詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の十篇(8 父の死)

2014-06-17 10:53:56 | 詩集
谷川俊太郎の十篇(8 父の死)
                           
父の死

私の父は九十四歳四ヶ月で死んだ。
死ぬ前日に床屋へ行った。
その夜半寝床で腹の中のものをすっかり出した。
明け方付き添いの人に呼ばれて行ってみると、入歯をはずした口を開け能面の翁そっくりの顔になってもう死んでいた。顔は冷たかったが手足はまだ暖かかった。
鼻からも口からも尻の穴からも何も出ず、拭く必要もないきれいな体だった。
自宅で死ぬのは変死扱いになるからというので救急車を呼んだ。
運ぶ途中も病院に着いてからも酸素吸入と心臓マッサージをやっていた。馬鹿々々しくなってこちらからそう言ってやめて貰った。
遺体を病院から家へ連れ帰った。
私の息子と私の同棲している女の息子がいっしょに部屋を片付けていてくれた。
観察病院から三人来た。死体検案書の死亡時刻は実際より数時間後の時刻になった。
人が集まってきた。
次々に弔電が来た。
続々花籠が来た。
別居している私の妻が来た。私は二階で女と喧嘩した。
だんだん忙しくなって何がなんだか分からなくなってきた。
夜になって子どもみたいにおうおう泣きながら男が玄関から飛びこんで来た。
「先生死んじゃったァ、先生死んじゃったよォ」と男は叫んだ。
諏訪から来たその男とは「まだ電車あるかな、もうないかな、
ぼくもう帰る」と泣きながら帰っていった。
天皇皇后から祭●料というのが来た。袋に金参万円というゴム印が押してあった。
天皇からは勲一等瑞宝章というものが来た。勲章が三個入っていて略称は小さな干からびたレモンの輪切りみたいだった。
父はよくレモンの輪切りでかさかさになった脚をこすっていた。
総理大臣からは従三位というのが来た。これには何もついてなかったが、勲章と勲記位記を飾る額縁を売るダイレクトメールがたくさん来た。
父は美男子だったから勲章がよく似合うと思った。
葬儀屋さんがあらゆる葬式のうちで最高なのは食葬ですと言った。
父はやせていたからスープにするしかないと思った。
   (注 ●は「次」という漢字の下に「米」を組み合わせた文字。祭●=さいし)



眠りのうちに死は
その静かなすばやい手で
生のあらゆる細部を払いのけたが
祭壇に供えられた花々が萎れるまでの
わずかな時を語り明かす私たちに
馬鹿話の種はつきない

死は未知のもので
未知のものには細部がない
ということろが詩に似ている
死も詩も生を要約しがちだが
生き残った者どもは要約よりも
ますます謎めく細部を喜ぶ



喪主挨拶
                 一九八九年十月十六日北鎌倉東慶寺
 祭壇に飾ってあります父・徹三と母・多喜子の写真は、五年前母が亡くなっ
て以来ずっと父が身近においていたものです。写真だけでなくお骨も父は手元
から離しませんでした。それが父の母への愛情のなせる業だったのか、それと
も単に不精だったにすぎないのか、息子である私にもはっきりしませんけれど
も、本日は異例ではありますが、和尚さんのお許しをえて、父母ふたりのお骨
をおかせていただきました。母の葬式は父の考えで、ごく内々にすませました
ので、生前の母をご存知だった方々には、本日父とともに母ともお別れをして
いただけたと思っております。
 息子の目から見ると、父は一生自分本位を貫いた人間で、それ故の孤独もあ
ったかもしれませんが、好運にかつ幸福に天寿を全うしたと言っていいかと存
じます。本日はお忙しい中、父をお見送り下さいまして、ありがとうございま
した。



