齋藤健一「数直線」ほか(「乾河」70、2014年06月01日発行)
齋藤健一の文体にいつも魅了させられる。それは、とても遠い。つまり、私のだらしない文体からかけ離れている。簡潔で、きっぱりとした断言がある。そして、そのために遠いのだけれど、くっきりと見える。遠いはずなのに「距離」が消えて、目の前にあらわれてくる。
「数直線」。
「病室」ということばが出てくるが、入院している「ぼく(齋藤か)」が見つめる世界が描かれていると思って読んだ。
齋藤の文体が「遠く」感じられるのは、そこに「動詞」が少ないからだ。「動詞」が少ないと、そのひとの肉体の動きがわからない。そのひとの肉体と自分の肉体を重ねてみることが、なかなかむずかしい。
私は、ことばが「わかる」というとき、「動詞」が重要な働きを担っていると考えている。たとえば「水を飲む」。この日本語がわからなくても、たとえばどこかの外国人に対して、コップに入れた水を飲んでみせながら「水を飲む」と言えば、外国人に「水」ということばも「飲む」ということばも、「意味」を通り越して「わかって」もらえる。「意味」以上のことが「わかって」もらえる。これは「飲んでも大丈夫なのだ」ということがつたわる。そして実際にコップの水を飲むという肉体の運動をとおして「水を飲む」ということばを「わかる」ようになる。それぞれの「単語」の「意味」がわかるのではなく、肉体がうけいれることができるもの、肉体でできることが、「世界」として「わかる」。そのときの基本になるのが「飲む」という「動詞」である。
そんなふうに考えている私からみると、齋藤のことばは「動詞」がとても少ない。だから、どんなふうに私の肉体を重ねてみればいいのかわからず、一瞬、とまどってしまう。
たとえば、1行目。
これは、
ということだろうか。主語は「眼」になるのか、「私」になるのか。「私は落ちくぼんだ二つの眼を天井にみひらいて、そのまま動かず、じっとしている」と読むと、主語、述語の関係が「学校文体」らしくなる、と思う。私の、だらだらした文体に近くなると思う。私は無意識のうちに、そういう置き換えをしながら齋藤のことばを追っている。
そして、同時に、その私の文体が齋藤によって、切断されるのを感じる。つまり、「断絶」を感じる。これが「遠い」という印象を呼び起こしている。でも、その「遠い」がとても気持ちがいい。言い換えると、私の文体が切り刻まれる瞬間、何か、とても気持ちのいい感じがある。私の文体で言いなおす前の何かが、「切断」と同時にぱっとあらわれてくる感じがする。
これは、何なのかなあ。
もう一度、1行目を読み直してみる。そうすると、ちょっと違った「言い方」(動詞の動き方)があることに気がつく。
「主語」は「二つの眼」で統一される。そして「動詞」も「ある」によって統一される。
この「ある」という「動詞」はとても変な動詞である。「肉体」で再現できない--というか、「動詞」なのに動かしようがない。「肉体」が「ある」から、「肉体」を動かすことができる。つまり、「動詞」の出発点というか、原点であり、それは「肉体」そのものなのである。
齋藤は、世界を「ある」によってとらえなおしている。
「肉体」を動かし、そこに「動詞」をつかった場合でも、その「動詞」を「ある」に固定して、世界を把握している。
「天井にひらく」は、「ひらく」で終わっているが、すぐに「そのままである」、つまり「ひらかれた状態である」と言いなおされている。
齋藤は、世界に対して「動詞」で働きかけ、世界を動かそうとはしていない。世界が「ある」ことを「自分がある(生きている肉体がある)」ことと対等化して(「ある」という動詞で統一して)、受け入れている。
世界を受け入れているから、世界が目の前に「あらわれる」(あらわれて、ある)。
という奇妙な文体(「学校文体」からみると奇妙である、という意味である)は、そこに「ある」を補うと、「意味」になる。
「や」が浮いて見えるが、それは「……や……や……がある」という具合に、意識を「ある」に統一していくためのことばである。
「ある」は単に「動詞」であるだけではなく、齋藤にとっては「主語」でもある。
日本語は、しばしば主語を省略する。日本語は主語を省略できるが、齋藤は「ある」ということばをつかうことで、この「主語」を「ある」という状態にのみこんでしまうのである。
