池井昌樹『冠雪富士』(3)(思潮社、2014年06月30日発行)
「秋刀魚」については、雑誌に発表されたときに感想を書いた。特に付け加えたいことがあるわけではない。いや、前に何を書いたか忘れてもいるのだから、付け加えるとか、修正するとかということではないのだが、ふと、全篇にもう一度つきあってみようかな、という気持ちになっている。
「谷川俊太郎の10篇」というシリーズを書き終わって、あ、書き漏らしたなあと思ったことがある。
谷川の詩の行には、ものすごく独創的なことばの動かし方があるわけではない。
シェークスピアの芝居を見たある人が「シェークスピアは決まり文句だけで芝居を書いている」と言ったそうだが、谷川の詩も、ある意味では「決まり文句(誰かがどこかで言っていることば)」で成り立っている。少女のことばだったり、母親のことばだったり、老人のことばだったり、無邪気な子どものことばだったり。
そういうことばを読みながら、私は何をしているかといえば、自分自身のことばを整えなおしている。あ、こういう言い方があったなあ、と。そして、そのときの気持ちはこうだったんだ、と思い出している。谷川のことばをつかって、自分の体験を思い出し、それを語るためのことばを整えなおしている。こういう整え方がいいなあ、と感じている。
それは、こういう言い方が好きだなあ、というのに似ている。
そして、ことばを整えるというのは、生活を整えるのに似ている。私はほとんど毎日、朝起きると犬の散歩に行き、帰って来て朝食を食べ、新聞を読み終わってから、こうやってパソコンに向かって詩の感想を書いている。目が悪いので、タイマーをかけながらというのが、まあ、私の独自のスタイルだけれど、それを繰り返している。午後から仕事に行く。--この整え方は、他人にはつまらないだろうけれど、私には向いている。この繰り返しが好きだ。好きな詩を読んで、思ったことを好き放題に書いている。
この繰り返しの生活に「意味」がないのと同じように、私は詩のことばにも「意味」なんてないと思っている。それが好きで、それを読むだけ。それに合わせて自分のことばを動かしてみるだけ。そして、そのとき整っていく「息」のようなものをいいなあと感じ、それで満足。
「意味」はあとから適当に考える。「意味」が思いつかなくても気にしない。むりやり作り上げたりはしない。見つからなかった、と書いておくだけだ。
脱線したが。
「秋刀魚」という詩は、池井が働いている書店を舞台にしている。どうも近くに大きな書店ができるので、さてこれからどうしようというようなことを経営者が話している。それを耳にはさむ。
あ、この感覚。
あるでしょ? 会社や何かで。一生懸命働いた、一生懸命がんばった、それなのに誰かがひそひそと自分のことを言っている、そのときの「……のに」と思わず動くことば。
なんだろうね、この「のに」。
学校なんかでは教えてくれない。だれものが言うのに、「いっしょけんめいはたらいた/のに」「こんなにこんなにがんばった/のに」。「のに」で言いたいのは、なぜ、自分は報われないのだろう、かな? でも、そこまでは口に出しては言えない。ほかの人だって一生懸命働いて、がんばっているのがわかるからね。言いたいけれど、言えないことばがある。その言えないは、ただ口に出せないだけではなく、ほんとうは、まだことばになりきれていないからだね。「なぜ報われないのだろう」だけではない、もっと違うことばも動いていて、それが単純に「なぜ報われないのだろう」という怒りにつながらない。悲しみや無念ともつながって、肉体の奥に沈んで行く。
ことばのかわりに「のどのおくからにがいつば」があふれてくる。
こんなふうに、がまんして、暮らしを整える--そういうことがある。
池井は、そういう「どこにでもある暮らし」をどこにでもある、その姿そのままに、ことばのなかに整えている。
こんなことばだから、労働者は搾取されるんだ--なんていう批判は、まあ、何と言えばいいのか「意味」がありすぎて、うんざりするね。「意味」にしばられて動きたくないなあ。「意味」って、どんなに動いてみても、それを動かしている人にとって便利なものであって、その「意味」についていく人にとっては、そんなに好都合なものじゃない。他人の考えた「意味」にあわせて動くなんて、めんどうくさい。自分に嘘をついている。労働者の権利のためにデモするなんて、なんだかめんどう。もっと違うことをしたい。
で、池井は、どうするのか。
「いっしょけんめいはたらいた/こんなにこんなにがんばった/のに」の「のに」を共有する妻がいる。にっこりと池井の「のに」を見守っている。見守られながら、池井は妻の笑顔のなかに、やっぱり「のに」が隠れてるのに気づく。
あ、そんなことまで書いていない?
