池井昌樹『冠雪富士』(2)(思潮社、2014年06月30日発行)
「一夜」は若い時代の池井、妻、こども二人が、「いま」の池井を尋ねてきたという作品。
誰かをたずねたときの記憶が、自分をたずねてくる。
こういう「夢」はだれもが見るものかもしれない。でも、なかなか書けないね。こんなふうに自然には。
こどもがはずかしそうに両親のうしろに隠れたり、好奇心で顔をのぞかせたり。もっと行儀よくしてくれたらいいのにと思いながらも、「おいででしょうか」というような「敬語」で誰かと対応している。そこに、なんともいえず温かい感じが広がっている。こどもへの理解と、自分がしたいことを、微妙なバランスで整えている。
こういうとき「ういういしいおかあさん」は池井が見ているから、そう言えるのだけれど、「わかわかしいおとうさん」は、どうして言えるのかな? 考えると不思議だ。自分の姿は直接は見えないね。
でも、直接見えなくても、見えるということはあるのだ。
妻の態度や子どもの態度、それを気にかけながら自分を整えている、その姿。それは「肉体」のなかに残っている。その「肉体のなかに残っている姿」を、ひとは、自分の肉体でもう一度繰り返すとき、見てしまう。見えてしまう。「目」ではなく、きっと「肉眼」で。このとき「肉眼」とは「肉体」の内部にあると同時に、「肉体を離れた場」にもある。
「肉体を離れた場」というのは、「永遠」というものかもしれない。「永遠」とは、そして池井の場合、「誰かを見守る場」でもある。
若い妻と子どもを連れて池井が誰かを訪ねる。その姿を「誰か」がやさしく見守っている。その視線を池井は感じたことがある。その「視線の感じ」が池井の肉体のなかからふわっと外へ出る。そして、池井をみつめている。
そこには誰かが若い妻と子どもを連れた誰かを訪ねるのを見た池井の記憶もまじっている。あ、あの感じはほほえましいなあ。そこには、両親に連れられて誰かを訪ねたときの池井が子どもだったとき記憶も含まれる。両親に隠れるようにして、知らない誰かを覗き見したこととか。
時間と事実がゆっくりとけあって、若い両親が子どもを連れて誰かを訪ねるという「こと」が、そこに自然に動いている。
どこを読んでも、池井のことばには「自然」しか書かれていない。池井は「必然」を「自然」にまで昇華して、それをていねいにことばにしている。
「いつかどこか」がわからないのは、それはいつだって「いま/ここ」だからでもある。「はぐれた」と池井は書くが、思い起こせばすぐに「いま/ここ」にあらわれる。「はぐれた」のは「わたしたち」ではなく、池井の「思い」なのである。
暮らしのなかで、「思い」がはぐれていく。でも、そのはぐれていった「思い」は、ときどき池井を訪ねてくる。
見守り/見守られて生きるのが人間なのだと、教えにやってきてくれる。
「あのひのまんま」変わらない。変わらないものは「永遠」であり、「自然」にまで昇華した「必然」である。
「あのひのまんま」「いまもまだ」。「あのひ」と「いま」が出会い、一つになるとき「永遠」が見えてくる。それは「さびしい」。
「さびしい」は「静か」で「懐かしい」「哀しい」かもしれないなあ。
何かが「肉体のなかからあらわれる」というのは、それを「おぼえている」から。何かを忘れられないというのは「さびしい」。忘れてしまって新しいことをするのが人生の醍醐味かもしれないけれど、そんな具合には人間は生きられないね。どうしても、思い出してしまう。「大事なもの」を。
「大事なもの」「大事なこと」--それは、繰り返してしまうが、池井の場合「見守り/見守られる」ということなのだと思う。「見守り/見守られる」という「こと」のなかで、人は動いている。生きている。それは、永遠に変わらない。
私は池井の作品について何度も何度も書いているので、だんだん私の自身のなかに「省略」が多くなって、文章が飛躍してしまう。きっと、私の書いていることは、わかりにくいと思う。--でも、気にせずに、ただ感想を書いておこう。
「一夜」は若い時代の池井、妻、こども二人が、「いま」の池井を尋ねてきたという作品。
わたしをたずねてきたという
つとめおわったほんやのよるに
まずわかわかしいおとうさん
まだういういしいおかあさん
おいででしょうか いけいさん