つまり「主語」が消える。「齋藤」が消える。だから、そこに書かれていることば(世界)は「齋藤」を経ないまま、直接、私の目の前にあらわれる。
「齋藤」は「遠い」。しかし「齋藤のつくりだす世界」は目の前に「ある」ということが起きている。
「ある」は齋藤の詩の「キーワード」である。
キーワードというのは作者にとってあたりまえすぎてつかっている意識がないし、あたりまえなのでついつい省略してしまう。書かなくても無意識につかっている。
どうしてもつかわないといけないとき、何か特別なことをいわないといけないとき、それは少し変な形であらわれる。つまり、「学校教科書」とは違った形であらわれる。
「年齢」の後半。
「内気な特徴がある」の「ある」。これは、一般的には(学校文体では)、「(彼の)特徴は内気である」というふうに言われると思う。そのときの「である」は「だ」とも言い換えられる。「彼は内気だ」という具合に。また「彼は内気」と「動詞」抜きで言われることもある。
齋藤は、しかし、けっしてそんな具合には書かない。
「ある」が「内気」に従属してしまうからである。
齋藤は逆に考える。「ある」が「主語」で「内気」は「補語」なのだ。齋藤がいいたいのは「ある」ということなのだ。
「戸口がのぞく」と齋藤は書くが、それは「ある」を隠すための、文体のねじまげのようなものである。「戸口がある」、そしてその戸口はちらりとのぞいている状態に「ある」。「彼は坐っている」も「座った状態に、彼は、ある」なのだ。
齋藤健一の文体にいつも魅了させられる。それは、とても遠い。つまり、私のだらしない文体からかけ離れている。簡潔で、きっぱりとした断言がある。そして、そのために遠いのだけれど、くっきりと見える。遠いはずなのに「距離」が消えて、目の前にあらわれてくる。
「数直線」。
落ちくぼむ二つの眼。天井にひらく。そのままである。
微睡むサーカス。対称形の赤色が返える。丁寧な会釈を
する少年だ。硬い椅子の玩具や。ハンカチの真四角や。
立つ者はぼくの子供ではないのだ。腕時計と脈拍。硝子
器へ病室の全部が映る。暖房空気。衝立の下の自分のス
リッパである。
「病室」ということばが出てくるが、入院している「ぼく(齋藤か)」が見つめる世界が描かれていると思って読んだ。
齋藤の文体が「遠く」感じられるのは、そこに「動詞」が少ないからだ。「動詞」が少ないと、そのひとの肉体の動きがわからない。そのひとの肉体と自分の肉体を重ねてみることが、なかなかむずかしい。
私は、ことばが「わかる」というとき、「動詞」が重要な働きを担っていると考えている。たとえば「水を飲む」。この日本語がわからなくても、たとえばどこかの外国人に対して、コップに入れた水を飲んでみせながら「水を飲む」と言えば、外国人に「水」ということばも「飲む」ということばも、「意味」を通り越して「わかって」もらえる。「意味」以上のことが「わかって」もらえる。これは「飲んでも大丈夫なのだ」ということがつたわる。そして実際にコップの水を飲むという肉体の運動をとおして「水を飲む」ということばを「わかる」ようになる。それぞれの「単語」の「意味」がわかるのではなく、肉体がうけいれることができるもの、肉体でできることが、「世界」として「わかる」。そのときの基本になるのが「飲む」という「動詞」である。
そんなふうに考えている私からみると、齋藤のことばは「動詞」がとても少ない。だから、どんなふうに私の肉体を重ねてみればいいのかわからず、一瞬、とまどってしまう。
たとえば、1行目。
落ちくぼむ二つの眼。天井にひらく。そのままである。
これは、
落ちくぼんだ二つの眼(を)天井に(み)ひらいて、そのまま動かずにいる(じっとしている)。
ということだろうか。主語は「眼」になるのか、「私」になるのか。「私は落ちくぼんだ二つの眼を天井にみひらいて、そのまま動かず、じっとしている」と読むと、主語、述語の関係が「学校文体」らしくなる、と思う。私の、だらだらした文体に近くなると思う。私は無意識のうちに、そういう置き換えをしながら齋藤のことばを追っている。
そして、同時に、その私の文体が齋藤によって、切断されるのを感じる。つまり、「断絶」を感じる。これが「遠い」という印象を呼び起こしている。でも、その「遠い」がとても気持ちがいい。言い換えると、私の文体が切り刻まれる瞬間、何か、とても気持ちのいい感じがある。私の文体で言いなおす前の何かが、「切断」と同時にぱっとあらわれてくる感じがする。
これは、何なのかなあ。
もう一度、1行目を読み直してみる。そうすると、ちょっと違った「言い方」(動詞の動き方)があることに気がつく。
落ちくぼむ二つの眼(がある)。(その眼は、)天井にひら(かれて、ある)。(その眼は)そのままである。
「主語」は「二つの眼」で統一される。そして「動詞」も「ある」によって統一される。
この「ある」という「動詞」はとても変な動詞である。「肉体」で再現できない--というか、「動詞」なのに動かしようがない。「肉体」が「ある」から、「肉体」を動かすことができる。つまり、「動詞」の出発点というか、原点であり、それは「肉体」そのものなのである。
齋藤は、世界を「ある」によってとらえなおしている。
「肉体」を動かし、そこに「動詞」をつかった場合でも、その「動詞」を「ある」に固定して、世界を把握している。
「天井にひらく」は、「ひらく」で終わっているが、すぐに「そのままである」、つまり「ひらかれた状態である」と言いなおされている。
齋藤は、世界に対して「動詞」で働きかけ、世界を動かそうとはしていない。世界が「ある」ことを「自分がある(生きている肉体がある)」ことと対等化して(「ある」という動詞で統一して)、受け入れている。
世界を受け入れているから、世界が目の前に「あらわれる」(あらわれて、ある)。
硬い椅子の玩具や。ハンカチの真四角や。
という奇妙な文体(「学校文体」からみると奇妙である、という意味である)は、そこに「ある」を補うと、「意味」になる。
硬い椅子の玩具(がある)や。ハンカチの真四角(がある)や。(=ハンカチは真四角である)
「や」が浮いて見えるが、それは「……や……や……がある」という具合に、意識を「ある」に統一していくためのことばである。
「ある」は単に「動詞」であるだけではなく、齋藤にとっては「主語」でもある。
日本語は、しばしば主語を省略する。日本語は主語を省略できるが、齋藤は「ある」ということばをつかうことで、この「主語」を「ある」という状態にのみこんでしまうのである。
つまり「主語」が消える。「齋藤」が消える。だから、そこに書かれていることば(世界)は「齋藤」を経ないまま、直接、私の目の前にあらわれる。
「齋藤」は「遠い」。しかし「齋藤のつくりだす世界」は目の前に「ある」ということが起きている。
「ある」は齋藤の詩の「キーワード」である。
キーワードというのは作者にとってあたりまえすぎてつかっている意識がないし、あたりまえなのでついつい省略してしまう。書かなくても無意識につかっている。
どうしてもつかわないといけないとき、何か特別なことをいわないといけないとき、それは少し変な形であらわれる。つまり、「学校教科書」とは違った形であらわれる。
「年齢」の後半。
散歩
中の遊蕩児。内気な特徴がある。袋小路の右横にひとつ
だけ戸口がのぞく。そのペンキ色の椅子に彼は坐ってい
る。
「内気な特徴がある」の「ある」。これは、一般的には(学校文体では)、「(彼の)特徴は内気である」というふうに言われると思う。そのときの「である」は「だ」とも言い換えられる。「彼は内気だ」という具合に。また「彼は内気」と「動詞」抜きで言われることもある。
齋藤は、しかし、けっしてそんな具合には書かない。
「ある」が「内気」に従属してしまうからである。
齋藤は逆に考える。「ある」が「主語」で「内気」は「補語」なのだ。齋藤がいいたいのは「ある」ということなのだ。
「戸口がのぞく」と齋藤は書くが、それは「ある」を隠すための、文体のねじまげのようなものである。「戸口がある」、そしてその戸口はちらりとのぞいている状態に「ある」。「彼は坐っている」も「座った状態に、彼は、ある」なのだ。
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谷内 修三 | |
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