詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』

2014-06-22 11:33:48 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(思潮社、2014年06月30日発行)

 手にとって、すぐにこれは傑作だとわかる詩集がある。手に重くない。ページがぱっと開く。
 で、いちばん大切なのは、最初の予感と違って、「あ、平凡かな……」という印象がまずやってきて、平凡なはずなのに、ぐいぐいとひきこまれてゆく。その感じ。
 池井昌樹『冠雪富士』は、そういう感じ。
 巻頭の「千年」。

私は神鳴りが怖い。音も光も耐え難い。畏ろ
しい。遠雷を聞くだけで身も世もなくなる。
穴があったら入りたくなる。幸いそれが休日
なら耳に栓詰め頭から布団を被る。呆れ顔の
妻を尻目に桑原桑原唱えつつひたすら雷鳴雷
光が去るのを待つ。かたく眼を閉じ天翔ける
麒麟や龍に想いを馳せる。それは至福の一刻
でもある。何時しか転た寝していたりする。
うっすら頭から黄砂被され。束の間千年の眠
りを眠る。虹が立ち。香木の夢を私は夢みる。

 雷がこわくて布団をかぶって隠れている、なんて別におもしろくもない。ばかなやつ。「穴があったら入りたい」というのは怖いときじゃなくて、恥ずかしいときにいうことばじゃない? 雷がこわいということが恥ずかしいから、そんなふうに書いたのかな? よくわからないが、変である。「桑原桑原唱えつつ」なんて、ほんとうにそんなことするの? けっこう余裕があるなあ。我が家の愛犬なんか、なんにもいわない。ただ縮こまる。と、犬なんかとも比べて、池井はばかだなあ、つまんない詩だなあ。こんなものを巻頭において……と一瞬思うのだが。

         かたく眼を閉じ天翔ける
麒麟や龍に想いを馳せる。

 この辺りから、ことばが激変する。
 えっ、雷って麒麟や龍の世界? そうだっけ?
 でも、いいなあ。「風神雷神」を思い出すなあ。天を麒麟や龍がかけまわっているのか。かっこいいなあ。
 布団をかぶって震えると、そういうものが見えるのかなあ。「くわばらくわばら」と言えば、その幻に近づくのかなあ。こんど雷が鳴ったらやってみようかな、と思ったりする。
 楽しいだろうなあ。

至福の一刻

 池井は、そう書いている。こわくたって、麒麟や龍が空を駆け回っているのがみられるなら、それは楽しいさ。幸福になれないわけがない。幸福のなかで「転た寝」してしまうのもよくわかる。
 でも、ほんとうに感心、感動するのは、そのあと。

うっすら頭から黄砂被され。束の間千年の眠
りを眠る。虹が立ち。香木の夢を私は夢みる。

 この書き方、変じゃない?
 さーっと読んでしまうのだけれど、思わず引き返して、何が書いてあったのかなあ、何か、見えないものがあるぞ、という感じで「肉体」が止まってしまう。

うっすら頭から黄砂被され。
虹が立ち。

 これだ。
 なぜ、句点「。」なのだろう。なぜ読点「、」じゃないのだろう。
 さーっと読むとき、句読点というのは読み落とされる。無意識に自分のリズムで読んでしまう。

うっすら頭から黄砂被され「、」束の間千年の眠
りを眠る。虹が立ち「、」香木の夢を私は夢みる。

 私は、句点を読点として読んでしまう。そして、読んだあとに、肉眼が「。」につまずく。あれ、「、」じゃない。
 句点なら「被された。」「立った。」にすればいいのに。
 でも、もし「被された。」「立った。」だったら、私は、この詩はおもしろいとは思わなかっただろうなあ。前半に思ったことそのまま、池井はばかだなあ、というだろう。
 でも、句点で切れているために、何か、ぐいと引きつけられ、うん、傑作だと思ってしまう。
 そして、傑作だ、と思ったあとで、なぜなんだろうと「理由」を探しはじめる。どうことばを補って行けば、自分の感じた感動に近づいて行けるのかな、と考えはじめる。

うっすら頭から黄砂被され。束の間千年の眠
りを眠る。虹が立ち。香木の夢を私は夢みる。

 ここでは「切断」と「接続」が、私たちの常識(あるいは「流通言語(文法)/学校文法」とは違った形で書かれている。
 「頭から黄砂被され」ること(黄砂が降ること)と、「千年の眠りを眠る」こととは別のこと。「切断」された世界。黄砂が降ろうと降るまいと、人は眠ることができる。「虹が立つ」ことと「香木の夢を私は夢みる」ことも無関係。虹とは関係なく、人は千年の眠りを眠ることができる。
 だから、それは切断されていていい。句点「。」で切れていいていい。
 しかし、「。」の前のことばが「終止形」でないと、私たちは(わたは、だけ?)、そのことばを無意識に次にあらわれる文につないでしまう。「。」を「、」のように無意識的に処理して「接続」させてしまう。
 何を切断し、何を接続するか--これは、意識的であると同時に、無意識的でもある。いや、意識的であるというよりも無意識的であるという言い方の方が、たぶん、正しいだろうなあ。
 池井は、この「。」を意識して書いてはいない。
 意識したとしても、「ここは句点にしよう」と瞬間的に思って書いただけで、その「理由」は考えていない。誰かに質問されたら、こう答えよう、と考えて書いているわけではないと思う。「。」にした方が、気持ちが落ち着く--くらいの意識だろう。
 で、こういう「無意識」こそが「詩」なのである。

