詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(8)

2015-02-09 14:40:30 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
12 洪水

 「洪水」は「愛」の対極にあるもの。愛を破壊するものの比喩(象徴)である。「不幸」と、この詩では言いかえられている。不幸が愛を破壊する。「愛」は「魂」と呼び変えられている。不幸が魂を破壊し、その結果、愛が消える。愛が不幸に呑み込まれ、不幸が荒れくるう。

時時刻刻に不幸の水嵩が増した
渦巻く濁流はもうとつくに魂の堤防を越えている
はるかな町の方へつづいているコンクリートの堤防は
昨日までふたりの愛に沿うて延びていた
ある時はそこへ遠回りしてその日が豊かになつた

 「遠回りしてその日が豊かになつた」が、とても美しい。
 この詩は「ふたりの姿は/大きな波のひと呑みになつて見えなくなつた」と終わるのだが、そういう「結末」とは関係なく、「遠回りしてその日が豊かになつた」が美しい。
 愛を守るために、対立点を回避する。いつもとは違う何かをすることが、その日を「豊か」にする。回避することを「無駄」ではなく、自分たちを「豊か」にするととらえ直すこころが美しい。
 詩はストーリーや結末ではない。どこかに、はっとすることば、あ、そうなのだと納得できることばがあれば、それが詩なのだ。そのときの「理解」が「誤解(誤読)」であってもかまわない。読者のこころの反応のなかに詩はあるのだから。
 この詩のふたりが不幸になったとしても、そのことによって、この詩が「悪く」なるわけではない。この詩のように、読者の愛が不幸な結果を迎えたとしても、「あの日、私たちは豊かな感情を生きていた」ということを思い出す力になるなら、それは「いい詩」なのである。
 詩は、きっと、自分の読みたいところだけを読み取ればそれでいいのだ。つかみどころを押さえれば、それでいいのだと思う。

13 寓話

 「寓話」はピラミッドを築くために労役を強いられた「おまえ」を主役とした詩である。詩人を主役にした「私詩」ではないから「寓話(虚構)」というのかもしれない。そこには「地平線」が「自由」の象徴(比喩)として登場している。

地平線の話をするな
おまえは遠い旅から帰つて来たものではない
永いあいだピラミッドを築いていて
苦しい労役の時をすごしたにちがいない
どのくらい永い時がたつたか
おまえの歪んだ大きな肩とふしぎな言葉づかいでそれはよくわかる
もう偽りをいうのを止めよ
いまおまえの口を縛るものはなく
おまえをはげしく鞭打つものはいないのだ
どこまでも砂漠の果を歩いてゆけ
おまえが喘ぎ求めた自由のふるさとへ帰つてゆけ

 「地平線」にはふたつある。現実の「砂漠の果」と「苦しい労役の時」に夢見た「地平線」。「地平線の話をするな」というときの地平線は夢の地平線である。遠い旅に出た人間が見てきた「果」ではない。
 いますべきなのは、現実の地平線の果へ歩いてゆくこと。実際の行動である。「自由」を肉体でつかみ取れ、ということなのだろう。実際に歩いてゆくことで、労役のときに思い描いた幻の「地平線」は精神の「ふるさと」ではなく、現実の「ふるさと」になる。そこが「おまえ」の「自由の場所」になる。
 「寓話」なので、ことばが二重三重になり、イメージを交錯させる。虚構の中で交錯することばの奥から「現実」かいま見える。
 しかし、私はこの現実と幻の交錯よりも、その「意味」よりも

どのくらい永い時がたつたか
おまえの歪んだ大きな肩とふしぎな言葉づかいでそれはよくわかる

 この二行に詩を感じる。ふいにあらわれる「現実」にはっとする。
 「肉体」に刻まれた「肉体」の変化(筋肉のつき方や骨格の歪み)と「永い時(時間)」との関係、「言葉づかい」と「時間」の関係を語った二行。
 たしかに、ひとは特別な状況を長い間すごすと、「肉体」や「ことば」に変化が起きる。肉体労働をしている人の体は、厳しい肉体労働をしていない人に比べると筋肉がついている。また歪みもある。かぎられた状況だけで話している人のことばは世間で話されていることばとは違う。そういう「肉体」(具体)を書いた部分が、「寓話」を「現実」に近づける。私の両親が百姓だったので、クワやカマで米をつくってごつごつになった体(姿)を重ね合わせ、肉体と労働、時間を理解した。肉体の変化を追体験した。(ピラミッドを築く人の肉体を私は実際には見たことがないので……。)
 「肉体」を追体験することで、ことばは「現実」のものとなる。「肉体」をとおしてしか、人はことばを共有できないのかもしれないとも思う。
 リアルだから、詩を感じる。こころにことばが入り込んでくる。
                           2015年02月08日(日曜日)
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
思潮社
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大橋政人「空の人」、金井雄二「おごそかに慎重に、探すのである」

2015-02-09 10:42:42 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「空の人」、金井雄二「おごそかに慎重に、探すのである」(「独合点」121 、2015年02月01日発行)

 大橋政人「空の人」は「今年最後の犬の散歩で/田んぼのまん中で空を見上げ」る詩である。「大晦日」と言わずに「今年最後の犬の散歩」と書き出すところに、大橋の暮らしが見えて楽しい。(ほんとうに犬を飼っていて、散歩させているかどうかは別にして、大晦日が具体的でいいあな、と思う)。空を見上げると、メダカのような線が動いている。飛行機である。「初めて飛行機に乗ったときのことを思い出して/しばらく見上げて」いる。乗っている人のことを思う。

