詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平地智『カラフェ、しおり、花束』

2014-06-21 12:26:20 | 詩集
平地智『カラフェ、しおり、花束』(私家版、2014年06月01日)

 詩は、どこでやめるかが難しい。書いている人はどこまでも書きたいのだと思うけれど、読んでいる方は読みたいところまで読んでしまうとやめてしまう。その先を読むのは、ちょっと面倒である。
 平地智『カラフェ、しおり、花束』を読みながら、そんなことを思った。平地以外の詩でも、まあ、そんなふうに思うけれど。で、「最後まで読まずに放り出した、許せない」という抗議を受けることもあるのだが。「金を出して(本を買って)読むのは勝手だが、感想は書くな。不愉快だ」と、その人は言ったが。(平地ではないが……。)
 気にしない。私は。

 平地全体的に、読むのがめんどうくさい感じがする。ことばの「音楽」が私の知っているものとは違うからだ。これは、私が九州に住むようになったとき、最初に思ったことに似ている。「標準語」なのだけれど、音が耳に入ってこない。神経を集中しないといけない。ずぼらな私には、これが苦手。
 でも、この詩集では「新しい単語」は、「つまずく」ところが少なかった。わりと自然に読むことができた。でも、途中でやめてしまった。その読むのをやめるまでの部分。

雑貨屋で見かけた水差し
でもなんか他の名前があったような気がして
カタカナの

次にそれを見たのは彼女の家だった
中には氷と水が入れられて
汗をかいてるようにみえる
ときどき氷がからんと音を立てる

「それ、なんて言うっけ?」
「これは、カラフェ」

彼女はいつもの調子で教えてくれた
装飾のない、必要最小限の言葉で

カラフェ
その単語をぼくは彼女の唇の動きと一緒に記憶する

 一連目と二連目がの呼応がとてもいい。
 「なんかほかの名前」と呼ばれた「あいまいな」なにかが「それ」と言いなおされる。この「指示詞」が、その「何か」にすがりつくような、「何か」を引き寄せようとするような、粘着力で引き合う。ここに「音楽」がある。
 その「かけひき」(脈絡?)のようなものが、氷の「からん」と「カラフェ」という「音」のなかの似たものとなって具体化する。音となって響きあうところが美しい。
 そして、その響きあう部分に「汗をかいているようにみえる」の視覚が交錯する。「からん」だけだと透明。しかしカラ「フェ」のあいまいな音が、ガラスの器が汗をかいて半透明になったときの、曇り具合にとてもなじむ。
 音なのに、その音が視覚と融合する。
 で、視覚と融合するからこそ、

その単語をぼくは彼女の唇の動きと一緒に記憶する

 「唇の動き」を記憶するのは視覚だ。この「視覚」を進んでいく「まっすぐ」な感じ、まっすぐな「肉体」感覚は正直でいいなあ。汗を書いているのが「みえる」から、唇の動きが「みえる」、その唇の動きを記憶すると、「肉体」のなかで「みえる」という動詞が動いていく。「肉体」のなかの動きが「肉体」を完成させる。
 唇から「音」は出ているはずなのに、音を忘れて「視覚」へ引き返していく。そして「動き」を記憶するところが、妙におもしろい。

 そういうことを意識しながら読み返すと。
 「カタカナの」。うーん、これも「視覚」だな。「ひらがな」でも「漢字」でもない「カタカナ」を平地は見ている。
 「氷と水」も「視覚」でとらえたことばだ。「漢字」と「視覚」がしっかり結びついて、どこか似たものを引き寄せる。思い出させようとする。
 基本的に平地は「視覚」の詩人なのかな?

 でも、そうなら、もっと「視覚」を整えてもらいたいとも思う。詩の後半は、「ことば」を視覚でとらえきれていない。「これは楽しいぞ」と思った瞬間に、ことばは違う方向へ散らばっていく。その散らばり方がうるさい。
 平地は、「視覚」から「聴覚」へと、往復しようとしているのかもしれないが、私には後半に書かれていることばは「音」も「字面」もうるさいだけで、げんなりする。
 「からん」「カラフェ」の、「カラン」「からふぇ」と書き換えて読みたいような音と視力の響きあいは幻の音楽のように消えてしまう。
 「記憶する」でやめて、なおかつ、3、4連目を整理するといいのになあ、と思う。

 「記憶する」でやめられないのには、平木なりの「理由」があるのだろうけれど、その理由なんて、私にはぜんぜんわからない。





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中井久夫訳カヴァフィスを読む(91)

2014-06-21 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(91)          2014年06月21日(土曜日)

 「ほんとうに亡くなられたとしても」の「声」を聞きとるのは、私にはむずかしい。アポロニアスという人物はどこへ消えたのか。死んだというのはほんとうか。そういうことがまず書いてある。

だが、いつか前どおりのお姿で
再臨なさる。真理の道をお教え下さる。それから、むろんじゃ、
むろん、わしらの神々の礼拝を復活なさる。
わしらの雅びなヘレネスの典礼も復活なさる。きっとじゃ」

 再臨し、宗教を復活することを願っている。「むろんじゃ、/むろん」の繰り返しが願いの強さを印象づける。それは、しかし、だれの声なのか。アポロニアスの時代の人の声なのか。
 そう思って読むと、この詩の二連目に不思議な仕掛けのようなものが出てくる。

これが、残り僅かな異教徒のさる男の思い。
フィロストラトス著の『テュアナのアポロニアス』を読み終えて
わびしい部屋にぽつねんと座ってこういう思いにふけった。
だが、奴とても--とるにたらぬ臆病な男よ--、
公衆の前ではキリスト者を演じ、教会通いをする。
老ユスティヌスの敬虔なる御代のこと。
して、神の都アレクサンドリアは嫌悪する、
哀れれな偶像崇拝者を--。

 「声」を相対化している。ある「声」をそのまま指示していない。その「声」を読んで、別の時代の男が「声」を批判している。「これが、残り僅かな異教徒のさる男の思い」か、と。それはアポロニアスの時代とは違った時代の人間の思いである。で、その時代は?
 それは、実はいつだっていい。
 カヴァフィスは時代設定をきちんと考えている。中井久夫も時代設定を考えて訳しているが、こういう過去のある時代の「声」を批判するというのは、いつの時代にも起きるる。それがアポロニアスの没後十年、二十年、百年であってもいいし、現代でもいい。--こう書くといいかげんな感じがするかもしれないが……。私はいつでもいいと思う。
 カヴァフィスがフィロストラトスの著を読んだ男を設定したときから、時間は「記憶」の時間になる。歴史の絶対的な時間は消え、「いま/ここ」に思い出すという「行為」の時間になる。そして「時間」を超えて、人は交流する。「時間」はいつでも「いま」でしかない。「過去」の時間などない。
 カヴァフィスは史実を題材に取ることが多いが、題材にした瞬間から、それは「いま/ここ」のできごととして動く。ことばはすべてを「いま/ここ」にしてしまう。
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