 杉並の建て直す前の昔の家の風呂場で金属の錆びた灰皿を洗っていると、黒
い着物に羽織を着た六十代ころの父が入ってきて、洗濯籠を煉瓦で作った、前
と同じ形で大変具合がいいと言った。手を洗って風呂場のずうっと向こうの隅
の手ぬぐいかけにかかっている手ぬぐいで手を拭いているので、あの手ぬぐい
かけはもっと洗面台の近くに移さねばと思う。父に何か異常はないかときくと
大丈夫だと言う。そのときの気持はついヒト月前の父への気持と同じだった。
場面が急にロングになって元の伯母の家から庭を見たところになった瞬間、父
はもう死んでいるのだと気づいて夢の中で胸がいっぱいになって泣いた。目が
さめてもほんとうに泣いたのかどうか分からなかった。



 「父の死」を読んだとき、真っ先に思い浮かんだのは森鴎外の文章である。谷川は森鴎外になった、と思った。
 作品は四つの部分から成り立っているのだが、その最初の部分が、特に鴎外を感じさせた。鴎外というより、鴎外の散文精神を、と言いなおした方がいいかもしれない。
 散文精神は、事実を積み重ねて書いていく。そのとき、結果を想定しない。事実を一つずつ書き、それについて思うことがあるなら、それを書く。書きながら、精神(思考)を整えていくのだが、求める結論のために事実を都合よく整理したりはしない。精神(自分の思い)よりも事実を尊重する。精神がどこへたどりついてもかまわないという気持ちで、ただ事実を積み重ねていく。
 この「どこへたどりついてもかまわない」というのは、鴎外の大傑作「渋江抽斎」の基本である。評伝なのに主人公の渋江抽斎は途中で死んでしまう。それでも評伝はつづいていくのは、「結論」が想定されていないからである。渋江抽斎のなかでは、周囲の人を描いていると、その人の中に渋江抽斎が次々にあらわれ、いきいきと動き、ますます「結論」がどこへいくのか分からないという魅力がある。
 「父の死」も、

私の父は九十四歳四ヶ月で死んだ。

 と書きはじめられたあと、いったいどこへ進んでいくのか分からない。「死ぬ前日に床屋へ行った。」と突然時間が逆戻りするし、「運ぶ途中も病院に着いてからも酸素吸入と心臓マッサージをやっていた。馬鹿々々しくなってこちらからそう言ってやめて貰った。」というようなことも起きる。
 この「どこへたどりついてもかまわない」は、『女に』に結びつけて書けば、何が起きても、そのつど「リセット」すればいい、という感覚である。というか、「リセット」するしかない、ということかもしれない。「父の死」というのは一回しか起きないできごとである。すべてが新しい。すべてを受け入れるしかない。
 そのなかで、私が特におもしろいと感じたのは、次の部分。

夜になって子どもみたいにおうおう泣きながら男が玄関から飛びこんで来た。
「先生死んじゃったァ、先生死んじゃったよォ」と男は叫んだ。
諏訪から来たその男とは「まだ電車あるかな、もうないかな、
ぼくもう帰る」と泣きながら帰っていった。

