小川三郎「下着」(「モーアシビ」302015年02月10日発行)
小川三郎「下着」は奇妙に印象に残る。この詩について、私は何が言えるか。よくわからない。わからないときは、書き写しながら考える。
「下着」を鴨居に干すひとはいないだろう。たとえ干したにしろ「ぶら下げる」(ぶら下がる)とは言わないだろう。鴨居に「ぶら下がる」のはたいていが人間である。
私は「名詞」よりも「動詞」でものごとを考えるので「下着」よりも「ぶら下がる」が気になって、あ、首吊り自殺を見てしまったのかと一瞬想像する。
もし真夜中に首吊り遺体をみつけたら、衝撃を受ける。そのため動けずに、茫然と見つめている(2連目)。それが自殺であるとわかり、怖くてふるえている(3連目)。--と読むと、なんとなくストーリーになる。「意味」になる。
でも、そうすると、
これはどういう「意味」になるだろう。
わからない。
「時間」が「行ったり来たり」しない。時間はすぎていくものだ。時間ではなく、だれかが行ったり来たりしているのか。たとえば、家族が、救急隊員が、あるいは警官が。「時間」は人間の比喩、というより言い換えかもしれない。
あるいは、過去のあれこれのできごとを時系列にとらわれずに思い出すことを「時間が行ったり来たりする」と言っているのかもしれないが。
でも、そうだとして、
これは何だろう。
時間は一般的に過ぎ去っていくものと考えられている。時間が行ったり来たりするなら、下着は乾いたり濡れたりするだろう。
ごくふつうの感覚、時間の経過とともに濡れた下着は乾くと書いているのなら、なぜ、そんなことを書く必要があるのだろう。書かなくても、下着は乾く。なぜ、書くのか。
まった、わからない。わからないから、衝撃である。
「下着」を「人間」と言いかえ、「鴨居にぶら下がっている」ものを「首吊り遺体」と言いかえるとき「意味」になるので、安心する。衝撃的かもしれないが、そこに起きていることが、納得できる。
「濡れた下着」が「時間」がたてば乾くのは、衝撃的ではない。当たり前の「こと」である。けれど、それをこんなときに言うというのが衝撃的である。もしだれかが首吊り自殺をしたとしたのなら、そんなとき「下着が乾いていく」というようなことを観察していていいのだろうか。言っていいのだろうか。
首吊り自殺すると、失禁すると、聞いたことがある。失禁すれば、下着が濡れる。しかし時間が経てば、下着も乾く。
ここには「無意味」な「客観」がある。「無意味」な「事実」がある。
ここに、おどろく。ここに、衝撃を受け、私は何か書きたいと思ったのだ。
「私(小川)」が「下着は/少しずつ乾いていった。」と書かなくても、下着は乾く。下着だけではなく、濡れていたものは、ぶら下げておけば(干しておけば)、乾く。それは「自殺する」というような「心情」とは無縁のこと、「非情」の「事実」である。この「非情」が首吊り自殺を目撃したときの「心情」を吹き飛ばす。「心情」のなかの「悲しみ」のように「湿っぽい/濡れた」動きを吹き払う。
そして、「非情」が「心情/感情」を吹き払う、「客観」が「主観」を吹き払っても、何か「心情」のかけらのようなものが残ってしまう。「部屋の外を/夜がすっぽりと包む」。時間は「夜」のままである。というのは「客観(当たり前のこと)」なのだが、それを「当たり前」とは受け止めることができない--そういう「心情」が残るのか。
6連目は「私は首吊り自殺をすることがこわい。こわくて、できない」と言っているのかもしれない。とてもよくわかるが、こういう「心情」は詩とは関係がないかもしれない。あるかもしれないが、私は、そこには詩を感じない。
最終連で、小川はもう一度「乾いていく」下着を書いている。
「少しずつ」を繰り返している。4連目をそのまま繰り返すのではなく「少しずつ」を繰り返している。繰り返すことで「少しずつ」を見つめなおしている。
「乾いていく」は目ではなかなか実感できない。触って「あ、乾いたな」と感じる。小川は、まさか遺体の下着に触ってそれを感じたわけではないだろうから、これは、いわば「頭」のなかのできごとなのだが、「肉体」で確かめたことを整理した「頭」である。「肉体」が反映されている。「頭」が「肉体」になっている。「肉体」が「少しずつ少しずつ乾く」という「こと」を実感し、そこに「時間」が動いていることも実感している。「客観」が「肉体」となって、ことばを動かしている。
濡れた下着が乾いていく。しかも少しずつ少しずつ乾いていくというのは「頭」の「想像」だが、そこには「肉体がおぼえていること」が反映している。「肉体」が動いて「想像」が「客観」となって動く。この「客観」を「客観」として受け止めるひとのなかには、それを「頭」で受け止めるひとがいるかもしれないが、小川は「肉体」で動かしている。そこにことばの「強さ」、言いかえると詩がある。
あらゆる「客観」は「非情」である。「客観」の「非情」が、「主観(感情)」を緊迫させている。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
小川三郎「下着」は奇妙に印象に残る。この詩について、私は何が言えるか。よくわからない。わからないときは、書き写しながら考える。
濡れた下着が
鴨居の下にぶら下がっている。
私はそれを
一晩中見つめていた。
私は真夜中
ほんとうのことが怖くて
ふるえている。
真夜中の時間が
