていて、瓶のそこから空を見つめて、「おーい、その蓋、まちがっているよ」と声を出していたりする。私の「肉体」はいつのまにか、瓶になって蓋に苦情を言っている。
 ふわーっとした感じで、どこかへ紛れ込んでしまった感じ。「どこか」がはっきりしないから、ますます「肉体」(ことば以前の感覚の場)が一体になっていく感じ。
 
 なんだかうまく言えないけれど、これ、好きだなあ、と思う。
 服のことしか書いていないのだけれど、なぜか「肉体」が見える感じがする。「暮らし」が見える感じがする。「生きている」感じがする。そして、その「生きている」が、「肉体」の外の方へまで広がっている。
 「肉体」の内部に「生きている」があるのではなく、「肉体」の外の方に「生きている」があって、それが和田以外のものと触れ合って、すれ違って、動いている。(和田は「身体」ということばをつかっているけれど、私はなぜが、この「身体」ということばになじめないので、勝手に言い換えている。--たぶん、和田の言う「身体」と私の書いている「肉体」は違うのだと思う。)

 こんなとき、どうするのかな?
 和田はどうするのかなあ。

そこで
鏡に背を向けると
わたしは服になり
わたしの身体はからっぽになった

インド綿のチュニックになってみると
服の縦糸と横糸の間を風が通っていく
布がインドの夢を見ている
わたしはインドの生まれだった
川で布が洗われたときの暑さと冷たさがよみがえる
あのときくっきりとした夕陽が染料の赤色を濃くした
世の中でもっとも美しい色彩の布なのだ

 あ、驚くねえ。「わたしは服になり」か。和田はだいたい何でもなってしまう詩人で、そこがいつもおもしろいのだが、服になったとき「わたしの身体はからっぽになった」とある。--えっ、からっぽ?
 何かになることは「身体」が「からっぽ」になることなのか。
 ここでの「身体」はたしかに「身体」なんだろうなあ。私は「肉体」がからっぽになると感じたことも、考えたこともないので、こんなふうには書かないなあ。--ここをていねいに追いかけていけば和田の「身体」と私の「肉体」の違いが浮かび上がるのだろうけれど、きょうは省略。ほかのことを書きたい。私の「肉体」は和田の「肉体」と違って、「からっぽ」にならずに、他の何かになって充実するんだけれど……。
 で、その「からっぽの身体」は脇においておいて。違いは違いとして、脇においておいて、おもしろいと思ったことを書きつなごう。
 インド綿の描写が清潔でおもしろいなあ。インド綿になってみたい気持ちにさせられる。川で洗われ、夢を見てみたい。夕陽に染められてみたい。「世の中でもっもと美しい色彩」になってみたいなあ。どんなに幸せだろう。もう、このときは私の「肉体」はほとんとインド綿の「肉体」そのもの。写真でしか見たことがないが、夕日に染まったガンジス川のなかでゆっくりと美しい色に染まっている。布であることを忘れて「色」その「肉体」になっているかもしれないなあ。

 しかし、不思議だなあ。
 和田の詩を読むと、私はいつでも、そこに書かれている「もの」になってみたい気がする。「壷」だったり「金魚」だったり「あめんぼう(ミズスマシだったかな?)」だったりするのだけれど。そのときは和田のことは忘れてしまっているのだが……。

 「なる」。何かに「なる」ということは、どういうことかなあ--と思っていると。

わたしは布であり
身体はもはや人ではない
それは
ぴったり蓋のあった世界。

 「なる」とは和田にとって基本的に「身体(ひとの身体)」ではなくなるということ。これは実によくわかる。「からっぽ」で私は一瞬、和田の「肉体」を見失ったけれど、「蓋」が出てきたので、また和田の「肉体」に出会えた感じがした。
 ここに「蓋」の比喩が出てくるのは、

