詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小川三郎「下着」

2015-02-14 11:42:08 | 詩(雑誌・同人誌)
小川三郎「下着」(「モーアシビ」302015年02月10日発行)

 小川三郎「下着」は奇妙に印象に残る。この詩について、私は何が言えるか。よくわからない。わからないときは、書き写しながら考える。

濡れた下着が
鴨居の下にぶら下がっている。

私はそれを
一晩中見つめていた。

私は真夜中
ほんとうのことが怖くて
ふるえている。

真夜中の時間が
行ったり来たりするなかで
下着は
少しずつ乾いていった。

部屋の外を
夜がすっぽりと包んでいた。
それは当たり前のことなのだと
いくら自分に言い聞かせても
駄目だった。

私は下着ではない。
私は下着にはなれない。
私は下着になるのがこわい。

下着は
少しずつ少しずつ乾きながら
鴨居の下にぶら下がっていた。

 「下着」を鴨居に干すひとはいないだろう。たとえ干したにしろ「ぶら下げる」(ぶら下がる)とは言わないだろう。鴨居に「ぶら下がる」のはたいていが人間である。
 私は「名詞」よりも「動詞」でものごとを考えるので「下着」よりも「ぶら下がる」が気になって、あ、首吊り自殺を見てしまったのかと一瞬想像する。
 もし真夜中に首吊り遺体をみつけたら、衝撃を受ける。そのため動けずに、茫然と見つめている(2連目)。それが自殺であるとわかり、怖くてふるえている(3連目)。--と読むと、なんとなくストーリーになる。「意味」になる。
 でも、そうすると、

真夜中なの時間が
行ったり来たりするなかで
下着は
少しずつ乾いていった。

 これはどういう「意味」になるだろう。
 わからない。
 「時間」が「行ったり来たり」しない。時間はすぎていくものだ。時間ではなく、だれかが行ったり来たりしているのか。たとえば、家族が、救急隊員が、あるいは警官が。「時間」は人間の比喩、というより言い換えかもしれない。
 あるいは、過去のあれこれのできごとを時系列にとらわれずに思い出すことを「時間が行ったり来たりする」と言っているのかもしれないが。
 でも、そうだとして、

下着は
少しずつ乾いていった。

 これは何だろう。
 時間は一般的に過ぎ去っていくものと考えられている。時間が行ったり来たりするなら、下着は乾いたり濡れたりするだろう。
 ごくふつうの感覚、時間の経過とともに濡れた下着は乾くと書いているのなら、なぜ、そんなことを書く必要があるのだろう。書かなくても、下着は乾く。なぜ、書くのか。
 まった、わからない。わからないから、衝撃である。
 「下着」を「人間」と言いかえ、「鴨居にぶら下がっている」ものを「首吊り遺体」と言いかえるとき「意味」になるので、安心する。衝撃的かもしれないが、そこに起きていることが、納得できる。
 「濡れた下着」が「時間」がたてば乾くのは、衝撃的ではない。当たり前の「こと」である。けれど、それをこんなときに言うというのが衝撃的である。もしだれかが首吊り自殺をしたとしたのなら、そんなとき「下着が乾いていく」というようなことを観察していていいのだろうか。言っていいのだろうか。
 首吊り自殺すると、失禁すると、聞いたことがある。失禁すれば、下着が濡れる。しかし時間が経てば、下着も乾く。
 ここには「無意味」な「客観」がある。「無意味」な「事実」がある。
 ここに、おどろく。ここに、衝撃を受け、私は何か書きたいと思ったのだ。
 「私(小川)」が「下着は/少しずつ乾いていった。」と書かなくても、下着は乾く。下着だけではなく、濡れていたものは、ぶら下げておけば(干しておけば)、乾く。それは「自殺する」というような「心情」とは無縁のこと、「非情」の「事実」である。この「非情」が首吊り自殺を目撃したときの「心情」を吹き飛ばす。「心情」のなかの「悲しみ」のように「湿っぽい/濡れた」動きを吹き払う。
 そして、「非情」が「心情/感情」を吹き払う、「客観」が「主観」を吹き払っても、何か「心情」のかけらのようなものが残ってしまう。「部屋の外を/夜がすっぽりと包む」。時間は「夜」のままである。というのは「客観(当たり前のこと)」なのだが、それを「当たり前」とは受け止めることができない--そういう「心情」が残るのか。
 6連目は「私は首吊り自殺をすることがこわい。こわくて、できない」と言っているのかもしれない。とてもよくわかるが、こういう「心情」は詩とは関係がないかもしれない。あるかもしれないが、私は、そこには詩を感じない。
 最終連で、小川はもう一度「乾いていく」下着を書いている。

