詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の十篇(3 ビリー・ザ・キッド)

2014-06-12 11:25:01 | 谷川俊太郎の10篇
                           2014年06月12日(木曜日)

細かい泥が先ず俺の唇にそしてだんだん大きな土の塊が俺の脚の間に腹の上に 巣をこわされた蟻が一匹束の間俺の閉じられたまぶたの上をはう 人人はもう泣くことをやめ今はシャベルをふるうことに快よい汗を感じているらしい 俺の胸にあのやさしい眼をした保安官のあけた二つの穴がある 俺の血はためらわずにその二つの逃げ路から逃れ出た その時始めて血は俺のものでなかったことがはっきりした 俺は俺の血がそうしてそれにつれてだんだんに俺が帰ろうとしているのを知っていた 俺の上にあの俺のただひとつの敵 乾いた青空がある 俺からすべてを奪ってゆくもの 俺が駆けても 撃っても 愛してさえ俺から奪いつづけたあの青空が最後にただ一度奪いそこなう時 それが俺の死の時だ 俺は今こそ奪われない 俺は今始めて青空をおそれない あの沈黙あの限りない青さをおそれない 俺は今地に奪われてゆくのだから 俺は帰ることができるのだもう青空の手の届かぬところへ俺が戦わずにすむところへ 今こそ俺の声は応えられるのだ 今こそ俺の銃の音は俺の耳に残るのだ 俺が聞くことが出来ず撃つことの出来なくなった今こそ

俺は殺すことで人をそして俺自身をたしかめようとした 俺の若々しい証し方は血の色で飾られた しかし他人の血で青空は塗り潰せない 俺は自分の血をもとめた 今日俺はそれを得た 俺は自分の血が青空を昏くしやがて地へ帰ってゆくのをたしかめた そして今俺はもう青空を見ない憶えてもいない 俺は俺の血の匂いをかぎ今は俺が地になるのを待つ 俺の上を風が流れる もう俺は風をうらやまない  もうすぐ俺は風になれる もうすぐ俺は風になれる もうすぐ俺は青空を知らずに青空の中に棲む 俺はひとつの星になる すべての夜を知り すべての真昼を知り なおめぐりつづける星になる



 詩は、『二十億光年の孤独』がそうであるように、たいてい「私」が主役(話者)である。「私」の気持ちを書いたのが詩。でも、「私」を主人公にしないで、小説のように、「物語」として書くこともできる。「ビリー・ザ・キッド」はそういう作品。詩は、何を、どんな形式で書いてもいい。それが「現代詩」だ。読みながら興奮したことを覚えている。そして、興奮していたときは気がつかなかったが、この詩に谷川の「本質」のようなものがあふれている。
 たとえば書き出し、

細かい泥が先ず俺の唇に

 と、突然「唇」が出てくることに。
 なぜ、唇? 死んで、埋葬される。その死体が、土を最初に感じるのが唇? 背中は、まあ、置いておくとして、土をかぶせられて最初に困るのはどこだろう。顔は顔でも、唇ではなく眼とか鼻とかが気になると思う。死んでしまって見えないのだけれど、土がかぶさればその「見えない」が「現実」になってしまう。それが気になるのでは?
 でも谷川は唇から書きはじめている。
 これは谷川が「ことば」を生きているということ、そしてそのことばは「声」と強く結びついていることを意味しないだろうか。口に出して言ってこそことばなのだ。--いま読み返すと、そう感じる。谷川はいつも「ことば」といっしょにいる。それも「書く」というより「声」のことばといっしょにいるのだ。だから「唇」を最初に書いてしまう。
 私が最初に気にするだろうと想像した眼(まぶた)が登場するのは、そのあとだ。谷川は視覚でことばを動かす詩人ではない。だからこそ、死後という眼では見えない世界を書いてみようと思ったのかもしれない。視覚を中心に生きている人間なら、見えないことを書くとき何を中心にして書いていいかわからない。谷川は、そのことを悩まなかったに違いない。
 目が見えないとき、人が頼るのは聴覚(耳をすます)と触覚(手探り)だが、聴覚が登場するのも、谷川の詩では、まだ先だ。「触れる」ということばはつかっていないが、唇に触れる土を感じ、腹の上に落ちてくる土を感じるということろから、谷川はことばを動かしている。谷川は触覚(直接触れる)ものを重視していることがわかる。直接触れることができるものをことばにする--それが谷川の詩なのだろう。
 その触覚も、よく見ると、とてもおもしろい。

