詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(5)

2014-06-26 10:51:06 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(5)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「草を踏む」に書かれていることば(情報)は非常に少ない。全行引用する。

いつだったかな
おまえとは
このよのくさをふみしめた
ことがあったな

おまえとはだれだったのか
わたしとはだれだったのか
どんなあいだがらだったのか
なんにもおぼえていないのに

どこだったかな
ふたりして
このよのくさのうえにいた
ことがあったな

 いまはじまったばかりのような
 すっかりおわってしまったような
 めもあけられないまばゆさのなか
 こころゆくまでみちたりて

すあしでくさにたっていた
ことがあったな
ただそれだけのことだけが
ただそれだけのことなのに

 同じことが繰り返しか書かれている。「おまえ」も「わたし」もわからない、「いつ」「どこ」かもわからない。わかっているのは草を踏んだということだけ。
 この詩の、どこが詩? どこが、優れているところ?
 聞かれても、答えるのは難しい。
 でも、この詩のリズムに、自然にのみこまれていく。読んでいて、こころが落ち着く。それが詩なんだなあ、と思う。読んで、こころが落ち着く。何かを納得する、ということが。

 と、書いてしまうと、あ、これは批評ではないし、感想にもなっていないかもしれない。
 で、もう少し、書いてみる。

 この詩には、実は「わからない」ところがある。

このよのくさをふみしめた

このよのくさのうえにいた

 「このよ」って、何? 漢字をあてはめれば「この世」になるだろう。「この世」は生きている世界。でも、これって、あたりまえ。「あの世」の草を踏むなんてことは、できない。
 なぜ、「この世」と書いたのか。
 それは、池井には「この世」であるかどうか、よくわからないからだ。「いつ」「どこ」もわからなければ「おまえ」「わたし」がだれなのかもわからない。なにもわからないのだから、「この世」であるかどうかもわからない。
 「この世」を「あの世」と比べるのではなく、「この世」を「現実」と言い換えるなら、もしかすると草を踏んだのは「夢の世(国)」かもしれない。「夢」だけれど、それは生きている世界なので「この世」と言ったのか。
 けれど、そんなロジックの世界を書いているわけではない。
 池井は、ほんとうにそれが「どこ」「いつ」かわからない。
 けれど「草を踏んだ」という「こと」だけははっきりしている。だから、その「こと」を基準にして「この世」と書いたのだ。
 あらゆる「こと」は「この世」で起きる。

 「こと」について考えてみる。
 「こと」にはひとりでできる「こと」がある。また何人かでする「こと」がある。
 池井がこの詩で書いてるのは、「おまえ」と「わたし」の二人でした「こと」である。「こと」は共有された。「こと」のなかに、「おまえ」と「わたし」が一緒にいた。
 そのとき二人が考えたこと、感じたことは違っているかもしれない。しかし、草を踏んだということは共通している。草をとおして、二人は、そのとき「生きた」。
 それはどこから始まったことか、あるいはどこへ進んでゆくことか、まったくわからないが、たしかにあった。

 最後の連で「それだけのこと」が繰り返されている。「こと」が繰り返されている。
 この詩でほんとうに繰り返されているのは、「こと」なのだ。
 だから、と言ってしまうと、きっと乱暴するぎるのだが、

いつだったかな
おまえとは
このよの「みずをのんだ」
ことがあったな

 と、この詩を書きなおして読んでもいいのだ。誰かと何かを一緒にした「こと」。その「こと」を思い出すとき、「この世」は「いまはじまり」、「この世」は「すっかりおわる」。はじまりと終わりが「こと」のなかで出会い、「永遠」になる。
 「永遠」が「この世」にあるのか、それとも別の世にあるのか、私はわからないが、はじまりと終わりの区別がないのが「永遠」だろう。そして、それは「こと」のなかにある。
 「こと」というのは、池井の場合、だれかと「一緒に」すること、あること、なのだ。同じことばをくりかえしてしか言えない何かなのだ。それが「この世」の仕組みなのだ。その「この世」の「仕組み」を池井は書いている。その「仕組み」が動かない限り、世界は「この世」ではない。そのことを強調したくて、いけいは「この世」ということばをつかっている。

 でも、こんなことは、どうでもいい。
 ただ、ここに書いてあることばをくりかえし読んでいるだけでいい。
 選び抜かれたことばが、ただ、そうあるように、そこにある。「ありのまま」のことばがそこにある。かっこいいことばで人を驚かそうというような「作為」がない。「現代詩」の重要な「要素」である「わざと」がここにはない。
 ことばから「わざと」を取り去ると、こんなに純粋になるという、美しい姿、そのうつくしさが、ここにある。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(96)

2014-06-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(96)          

 「亡命ビザンチン貴族の詩作」は、不思議な音楽に満ちている。亡命した貴族が詩をつくる。その詩は、簡単に言うとつまらない。それが証拠に「亡命ビザンチン貴族」という「肩書」はあっても、個人の名前がない。詩も、その個人の名前も残っていないのだ。
 カヴァフィスはここでは何を書こうとしているのか。詩人は少ない。詩を作る人は多くても、詩人はいない。そういう事実だ。そして、では、どんな詩がつまらないかというと、次のような感じ。

粗忽者じゃな、我輩を粗忽と罵る輩は。
重大事項はすべてきわめて真剣に処理していたぞ。
教父、聖典、公会議の決議に
わしほど通じていたものがあろうか。

 「教父、聖典、公会議の決議に」通じている。だから、自分は、それなりに重大な人物であり、粗忽者ではない--こういう奇妙な「うぬぼれ」の書く詩はつまらない。だいたい詩とは、「粗忽」とは無関係。ミスとは無関係。粗忽であっても、そこに強い感情が動いていれば、それは詩だ。また、その詩は自分のことをほめあげるだけで、他人を語らないのもつまらない。つまり、他人を発見しない。他人を描けない。他人のように強烈な、自分のなかにある感情(主観)があふれないと、そのことばは詩にならない。
 --と、書いてくると。あれ?
 この詩は亡命ビザンチン貴族の書いたことばのはずなのに、いつのまにかカヴァフィスの詩人全般への批判、カヴァフィス詩の自己主張になっているのだが……。
 おもしろいのは、カヴァフィスはつまらない詩人を批判するときに、単になぜ詰まらないかを書くだけでは終わっていないことだ。カヴァフィスは、そのつまらない詩人の「口調(ことばのリズム)」を再現してみせる。つまらない詩人になりきって、つまらない詩人の声を「主観」としてことばにしてしまう。
 「教父、聖典、公会議の決議に/わしほど通じていたものがあろうか。」と主張するつまらない詩人は、きっと「詩にわしほど通じていたものがあろうか。」と平然と言うに違いない。
 で、その詩の後半は、まさにそんな感じ。

言わせてもらうが、ここまでやれる者はいまい、
コンスタンティノスポリスの学者諸氏でな。
私の詩の厳しい作法が勘に障って
奴等がおれの詩を駄目というのじゃ。

 カヴァフィスはほんとうに耳のいい詩人だ。つまらない詩人は「作法(論理/意味)」を書くが、そのことばが出てくるときの「作法」さえもつまらない詩人の「主観(声)」としてつかみだし、嘲笑している。そういうことができる詩人だ。



中井久夫の訳詩『リッツォス詩選集』が発行されます。
20年ぶりの訳詩の出版です。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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