12 洪水
「洪水」は「愛」の対極にあるもの。愛を破壊するものの比喩(象徴)である。「不幸」と、この詩では言いかえられている。不幸が愛を破壊する。「愛」は「魂」と呼び変えられている。不幸が魂を破壊し、その結果、愛が消える。愛が不幸に呑み込まれ、不幸が荒れくるう。
「遠回りしてその日が豊かになつた」が、とても美しい。
この詩は「ふたりの姿は/大きな波のひと呑みになつて見えなくなつた」と終わるのだが、そういう「結末」とは関係なく、「遠回りしてその日が豊かになつた」が美しい。
愛を守るために、対立点を回避する。いつもとは違う何かをすることが、その日を「豊か」にする。回避することを「無駄」ではなく、自分たちを「豊か」にするととらえ直すこころが美しい。
詩はストーリーや結末ではない。どこかに、はっとすることば、あ、そうなのだと納得できることばがあれば、それが詩なのだ。そのときの「理解」が「誤解(誤読)」であってもかまわない。読者のこころの反応のなかに詩はあるのだから。
この詩のふたりが不幸になったとしても、そのことによって、この詩が「悪く」なるわけではない。この詩のように、読者の愛が不幸な結果を迎えたとしても、「あの日、私たちは豊かな感情を生きていた」ということを思い出す力になるなら、それは「いい詩」なのである。
詩は、きっと、自分の読みたいところだけを読み取ればそれでいいのだ。つかみどころを押さえれば、それでいいのだと思う。
13 寓話
「寓話」はピラミッドを築くために労役を強いられた「おまえ」を主役とした詩である。詩人を主役にした「私詩」ではないから「寓話(虚構)」というのかもしれない。そこには「地平線」が「自由」の象徴(比喩)として登場している。
「地平線」にはふたつある。現実の「砂漠の果」と「苦しい労役の時」に夢見た「地平線」。「地平線の話をするな」というときの地平線は夢の地平線である。遠い旅に出た人間が見てきた「果」ではない。
いますべきなのは、現実の地平線の果へ歩いてゆくこと。実際の行動である。「自由」を肉体でつかみ取れ、ということなのだろう。実際に歩いてゆくことで、労役のときに思い描いた幻の「地平線」は精神の「ふるさと」ではなく、現実の「ふるさと」になる。そこが「おまえ」の「自由の場所」になる。
「寓話」なので、ことばが二重三重になり、イメージを交錯させる。虚構の中で交錯することばの奥から「現実」かいま見える。
しかし、私はこの現実と幻の交錯よりも、その「意味」よりも
この二行に詩を感じる。ふいにあらわれる「現実」にはっとする。
「肉体」に刻まれた「肉体」の変化(筋肉のつき方や骨格の歪み)と「永い時(時間)」との関係、「言葉づかい」と「時間」の関係を語った二行。
たしかに、ひとは特別な状況を長い間すごすと、「肉体」や「ことば」に変化が起きる。肉体労働をしている人の体は、厳しい肉体労働をしていない人に比べると筋肉がついている。また歪みもある。かぎられた状況だけで話している人のことばは世間で話されていることばとは違う。そういう「肉体」(具体)を書いた部分が、「寓話」を「現実」に近づける。私の両親が百姓だったので、クワやカマで米をつくってごつごつになった体(姿)を重ね合わせ、肉体と労働、時間を理解した。肉体の変化を追体験した。(ピラミッドを築く人の肉体を私は実際には見たことがないので……。)
「肉体」を追体験することで、ことばは「現実」のものとなる。「肉体」をとおしてしか、人はことばを共有できないのかもしれないとも思う。
リアルだから、詩を感じる。こころにことばが入り込んでくる。
2015年02月08日(日曜日)
「洪水」は「愛」の対極にあるもの。愛を破壊するものの比喩(象徴)である。「不幸」と、この詩では言いかえられている。不幸が愛を破壊する。「愛」は「魂」と呼び変えられている。不幸が魂を破壊し、その結果、愛が消える。愛が不幸に呑み込まれ、不幸が荒れくるう。
時時刻刻に不幸の水嵩が増した
渦巻く濁流はもうとつくに魂の堤防を越えている
はるかな町の方へつづいているコンクリートの堤防は
昨日までふたりの愛に沿うて延びていた
ある時はそこへ遠回りしてその日が豊かになつた
