監督 ベネット・ミラー 出演 スティーブ・カレル、チャニング・テイタム、マーク・ラファロ、バネッサ・レッドグレーブ
暗くて気持ちが悪い映画である。
レスリングで金メダルをとった兄弟。両親を亡くし、二人で生きてきた。兄がいつも弟の面倒をみている。レスリングでもコーチをしている。練習相手にもなる。二人とも金メダルをとったけれど、貧しい。
一方、富豪の息子と母親。ここにも強い関係がある。母親がすべてを支配している。息子はその支配から逃れ、他人を支配したいと思っている。支配欲を、指導するという立場で隠蔽しながら。彼はレスリングのコーチになって、選手が金メダルをとる瞬間に立ち会いたいと夢見ている。「父」になりたいと欲望している。「父」になることで、母からの支配を脱したいと欲望している。
その富豪の息子が、貧しいレスリングの選手を引き抜きチームをつくる。弟を引き抜き、コーチに兄を招く。その過程で、三人の人間関係が、徐々に軋んでくる。弟は、最初は富豪の息子を寛大な、気前のいい「父」のように感じているが、だんだん横暴な「父」に見えてくる。支配されていると感じてくる。逃れたいと感じはじめる。富豪の息子が母の支配から逃れたいと欲望するように。兄はそのあいだに入って、なんとか弟を自立させようともがく。弟は兄を必要としているのに、昔のように兄に頼りきりになれない。誰からも自立できないと感じはじめ、苦悩する。
これに、富豪の母も、ちらり、ちらりと圧力をかけてくる。その圧力が、息子をおいつめ、三人の関係が緊迫する。兄は、富豪の息子のもとでは弟が実力を発揮できないことを知る。富豪の息子が、富豪の母のもとで実力を発揮できないように。奇妙に、力が歪曲するように。
この関係を、ベネット・ミラーは台詞を極力排除し(断片の台詞で背景を浮かび上がらせ)、三人(+ひとり)の演技で描き出す。このとき題材にレスリングを選んだのは、とても効果的だ。
実話だからレスリングは必然なのだが、題材がレスリングであることが、映画に深みを与えている。兄は弟の肉体のすべてをわかっている。どの筋肉が緊張しているかまで、さわっただけで、弟以上にわかる。兄弟はことばで対話する以上に「肉体」そのもので対話し、理解し合っている。弟が自分の肉体にいらだち(思うように動かないことにいらだち)、兄に頭突きをし、兄が鼻血を出す最初の練習シーンが印象的だが、兄は、そういう弟のすべてを受け入れている。頭突きをされても、けんかにならず、さらに練習をつづける。この強い絆があるからこそ、弟は強い。兄の力に支えられているから強い。
これに対して、富豪の息子と母親とのあいだには接触がない。二人はいつも離れている。ことばが行き交うだけで、抱き合うことで何かを受け止め合うというようなことはしない。息子が、練習場にあらわれた母親の前で、コーチのふりをしてみせるシーンがおもしろい。母親が見えるように、取り囲んだ選手たちのサークルに隙間をつくる。そのうえで、体格の小さい選手を選び、技術指導をしてみせる。「肉体」の接触をみせる。「肉体」を通じて何かを教えるということを見せる。その指導は、へたくそなのだが、そこに何か叫びのような悲しさがある。母親は、その「悲しみ」を見て、何も言わずに去っていく。「やめろ」とさえ、言わない。
いや、ことばにはしなかったが、「やめろ」と言っているのかもしれない。その声が聞こえるからこそ、息子はレスリングをやめることができないのかもしれてい。どこかで、しっかりと母親とぶつからないことには、その支配からぬけ出すことはできない。
富豪の息子の「欲望」は何ひとつ実現しない。母は突然死に、育てた選手はオリンピックで敗退する。弟は一回戦で破れてしまう。失望といえばいいのか、怒りといえばいいのか、どうすることもできないものを抱え込んで、富豪の息子はコーチである兄を射殺してしまう。なぜ、そこまでしてしまうか--それがいちばんの問題なのだろうけれど、その「心理」を映画は説明しない。ただ、事実として描く。だから、気持ち悪くて、暗い。
とても、いやな映画だ。ことばにならない愛憎があらゆる瞬間にスクリーンからあふれてくるので引き込まれてしまうが(演技にみとれてしまうが)、見ながら、これではつらいなあと思ってしまう。
でも、一か所、私は、あ、美しいなあ、と思ってしまい、そのことに驚いてしまった。富豪の息子が兄を射殺したあと、車を運転するシーン。車が走っているとき、木立のあいだからこぼれる太陽の光が車のなかに入ってくる。運転席のシートがちらり、ちらりと黄色の光を受け止める。その光に意味はない。ストーリーにも関係ないのだが、関係ないものがそこにある、ということが美しい。射殺した息子の心理とも、殺された兄の悲劇とも無関係に、ただそこにあるものが美しい。人間が「起きていること」と思っていることとは無関係に、別のことが「起きている」。こういうことに、だれかが気づけば、こういう事件は起きなかっただろうなあ。人間とは無関係なことが世界のどこかに、どの瞬間にもある。そう思った。そして、その瞬間、奇妙なことだがスティーブ・カレル演じる富豪の息子の、人を殺したあとの気持ちに同化してしまうのを感じだ。「おれは悪くない、おれは正しい」という悲鳴が聞こえた。そんな悲鳴など聞く必要はないのに、それが聞こえた。