 この男については、説明は、ほかにない。男の名前がわからない。男がが谷川徹三とどういう関係だったのか、わからない。谷川が知っている人か、知らない人かもわからない。まったくの他人だ。男についてわかることは、「先生死んじゃったよォ」と泣いたこと。弔問に来たのに「まだ電車あるかな、もうないかな、ぼくもう帰る」と電車のことを気にしていたことだけである。
 いや、そうじゃない。実際に男がどう感じていたかわからないけれど、あ、男は谷川徹三をとても尊敬していたのだ、ということがわかる。谷川徹三には、こういう無邪気な「信頼」を引き寄せる力があったのだと、わかる。私の書いた「わかる」は、間違っているかもしれない。もしかしたら、膨大な金を貸していたのに返してもらう当てがなくなって泣き叫んでいるのかもしれないけれど、私はそんなふうには考えずに、こんなに無邪気に自分のことだけを言って泣いているなんて、よほど谷川徹三が好きだったんだと思ってしまう。えっ、こんなときに、こんな無邪気に泣き叫んで、自分のことしか考えられない大人がいるんだとわかって、感激する。「わかった」と書きながら、実は、そこに泣きじゃくる男がいる、男は泣いているのに帰りの電車を気にしているということ以外はわからないのだけれど。そこで起きている「こと」、そこでだれかがした「こと」しかわからないのだけれど。
 これが、散文。
 これが、叙事。
 散文とは、事(こと)を叙述すること。「情(気持ち)」を書いたりはしない。「気持ち」を書くかわりに、行動を書く。「悲しい」と書くかわりに「泣いた」と書く。「泣いた」はわかっても、「悲しい」かどうかは、わからない。「泣いた」から悲しいと私がかってに思うだけである。
 だから--と私は飛躍して書いてしまうが、この詩を何度読んでも、私は谷川俊太郎の悲しみをわかったとは思わない。感情がわかった、その悲しみに共感したとは、私には書けない。谷川の悲しみを理解し、同情し、「お悔やみを申し上げます」というより先に、わっ、おもしろい。こんなことが起きるんだ。谷川徹三が死んだとき、谷川はこんなことを体験したんだ、とわかる。どれもこれも、私の父が死んだとき、私が体験したこととはまったく違う。
 同居している女と二階で喧嘩した、とか天皇からきた「祭●料」の袋にゴム印が押してあったのを見た、ということがわかる。そこに、そういうものを見ている男がいるということが鮮明にわかる。谷川もきっと三万円のゴム印が印象に残ったのだろう。だから、それを書かずにいられないんだろうと、と「わかる」。いや、そう勝手に想像する。
 この私の想像、私が感じることが、谷川の感じたままであるかどうかはわからない。わからないけれど、それは私には気にならない。谷川がどう感じるかではなく、私がどう感じるか、なのだ。
 そして何度も書いてしまうが、私は、谷川の気持ちを無視して、そこで起きている「こと」をおもしろいと思ってしまう。人が死んで、そのことを悲しんでいるのにおもしろいという感想をもつのは不謹慎かもしれないけれど、おもしろい。興味をそそられる。もっと読みたい、と思ってしまう。
 ギリシャ悲劇を見ている感じだ。オイディプスが嘆き悲しむ。その嘆き、悲しみの深さがわかるわけではないが、オイディプスが体験した「こと」がわかる。そして、そこに嘆き悲しんでいる男がいるという「事実」がわかる。それから先は、私がオイディプスになって感じることであって、オイディプスが感じているこことは違うかもしれない。しかし違ったとしても、私たちは、自分の感情が動けば、自分の感情の方をほんものと思って、嘆き、悲しむ。自分が涙を流して、はじめて「悲しい」という気持ちにひたる。役者が舞台で流している涙は演技かもしれないが、それを見て流す観客の涙はほんものなのだ。「叙事」に触れて動く読者のこころはほんものなのだ。
 書いた人(演じる人)の「こころ」の「ほんもの」よりも、読者(観客)は、自分の「こころ」をほんものだ信じる。「こころ」はあくまで個人的なものであって、共有できない。「こと」とは違う。
 そこに何が起きているか、だれが動いているか、それがわかればそれでいい。

 あ、これでは説明しきれていないかもしれない。言いなおそう。
 「父の死」の最初の部分は「叙事詩」である。そこでは「事実」が書かれている。「事実」とは「他人」(自分の感情/精神では支配できない)もののことである。

自宅で死ぬのは変死扱いになるからというので救急車を呼んだ。
運ぶ途中も病院に着いてからも酸素吸入と心臓マッサージをやっていた。馬鹿々々しくなってこちらからそう言ってやめて貰った。