少しずつ少しずつ乾きながら
鴨居の下にぶら下がっていた。

 「少しずつ」を繰り返している。4連目をそのまま繰り返すのではなく「少しずつ」を繰り返している。繰り返すことで「少しずつ」を見つめなおしている。
 「乾いていく」は目ではなかなか実感できない。触って「あ、乾いたな」と感じる。小川は、まさか遺体の下着に触ってそれを感じたわけではないだろうから、これは、いわば「頭」のなかのできごとなのだが、「肉体」で確かめたことを整理した「頭」である。「肉体」が反映されている。「頭」が「肉体」になっている。「肉体」が「少しずつ少しずつ乾く」という「こと」を実感し、そこに「時間」が動いていることも実感している。「客観」が「肉体」となって、ことばを動かしている。
 濡れた下着が乾いていく。しかも少しずつ少しずつ乾いていくというのは「頭」の「想像」だが、そこには「肉体がおぼえていること」が反映している。「肉体」が動いて「想像」が「客観」となって動く。この「客観」を「客観」として受け止めるひとのなかには、それを「頭」で受け止めるひとがいるかもしれないが、小川は「肉体」で動かしている。そこにことばの「強さ」、言いかえると詩がある。
 あらゆる「客観」は「非情」である。「客観」の「非情」が、「主観(感情)」を緊迫させている。


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嵯峨信之を読む(13)

2015-02-14 10:09:04 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
22 淡路の女

 誰と誰の会話だろうか。

ひそひそとやさしくささやいている女の声が聞こえる
淡路からきている女と話しているらしい
その意味はよくききとれないが
東京にきてからただ躓いてばかりいるという一言がわかつた

 ひとりは「淡路からきている女」、もうひとりは詩人の妻だろうか。それとも隣室の男だろうか。どうして「東京にきてからただ躓いてばかりいる」という一言がわかったのか。詩人もまた東京へきてから躓いてばかりいるのだろうか。ひとは自分の体験したことしかわからない。自分が体験したことなら、わかってしまう。違うことを言ったのかもしれないが、自分の体験にひきつけて「誤解」してしまう。
 詩人にも、だれかにひそひそと話したいことがあったのかもしれない。

何にでも合うつもりの一つの鍵が何にも合わず
やがて千の鍵をじやらじやらいわせながら目まぐるしく一生を終るのだ
それが人間のさだめというものだろう
どつちみちなにかの周りを大きくめぐるか小さくめぐるかだ
女は重い鍵の一束をあずけて淡路島へ帰つていつた

 詩人と女が直接話しているのかもしれない。直接話しているのだけれど「女の声が聞こえる」と第三者的に書いているのは、第三者ふうに書くことで、おきていることを客観化したいのかもしれない。
 「鍵」はほんものの鍵かもしれないが、比喩かもしれない。何にでも合う鍵とは「愛」かもしれない。それは「一つ」であるけれど、すべてを受け入れる。その「一つ」が「千の鍵」にかわったとき、「千」は人生の比喩になる。愛という「一つ」の鍵だけではのりきれない「人間のさだめ」。
 こういう抽象的な比喩は、しばしば「思想」(精神)と混同されるけれど、私は「意味」を考えるのは好きではない。最終行の「重い鍵の一束」は「重い」という修飾語で実感になる。わかりやすいけれど、わかりやすすぎて詩というよりも「流通感覚」で語られた「意味」に終わっている感じがする。
 そういう「意味」よりも、「淡路からきている」が、最後で「淡路島へ帰つていつた」という動きのなかに「躓く」という動詞が割り込んで詩を動かしているところが私には面白く感じられる。淡路からきて躓いていた女が、淡路へ帰っていく。「歩く/躓く」ということが、女を動かしている。「躓く」が「帰る」という動詞で比喩ではなく、「肉体」に食い込んでくる実感になっている。女の「肉体」がふっと見えるように感じられる。

23 水甕

少し明るさがもどつてくると
そのつややかな白い水甕は消えてしまう
夜なかじゆうそのなかの果しれぬ海をぼくは泳いだのだ

 「白い水甕」とは何の比喩だろう。何の比喩かわからないが、「水甕」だからどんなに大きくても限りがある。そのなかに「海」があるというのは、非現実的である。だから「海」も比喩だろう。
 --というのは、あとからの説明であって、私はこの詩を読んだ瞬間には、この詩を「非現実的」とは思わなかった。
 海が好きなせいかもしれないが、「海」「泳ぐ」と聞けば、瞬間的に海で水平線を目指して泳いでいるときの「肉体」を思い出してしまう。
 なぜ「水甕」を忘れてしまったのか。
 「水甕」は小さく限られた世界なのに、それを突き破るようにして「果しれぬ」と書かれているからだ。「小さい」ということばは書かれておらず、「果しれぬ」ということばだけが書かれている。そのために「大きさ(広さ)」が「果しれぬ」だけになる。その「果しれぬ」が「海」を誘い出す。「果しれぬ海」というのは常套句だけれど、常套句だからこそ、そういう効果があるのかもしれない。
 この「魔法」のようなことばの働きのなかに詩がある。
 この「魔法」は催眠術と同じで、きくひとにはきくが、きかないひとにはきかない。「果しれぬ」というようなあいまいなことばを受け入れないひとは「水甕」のなかに「海」があるというのは嘘だ、と拒絶するだろう。
 でも、私は、その「果しれぬ」に引きずり込まれてしまう。
 このあと、詩は、次のように展開する。

短い時がぐるぐるとぼくの腕を廻した
脚はたえず暗やみのそこにつよい力でひつぱられた
ぼくは魂のもつていたものをすつかり失つた
そしてどことも知れぬ遠い海岸に打ちあげられた
この時までぼくはかくも単純になつたことはなかつた
太陽が足のうらからはいつて脳皮から外へぬけだすまで
ぼくはなんでもないその自にぼくを委ねた

 どのことばが、どうの、とは具体的には言えないのだが、この「愛の唄」シリーズに女が出てくるからだと思うが、私はセックスを想像した。セックスの吸引力に引きつけられ、魂を失ってしまう。セックスが終わって、いままでとは違う世界に打ち上げられる。喜びに満ちて、太陽の祝福を受ける。
 「水甕」は女性の性器、そのなかに「果しれぬ海」がある。この「果しれぬ」は「固定されない」という意味だろう。それは「ぼく」が泳ぐかぎり「海」であり、泳ぎ終われば「海」ではないのはもちろん「水甕」でもない。
 この、あらわれたり消えたりするもの(こと)を「果しれぬ」という一言が「事実」(現実)にする。「果しれぬ」も「比喩」にはちがいないが、それは「肉体」で体験する「実感」だから、そこに詩がある。
                           2015年02月13日(金曜日)
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椅子の上に積んだ本は、

2015-02-14 01:13:28 | 
椅子の上に積んだ本は、

椅子の上に積んだ本は崩れながら重なっていた。
はみ出した紐栞がアリステア・マクラウドの表紙に触れている。
(父の描き方が、私には哀しい。
背もたれにほうり出すようにかけられたセーターの、
袖口は折り返されている、
ということばを本のなかに返したいが、それはほんとうに書かれていたか。

少し離れたところにあるソファの半分はへこんだままである。
スタンドの光が歪んだたわみに影をつくるのをためらっている。
姉が運んできたコーヒーには砂糖が入っていたが、
私は何も言わずに飲んだ、あの日。







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