「遠回りしてその日が豊かになつた」が、とても美しい。
この詩は「ふたりの姿は/大きな波のひと呑みになつて見えなくなつた」と終わるのだが、そういう「結末」とは関係なく、「遠回りしてその日が豊かになつた」が美しい。
愛を守るために、対立点を回避する。いつもとは違う何かをすることが、その日を「豊か」にする。回避することを「無駄」ではなく、自分たちを「豊か」にするととらえ直すこころが美しい。
詩はストーリーや結末ではない。どこかに、はっとすることば、あ、そうなのだと納得できることばがあれば、それが詩なのだ。そのときの「理解」が「誤解(誤読)」であってもかまわない。読者のこころの反応のなかに詩はあるのだから。
この詩のふたりが不幸になったとしても、そのことによって、この詩が「悪く」なるわけではない。この詩のように、読者の愛が不幸な結果を迎えたとしても、「あの日、私たちは豊かな感情を生きていた」ということを思い出す力になるなら、それは「いい詩」なのである。
詩は、きっと、自分の読みたいところだけを読み取ればそれでいいのだ。つかみどころを押さえれば、それでいいのだと思う。
13 寓話
「寓話」はピラミッドを築くために労役を強いられた「おまえ」を主役とした詩である。詩人を主役にした「私詩」ではないから「寓話(虚構)」というのかもしれない。そこには「地平線」が「自由」の象徴(比喩)として登場している。
地平線の話をするな
おまえは遠い旅から帰つて来たものではない
永いあいだピラミッドを築いていて
苦しい労役の時をすごしたにちがいない
どのくらい永い時がたつたか
おまえの歪んだ大きな肩とふしぎな言葉づかいでそれはよくわかる
もう偽りをいうのを止めよ
いまおまえの口を縛るものはなく
おまえをはげしく鞭打つものはいないのだ
どこまでも砂漠の果を歩いてゆけ
おまえが喘ぎ求めた自由のふるさとへ帰つてゆけ
「地平線」にはふたつある。現実の「砂漠の果」と「苦しい労役の時」に夢見た「地平線」。「地平線の話をするな」というときの地平線は夢の地平線である。遠い旅に出た人間が見てきた「果」ではない。
いますべきなのは、現実の地平線の果へ歩いてゆくこと。実際の行動である。「自由」を肉体でつかみ取れ、ということなのだろう。実際に歩いてゆくことで、労役のときに思い描いた幻の「地平線」は精神の「ふるさと」ではなく、現実の「ふるさと」になる。そこが「おまえ」の「自由の場所」になる。
「寓話」なので、ことばが二重三重になり、イメージを交錯させる。虚構の中で交錯することばの奥から「現実」かいま見える。
しかし、私はこの現実と幻の交錯よりも、その「意味」よりも
どのくらい永い時がたつたか
おまえの歪んだ大きな肩とふしぎな言葉づかいでそれはよくわかる
この二行に詩を感じる。ふいにあらわれる「現実」にはっとする。
「肉体」に刻まれた「肉体」の変化(筋肉のつき方や骨格の歪み)と「永い時(時間)」との関係、「言葉づかい」と「時間」の関係を語った二行。
たしかに、ひとは特別な状況を長い間すごすと、「肉体」や「ことば」に変化が起きる。肉体労働をしている人の体は、厳しい肉体労働をしていない人に比べると筋肉がついている。また歪みもある。かぎられた状況だけで話している人のことばは世間で話されていることばとは違う。そういう「肉体」(具体)を書いた部分が、「寓話」を「現実」に近づける。私の両親が百姓だったので、クワやカマで米をつくってごつごつになった体(姿)を重ね合わせ、肉体と労働、時間を理解した。肉体の変化を追体験した。(ピラミッドを築く人の肉体を私は実際には見たことがないので……。)
「肉体」を追体験することで、ことばは「現実」のものとなる。「肉体」をとおしてしか、人はことばを共有できないのかもしれないとも思う。
リアルだから、詩を感じる。こころにことばが入り込んでくる。
2015年02月08日(日曜日)
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫) | |
嵯峨 信之 | |
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