詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(3)

2014-06-24 10:20:23 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(3)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「秋刀魚」については、雑誌に発表されたときに感想を書いた。特に付け加えたいことがあるわけではない。いや、前に何を書いたか忘れてもいるのだから、付け加えるとか、修正するとかということではないのだが、ふと、全篇にもう一度つきあってみようかな、という気持ちになっている。

 「谷川俊太郎の10篇」というシリーズを書き終わって、あ、書き漏らしたなあと思ったことがある。
 谷川の詩の行には、ものすごく独創的なことばの動かし方があるわけではない。
 シェークスピアの芝居を見たある人が「シェークスピアは決まり文句だけで芝居を書いている」と言ったそうだが、谷川の詩も、ある意味では「決まり文句(誰かがどこかで言っていることば)」で成り立っている。少女のことばだったり、母親のことばだったり、老人のことばだったり、無邪気な子どものことばだったり。
 そういうことばを読みながら、私は何をしているかといえば、自分自身のことばを整えなおしている。あ、こういう言い方があったなあ、と。そして、そのときの気持ちはこうだったんだ、と思い出している。谷川のことばをつかって、自分の体験を思い出し、それを語るためのことばを整えなおしている。こういう整え方がいいなあ、と感じている。
 それは、こういう言い方が好きだなあ、というのに似ている。
 そして、ことばを整えるというのは、生活を整えるのに似ている。私はほとんど毎日、朝起きると犬の散歩に行き、帰って来て朝食を食べ、新聞を読み終わってから、こうやってパソコンに向かって詩の感想を書いている。目が悪いので、タイマーをかけながらというのが、まあ、私の独自のスタイルだけれど、それを繰り返している。午後から仕事に行く。--この整え方は、他人にはつまらないだろうけれど、私には向いている。この繰り返しが好きだ。好きな詩を読んで、思ったことを好き放題に書いている。
 この繰り返しの生活に「意味」がないのと同じように、私は詩のことばにも「意味」なんてないと思っている。それが好きで、それを読むだけ。それに合わせて自分のことばを動かしてみるだけ。そして、そのとき整っていく「息」のようなものをいいなあと感じ、それで満足。
 「意味」はあとから適当に考える。「意味」が思いつかなくても気にしない。むりやり作り上げたりはしない。見つからなかった、と書いておくだけだ。

 脱線したが。
 「秋刀魚」という詩は、池井が働いている書店を舞台にしている。どうも近くに大きな書店ができるので、さてこれからどうしようというようなことを経営者が話している。それを耳にはさむ。

なにやらおかねのはなしをはじめ
ひそひそぼくのはなしをはじめ
からだぜんぶがみみになり
つむりたくてもつむれずに
ぼくはみもよもなくなって
のどのおくからにがいつば
いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった
のに

 あ、この感覚。
 あるでしょ? 会社や何かで。一生懸命働いた、一生懸命がんばった、それなのに誰かがひそひそと自分のことを言っている、そのときの「……のに」と思わず動くことば。
 なんだろうね、この「のに」。
 学校なんかでは教えてくれない。だれものが言うのに、「いっしょけんめいはたらいた/のに」「こんなにこんなにがんばった/のに」。「のに」で言いたいのは、なぜ、自分は報われないのだろう、かな? でも、そこまでは口に出しては言えない。ほかの人だって一生懸命働いて、がんばっているのがわかるからね。言いたいけれど、言えないことばがある。その言えないは、ただ口に出せないだけではなく、ほんとうは、まだことばになりきれていないからだね。「なぜ報われないのだろう」だけではない、もっと違うことばも動いていて、それが単純に「なぜ報われないのだろう」という怒りにつながらない。悲しみや無念ともつながって、肉体の奥に沈んで行く。
 ことばのかわりに「のどのおくからにがいつば」があふれてくる。
 こんなふうに、がまんして、暮らしを整える--そういうことがある。