 池井は現実に生きている。それは「雷がこわい」という世界や、布団をかぶって震えるという世界である。
 その一方で、麒麟や龍が空を駆け回る世界があることを知っている。いや、そういう世界があることが「わかっている」、かな?「わかってる(わかる)」というのは「肉体」で覚え込んでしまっていて、いつでもそれを「使える」ということ。
 英語がどういうことばなのか「知っている」ひとはたくさんいるが、「わかっている」ひとは少ない。「わかっている」ことは「つかえる」ということ。自転車はどうすればこげるか知っているだけでは自転車にのれない。そのときの「自転車の力学」は知らなくても、力の配分の仕方を「肉体」で分かっている(覚えている)ひとは、自転車に乗れる。何かを「使える」ひとは、何かを「わかっている」人である。
 この「わかっている」はほとんど無意識。意識化できない。説明できない。自転車の漕ぎ方をことばで説明するなんていう「意識化」は面倒くさくてできない。そんなことをしなくても「のれる(自転車が使える)」なら何も困らないから、説明できなくてもちっとも困らない。
 で。
 池井の詩にもどると、その「わかる」というレベルで、池井は麒麟や龍を「わかっている」。その「麒麟や龍」は遠い中国からやってきた。黄砂のように。そして、それは「千年」という時間を超える。「千年」を超えるけれど、その超え方は「一瞬」。千年を超えるのに千年の時間はいらない。
 「いま」と「千年を超える時間の向こう」はとても隔たっている。切断されている。しか、それは「一瞬」のうちに「接続」される。思い起こすとき、「いま」と「千年前」も、「いま」と「3秒前」も、想起にとって「差」はない。で、「差がない」からこそ、「接続」はいつでも起きる。

 池井は「いま」を生きていると同時に、「いま」ではない時間と「接続」して生きている。「常識」としては「切断された世界」なのに、遠い世界と「接続」している。それは「接続」というより、同居。同居というより、「いま」ではない時間にすっぽりと抱擁されて生きている。
 この感覚が、句読点の不思議なつかい方のなかに凝縮している。

 さの詩だけではわかりにくいかもしれないが、この詩集に書かれている世界は「いま」が「いまではない時間」によって抱擁され、とろける至福に満ちている--まだ「千年」しか読んでいないのだけれど、そういう「予感」が詩集を開いた瞬間に押し寄せてきた。雑誌で発表された作品、それについて思ったことが、瞬間的に、「千年」を突き破ってあらわれてきた。
 私はいままで、池井の詩について書くときに「放心」ということばをしばしばつかったが、あの「放心」というのは「いま(池井)」が「永遠(遠いけれどすぐ近くにある)」ものに抱擁されて、遠近感を見失うということだったのだなあ、と思った。


手から、手へ
池井 昌樹
集英社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(92)

2014-06-22 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(92)          

 「シドンの青年、紀元四〇〇年」は何かの催しのために俳優を呼んだ。その俳優が「アイキュロス、アテナイの人、エウフォリオンの子、ここに眠る」を読んだ。すると、そのときひとりの青年が叫んだ、という詩である。

「その四行詩、待った。
そんな気の抜けた感傷はよせ。
ありったけの気合を入れろよ、いいか、自分の仕事に、
いいから仕事以外は一切忘れて--。して仕事だけは忘れるな。
苦しい時にも、人気低落開始の時にも。貴方に望むことはそれ。
貴方もダテス、アルタフェルネスと闘ったが、
ただの兵士、大勢の中の一匹としてだろ。
そんなものの記念のために、
頭の中からすっぽり抜けたらいかんぞ、

 これは戦闘よりも文学(詩)を上に置く主張である。
 そして、引用は前後するのだが、その声を張り上げたきっかけについて、カヴァフィスが書いている注釈のようなもの、感想の類がとてもおもしろい。
 そんなことを叫んだのは、

(俳優は必要以上に強調したのじゃないかな、
「その世に隠れもなき武勇」と「神聖なマラトンの木立」を)、

 と推測している。どの行(どのことば)を問題としているかというよりも、「必要以上に強調したのじゃないかな」の「必要以上に」がカヴァフィスらしいと思った。カヴァフィスの詩のことばは簡潔で、修飾語をもたない。形容詞を必要としていない。形容詞によって、ことばが「必要以上」のものにさせられるのが嫌いだったのだろう。
 形容詞によって詩の世界を統一すること、ひとつの傾向にすることが嫌いだったのだろう。形容詞が多くなると、そこに書かれている「もの」「こと」の本質が見えにくくなる。形容詞が多くなると、そこでは「表層」が動きの中心になってしまう。「こと」の運動が見すごされてしまう。これを「抒情的」という。
 「必要以上」を拒む--これはカヴァフィスの詩の方法そのままである。カヴァフィスは「もの」「こと」から形容詞を剥ぎ取って、ものの本質だけをさらけだす。大きな「主観」を書きあらわすためには、「表層」ではなく強固な「もの自体」が必要だ。
 形容詞は「もの」の表層を飾るだけではなく、「もの」の表層を多い、「もの」にも内面があるということを隠してしまう。
 これはまた戦争批判である--と書くと書きすぎだろうか。鎧、兜、剣で武装してたたかうとき、ほんとうの「肉体」だけの強さが分からない。人間の真の強さは武装によってえられるのではなく、「内面」からあふれる教養(文学)でなくてはならない。
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