平地智『カラフェ、しおり、花束』(私家版、2014年06月01日)
詩は、どこでやめるかが難しい。書いている人はどこまでも書きたいのだと思うけれど、読んでいる方は読みたいところまで読んでしまうとやめてしまう。その先を読むのは、ちょっと面倒である。
平地智『カラフェ、しおり、花束』を読みながら、そんなことを思った。平地以外の詩でも、まあ、そんなふうに思うけれど。で、「最後まで読まずに放り出した、許せない」という抗議を受けることもあるのだが。「金を出して(本を買って)読むのは勝手だが、感想は書くな。不愉快だ」と、その人は言ったが。(平地ではないが……。)
気にしない。私は。
平地全体的に、読むのがめんどうくさい感じがする。ことばの「音楽」が私の知っているものとは違うからだ。これは、私が九州に住むようになったとき、最初に思ったことに似ている。「標準語」なのだけれど、音が耳に入ってこない。神経を集中しないといけない。ずぼらな私には、これが苦手。
でも、この詩集では「新しい単語」は、「つまずく」ところが少なかった。わりと自然に読むことができた。でも、途中でやめてしまった。その読むのをやめるまでの部分。
一連目と二連目がの呼応がとてもいい。
「なんかほかの名前」と呼ばれた「あいまいな」なにかが「それ」と言いなおされる。この「指示詞」が、その「何か」にすがりつくような、「何か」を引き寄せようとするような、粘着力で引き合う。ここに「音楽」がある。
その「かけひき」(脈絡?)のようなものが、氷の「からん」と「カラフェ」という「音」のなかの似たものとなって具体化する。音となって響きあうところが美しい。
そして、その響きあう部分に「汗をかいているようにみえる」の視覚が交錯する。「からん」だけだと透明。しかしカラ「フェ」のあいまいな音が、ガラスの器が汗をかいて半透明になったときの、曇り具合にとてもなじむ。
音なのに、その音が視覚と融合する。
で、視覚と融合するからこそ、
「唇の動き」を記憶するのは視覚だ。この「視覚」を進んでいく「まっすぐ」な感じ、まっすぐな「肉体」感覚は正直でいいなあ。汗を書いているのが「みえる」から、唇の動きが「みえる」、その唇の動きを記憶すると、「肉体」のなかで「みえる」という動詞が動いていく。「肉体」のなかの動きが「肉体」を完成させる。
唇から「音」は出ているはずなのに、音を忘れて「視覚」へ引き返していく。そして「動き」を記憶するところが、妙におもしろい。
そういうことを意識しながら読み返すと。
「カタカナの」。うーん、これも「視覚」だな。「ひらがな」でも「漢字」でもない「カタカナ」を平地は見ている。
「氷と水」も「視覚」でとらえたことばだ。「漢字」と「視覚」がしっかり結びついて、どこか似たものを引き寄せる。思い出させようとする。
基本的に平地は「視覚」の詩人なのかな?