巣をこわされた蟻が一匹束の間俺の閉じられたまぶたの上をはう

 土が触れるではなく、蟻がはう。はうのを触覚で感じる。しかも、その蟻は墓を掘るときに巣を壊された蟻。巣を壊されたのなら何匹も蟻がいるはずだが、「一匹」というのは変かもしれないが、ことばの力点(想像力の力点)は、そこにあるのではなく、「巣をこわされた」にある。
 ビリー・ザ・キッドの世界は人間の世界だが、その世界は他の生き物の世界に広がっている。人はひとりの世界を生きているのではない。他者がいる。そのことを谷川は感じていて、それが無意識に詩に反映している。
 谷川の詩に窮屈な感じがないのは、他人に向けて、ことばがいつも開かれているためだろう。

 この詩の書き出しには、まだ多くの谷川の秘密のようなものが隠されている。論理立てるのではなく、ただ目についた順番にそれを書いていく。

人人はもう泣くことをやめ今はシャベルをふるうことに快よい汗を感じているらしい

 この「快よい」は不思議な「矛盾」のようなものを抱え込んでいる。ビリーを埋葬するのは悲しい。しかし、埋葬するために肉体を動かしていると、その動きをとおして快感が生まれる。こころと体は必ずしも一致しない--というのではなく、こころは、いつでもどこからでも生まれてくる。その「生まれてくる」ということを防ぎようがない。制御できない何かが人間にはある。

俺の胸にあのやさしい眼をした保安官のあけた二つの穴がある

 「やさしい目」も「矛盾」のひとつだ。保安官の眼がビリーに「やさしい」ということはないだろう。けれど、その保安官だって「やさしい」時がある。「やさしい」から人殺しが許せない。だからビリーを殺す。ことばの「定義」はむずかしい。ことばは、いつも「場」といっしょにある。「こと+場」が「ことば」なのだ。ことばはそれが発せられるときひとつの「こと」ひとつの「場」をあらわそうとするのだけれど、隠れている「場」も同時にみせてしまう。かけはなれた「場」が「いま」というときのなかにいっしょになってあらわれてしまう。
 ひとは同時に二つの場に存在できないというのが世界の常識だが(物理の定義だが)、ひとつのことばは複数の「場(背景)」を呼び寄せることができる。だからこそ「解釈の違い」というものも生まれる。
 谷川のことばは、ことばの「定義」をひとつにすることをめざしているというよりも、いくつもの「場(背景)」を呼び集め、どんなふうに読んでもいいよ、と言っているように感じる。
 「矛盾」を随所に放置することで、世界が固定化するのを防いでいる。ある世界を書きながら、同時にその世界を解放/開放している。

 保安官の撃った二発の銃弾。銃弾があけた二つの穴。(ここで、私は、「一匹の蟻」のことをふと思う。あの「一匹の蟻」は「二つの穴」の「二つ」を明確にするために書かれたのだと思う。)そこから血が流れるのだが、

その時始めて血は俺のものでなかったことがはっきりした

 というのも「矛盾」だ。常識に反する。肉体のなかを流れる血はあくまでもその人のもの。でもビリーは違うという。では、だれのものか。保安官のもの? いや、ビリーという人間に、ある夢を見た多くの人のもの。無名の多くの人は、ビリーのように強くは生きられない。あんなふうに生きてみたいという欲望がだれの胸にもある。その人たちの血が流れていくのだ。
 ビリーが死んだとき、人が泣いたのは、自分の「欲望」がビリーといっしょに否定され、失われたからだ。
 この入り組んだ感情の交錯もまた「矛盾」であり、解放/開放である。いろいろな意識を誘い込み、自在に動くように促す。

 その開放/解放(どう書くのがいちばんいいのかわからないので、あえてごちゃまぜにしておく)の行き着く先が「空」、あるいは「宇宙」だ。
 血は、青空へ帰っていく。
 詩は、

俺は帰ることができるのだもう青空の手の届かぬところへ俺が戦わずにすむところへ

 と書かれているが、そのときの「俺」は「俺の肉体」であって、「俺のこころ(ことば)」は青空を意識しつづけている。長々と青空のこそが書かれているのがその証拠である。「肉体」と「こころ(ことば)」は反対の方向(矛盾)へ動いていく。それは矛盾しているけれど、強く結びついていて切り離すことはできない。(切り離せないから矛盾しているとも言えるのだが……。)

