池井昌樹『冠雪富士』(5)(思潮社、2014年06月30日発行)
「草を踏む」に書かれていることば(情報)は非常に少ない。全行引用する。
同じことが繰り返しか書かれている。「おまえ」も「わたし」もわからない、「いつ」「どこ」かもわからない。わかっているのは草を踏んだということだけ。
この詩の、どこが詩? どこが、優れているところ?
聞かれても、答えるのは難しい。
でも、この詩のリズムに、自然にのみこまれていく。読んでいて、こころが落ち着く。それが詩なんだなあ、と思う。読んで、こころが落ち着く。何かを納得する、ということが。
と、書いてしまうと、あ、これは批評ではないし、感想にもなっていないかもしれない。
で、もう少し、書いてみる。
この詩には、実は「わからない」ところがある。
「このよ」って、何? 漢字をあてはめれば「この世」になるだろう。「この世」は生きている世界。でも、これって、あたりまえ。「あの世」の草を踏むなんてことは、できない。
なぜ、「この世」と書いたのか。
それは、池井には「この世」であるかどうか、よくわからないからだ。「いつ」「どこ」もわからなければ「おまえ」「わたし」がだれなのかもわからない。なにもわからないのだから、「この世」であるかどうかもわからない。
「この世」を「あの世」と比べるのではなく、「この世」を「現実」と言い換えるなら、もしかすると草を踏んだのは「夢の世(国)」かもしれない。「夢」だけれど、それは生きている世界なので「この世」と言ったのか。
けれど、そんなロジックの世界を書いているわけではない。
池井は、ほんとうにそれが「どこ」「いつ」かわからない。
けれど「草を踏んだ」という「こと」だけははっきりしている。だから、その「こと」を基準にして「この世」と書いたのだ。
あらゆる「こと」は「この世」で起きる。
「こと」について考えてみる。
「こと」にはひとりでできる「こと」がある。また何人かでする「こと」がある。
池井がこの詩で書いてるのは、「おまえ」と「わたし」の二人でした「こと」である。「こと」は共有された。「こと」のなかに、「おまえ」と「わたし」が一緒にいた。
そのとき二人が考えたこと、感じたことは違っているかもしれない。しかし、草を踏んだということは共通している。草をとおして、二人は、そのとき「生きた」。
それはどこから始まったことか、あるいはどこへ進んでゆくことか、まったくわからないが、たしかにあった。
最後の連で「それだけのこと」が繰り返されている。「こと」が繰り返されている。
この詩でほんとうに繰り返されているのは、「こと」なのだ。
だから、と言ってしまうと、きっと乱暴するぎるのだが、
と、この詩を書きなおして読んでもいいのだ。誰かと何かを一緒にした「こと」。その「こと」を思い出すとき、「この世」は「いまはじまり」、「この世」は「すっかりおわる」。はじまりと終わりが「こと」のなかで出会い、「永遠」になる。
「永遠」が「この世」にあるのか、それとも別の世にあるのか、私はわからないが、はじまりと終わりの区別がないのが「永遠」だろう。そして、それは「こと」のなかにある。
「こと」というのは、池井の場合、だれかと「一緒に」すること、あること、なのだ。同じことばをくりかえしてしか言えない何かなのだ。それが「この世」の仕組みなのだ。その「この世」の「仕組み」を池井は書いている。その「仕組み」が動かない限り、世界は「この世」ではない。そのことを強調したくて、いけいは「この世」ということばをつかっている。
でも、こんなことは、どうでもいい。
ただ、ここに書いてあることばをくりかえし読んでいるだけでいい。
選び抜かれたことばが、ただ、そうあるように、そこにある。「ありのまま」のことばがそこにある。かっこいいことばで人を驚かそうというような「作為」がない。「現代詩」の重要な「要素」である「わざと」がここにはない。
ことばから「わざと」を取り去ると、こんなに純粋になるという、美しい姿、そのうつくしさが、ここにある。
「草を踏む」に書かれていることば(情報)は非常に少ない。全行引用する。
いつだったかな
おまえとは
このよのくさをふみしめた
ことがあったな
おまえとはだれだったのか
わたしとはだれだったのか
どんなあいだがらだったのか
なんにもおぼえていないのに
どこだったかな
ふたりして
このよのくさのうえにいた
ことがあったな
いまはじまったばかりのような
すっかりおわってしまったような
めもあけられないまばゆさのなか
こころゆくまでみちたりて
すあしでくさにたっていた
ことがあったな
ただそれだけのことだけが
ただそれだけのことなのに
同じことが繰り返しか書かれている。「おまえ」も「わたし」もわからない、「いつ」「どこ」かもわからない。わかっているのは草を踏んだということだけ。
この詩の、どこが詩? どこが、優れているところ?