あれの蓋とこれの蓋をまちがえた
ぐるぐる蓋をまわしても
永遠にぴったり合わない
まちがった蓋が空をふさぐ日がある
身体と服との関係がそんなふうだ

 という前の比喩があるからなのだが。
 ね、(何が「ね、」なのか、説明は難しいが、こういうつかい方をするねえ。)
 この比喩のとき、和田も瓶になっていたのだ。和田の「肉体」は、はっきりとは書かれていなかったか、瓶の「肉体」になり、瓶のそこから上を見上げていた。蓋を見ていた。そのとき、その瓶は「からっぽ」だった。からっぽだから、和田はその瓶に入ることができた。
 その「からっぽ」の記憶が、「肉体」のどこかにのこっていて、それが鏡に背を向け、服になったとき、和田の「肉体」を揺さぶったんだろうなあ。

 あ、こんなことは書いていない?
 でも、気にしない。私は、そうやって強引に、詩をひっくり返しながらことばを読むのだった。



わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(4)

2014-06-25 10:38:11 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(4)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「手の鳴るほうへ」は、母を思い出す詩。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ
でんわのむこうでいなかのははが
むすこはははのとなりにすわり
それはきれいなおつきさま
かたをならべてみあげていたが

 ことばはすべてわかるが、状況はちょっとわかりにくい。いろいろなことを想像できる。田舎の母が「それはきれいなおつきさま/あんたも みてみ」と電話をかけてきた。その電話をとりながら、池井は「はははのとなりにすわり/それはきれいなおつきさま/かたをならべてみあげていた」ときのことを思い出したのか。いま、いっしょに肩を並べて座って月を見上げているわけではないだろう。
 そのことを、まるで「いま」のように思い出してしまうのは、それが池井にとって大切な思い出だからだ。母にとってもとても重要な思い出だ。だから、ついつい昔と同じ口調で「それはきれいなおつきさま/あんたも みてみ」と言う。
 ひとつのことば(声)のなかで、ふたりがいっしょになっている。
 けれど、現実は違う。

そんなうそならもうたくさん
としおいたははおきざりにして
むすこはこんやものんだくれ
ホームのベンチでよいつぶれ
ゆめみごこちできいている
おきゃくさん
さいごのでんしゃ でましたよ

 電話で話したことさえ「いま」ではない。でも、その電話で話した「いま」と、昔いっしょに月を見た「いま」がくっついて離れない。電話で話した「いま」さえも、昔いっしょに月を見た「いま」なのだ。「時」と「時」のあいだ、「時間」は消えて、「いま」だけが池井のとなりに肩を並べている。

 こんなことは、私がごちゃごちゃ書かなくても、読めばわかること。
 でも、どうして、それがわかるんだろう。
 ときどき思うのだが、「時」と「時」の「あいだ=時間」を忘れてしまうのは、池井の表記方法「ひらがな」と「七五調(五七調)」も関係しているかもしれない。「意味」「論理」をきっちりと整理する前に、ことば全体をながれる何かにのみこまれて、「意味」「論理」というものを忘れるのかもしれない。

 でも、それを「意味」「論理」を忘れ、「時間(時と時のあいだ)」を忘れ、「いま」がいつなのか、ここで書かれていることが「いつ」のことなのか忘れたとしても、忘れてはならないことばがある。

あんたも みてみ

 「あんたも」の「も」。この「も」の不思議な静かさ。「池井も」と意味は簡単だが、「も」のとなりにはだれがいる? 父や姉も見ている、だからあんた(池井)も見てみろ、なのか。そうかもしれないけれど、それよりも「私(母)は見ている」、だから「あんたも」なのだ。「も」は省略された「私(母)」を語っている。
 そして、その「省略」のなかには、日本語のリズムと同じように、長い時間をかけてつづいてきた愛がある。私(母)は月を見てきれいだと思う。だから、あんた(池井)も「一緒に」見ようよ、の「一緒に」という誘いかけがある。
 「も」のほんとうの「主役(主語?)」は、この「一緒に」かもしれないなあ。
 「一緒に」こそが、池井の詩では、いつも隠れているのかもしれない。省略されているのかもしれない。

