詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の十篇(4 かっぱ)

2014-06-13 09:46:48 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(4 かっぱ)
                           

かっぱ

かっぱかっぱらった
かっぱらっぱかっぱらった
とってちってた

かっぱなっぱかった
かっぱなっぱいっぱかった
かってきってくった



 『ことばあそびうた』の一篇。谷川はいろいろなことば遊びの詩を書いているが、私は「かっぱ」の一連目がいちばん好きだ。響きがいいことはもちろんだが、「かっぱらった」という乱暴なイメージと音の交錯がいい。
 「かっぱらう」は「盗む」という意味だが、「盗む」よりも乱暴な気がする。しかし、陰険な感じはしない。「盗む」の方が、何か暗い感じがする。「かっぱらう」は乱暴な分だけ明るい。隠れて盗むのではなく、目撃されている感じが、豪快だ。
 「かっさらう」ということばもあるが、音の力が弱い。

 なぜ、「かっぱらう」が私を引きつけるのか。
 たぶん、私は何かを「かっぱらっいたい」のだ。欲望があるのだ。
 「かっぱらう」は悪いことである。してはいけないことである。しかし、子どもというのはしてはいけないということをしたい。してはいけないことをやって平気な顔をしている仲間を尊敬してしまう。
 してはいけないことをしたい--というのは反抗期かもしれない。禁じられていることをするのは、子どもにとっていちばんの楽しみだ。「いい子」なんかでいるのはつまらない。「悪い子」の方がどきどきする。わくわくする。とんでもない可能性がある。
 してはいけないことをすると、大人が困る。その困ったが見たい。
 子どもが「うんこ」の話をしたがるのは、人が(大人が)いやがる顔を見たいからだ。大人がいやがる顔を見ると、なんだか大人と対等になった気持ちがする。大人を困らせた、という満足がある。

 この詩の魅力は、しかし、うまく言えないなあ。
 ほかの詩と比較して語るしかないのかもしれない。
 「うんこ」という作品の終わりの方。

どんなうつくしいひとの
うんこも くさい

どんなえらいひとも
うんこを する

 この二連には「意味」がありすぎる。「美しい」と「偉い」を「うんこ」に引きつけて対等化する。「美しい」と「偉い」を「無意味」にする。こういう「無意味化」は笑いを誘うけれど、そこには「無意味化する」という「意味」が頑固に居すわっている。
 「かっぱ」のことばは「無意味化」という運動を含んでいない。むしろ、ラッパをかっぱらって楽しむという「意味」をもっている。欲望が自分のなかで完結している。つまり、批判(批評)というものがない。「批判(批評)」というものは、なんとなく、私にはうさんくさいものに見える。

うんこよ きょうも
げんきに でてこい

 でも、この最後の二行はいいなあ。うんこを励ましている。その声が、そのまま自分を励ましているように見える。うんこが元気なときは自分が元気なのだ。ここには「批判」ではなく「肯定」がある。

 「おならうた」も楽しい。「うんこ」のように「批評」がない。純粋に「音」を遊んでいる。
 「ぱぴぷぺぽ」から外れて、

こっそり す

 という一行が割り込むところが傑作だし、

ふたりで ぴょ

 というのも楽しい。
 でも、あまりにも「純粋」すぎる。
 大人からは、せいぜい「おならの話なんかしないで」と叱られるくらいで、「ものを盗むなんて……」というような叱られ方はしない。
 「おなら」の話は、最初から許してもらえる範囲にとどまっている。
 良心(?)に逆らって悪いことをしているという、快感・興奮もない。
 そこには「暴力」がない。「暴力」があった方が、私は、詩がいきいきしていると思う。
 「うんこ」の「どんなうつくしいひとの/うんこも くさい」も、それが「批評」であることによって「暴力」になっているが、それは同時に「意味」でもある。「意味」のある「暴力」は、うさんくさい。「かっぱらう」は批評を含んでいない純粋の「暴力」である。

 音の美しさだけでいうなら「ののはな」の方が美しいと私は感じる。

はのののののはな
はなのななあに
なずななのはな
なもないのばな

 途中に「ず」「ば」という濁音が入るが、ここが私は好きだ。濁音によって音が豊かになる。でも、それは「暴力」ではない。

 「かっぱ」にもどろう。
 「かっぱ」「らっぱ」「かっぱらった」は音の入れ換えで構成されている。音が入れ換わると意味が変わる。「ののはな」がある種の「意味」で統一されて、そのなかで音の入れ換えがあるのに対して、「かっぱ」は音の入れ換えで「意味」が逸脱していく感じが、とんでもなく開放的に感じられる。
 「らっぱ」から「とってちっとた」というラッパの音に変わるのも、「かっぱらう」を「意味」突き破っていくようで楽しい。
 私は「かっぱらう」という暴力にひかれたのだが、そういう「暴力」という意味さえも突き破っていく。
 音だけで世界がある、という感じが、「鉄腕アトム」の「ラララ」と何か似ている。

 二連目は、一連目に比較すると「意味」になりすぎていると思う。

ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(83) 

2014-06-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(83)          

 「あの家の横を」は、むかし馴染んでいた町をふたたび歩く詩。歩くとどうなるか。過去を思い出す。「若かった時、頻繁にかよったところだ。/エロスのおそろしい力が/私の身体をとらえたところだ。」しかし、過去を思い出すだけではない。

古い通りを通った。
店、横丁、石、
壁、バルコン、窓。
みんなにわかに美しく見えた。

 これは、「町」が変わったのではなく、カヴァフィス自身が変わったのだ。「見えた」は「外観」の変化ではなく、カヴァフィスの「内面」の変化である。「美しく見えるようになった」のだ。
 「店、……」からつづく単語の羅列。名詞の羅列。どんな形容詞ももっていない。それが、「内面」の変化の「証拠」である。外見上の特徴(変化)はない。書きようがない。「外観」はそのままで、カヴァフィスの「こころ」が、それを美しくする。

愛の魔法だ。みにくいものは何一つなかった。

 このことばがつづくとき、「みにくいもの」とは「店、……」のように、眼で見える「形(存在)」ではない。「こころ」のことである。エロスを求める力。そのエロスがどんなものであれ、それはみにくくはない。美しい。それは「愛」なのだから。
 若いときは、どこか「こころ」の奥底に「やましさ」のようなものを感じていたのかもしれない。けれど、いまなら、こういえる。「あれは、すべて美しかった」。そして、その美しさは、過去からいまへ蘇ってくる。過去といまがとけあって、カヴァフィス自身を若返らせる。「みんなにわかに美しく見えた。」を私は「みんな若く美しく見えた。」と誤読しそうになる。

あのドアの前でしばらく立っていた。
窓の外をそぞろ歩きしながらとどまっていた。
私の全存在が内にこもっていた官能の情熱を放射した。

 「官能の情熱」がよみがえり、それが「内にこもっていた」ことを気づかさせてくれる。すべては失われてはいなかった。すべては失われることはない。すべては、あらゆる瞬間に時間を超えて、新しくよみがえる。
 この「再生」が詩。
 生まれ変わり、生きなおすとき、その先にあらわれるのは「過去」か「未来」か。区別がない。「過去/いま/未来」がひとつになって「私の全存在」として動く。
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