 自宅での死亡を「変死」と扱うのは「他人」である。死んでいるのに酸素吸入や心臓マッサージをするのも「他人」である。「他人」は谷川の論理(感情を含む)とは無関係に動いている。違う基準で動いている。その行動は谷川から見ると「馬鹿々々しい」かもしれないが、そうするのが彼等の基準なのである。
 「別居している私の妻が来た。私は二階で女と喧嘩した。」というのも、「他人」の発見である。別居している妻が来たのは、谷川徹三が「義父」だから、来るしかない。それに対して女が「なぜ、別居している(別れている)のにあの女が……」「だって、義父だよ」というような喧嘩をしなければならないのも、二人の女が「他人」だからである。(こんなことは谷川は書いていないが、私は勝手に想像したのである。)他人は谷川の思いなど気にしない。自分の思いを気にして行動している。だからというわけでもないが、私も谷川の思いなど気にしないで、勝手に感想を持ってしまう。
 他人の思いは、説明を聞いたってわからないことがある。説明がなければ、なおのことわからない。ただ、そこにそう反応する女がいる。そこに、こんな行動をする救急隊員がいる、医師がいる、ということしかわからない。
 別な言い方をしてみる。この死には複数の人が出てくる。しかし、そのだれかが谷川の思いを代弁するわけではない。谷川の悲しみを説明してくれるわけでもない。むしろ谷川の悲しみを否定するかのように勝手なことをしてくる。無意味な心臓マッサージがその最たるものだ。
 また登場人物に谷川が自分の感情を託しているわけでもない。他人は谷川の感情を受け入れてはくれない。女は谷川とけんかをする。けんかしているときではないのだが。この詩のなかの登場人物の感情と谷川の感情はまったくといっていいくらいにまじわらない。ただ「こと」だけが谷川のまわりで繰り広げられる。
 その「こと」のなかには、天皇から「祭●料」がくるとか、その金額が三万円とか、金額はゴム印で押してあるとかということや、勲章がくる、勲章を狙った額縁屋のダイレクトメールがくるといった庶民には関係ないような「事実」もある。その「事実」があらわれるたびに、私は、へーっ、そうなんだ、と妙に感心する。なんておもしろいんだと思ってしまう。
 一方、勲章を見ながらレモンを連想し、そこから父親がレモンで脚をこすっていたというようなことを谷川が思い出すを発見し、そうか、そんなふうに具体的に思い出すくらい谷川は父とは密接な感じがあったんだなあと思う。そのときの谷川の悲しみの深さはわからないが、思い出すということは感情が動いていることであり、その動きにつられてしんみりしたりするのだけれど、でも、それよりもレモンで脚をこすっていたのか、という「事実」の方がおもしろいなあ、とこころが動く。私もやってみようかな、と思ったりする。

 で、おかしいばっかりなのだけれど、そのおかしさを全部読み終わると、何か、こころが落ち着いている。そうか、そうなんだ。これを全部受け入れるということが、ひとりの死を受け止めることなんだ、とわかる。
 谷川は、散文を書き、その散文を「叙事詩」にまで昇華させている。それが「父の死」の最初の部分である。--そう、わかる。

 このあと、詩は、行わけの、詩らしいことば、喪主あいさつとつづき、最後に、「その後」が書かれている。父が死んで、葬儀もすんで、ちょっと落ち着いたときの谷川の様子が書かれている。
 その最後が私は、とても好きだ。

                                  父
はもう死んでいるのだと気づいて夢の中で胸がいっぱいになって泣いた。目が
さめてもほんとうに泣いたのかどうか分からなかった。

 「夢の中で泣いた」。それは「夢」だったのか、それとも「ほんとう」なのか。それが「分からない」。
 これを、どう読むか。
 私は「自分のことは分からない」と読む。他人の「こと」は、わかる。だれが何をしたか、それは客観的に「叙事」することができる。けれど、自分に起きている「こと」は客観的には「叙事」できない。「わからない」。
 ここに「抒情」のはじまりがある。「叙事」と「抒情」のつなぎ目がある。
 谷川は、この詩で、その「つなぎ目」をはっきりと見ている。
 「ほんとう」の気持ちは「わからない」。わからないから、わかるようにするために、「抒情詩」は自分の気持ちをつくっていく。ことばで整理し、強調していく。
 谷川は、しかし、その「気持ち」をつくりすぎるということがない。
 特に「父の死」以後の作品には、何か「自分の気持ちをつくる」(整える)という感じがしない。ことばが谷川自身に対してさっぱりしている。谷川自身よりも、「他人」が出てくることが多くなったと思う。少女とか、若い女性とか、女が「主役」の詩が多くなったと思う。谷川は「他人」を書くようになった。「他人」の「こと」を書くようになったと思う。「他人」の「こと」なら、ほんとうが書けるからである。
 このとき谷川は「他人」に自分を代弁させたりはしない。あくまで「他人」は「他人」のまま動く。--だから、私は、それを「叙事詩」と呼びたい気持ちになる。