おずおずたずねるそのうしろ
あたまだしたりかくしたり
ちいさなおとこのこがふたり
誰かをたずねたときの記憶が、自分をたずねてくる。
こういう「夢」はだれもが見るものかもしれない。でも、なかなか書けないね。こんなふうに自然には。
こどもがはずかしそうに両親のうしろに隠れたり、好奇心で顔をのぞかせたり。もっと行儀よくしてくれたらいいのにと思いながらも、「おいででしょうか」というような「敬語」で誰かと対応している。そこに、なんともいえず温かい感じが広がっている。こどもへの理解と、自分がしたいことを、微妙なバランスで整えている。
こういうとき「ういういしいおかあさん」は池井が見ているから、そう言えるのだけれど、「わかわかしいおとうさん」は、どうして言えるのかな? 考えると不思議だ。自分の姿は直接は見えないね。
でも、直接見えなくても、見えるということはあるのだ。
妻の態度や子どもの態度、それを気にかけながら自分を整えている、その姿。それは「肉体」のなかに残っている。その「肉体のなかに残っている姿」を、ひとは、自分の肉体でもう一度繰り返すとき、見てしまう。見えてしまう。「目」ではなく、きっと「肉眼」で。このとき「肉眼」とは「肉体」の内部にあると同時に、「肉体を離れた場」にもある。
「肉体を離れた場」というのは、「永遠」というものかもしれない。「永遠」とは、そして池井の場合、「誰かを見守る場」でもある。
若い妻と子どもを連れて池井が誰かを訪ねる。その姿を「誰か」がやさしく見守っている。その視線を池井は感じたことがある。その「視線の感じ」が池井の肉体のなかからふわっと外へ出る。そして、池井をみつめている。
そこには誰かが若い妻と子どもを連れた誰かを訪ねるのを見た池井の記憶もまじっている。あ、あの感じはほほえましいなあ。そこには、両親に連れられて誰かを訪ねたときの池井が子どもだったとき記憶も含まれる。両親に隠れるようにして、知らない誰かを覗き見したこととか。
時間と事実がゆっくりとけあって、若い両親が子どもを連れて誰かを訪ねるという「こと」が、そこに自然に動いている。
どこを読んでも、池井のことばには「自然」しか書かれていない。池井は「必然」を「自然」にまで昇華して、それをていねいにことばにしている。
そういえば
あれはいつかのわたしたち
いつかどこかではぐれたきりの
まさしくあれはわたしたち
「いつかどこか」がわからないのは、それはいつだって「いま/ここ」だからでもある。「はぐれた」と池井は書くが、思い起こせばすぐに「いま/ここ」にあらわれる。「はぐれた」のは「わたしたち」ではなく、池井の「思い」なのである。
暮らしのなかで、「思い」がはぐれていく。でも、そのはぐれていった「思い」は、ときどき池井を訪ねてくる。
見守り/見守られて生きるのが人間なのだと、教えにやってきてくれる。
あのものたちはあのひのまんま
「あのひのまんま」変わらない。変わらないものは「永遠」であり、「自然」にまで昇華した「必然」である。
もうあとかたもないものたちが
こんなさびしいあけがたに
こんなところでいまもまだ
「あのひのまんま」「いまもまだ」。「あのひ」と「いま」が出会い、一つになるとき「永遠」が見えてくる。それは「さびしい」。
「さびしい」は「静か」で「懐かしい」「哀しい」かもしれないなあ。
何かが「肉体のなかからあらわれる」というのは、それを「おぼえている」から。何かを忘れられないというのは「さびしい」。忘れてしまって新しいことをするのが人生の醍醐味かもしれないけれど、そんな具合には人間は生きられないね。どうしても、思い出してしまう。「大事なもの」を。
「大事なもの」「大事なこと」--それは、繰り返してしまうが、池井の場合「見守り/見守られる」ということなのだと思う。「見守り/見守られる」という「こと」のなかで、人は動いている。生きている。それは、永遠に変わらない。
私は池井の作品について何度も何度も書いているので、だんだん私の自身のなかに「省略」が多くなって、文章が飛躍してしまう。きっと、私の書いていることは、わかりにくいと思う。--でも、気にせずに、ただ感想を書いておこう。
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