詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永井孝史「歩きのうどん」

2014-06-07 09:04:55 | 詩(雑誌・同人誌)
永井孝史「歩きのうどん」(「詩的現代(第二次)」9、2014年06月発行)

 永井孝史「歩きのうどん」は書き出しがおもしろい。

硝子戸をガシッと開けると
店の人はどの顔も訝しげである
ひやひやの大
と一気に注文したいけど
釜の前に立つおとこの人も
ガラスケースを触るおばさんも
店の人たちが変にこわばっている
丼鉢を抱えた先客が一人いて
歩いてきたんか
と聞くから
ええと答えたそのとたん

 「そのとたん」どうなったかは、まあ、省略してもわかるだろうから書かない--のではなく、どうもおもしろくないので引用しないことにする。「意味」はわかるが、詩は「意味」ではないのだから、「意味」を前面にだしてしまっては味気ない。
 詩がうどんなら、うどんを食う気にならない。
 と、批判を先に書いてしまうと何だか、この詩がおもしろいのか、おもしろくないのか、どっちなんだと言われそうだが……。最初に書いたように、私が引用している11行はとてもおもしろい。
 ことばにリズムがある。そしてそのリズムは「肉体」の動きにぴったりかさなる。
 「硝子戸をガシッと開けると」の「ガシッ」ということばにさえ手応えがある。古くて力を入れないと開かないのだ。ガタが来ていて、スムーズに開けるにはコツがいる。なれている人ならそれができるが、初めての人には無理。だから、むりやり開ける。そうすると「ガシッ」。これだけで、その店の造りがわかるだけではなく、永井がその店にはじめてやってきたこともわかる。「ガラス戸」ではなく「硝子戸」というのも、思わず漢字で書きたくなる古びた感じなんだろうなあ、とわかる。
 そういう店は、常連だけしか来ない。常連は来る時間が決まっている。だから、見なれない人が入ってくると「誰なんだ」という目つきでみんなが見る。無言で(「いらっしゃい」も言わないで)見つめ返す眼。無言だけれど「誰だ、お前は」と問いかけているのがわかる。それも詰問するというよりは、逆に、警戒し、怯えている感じ。
 で、「ひやひやの大」(冷しうどんの大?)と注文したいけれど、声が出て来ない。店の緊張に永井が感応してしまっている。
 店の人の視線からはじまった緊張(視覚の緊張--影像が一瞬、写真のように固定した感じ)が、先客の丼鉢、それを抱えた姿と動いていって、その姿のなかから、

歩いてきたんか

 と声が動く。視覚をおしのけるようにしてあらわれる。声。聴覚が動き、永井自身も動きはじめる。「ひやひやの大」ではなく「ええ」と弱々しい返事。でも、なんとか声が出た。
 ここから状況がかわる。
 この「かわる」が「意味」なんだけれど、これをどう書くかはとてもむずかしい。書かなくても「かわる」ことがわかっているので、それを「書いて」、それを「リアル」なものに感じさせるには、「わかる」以上のことを書かないといけない。
 「硝子戸をガシッと開ける」の「ガシッ」と同じように、そう書かれた瞬間に、「肉体」が覚えている過去がぱっと思い出され、「いま」となって炸裂するようなことをことばにしないといけない。
 ここで、永井は失敗している。

店の緊張が
***と解けた

 「***」は私が伏せた。永井はちゃんと書いているのだが、これが実につまらない。(どんなにつまらないかは、作品で確かめてください。)この2行から以降、詩が詩ではなくなる。説明になる。肉体が消えてしまう。
 途中、

旨そうで昼前でそれは正しいうどんであって

 という魅力的な1行(「正しいうどん」か! と私は唸ってしまったが……)、あとがほんとうにつまらない。
 「好みにあわない」うどんだったようだが、うどんを「食べている」肉体が見えて来ない。うどんの「うんちく(教養?)」が延々とつづく。それは「頭」で整理したうどんの分布であって、そんなものを私は食べたくないなあ。
 せっかく「歩いて」、つまり腹がへるような具合に肉体を動かして行ったのだから、「まずい(好みに合わない)」は「まずい」で、肉体にことばをくぐらせて書かないと「味」が出て来ない。

店の緊張が
***と解けた

 という、へんな「解説」(説明)がこの詩をまずくしている。そこから味がどんどん変質していっている。
 悪口を書くとどんどん気持ちが悪くなり、もっともっと書かないとおさまらないという悪循環に陥ってしまうので、これでやめておこう。

ムー大陸にアメがふる―永井孝史詩集
永井 孝史
ワニ・プロダクション
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(77)

2014-06-07 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(77)          

 「ネロの生命線」は短編小説のような趣がある。

デルポイの予言を聞いて、
ネロは全く心配しなくなった。
予言は言っていた。「七十三歳の年に気をつけよ」
楽しむ時間はたっぷりある。
今を盛りの三十歳。
神の引きたもうた生命線は
これからの危険の安全保障じゃ。

 ところが、この「七十三歳の年」というのはネロ自身の年ではなかった。七十三歳の男に気をつけろ、という意味だった。それを理解できずに、いまは三十歳だから七十三歳までは安心して生きていける。気をつけなくても平気だ、と受け止めてしまった。
 そうしたときの、ネロの口調がおもしろい。

さて、すこし疲れた。ローマに帰ることにすっか。
だが、楽しい旅の疲れだなあ。
まったく快楽のための旅だからの。

 「すっか」「……の」という口語そのままの音。この、俗人(?)丸出しの口調。ネロがほんとうにそういう口調だったかどうか、あるいはカヴァフィスがそういう口調をことばにしているかどうかわからないが、中井久夫の訳にかかると、英雄ではなく、気楽な俗人の雰囲気がぱっと広がる。運命に対して、まったく心配していない感じ、だらけた感じが実感としてつたわってくる。
 この砕けた文体に、最後の三行が厳しく対峙する。

スペインではガルバ。
ひそかに軍を選抜・練兵。
ガルバ。当時七十三歳。

 その結果何が起きたのか、この詩は書いていない。史実、周知のことだから書かないともいえるが、文体の違いで何が起きたかを暗示できるから書かない。
 カヴァフィスはもともと省略の多い詩人だが、ことばを省略するかわりに、口調(音の響き)で何かを知らせる詩人なのだろう。耳のいい詩人だ。その耳のよさを中井はしっかりと受け止め、口語に翻訳している。ことばの「意味」ではなく、そのことばが発せられたときの口調(肉体の様子)で、意味を予感させている。
 こんなだらけた口調の男なら、不意をつかれて死んでしまうのもむりはない--そう感じさせる。
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