 このあと、詩に、不思議な、とても不思議な展開をする。

今こそ俺の声は応えられるのだ

 この「声」とは何だろう。
 谷川には、何か書きたいことがある。書かなければならないことがある。けれど、それはまだ「明確」にはなっていない。「声」にまつわること、ということだけはわかっている。わかっているけれど、その「わかっている」はあまりにも谷川の肉体にぴったりとからみついていて、意識として切り離して語ることができない。だから無意識に「声」と書いた--そういう印象がある。
 無意識に書かれたことば、作者が無意識に書かざるを得なかったことば--それがその人のキーワード(思想の核)であると私は考えているが、この「声」については、それ以上のことはかけない。
 強引に「ことば」に結びつけて「意味」をつくりだすこともできるかもしれない。批評は、「意味」によって、その充分に語られていない「声」を補足し、定義する仕事かもしれないけれど、私はそういうことをしない。
 わからない。けれど、気になる、とだけ書いておく。
 この「声」と書き出しの「唇」が呼応して、何か言おうとしていると感じる、とだけ書いておく。
 あ、すこし補足して、「俺の声」を谷川は二連目で説明しなおしている、とも書いておこう。その「声」のなかに、

もうすぐ俺は青空を知らずに青空の中に棲む 俺はひとつの星になる

 と書いてあることも指摘しておく。「青空に棲む星(白昼も輝いている星)」。谷川は「声」の詩人だが、「声」に力を注ぐのは、実は「青空に輝く星」が見える視力を持っているから、視覚を気にしないのかもしれない。

 (私は眼が悪く、視力の強い人のことばは苦手である。もしかすると、私は谷川の視力の詩を無意識に避けているのかもしれない。最近の谷川は田原の詩に親近感を感じているように見える。その田原はとても視力の強い人である。谷川と田原は視力によって共鳴しているのかもしれない。--これは、蛇足。いつか、視力についてわかったら、何か書いてみたいという私的メモ。)

愛について (1955年)
谷川 俊太郎
東京創元社
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新保啓「黄昏の道」、金井裕美子「置き場」

2014-06-12 10:02:26 | 詩(雑誌・同人誌)
新保啓「黄昏の道」、金井裕美子「置き場」(「詩的現代(第二次)」9、2014年06月発行)

 新保啓「黄昏の道」は犬と散歩する詩。犬のことを「ワンちゃん」と書いている。うーん、いやだなあ。その「ワンちゃん」が「話者」になってる。うーん、こういうのも好きじゃないのだが。

小波が寄せていた
軽い便りのように
道をとぼとぼさせた
平らな道なのに
浮き足だってよろけた

 「小波」って何かなあ。海の近く? 川沿い? 違うだろうなあ。夕暮れの光の「小波」かなあ。夕暮れの、きょう最後の光が道に届く(便りのように)。それが影をつくって、その光と影の交錯が「小波」? わからないけれど、印象に残る。「とぼとぼ」と「平らな道なのに/浮き足だってよろけた」はちぐはぐなのだけれど、何かに向かってむりやりイメージが結晶するという感じはないところが、妙にくすぐったい。

ゆるんだ紐が空にかかり
知らない家と家の
間に
落ちかかっていて
果てしなかった

 「ゆるんだ紐」は電線かもしれない。洗濯物を干す紐かもしれない。
 けれど、私は犬と飼い主をつなぐリードと読みたい。信頼関係があるから、紐はたるんでいる。歩調があっているから、紐がぴーんと張ることはない。その紐は人間の目からは「空にかか」っているようには見えないけれど、犬の低い目線からは空にかかっているように見えるかもしれない。
 ここで、私は、犬になってしまって、「そうか」と感激したのである。
 夕日の名残が広がる道も、きっと人間の目線から見るときと、犬の目線で見るときでは違っているだろうなあ。
 犬は、わざわざそんなことを言わないので、わからないが。(私も犬を飼っているが、そんなことは考えたことがなかったが……。)

まだ帰る気がない人が
いっぱいいて
じゃまだから
道の端を遅れて歩いた

 飼い主のあと(真後ろ)だけは、他人がはいり込む余地がないので安心して歩ける。邪魔者がないのだね。

ワンちゃんが黄昏の道を
歩いていた
遠くから幸せな仲間たちの
声が聞こえてきて
嬉しかった
犬にしか聞こえない声だけれど
家が舞っていることを知らせてくれた
一軒だけ灯りのついていない家が
ぽつんと 遠くで
手を振っていた

 うーん、「ワンちゃん」の思いなのか、飼い主(新保)の思いなのか、区別がつかない。そこがいいんだな。家に帰る。そのことの「意味」を区別してもしようがない。家に帰るよろこび、家にいる(家がある)よろこび--に犬も人も区別がない。
 そして、その家は、「灯り」がついて、完成する。中に人がいて完成する。その完成を家の方でも待っている。「手を振って」を私は、なんとなく「尻尾を振って」と読んでしまったのだけれど。