 池井は、そういう「どこにでもある暮らし」をどこにでもある、その姿そのままに、ことばのなかに整えている。
 こんなことばだから、労働者は搾取されるんだ--なんていう批判は、まあ、何と言えばいいのか「意味」がありすぎて、うんざりするね。「意味」にしばられて動きたくないなあ。「意味」って、どんなに動いてみても、それを動かしている人にとって便利なものであって、その「意味」についていく人にとっては、そんなに好都合なものじゃない。他人の考えた「意味」にあわせて動くなんて、めんどうくさい。自分に嘘をついている。労働者の権利のためにデモするなんて、なんだかめんどう。もっと違うことをしたい。

 で、池井は、どうするのか。

にげだすようにかえってくれば
さんまのけむりがたちこめて
ぱあとですっかりひやけした
あなたがにっこりたっていて

 「いっしょけんめいはたらいた/こんなにこんなにがんばった/のに」の「のに」を共有する妻がいる。にっこりと池井の「のに」を見守っている。見守られながら、池井は妻の笑顔のなかに、やっぱり「のに」が隠れてるのに気づく。

 あ、そんなことまで書いていない?
 書いていなくたってかまわない。私が、私の勝手で、そういうことばを付け加えて池井の詩を読むのである。そして、いいなあ、と感じる。「いいなあ」を強く感じるために、ことばを動かす。そういうことが、私は好き。







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池井 昌樹
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(94)

2014-06-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(94)          

 「ダレイオス大王」は、フェルナゼスという詩人が「叙事詩のさわり」の部分を考える。「ヒュスタスペスの子ダレイオスが/ペルシャの王位を奪うところ。」を書こうとしている。

だがここは難所。考えあぐねる。フェルナゼスたるもの、
ダレイオスがどう感じたか、ひとつ分析せにゃ。
驕りだ、まずな、それから陶酔かな?
いや、むしろ、偉くなる虚しさの直観だ、一種の、だな。

 これはフェルナゼスを利用してカヴァフィス自身の試作方法を明らかにしているとも言える。「詩人」の「詩作中の声」を、カヴァフィスはフェルナゼスと共有している。「驕り」「陶酔」「虚しさの直観」と、まったく別種のことがぶつかり合い、共存している。感覚(感情)統一よりも、衝突によって人間をいきいきと動かそうとしている。
 「抒情詩」なら「感情の統一」が必要だが、「叙事詩」では事件の鮮明さが必要だ。劇的な事件というのは「感情の統一」とは違うところで生まれる。
 ようやく方針(?)が決まったのだが、そこに突然ローマとの戦争の知らせが飛びこんできて、詩作は中断する。

詩人は茫然。何たる災難!
わがミトリダテス・ディオニュソス・エウパトル陛下も、
よもやギリシャ詩など、かまっちゃくださるまい。
戦争の最中にギリシャ詩なんて。そりゃあそうだなあ!

 先に引用した部分の「せにゃ」「だな」というような口語と同じように、フェルナゼス自身のこころのなかの声は口語のままである。ていねいなことばというのは相手がいるからていねいなので、自問自答は口語の早さ、口語の簡便さで動く。「そりゃあそうだなあ!」には、戦争のことを知らない(?)詩人ののんびりさ加減が紛れ込んでいて、とてもおもしろい。中井久夫の訳ならでは、という感じがする。

しかし、詩人の神経が尖るさなかにも、大騒ぎの最中にも、
詩想は押し寄せ、去来する。
驕りと陶酔--これだ、一番確かなのは。
驕りと陶酔をダレイオスは感じたに相違ないな。

 この最後の連は、詩人の本質を語っている。つまり、フェルナデスであるかカヴァフィスであるかは関係なく、「詩人」そのものが動いている。どんなときにも「詩想」がやってきたら、それを一番先に感じてしまう。ほかのことを忘れてしまう。


カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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