詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『嵯峨信之全詩集』を読む

2015-02-02 10:38:19 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
 嵯峨信之を私はほとんど読んでいない。思潮社から出版された『嵯峨信之全詩集』(2012年04月18日発行)を少しずつ読んでみる。

 『愛と詩の数え唄』(1957年)。「ノアの方舟」「愛の唄」「日向抒情歌」「野火」「ヒロシマ神話」「人間の仔」と章に分かれている。
 巻頭の「孤独者」

よく熟れた広い麦ばたけを
あらしがきて根こそぎ薙ぎ倒していつた
一瞬 ばらばらになつた金いろの麦よ
ある種のこの解放 そして私的な死
すでにおだやかな夕凪がひとびとを充たしはじめたときに
このレパートリイからただ一人立ち去つていく者に路を開けよ

 前半は嵐が麦畑を襲った様子が書かれている。自然描写。それは「わかる」。その風景を想像できる。
 「ある種の……」からは自然描写ではなく、詩人(嵯峨)が考えたことだ。
 麦畑が嵐で倒された。それは栽培している人にとってはうれしいことではない。この詩のなかに書かれていることばを借りれば「死」になるかもしれない。けれど、嵯峨は、その状態を「解放」と書いている。
 なんなのだろう、「解放」とは。
 麦を作る。植える。育てる。収穫する。そういう一連の農作業がある。それが突然の嵐で台無しになる。何かが破壊されたとき、それを作り上げていた「規則」のようなものが崩れてしまう。しばりつけるものがなくなる。しばりつけていたものが無効になる。それは、何か「解放感」をもたらす。
 それはもちろん「錯覚」である。破壊された麦、嵐で倒された麦をほうっておいていいわけではない。
 しかし、新しく仕事を始める前に、たしかに瞬間的な「解放」がある。しばりつけていた何かが途切れる瞬間がある。この断絶の一瞬は「私的な死」。嵯峨が一瞬感じただけの「錯覚」である。
 この、自分のしてきたこと(麦を育ててきたこと)が瞬間的に破壊され、その瞬間に「解放された」と感じるのは、その後の仕事を思うと間違っている。矛盾した喜びである。「解放」を「死」と呼んでしまうのは、そういう矛盾もあるからなのだが、だからこそそこに詩がある、ことばになろうとして、ことばになられない何かがある。「流通言語」になれない、錯乱(混沌)がある。
 それにつづく二行はむずかしい。
 嵐がさって、静かな夕暮れがやってくる。「夕凪」というのは麦畑が風に荒らされて大波のように揺れていたのがおさまった状態。ひとびとは、やっと嵐がおさまった。さあ、これから仕事だと感じている。そうして実際に仕事をはじめたかもしれない。
 詩人は、その様子を見ながら、そこから去っていく。麦を収穫するという仕事から一人去っていく。去っていく(去っていける)のは、嵯峨が実際は農作業をしていないからだ。
 だから、この詩は、農作業をしているひとの「声」を書いたものではない。嵐で倒される麦畑を見た詩人の「声」である。「解放」も「死」も、詩人がその風景と、麦をつくる仕事のことを考えながら感じたことがらである。
 自分のことを書かなくても詩なのか。
 詩である。
 いままで見たことのないものを見て、ことばが動く。麦をつくっていなくても、それをつくる仕事のなかをことばが動き、嵐に遭ったときのことばが動く。その動きを、まだだれも書いていないことばで書けば、そこに詩が生まれる。
 詩は、わかっていることを書くのではない。わからない何かを書く。わからないからこそ書く。書くことで動いていく。
 詩はいつでも、自分の行く路を行く。それまでのことばに対して、「路を開けよ」といいながら、いままでいた「場/時」を去っていくもののことかもしれない。
 そんなふうに去っていくものはいつも「一人」である。孤独である。まだ書かれていないことばのなかを歩くのだから--という思いがタイトルにこめられている。

 この詩は「麦ばたけ」「金いろ」という、一種、かわった「表記」をつかっている。「麦畑」「金色」と嵯峨は書かない。「嵐」も「あらし」と書いている。「意味」よりも、表記にこだわっている。ことばを、ゆっくりと歩かせようとしているように見える。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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北爪満喜『奇妙な祝福』

2015-02-02 09:38:48 | 詩集
北爪満喜『奇妙な祝福』(思潮社、2014年09月30日発行)

 家、あるいは家族の記憶(記録)。もう誰も住んでいない。「掃除」は、その家に久し振りにやってきて、掃除をする詩である。

誰も住まない家

雑巾を絞る

めったに開けないトイレの小窓の
薄いカーテンに触れると
幻のように布が崩れて 粉になって舞い散った

布なのに崩れて舞い散った
触れたら 粉になるなんて そんな

ここで育った時間までも崩れて粉になるようで
眼を見開いたまま動けない

それでも 家事のしみた手が
私を置き去りにしたままで
雑巾を開き四つにたたみ
床の粉を拭き取った

 前半部分。「雑巾を開き四つにたたみ/床の粉を拭き取った」が美しい。2連目の「雑巾を絞る」と対応している。絞った雑巾は丸まっている。それを開いて「四つにたたむ」。ここには書いていないが「四つにたたむ」と何度もたたみ直して雑巾がけをできるからである。「家事のしみた手が」そういうことをおぼえていて、自然とそうしてしまう。
 「肉体」がおぼえていることは、いつでも合理的で美しい。ととのえられた力がある。そのととのえられた力が、ことばにそのまま反映してきている。
 この「肉体」がおぼえていることと、「頭」がおぼえていること(「頭」で理解していること)の交錯がこの詩を動かしている。
 布が崩れて粉になるということを知った北爪は二階で紙の束を見つける。その古い束を見つけて、母は「持ち上げたら崩れてしまいそう」と言っていた。

ぜったいに紙は崩れない
そんなことない
と子どものように
胸の中で言い張って

ここに残ると思えなかった
女子高生の私に出会った

 カーテンが崩れて粉になるのを見て、二階の紙も崩れると想像する。そうして、紙が崩れるはずはないと思った日を思い出す。女子高生だった日を思い出す。
 脈絡はとれている。きちんと書かれている。でも、なぜか、雑巾を四つにたたんだという描写ほどには、迫ってこない。
 むしろ、雑巾を四つにたたんで拭くということを、いつ、どんな具合に母から教わったのか、そういうことを読みたいと感じた。雑巾は何で作ったのか、雑巾はどれくらい汚れるまでつかったのか--そういう「暮らしのなかの、他人と共有した時間」を描いた方が「家」というものが見えてくるのでは、と思った。

奇妙な祝福
北爪 満喜
思潮社
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十二時を過ぎたバーは

2015-02-02 00:06:16 | 
十二時を過ぎたバーは

十二時を過ぎたバーはがらんとしていた。
テーブルのまわりに椅子の座面が見えた。空気が固くなっている。
値打ちのない椅子の影と、影になれなかった黄色い光が
床の上に交差して落ちていた。
壁に埋め込まれた明かりがつくり出した影と光が。

ことばは、客が帰るのを待っているバータンダーになって、
好きな小石を探して歩いた遠い川原を思い出す。
水に磨かれたのか、他の石に削られたのか、丸い石。そんなものにも
「磨く」とか「削る」とかということばとなって動く大切なものがある。

あるひとつの石に自分をあずけ握りしめた遠い夏。
いつのまにこころが通わなくなったのか、なくしてしまった。
あの川原のがらんとした夕暮れにも
草の作るまっすぐな影と夕日の黄色い色が広がっていた。


*

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