 少し脱線。
 私が谷川とはじめて会ったのは数年前。福岡で催しがあって、私はそれを見にいった。催しのあと、谷川と少し話す機会があった。そのとき私は「父の死」が日本語の詩のなかではいちばん好き、と言った。「森鴎外の散文精神を思い出した。岡井隆の『注釈するもの』は巨大なビルのようなおもしろさがあるが、「父の死」は平屋建ての美しさがある。散文と詩が融合している」というようなことも言った。そのあと、
 「この作品で、谷川さんは、がらりと変わった。そう感じた。何かあったんですか」
 「父が死んで、重圧がなくなった」
 正確ではないが、そんなふうに答えた。
 へえーっ、と声が出るくらいに私は驚いた。そうなんだ、谷川のような有名な詩人になっても、なおかつ谷川徹三というのは重圧だったんだ。
 妙に感心(?)してしまったが、何か「枠」のようなものがとれたというのはほんとうだろうと思う。
 佐野洋子との出会い、谷川徹三との別れ--このふたつによって、谷川はほんとうに激変した。『女に』と『世間知ラズ』の二冊の詩集で、私は谷川が大好きになった。

世間知ラズ
谷川 俊太郎
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳カヴァフィスを読む(87)

2014-06-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(87)          

 「ユダヤの民について(紀元五〇年)」は、「イアンテス」というギリシャ風の名前の青年を描いている。「画家。詩人。走者。円盤投擲者」であり、父親は「アントニウス」とローマ風の名前。そのイアンテスの主張が、そのまま語られる。

「私の最良の時は
感覚の美の追求をやめる時です。
優雅ではあるが厳格なヘレニズムの教えに背を向ける時です。
ヘレネスの教えは、完全な形の、だが朽ち果てる定めの白い四肢に
身を焦がす教えです。

 「時は……の時です」「教えは……の教えです」という枠構造の中でことばが動いている。硬苦しい感じのする文体だ。いつものカヴァフィスのもの(存在)を投げつけたような、歯切れのいい文体とはずいぶん違う。カヴァフィスにはユダヤの文体は、ここに書かれているように「厳密な論理」(同義反復、異質なものを排除する主義)に見えたのかもしれない。カヴァフィスは、こんな風に自分の「声」とは違う「声」もきちんと聞き取り、それを他人の「主観」として書くことのできた詩人だ。
 カヴァフィスが自分自身の主張をするなら「時は……時です」というような同じことばの反復で世界を閉じるのではなく、違ったものを持ち込むことで「定義」を解放するだろう。異質なものぶつけることで、風穴を開けるだろう。その風穴をとおして読者が何を見るかは読者にまかせるだろう。
 だが、この厳密な「論理」は、どこまで有効か。ギリシャの、アレクサンドリアのなかで「論理」を守れるか。

だが、やりおおせる場所柄じゃなかった。
アレクサンドリアの芸術と快楽主義に
どっぷり漬かって、その申し子であり続けた。

 これはカヴァフィスの「声」。アレクサンドリアにはアレクサンドリアの「論理」がある。それはユダヤの論理とは違う。アレクサンドリアに生きている限り、ユダヤの論理は守りとおすことはできない。「芸術と快楽主義」に溺れ、それを生きるしかない。それに染まってしまう。ギリシャにとっては、芸術と快楽こそが「論理」である。
 ユダヤの「論理」はギリシャの「論理」にのみこまれ、吸収される「論理」である。--ユダヤの「論理構造」にしたがって言えば、そうなるのだろう。
 カヴァフィスは、他人の「声」を引用しながらも、そしてそれを利用しながら、自己主張(ギリシャこそが絶対)という「主観」をきっぱりと語っている。
 「やりおおせる場所柄じゃなかった」の「場所柄」ということば、「柄」という「あいまいな広がり」がユダヤの厳密と向き合い、そこから反論がはじまるのもおもしろい。ユダヤの「論理」では「場所」とは言っても「場所柄」とは言わないだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする