詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の十篇(5 タラマイカ偽書残闕)

2014-06-14 11:11:18 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(5 タラマイカ偽書残闕)
                           2014年06月14日(土曜日)

タラマイカ偽書残闕
Ⅰ(そことここ)

わたしの
眼が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここに
開く。

わたしの
耳が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここで
語る。

わたしの
鼻が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここに
黙す。

わたしの心はゆきつもどりつ
わたしの心はゆきつもどりつ



 この詩の情報量は非常に少ない。書かれている「名詞」が少ない。「動詞」も少ない。けれども抱え込むイメージはとても豊かだ。神話に登場する初めての「人間」の声を聞く感じがする。
 わたしの眼が/耳が/鼻が遠くへ行った。そのときの「遠く」は同じところなのか、違う場所なのか。「遠く」の「場」が同じであったとしても、眼で見たもの、耳で聞いたもの、鼻で嗅いだものは同じと言えるか。眼で見たものを耳で聞くことができるか、鼻でかぐことができるか。同じであっても、認識(識別)のありようは違っているだろう。もし識別の仕方、識別というものが違っていたとしたら、それでも「もの/こと」は同じといえるのだろうか。違うのではないだろうか。
 --というのはこざかしい「論理」で、そこに「差異」があっても「ひとつ」にしてつかみ取るのが詩であって、その詩の力がこの詩にはみなぎっている。詩のはじまりの、「詩の神話」のようだ。「差異」を未分化のものに引き戻し、未分化のまま凝縮している。結晶にしている。そこを通り抜けようとすると、私のことばはプリズムのなかに入った光のように、入るたびにさまざまな方向へ屈折してはじき出されてしまう。
 はじき出されるまま、はじき出されたものを書き並べてみよう。

 もし感覚器官によってとらえることができるものが違うとしても、「肉体」にとっては同じ「ひとつの場」であり、同じ「ひとつのこと」。したら、同じ「遠く」へ行ったとしても、なのではないだろうか。「違う」と「同じ」がぶつかりあって、そのときの「肉体」をいきいきさせる。ことばもをいきいきとしたものに変える。

 あ、私は何を書いているかな?
 谷川は何も書いていないのに、哲学の根源にかかわるようなことが、短いことばから噴出してくる。短く、何も言っていないからこそ、そのことばの原始的な力が闇のなかで輝いている。
 でもこんなところで「哲学」とか「意味」につかまっていてはいけない。もっと違うこと--この詩を最初に読んだときの「興奮」は違うところにある。こんなめんどうくさい「論理」を整えるのに時間をかけていてはいけない。どんどん身動きがとれなくなる。
 そのことを書きたい。

 私の感じた最初の興奮。

わたしの
○○は
遠くへ
行った。

 と、同じことばが繰り返される。繰り返されるとき、そこにリズムが生まれる。音楽が生まれる。音楽は、メロディーよりも前にリズムがあるのかもしれない。その短く、間違えようのないリズムに載って、メロディーの一部が、眼、耳、鼻と変わっていく。
 この変化がとても楽しい。「肉体」が谷川のことばにあわせて、しっかりと自覚できるものになっていく感じ。私にはたしかに眼があり、耳があり、鼻があるということが「わかる」。
 それに合わせて、

わたしの
口は
ここに(ここで)
○○する。

 と、最後の動詞が変化する。
 これが「肉体」に響いてくる。そうか、眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、そのとき口は何かをしたくてたまらない。その欲望を、谷川は「いのり」のように厳しく強い「声」で整えている。「口」からことばが生まれてくる--その瞬間に立ち会っているような感じだ。

 と、書いたらまた「意味」を書きたくなってしまった。「意味」なんてうさんくさいといいながら、「意味」を書きたい衝動に駆られてしまった。しようがない。書いてしまおう。私が何を考えたか、「意味」にしてしまおう。

 感覚器官が変われば、口(ことば?)もまた、その対応の仕方が違う。感覚器官に合わせて、ことばは変化する。
 この変化が、もしかすると「意味」というものではないだろうか。ある存在(もの/こと)に対する反応、反応の仕方が「意味」である。
 それも「遠く(そこ)」ではなく「ここ」で起きる。
 「そこ」とは「かつて」行ったところ、「ここ」とは「いま」いるところ。そして、それが「そこ」であれ「ここ」ここであれ、それは「場(空間)」というより、自分の「肉体」のことである。すべてのことは「肉体」といっしょに「起きる」。眼で(眼に)耳で(耳に)鼻で(鼻に)変化が起きて、言い換えると眼が反応し、耳が反応し、鼻が反応し、その反応によって生まれた新しい何かが口から出て行く。ことばになって。口は、あるいはことばにすることをしないで、その「変化」を肉体の内部にだけ押しとどめるということもある。その結果、「意味」(肉体の内部でうごめく変化の仕方)は複雑になる。
 なんだか、いろんな「意味」を言いたくて、私のことばはうずうずしてくる。けれど、それはうずうずするばかりで、明確なことば(意味)にはならない。
 でも、強く感じる。谷川は、ここで「神話」のことばを書こうとしている。ことばの誕生を書こうとしている。不完全なまま、それでも「肉体」を突き破って動くものを書こうとしている。
 そこに書かれている「意味」は不完全だが、不完全ゆえに、まだまだ生まれてくる。これから少しずつ「意味」を完成して行くという予感がある。
 それが、繰り返しのリズムのなかで、リズムそのものとして共有されていく。これから「変化」が生まれる感覚が音楽として共有されていく。「意味」以前の何かが、共有されていく。

 共有?

 私は自分で書きながら、その共有ということばに驚いている。
 この詩には「わたし」というひとりの人間しか出て来ない。それなのに、私は、「わたし」がひとりではないと感じてしまう。この詩の「わたし」のまわりにはたくさんの「わたし」が闇となって隠れている。「わたし」になろうとしている。「わたし」がことばを発したら、そのことばをつかみとって、それを「核」にして赤ん坊のように生まれたがっている「いのち」がうごめいているのを感じる。
 あるいは。
 この詩の「わたし」は「わたし」という人間を産みだすことで、「社会」を「個人」のように統一しようとしている。統一のための、試行錯誤をしている。「わたし」が生まれて、そのあとに「わたしたち」がわっと生まれてくる。「わたしたち」は「わたし」を共有している。いや、「わたし」を生きている。共生している。
 このとき、この「統一」というものと「意味」がたぶん合致するのだ。「統一」のための「認識の仕方(認識のあらわし方)」が「意味」なのだ。「意味」は、そういう視点から見れば重要だけれど、「統一」をめざすがゆえにうさんくさくもある。「統一」に不都合なものを排除しようと動くことがある。
 この詩では、もちろん、そんなことは書かれていない。それが、この詩を幸福にしている。
 「統一」や「意味」のうさんくささが組織化される前の、ことばになりたいという欲望、力だけがあふれている。力がありすぎて、ことばの「意味」を内部で破壊している感じだ。
 「意味」や「統一」が生まれる瞬間のダイナミックな動きが書かれていると感じ、興奮する。

 でも、ことばは、どうやって生まれるのか。
 最初に、やっともどれた感じがする。
 私が書きたいのは、こういうことだ。

 ことばは、まず、音としてある。次にリズムとして存在する。繰り返している内に、そこに変化が生まれる。違ったものを言ってみたくなる。違ったものを、そのリズムに乗せてみたくなる。そうすると変化が生まれる。いままで知らなかった音が広がっていく。音が変わると、それを聞いているときの「肉体」そのものが変化する。
 だんだん、こうした方が気持ちがいい。楽しい、ということがわかってくる。そして、その方向へ自然に音が並んで動いていく。音の形ができてくる。まるで音の肉体が成長していくような感じ。
 強くなったり弱くなったり。それにメロディー(複数の音)が重なり、知らず知らずに音楽に育っていく。ひとつの音だったものが、音の「楽しみ」になり、みんなで共有できる感情(歌)に変わっていく。

わたしの心はゆきつもどりつ
わたしの心はゆきつもどりつ

 この最後の二行は、そうやって昇華された「歌」なのだ。

 この詩は「神話」と「歌」が生まれる瞬間をつかみ取って再現している。音が声になり、声がことばになり、ことばの肉体が神話になり、やがて神話のなかに歌がうまれる。神話のなかのできごとを繰り返し語り合う内に、ことばの音が音楽を生み出す。
 逆かなあ。音(ことば/声)のなかには最初から音楽があり、それが神話を内部から鍛えているのかもしれない。
 どう言ってもいいのかもしれない。どっちも同じなのだろう。
 眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、それをことばにしたり、逆にことばにすることを拒んで肉体の内部に隠したりしながら、心は共有されるようになる。
 「ゆきつもどりつ」する心が「歌」なのだ。
 ことばが生まれ、それが歌に変わっていく--その、太古の音楽がここにある。

 『タラマイカ偽書残闕』は十一篇の詩で構成された「長編詩」なのだが、私は、最初の部分がいちばん好き。読んでいていちばん興奮する。初めて発せられたことばのように、「意味」になりきれていない部分、逆に意味の豊穰さを感じる。意味を生み出す力を感じる。
 後半に行くにしたがって、ことばが増え、感情も増えれば論理も増えていくのだが、そうした部分を読めば読むほど、同じことばを繰り返しながら、少しずつ変化していく「Ⅰ」の強いリズムがなつかしい感じでよみがえる。

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(84)

2014-06-14 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(84)          

 時間の凝縮、反復による時間の隔たりの消滅--は「隣のテーブル」でも指摘できるだろう。

ほら、あの子。どう見ても二十二歳かそこらだろ。
だけど私はおよそそれくらい前にあの子の身体を
味わったよ、たしかに。

 これは、カヴァフィスが二十二歳くらいのときに味わった官能を思い出している。ここには「あの子の身体を/味わったよ」と書かれているが、それは逆かもしれない。つまり、二十二歳のときに自分が味わった官能を、いま、二十二歳の青年を見ることで思い出しているということ。
 官能というのは不思議だ。誰かに導かれて「味わわされた」ものであっても、それは「受け身」のままでは終わらない。「味わう」という「能動」にかわってしまう。自分で味わってこそ、よろこびになる。
 「味わわされる(受け身)/味わう(能動)」は「ひとつ」になる。「同じ」になる。「ひとつ」になってこそ、よろこびである。
 だから、

あの身体だ。同じものだ、私が味わったのは。

 と「同じ」ということばが出で来る。「あの子の身体」を味わったのではなく、あの子の身体が味わうのと同じものを、二十二歳のカヴァフィスは味わったのだ。

どのしぐさにも覚えがある。
そして服を透して、裸が、私の愛した肢体が今一度見える。

 その「幻」は、カヴァフィスが「肉体」で覚えているからこそ見えるのである。
 「覚えがある」は「見覚えがある」ではない。
 途中に、

場所は思い出せないけれど、
それ一つだけの記憶喪失じゃ問題にならんだろ。

 という二行があるが、「場所」は関係がない。「肉体」という「現場」はいつでも「私自身」に属している。「肉体」という現場のなかで、時間は、その肉体を垂直に貫く形で噴出する。
 「時間」は消え、「体験」がいっそう濃密になってゆく。


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