 金井裕美子「置き場」は、プールに浮かんでぼんやりしているときのことを描いている。水泳の練習なのか。あるいは浮いているのは人間(金井)ではなく、もっとほかのもの、丸太とか死体とかかもしれないのだが、金井と思って私は読んだ。

プールに
浮いています
忘れられた浮き輪のように
ぷかっと
仰向けに浮いています
体の向きが変わって
プールの縁に
頭がこつんと閊えると
鎖骨のくぼみに
ながいながい竿の先がさしこまれて
ぐいっと押されます

 まさか浮いている人間を竿で押し返す、しかも鎖骨のくぼみに竿を差し込んで、ということはないだろうから(だって、痛そうでしょ?)、浮いているのは金井ではないのだろうけれど、それでも金井と私は思いたい。
 金井の肉体が、そのまま浮いている何かになっている。浮いている何かが金井の肉体になっている。その区別がつかなくなっている。この一体感が、詩、なのだ。
 先に読んだ新保の「黄昏の道」では犬と飼い主が一体になっていた。犬と家が一体になっていた。かけ離れたものの偶然の出会いではなく、別個のものが「肉体」をとおして「ひとつ」になるとき、そこに詩があるのだ、と私は思う。
 押し返された何かは別の何かとぶつかる。そのとき、その別の何かは、また別の誰かの「肉体」である。

押されると
思い出したように縁から離れ
漣を寄せて
体は
内へゆっくり移動します
水面に広がって
髪は藻のように揺れます
足の指が
だれかの腰骨に触れると
鳩尾に
差しこまれて
くいっと押されます
体は
あてもなく
ゆらりと向きを変えます

 詩の中に「鎖骨」「足の指」「腰骨」鳩尾」など、肉体の部位を書き込むことで、何かと「肉体」の一体感があふれてくる。浮いているときの「水」さえ、その一体感のなかにはいってくる。
 材木か死体かわからないけれど、そういうものになってみたい気持ちになる。自分の意識は関係なくて、ただだれかに押されてあっちへぷかり、こっちへぷかりと動きながら時間が過ぎていくというのは、いいものかも。
 そこは無為の時間の「置き場」かもしれないなあ。



詩集 あちらの部屋
新保 啓
花神社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(82) 

2014-06-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(82)          

 「九時から」はカヴァフィスのことばの速さをあらわしている。カヴァフィスの詩には省略が多いが、それは省略というより、充実した時から別の充実した時への飛躍と読み替えることができる。

十二時半。九時からの時間の早さ。
明かりを点けてここに座ったのは九時。
本も読まず、口も開かずにずっと座っていた。

 何もしない。それでも時間が過ぎていく。そして、その何もしないとき、人は何をしているのか。

九時に明かりを点けた時から、
若かった私の身体の影が私に憑いて、
思い出させた。過去の情熱を閉じ込めた
むせかえる香の部屋部屋を。

 過去を思い出す。若かった自分の肉体を思い出す。官能のよろこびを思い出す。「部屋」ではなく「部屋部屋」と複数なのは、その思い出がいくつもあるからだ。そして、それはいくつもあるけれど「部屋」というひとつの単語のなかで繰り返される。つまり、それはいくつあっても「ひとつ」と同じことなのだ。
 このいくつあっても「ひとつ」ということが、時間を凝縮させる。時間の隔たりをなくしてしまう。
 若かった二十年前も十年前も、若くはなくなった一年前も、思い出の「部屋」のなかでは隔たりがなく、隣接している。それは「九時から」「十二時半」までの「三時間半」よりももっと「短い」時間のなかに、濃密に凝縮している。
 時間の凝縮が、時間の長さを「省略」してしまう。「時間」をのみこんでしまう。これが、カヴァフィスの「魔法」である。

十二時半。時間の経過のいかに疾き。
十二時半。過ぎし歳月のいかに多き。

 「疾い」と「多い」が重なり合う。区別がない。
 いや、それ以上のことが書かれている。
 してきたこと(過去)が多ければ多いほど、変化に富んでいれば富んでいるほど、それは濃厚な思い出を作り上げる。そして、その濃厚な思い出のなかに、時間はどんどん沈殿してゆく。その結果、時間は加速する。「過ぎし歳月(ひとつに収斂していく思い出)」が「多く」なければ、時間の経過は「疾く」はならないのだ。
 「疾き」「多き」と文語になっているのは中井の工夫だ。そこで時間が止まる。
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