聞かれても、答えるのは難しい。
でも、この詩のリズムに、自然にのみこまれていく。読んでいて、こころが落ち着く。それが詩なんだなあ、と思う。読んで、こころが落ち着く。何かを納得する、ということが。
と、書いてしまうと、あ、これは批評ではないし、感想にもなっていないかもしれない。
で、もう少し、書いてみる。
この詩には、実は「わからない」ところがある。
このよのくさをふみしめた
このよのくさのうえにいた
「このよ」って、何? 漢字をあてはめれば「この世」になるだろう。「この世」は生きている世界。でも、これって、あたりまえ。「あの世」の草を踏むなんてことは、できない。
なぜ、「この世」と書いたのか。
それは、池井には「この世」であるかどうか、よくわからないからだ。「いつ」「どこ」もわからなければ「おまえ」「わたし」がだれなのかもわからない。なにもわからないのだから、「この世」であるかどうかもわからない。
「この世」を「あの世」と比べるのではなく、「この世」を「現実」と言い換えるなら、もしかすると草を踏んだのは「夢の世(国)」かもしれない。「夢」だけれど、それは生きている世界なので「この世」と言ったのか。
けれど、そんなロジックの世界を書いているわけではない。
池井は、ほんとうにそれが「どこ」「いつ」かわからない。
けれど「草を踏んだ」という「こと」だけははっきりしている。だから、その「こと」を基準にして「この世」と書いたのだ。
あらゆる「こと」は「この世」で起きる。
「こと」について考えてみる。
「こと」にはひとりでできる「こと」がある。また何人かでする「こと」がある。
池井がこの詩で書いてるのは、「おまえ」と「わたし」の二人でした「こと」である。「こと」は共有された。「こと」のなかに、「おまえ」と「わたし」が一緒にいた。
そのとき二人が考えたこと、感じたことは違っているかもしれない。しかし、草を踏んだということは共通している。草をとおして、二人は、そのとき「生きた」。
それはどこから始まったことか、あるいはどこへ進んでゆくことか、まったくわからないが、たしかにあった。
最後の連で「それだけのこと」が繰り返されている。「こと」が繰り返されている。
この詩でほんとうに繰り返されているのは、「こと」なのだ。
だから、と言ってしまうと、きっと乱暴するぎるのだが、
いつだったかな
おまえとは
このよの「みずをのんだ」
ことがあったな
と、この詩を書きなおして読んでもいいのだ。誰かと何かを一緒にした「こと」。その「こと」を思い出すとき、「この世」は「いまはじまり」、「この世」は「すっかりおわる」。はじまりと終わりが「こと」のなかで出会い、「永遠」になる。
「永遠」が「この世」にあるのか、それとも別の世にあるのか、私はわからないが、はじまりと終わりの区別がないのが「永遠」だろう。そして、それは「こと」のなかにある。
「こと」というのは、池井の場合、だれかと「一緒に」すること、あること、なのだ。同じことばをくりかえしてしか言えない何かなのだ。それが「この世」の仕組みなのだ。その「この世」の「仕組み」を池井は書いている。その「仕組み」が動かない限り、世界は「この世」ではない。そのことを強調したくて、いけいは「この世」ということばをつかっている。
でも、こんなことは、どうでもいい。
ただ、ここに書いてあることばをくりかえし読んでいるだけでいい。
選び抜かれたことばが、ただ、そうあるように、そこにある。「ありのまま」のことばがそこにある。かっこいいことばで人を驚かそうというような「作為」がない。「現代詩」の重要な「要素」である「わざと」がここにはない。
ことばから「わざと」を取り去ると、こんなに純粋になるという、美しい姿、そのうつくしさが、ここにある。
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