 時と時の「あいだ」が消えるように、いつも何かが省略されている。省略されているけれど、それは存在しないわけではない。存在があまりにもなじみすぎていて、書く必要を感じない。省略されているのではなく、くっきりと存在している。
 時と時の「あいだ」は消えてなくなったようであっても、いつも存在しているのと同じように、人が人と結びつき、そのときできた「あいだ(関係/つながり)」は遠く離れてしまって消えたように感じるときでさえ、いつも存在していて、それが存在しているがゆえに、「あいだ」のなかに「一緒」があらわれる。「一緒」が母を引き寄せる。

やれやれまたか どっこいしょ
こしにてをあてみあげれば
それはきれいなおくいさま
むすこはひとりいずこへと
--あんよはじょうず
  てのなるほうへ

 引き寄せられた「母」はいつでも池井を見つめている。いつでも、どこでも、池井を見つめている視線がある。見守られていると感じる池井のかなしみ、切なさがある。うれしいから、かなしい。うれしいから、せつない。


眠れる旅人
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(95)

2014-06-25 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(95)          

 「アンナ・コムニニ」は長詩『アレクシアデス』に登場するアンナ・コムニニの描写に対するカヴァフィスの不満を書いている。夫が死んでしまって、王妃は「わが眼を涙の河にゆあみさせつつ/わが人生の波高きをなげき」という具合に描写しているのだが、

ほんとう? そうぉ? この権力亡者の女が?
あいつの問題にする悲しみはただ一つ、
自認しなくてもいいさ、この傲慢なギリシャ女の
身をよじらせる痛みとはこれ。
手練手管を尽くしたあげく
ついに玉座に手が届かずじまい。
ヨアネス、けしからぬ、あわやのきわに横取りしおって。

 第三者の立場から「ほんとう? そうぉ? この権力亡者の女が?」とはじまって、それが客観的な見方ではなくなる。いつのまにかアンナ・コムニニのことばになってしまう。そのことばの動き、変化がおもしろい。
 口語の力が大きいのだと思う。
 「ほんとう? そうぉ?」というカヴァフィスの無防備な疑問。「この権力亡者の女」という強烈な批判、「あいつの問題にする悲しみはただ一つ」と冷徹に分析に向かう。冷徹ではあっても、それは慎重というのとはかなり違う。口語のスピードで、ぐいぐいと動く。動かしているうちに、カヴァフィスの声が、アンナ・コムニニの声になってしまう。そして、そのことばの「切り替わり」のスイッチのようなところに、

身をよじらせる痛みとはこれ。

 「痛み」ということばが動くところが、とてもいい。
 「悲しみ」というのは肉体に直接響いて来ないが、「痛み」は直接的だ。他人の悲しみよりも痛みの方が肉体を刺戟する。他人の痛みを感じた瞬間、それは自分の痛みになる。道に倒れて、誰かが腹を抱えて呻いていたら「腹が痛いのだ」と感じるように、「痛み」は「肉体」の「自他」を忘れさせる。自分の「痛み」を思い出して、他人を見て「腹が痛い」のだと思う。
 で、「痛み」を通って、カヴァフィスはアンナ・コムニニになり、「横取りしおって」というような口語を動いてしまう。この口語の動きがなまなましい。強靱だ。
 「けしからぬ」は人前でも言うだろうが、「横取りしおって」の「しおって」は王妃のような立場の人間が言うことばではない。しかし、人前では(公式には)言わないが、非公式の、つまり「こころの声」では、俗語まるだしになる。
 口語、俗語によって、感情が共有されていく。中井久夫の訳は、こういう感情の共有を促す「俗語(口語)」のつかい方がとても巧みだ。読者の感情を煽るように動く。
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