もう窓の外は暗いから
北関東のこの辺を
見下ろす人もいないだろう
中には自分の足の下の
その下の空間を意識しながら
空しく足を踏ん張っている人も
いるかもしれない
家に帰って
今年最後の風呂につかりながら
空高く行く人の
足の下のムズムズについて
考えた

 奇妙におかしい。「空高く行く人の/足の下のムズムズについて/考えた」のは、初めて飛行機に乗ったとき、大橋も「空しく足を踏ん張っ」たからだろうか。「肉体」がおぼえていることを思い出し、自分の「肉体」と他人の「肉体」を重ねる。「肉体」が重なってしまうと、そのとき、もう大橋は大橋ではなく、「空高く行く人」になっている。「空高く行く人の/足の下のムズムズについて/考えた」と書いてあるのだけれど、

空高く行く人になって
足の下のムズムズを
感じた

 が「実感」かもしれない。
 おもしろいなあ。
 「他人」になって、「肉体」が感じていることを感じて、それが昔の「私(大橋)」にもなる。「他人」と「大橋」の区別がなくなる。
 詩というのは、これだね。「他人」と「私」の区別がなくなって、そこに書かれていることは全部自分のことになる。
 で、その「象徴」のようなものが

足の下のムズムズ

 これは、おかしいねえ。
 何がって……。
 「ムズムズ」をほかのことばで言いなおせる? 私は、月一回数人の仲間と詩を読みあっている。そのとき、時々そこに出てくる表現を別のことばで言いなおすとどうなる? 自分のことばで言いなおすとどうなる? という意地悪な質問をする。
 この詩の「ムズムズ」についても、そういう質問をしてみたい。いまは一人で感想を書いているので、質問できないのだが……。そうすると、きっとみんな、答えられない。「ムズムズ」がわかるのに、ほかにどう言いなおせばいいのかわからない。
 このとき、大橋と私たちの「肉体」が重なってしまっている。「ムズムズ」ということばで区別がなくなってしまっている。区別できないから、言いなおせない。「ムズムズ」を足で感じるから、言いなおす必要がない。
 「肉体」でことばが共有され、ことばを通して「肉体」が「ひとつ」になっている。「ひとつ」になって、動いている。
 大橋が「足のムズムズ」を通して「空行く人」と「ひとつ」になるとき、読者も大橋、「空行く人」と「ひとつ」になる。三人が「ひとつ」になる。(こうやって人間はことばをおぼえる。)

 そういうことを感じた後、もう一度、書き出しの「今年最後の犬の散歩で」に戻る。そうすると、「大晦日」と書かなかった「理由」のようなものもわかる。「大晦日」と書いた方が「ことばの経済学(意味の伝達)」には「合理的」なのだが、詩で書きたいものは「意味」なんかじゃないね。
 大橋の書きたかったのは「足の感覚」から「他人」と「ひとつ」になること。「犬の散歩」はたいていは「歩いて」する。つまり「足」をつかって動く。最初から「足」が主役だったのだ。
 うまいね。



 金井雄二「おごそかに慎重に、探すのである」はタイトルはおおげさだけれど、「内容」は夜中に冷蔵庫を開けてビールを探すというもの。要約してしまうと、おもしろくもおかしくもないのだけれど……。

佃煮
漬物
残り物

 いやあ、笑ってしまうなあ。「残り物」ということばの「生活感」がとてもいい。「残り物」には捨てるものと捨てないものがある。また後で食べるものは冷蔵庫にしまう。どこの家庭でもやっていることなのだが、「あ、同じ」という感じが金井と私を「ひとり」にしてしまう。金井は金井のしたことを書いているのに、金井のしていることに私が重なってしまう。そこからは、もう「金井」が主人公ではなく、「私(読者/谷内)」が主人公。「私(谷内)」の「肉体」が金井のことばをとおって動いていく。

真冬のこごえた部屋の片隅の
そのまた寒い台所の
暗い闇の中に居座る冷たい箱の奥深く

見つけた

ぼくはドアを閉める
眠っている人を起こさぬよう
プルリングを起こす

 「起こさぬよう/起こす」というのはだじゃれみたいなものだけれど、最後の「起こす」で「肉体」がしっかり重なる。そこで「肉体」が重なるから、その直前の「起こさぬよう」という「配慮」も重なる。
 「配慮」というは「気持ち」。つまり、この詩を読み終わると、私(谷内)は「肉体」も「気持ち」も金井になってしまう。
 そこに何か「意味」があるか、「価値」があるか、と問われると困るけれど、「意味/価値」とは関係ない「肉体」の無意味さの方が「思想」だと私は感じている。いつも、少しずつととのえながら、人間をささえる力になっているからね。そのときのととのえ方のなかに知らず知らず入ってくることばが詩や小説(文学)のことばだと私は信じている。

26個の風船―大橋政人詩集
大橋 政人
榛名まほろば出版
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「詩は全部を、

2015-02-09 00:51:57 | 
「詩は全部を、

「詩は全部を、全部のことばを理解する必要はない。
--ことばは、これから語ることを頭のなかで反芻してみた。
「どこか気に入ったところがあったら、そこをしっかりつかむ。
(つかみどころを押さえる--と言いなおした方がいいかな?

「そして何度もくりかえしておぼえる。
ここぞというときに
いまひらめいた!という具合に言ってみせればいい。
(流暢でなければ、借り物だとばれてしまうぞ。

「頭のなかに浮かんだことを、
本に書いてあるみたいにことばにできれば楽しいが
そんなことは誰にもできない。
これは知っている、と百回にいっぺんくらい言うのがコツだ。

(世の中のことが全部わかる人間はどこにもいない。
--ことばは、あ、これでは種明かしになってしまうぞ、と思う。
「これは、きのう読んだ本に書いてあったことです。
(言ってしまった方が、自分で考えたことに聞こえるかもしれない。






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