でも、そうなら、もっと「視覚」を整えてもらいたいとも思う。詩の後半は、「ことば」を視覚でとらえきれていない。「これは楽しいぞ」と思った瞬間に、ことばは違う方向へ散らばっていく。その散らばり方がうるさい。
平地は、「視覚」から「聴覚」へと、往復しようとしているのかもしれないが、私には後半に書かれていることばは「音」も「字面」もうるさいだけで、げんなりする。
「からん」「カラフェ」の、「カラン」「からふぇ」と書き換えて読みたいような音と視力の響きあいは幻の音楽のように消えてしまう。
「記憶する」でやめて、なおかつ、3、4連目を整理するといいのになあ、と思う。
「記憶する」でやめられないのには、平木なりの「理由」があるのだろうけれど、その理由なんて、私にはぜんぜんわからない。
詩は、どこでやめるかが難しい。書いている人はどこまでも書きたいのだと思うけれど、読んでいる方は読みたいところまで読んでしまうとやめてしまう。その先を読むのは、ちょっと面倒である。
平地智『カラフェ、しおり、花束』を読みながら、そんなことを思った。平地以外の詩でも、まあ、そんなふうに思うけれど。で、「最後まで読まずに放り出した、許せない」という抗議を受けることもあるのだが。「金を出して(本を買って)読むのは勝手だが、感想は書くな。不愉快だ」と、その人は言ったが。(平地ではないが……。)
気にしない。私は。
平地全体的に、読むのがめんどうくさい感じがする。ことばの「音楽」が私の知っているものとは違うからだ。これは、私が九州に住むようになったとき、最初に思ったことに似ている。「標準語」なのだけれど、音が耳に入ってこない。神経を集中しないといけない。ずぼらな私には、これが苦手。
でも、この詩集では「新しい単語」は、「つまずく」ところが少なかった。わりと自然に読むことができた。でも、途中でやめてしまった。その読むのをやめるまでの部分。
雑貨屋で見かけた水差し
でもなんか他の名前があったような気がして
カタカナの
次にそれを見たのは彼女の家だった
中には氷と水が入れられて
汗をかいてるようにみえる
ときどき氷がからんと音を立てる
「それ、なんて言うっけ?」
「これは、カラフェ」
彼女はいつもの調子で教えてくれた
装飾のない、必要最小限の言葉で
カラフェ
その単語をぼくは彼女の唇の動きと一緒に記憶する
一連目と二連目がの呼応がとてもいい。
「なんかほかの名前」と呼ばれた「あいまいな」なにかが「それ」と言いなおされる。この「指示詞」が、その「何か」にすがりつくような、「何か」を引き寄せようとするような、粘着力で引き合う。ここに「音楽」がある。
その「かけひき」(脈絡?)のようなものが、氷の「からん」と「カラフェ」という「音」のなかの似たものとなって具体化する。音となって響きあうところが美しい。
そして、その響きあう部分に「汗をかいているようにみえる」の視覚が交錯する。「からん」だけだと透明。しかしカラ「フェ」のあいまいな音が、ガラスの器が汗をかいて半透明になったときの、曇り具合にとてもなじむ。
音なのに、その音が視覚と融合する。
で、視覚と融合するからこそ、
その単語をぼくは彼女の唇の動きと一緒に記憶する
「唇の動き」を記憶するのは視覚だ。この「視覚」を進んでいく「まっすぐ」な感じ、まっすぐな「肉体」感覚は正直でいいなあ。汗を書いているのが「みえる」から、唇の動きが「みえる」、その唇の動きを記憶すると、「肉体」のなかで「みえる」という動詞が動いていく。「肉体」のなかの動きが「肉体」を完成させる。
唇から「音」は出ているはずなのに、音を忘れて「視覚」へ引き返していく。そして「動き」を記憶するところが、妙におもしろい。
そういうことを意識しながら読み返すと。
「カタカナの」。うーん、これも「視覚」だな。「ひらがな」でも「漢字」でもない「カタカナ」を平地は見ている。
「氷と水」も「視覚」でとらえたことばだ。「漢字」と「視覚」がしっかり結びついて、どこか似たものを引き寄せる。思い出させようとする。
基本的に平地は「視覚」の詩人なのかな?
でも、そうなら、もっと「視覚」を整えてもらいたいとも思う。詩の後半は、「ことば」を視覚でとらえきれていない。「これは楽しいぞ」と思った瞬間に、ことばは違う方向へ散らばっていく。その散らばり方がうるさい。
平地は、「視覚」から「聴覚」へと、往復しようとしているのかもしれないが、私には後半に書かれていることばは「音」も「字面」もうるさいだけで、げんなりする。
「からん」「カラフェ」の、「カラン」「からふぇ」と書き換えて読みたいような音と視力の響きあいは幻の音楽のように消えてしまう。
「記憶する」でやめて、なおかつ、3、4連目を整理するといいのになあ、と思う。
「記憶する」でやめられないのには、平木なりの「理由」があるのだろうけれど、その理由なんて、私にはぜんぜんわからない。