書いていなくたってかまわない。私が、私の勝手で、そういうことばを付け加えて池井の詩を読むのである。そして、いいなあ、と感じる。「いいなあ」を強く感じるために、ことばを動かす。そういうことが、私は好き。
「秋刀魚」については、雑誌に発表されたときに感想を書いた。特に付け加えたいことがあるわけではない。いや、前に何を書いたか忘れてもいるのだから、付け加えるとか、修正するとかということではないのだが、ふと、全篇にもう一度つきあってみようかな、という気持ちになっている。
「谷川俊太郎の10篇」というシリーズを書き終わって、あ、書き漏らしたなあと思ったことがある。
谷川の詩の行には、ものすごく独創的なことばの動かし方があるわけではない。
シェークスピアの芝居を見たある人が「シェークスピアは決まり文句だけで芝居を書いている」と言ったそうだが、谷川の詩も、ある意味では「決まり文句(誰かがどこかで言っていることば)」で成り立っている。少女のことばだったり、母親のことばだったり、老人のことばだったり、無邪気な子どものことばだったり。
そういうことばを読みながら、私は何をしているかといえば、自分自身のことばを整えなおしている。あ、こういう言い方があったなあ、と。そして、そのときの気持ちはこうだったんだ、と思い出している。谷川のことばをつかって、自分の体験を思い出し、それを語るためのことばを整えなおしている。こういう整え方がいいなあ、と感じている。
それは、こういう言い方が好きだなあ、というのに似ている。
そして、ことばを整えるというのは、生活を整えるのに似ている。私はほとんど毎日、朝起きると犬の散歩に行き、帰って来て朝食を食べ、新聞を読み終わってから、こうやってパソコンに向かって詩の感想を書いている。目が悪いので、タイマーをかけながらというのが、まあ、私の独自のスタイルだけれど、それを繰り返している。午後から仕事に行く。--この整え方は、他人にはつまらないだろうけれど、私には向いている。この繰り返しが好きだ。好きな詩を読んで、思ったことを好き放題に書いている。
この繰り返しの生活に「意味」がないのと同じように、私は詩のことばにも「意味」なんてないと思っている。それが好きで、それを読むだけ。それに合わせて自分のことばを動かしてみるだけ。そして、そのとき整っていく「息」のようなものをいいなあと感じ、それで満足。
「意味」はあとから適当に考える。「意味」が思いつかなくても気にしない。むりやり作り上げたりはしない。見つからなかった、と書いておくだけだ。
脱線したが。
「秋刀魚」という詩は、池井が働いている書店を舞台にしている。どうも近くに大きな書店ができるので、さてこれからどうしようというようなことを経営者が話している。それを耳にはさむ。
なにやらおかねのはなしをはじめ
ひそひそぼくのはなしをはじめ
からだぜんぶがみみになり
つむりたくてもつむれずに
ぼくはみもよもなくなって
のどのおくからにがいつば
いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった
のに
あ、この感覚。
あるでしょ? 会社や何かで。一生懸命働いた、一生懸命がんばった、それなのに誰かがひそひそと自分のことを言っている、そのときの「……のに」と思わず動くことば。
なんだろうね、この「のに」。
学校なんかでは教えてくれない。だれものが言うのに、「いっしょけんめいはたらいた/のに」「こんなにこんなにがんばった/のに」。「のに」で言いたいのは、なぜ、自分は報われないのだろう、かな? でも、そこまでは口に出しては言えない。ほかの人だって一生懸命働いて、がんばっているのがわかるからね。言いたいけれど、言えないことばがある。その言えないは、ただ口に出せないだけではなく、ほんとうは、まだことばになりきれていないからだね。「なぜ報われないのだろう」だけではない、もっと違うことばも動いていて、それが単純に「なぜ報われないのだろう」という怒りにつながらない。悲しみや無念ともつながって、肉体の奥に沈んで行く。
ことばのかわりに「のどのおくからにがいつば」があふれてくる。
こんなふうに、がまんして、暮らしを整える--そういうことがある。
池井は、そういう「どこにでもある暮らし」をどこにでもある、その姿そのままに、ことばのなかに整えている。
こんなことばだから、労働者は搾取されるんだ--なんていう批判は、まあ、何と言えばいいのか「意味」がありすぎて、うんざりするね。「意味」にしばられて動きたくないなあ。「意味」って、どんなに動いてみても、それを動かしている人にとって便利なものであって、その「意味」についていく人にとっては、そんなに好都合なものじゃない。他人の考えた「意味」にあわせて動くなんて、めんどうくさい。自分に嘘をついている。労働者の権利のためにデモするなんて、なんだかめんどう。もっと違うことをしたい。
で、池井は、どうするのか。
にげだすようにかえってくれば
さんまのけむりがたちこめて
ぱあとですっかりひやけした
あなたがにっこりたっていて
「いっしょけんめいはたらいた/こんなにこんなにがんばった/のに」の「のに」を共有する妻がいる。にっこりと池井の「のに」を見守っている。見守られながら、池井は妻の笑顔のなかに、やっぱり「のに」が隠れてるのに気づく。
あ、そんなことまで書いていない?
書いていなくたってかまわない。私が、私の勝手で、そういうことばを付け加えて池井の詩を読むのである。そして、いいなあ、と感じる。「いいなあ」を強く感じるために、ことばを動かす。そういうことが、私は好き。
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