行ったり来たりするなかで
下着は
少しずつ乾いていった。
部屋の外を
夜がすっぽりと包んでいた。
それは当たり前のことなのだと
いくら自分に言い聞かせても
駄目だった。
私は下着ではない。
私は下着にはなれない。
私は下着になるのがこわい。
下着は
少しずつ少しずつ乾きながら
鴨居の下にぶら下がっていた。
「下着」を鴨居に干すひとはいないだろう。たとえ干したにしろ「ぶら下げる」(ぶら下がる)とは言わないだろう。鴨居に「ぶら下がる」のはたいていが人間である。
私は「名詞」よりも「動詞」でものごとを考えるので「下着」よりも「ぶら下がる」が気になって、あ、首吊り自殺を見てしまったのかと一瞬想像する。
もし真夜中に首吊り遺体をみつけたら、衝撃を受ける。そのため動けずに、茫然と見つめている(2連目)。それが自殺であるとわかり、怖くてふるえている(3連目)。--と読むと、なんとなくストーリーになる。「意味」になる。
でも、そうすると、
真夜中なの時間が
行ったり来たりするなかで
下着は
少しずつ乾いていった。
これはどういう「意味」になるだろう。
わからない。
「時間」が「行ったり来たり」しない。時間はすぎていくものだ。時間ではなく、だれかが行ったり来たりしているのか。たとえば、家族が、救急隊員が、あるいは警官が。「時間」は人間の比喩、というより言い換えかもしれない。
あるいは、過去のあれこれのできごとを時系列にとらわれずに思い出すことを「時間が行ったり来たりする」と言っているのかもしれないが。
でも、そうだとして、
下着は
少しずつ乾いていった。
これは何だろう。
時間は一般的に過ぎ去っていくものと考えられている。時間が行ったり来たりするなら、下着は乾いたり濡れたりするだろう。
ごくふつうの感覚、時間の経過とともに濡れた下着は乾くと書いているのなら、なぜ、そんなことを書く必要があるのだろう。書かなくても、下着は乾く。なぜ、書くのか。
まった、わからない。わからないから、衝撃である。
「下着」を「人間」と言いかえ、「鴨居にぶら下がっている」ものを「首吊り遺体」と言いかえるとき「意味」になるので、安心する。衝撃的かもしれないが、そこに起きていることが、納得できる。
「濡れた下着」が「時間」がたてば乾くのは、衝撃的ではない。当たり前の「こと」である。けれど、それをこんなときに言うというのが衝撃的である。もしだれかが首吊り自殺をしたとしたのなら、そんなとき「下着が乾いていく」というようなことを観察していていいのだろうか。言っていいのだろうか。
首吊り自殺すると、失禁すると、聞いたことがある。失禁すれば、下着が濡れる。しかし時間が経てば、下着も乾く。
ここには「無意味」な「客観」がある。「無意味」な「事実」がある。
ここに、おどろく。ここに、衝撃を受け、私は何か書きたいと思ったのだ。
「私(小川)」が「下着は/少しずつ乾いていった。」と書かなくても、下着は乾く。下着だけではなく、濡れていたものは、ぶら下げておけば(干しておけば)、乾く。それは「自殺する」というような「心情」とは無縁のこと、「非情」の「事実」である。この「非情」が首吊り自殺を目撃したときの「心情」を吹き飛ばす。「心情」のなかの「悲しみ」のように「湿っぽい/濡れた」動きを吹き払う。
そして、「非情」が「心情/感情」を吹き払う、「客観」が「主観」を吹き払っても、何か「心情」のかけらのようなものが残ってしまう。「部屋の外を/夜がすっぽりと包む」。時間は「夜」のままである。というのは「客観(当たり前のこと)」なのだが、それを「当たり前」とは受け止めることができない--そういう「心情」が残るのか。
6連目は「私は首吊り自殺をすることがこわい。こわくて、できない」と言っているのかもしれない。とてもよくわかるが、こういう「心情」は詩とは関係がないかもしれない。あるかもしれないが、私は、そこには詩を感じない。
最終連で、小川はもう一度「乾いていく」下着を書いている。
少しずつ少しずつ乾きながら
鴨居の下にぶら下がっていた。
「少しずつ」を繰り返している。4連目をそのまま繰り返すのではなく「少しずつ」を繰り返している。繰り返すことで「少しずつ」を見つめなおしている。
「乾いていく」は目ではなかなか実感できない。触って「あ、乾いたな」と感じる。小川は、まさか遺体の下着に触ってそれを感じたわけではないだろうから、これは、いわば「頭」のなかのできごとなのだが、「肉体」で確かめたことを整理した「頭」である。「肉体」が反映されている。「頭」が「肉体」になっている。「肉体」が「少しずつ少しずつ乾く」という「こと」を実感し、そこに「時間」が動いていることも実感している。「客観」が「肉体」となって、ことばを動かしている。
濡れた下着が乾いていく。しかも少しずつ少しずつ乾いていくというのは「頭」の「想像」だが、そこには「肉体がおぼえていること」が反映している。「肉体」が動いて「想像」が「客観」となって動く。この「客観」を「客観」として受け止めるひとのなかには、それを「頭」で受け止めるひとがいるかもしれないが、小川は「肉体」で動かしている。そこにことばの「強さ」、言いかえると詩がある。
あらゆる「客観」は「非情」である。「客観」の「非情」が、「主観(感情)」を緊迫させている。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。