(KBCシネマ2、2015年02月15日)
*
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暗くて気持ちが悪い映画である。
レスリングで金メダルをとった兄弟。両親を亡くし、二人で生きてきた。兄がいつも弟の面倒をみている。レスリングでもコーチをしている。練習相手にもなる。二人とも金メダルをとったけれど、貧しい。
一方、富豪の息子と母親。ここにも強い関係がある。母親がすべてを支配している。息子はその支配から逃れ、他人を支配したいと思っている。支配欲を、指導するという立場で隠蔽しながら。彼はレスリングのコーチになって、選手が金メダルをとる瞬間に立ち会いたいと夢見ている。「父」になりたいと欲望している。「父」になることで、母からの支配を脱したいと欲望している。
その富豪の息子が、貧しいレスリングの選手を引き抜きチームをつくる。弟を引き抜き、コーチに兄を招く。その過程で、三人の人間関係が、徐々に軋んでくる。弟は、最初は富豪の息子を寛大な、気前のいい「父」のように感じているが、だんだん横暴な「父」に見えてくる。支配されていると感じてくる。逃れたいと感じはじめる。富豪の息子が母の支配から逃れたいと欲望するように。兄はそのあいだに入って、なんとか弟を自立させようともがく。弟は兄を必要としているのに、昔のように兄に頼りきりになれない。誰からも自立できないと感じはじめ、苦悩する。
これに、富豪の母も、ちらり、ちらりと圧力をかけてくる。その圧力が、息子をおいつめ、三人の関係が緊迫する。兄は、富豪の息子のもとでは弟が実力を発揮できないことを知る。富豪の息子が、富豪の母のもとで実力を発揮できないように。奇妙に、力が歪曲するように。
この関係を、ベネット・ミラーは台詞を極力排除し(断片の台詞で背景を浮かび上がらせ)、三人(+ひとり)の演技で描き出す。このとき題材にレスリングを選んだのは、とても効果的だ。
実話だからレスリングは必然なのだが、題材がレスリングであることが、映画に深みを与えている。兄は弟の肉体のすべてをわかっている。どの筋肉が緊張しているかまで、さわっただけで、弟以上にわかる。兄弟はことばで対話する以上に「肉体」そのもので対話し、理解し合っている。弟が自分の肉体にいらだち(思うように動かないことにいらだち)、兄に頭突きをし、兄が鼻血を出す最初の練習シーンが印象的だが、兄は、そういう弟のすべてを受け入れている。頭突きをされても、けんかにならず、さらに練習をつづける。この強い絆があるからこそ、弟は強い。兄の力に支えられているから強い。
これに対して、富豪の息子と母親とのあいだには接触がない。二人はいつも離れている。ことばが行き交うだけで、抱き合うことで何かを受け止め合うというようなことはしない。息子が、練習場にあらわれた母親の前で、コーチのふりをしてみせるシーンがおもしろい。母親が見えるように、取り囲んだ選手たちのサークルに隙間をつくる。そのうえで、体格の小さい選手を選び、技術指導をしてみせる。「肉体」の接触をみせる。「肉体」を通じて何かを教えるということを見せる。その指導は、へたくそなのだが、そこに何か叫びのような悲しさがある。母親は、その「悲しみ」を見て、何も言わずに去っていく。「やめろ」とさえ、言わない。
いや、ことばにはしなかったが、「やめろ」と言っているのかもしれない。その声が聞こえるからこそ、息子はレスリングをやめることができないのかもしれてい。どこかで、しっかりと母親とぶつからないことには、その支配からぬけ出すことはできない。
富豪の息子の「欲望」は何ひとつ実現しない。母は突然死に、育てた選手はオリンピックで敗退する。弟は一回戦で破れてしまう。失望といえばいいのか、怒りといえばいいのか、どうすることもできないものを抱え込んで、富豪の息子はコーチである兄を射殺してしまう。なぜ、そこまでしてしまうか--それがいちばんの問題なのだろうけれど、その「心理」を映画は説明しない。ただ、事実として描く。だから、気持ち悪くて、暗い。
とても、いやな映画だ。ことばにならない愛憎があらゆる瞬間にスクリーンからあふれてくるので引き込まれてしまうが(演技にみとれてしまうが)、見ながら、これではつらいなあと思ってしまう。
でも、一か所、私は、あ、美しいなあ、と思ってしまい、そのことに驚いてしまった。富豪の息子が兄を射殺したあと、車を運転するシーン。車が走っているとき、木立のあいだからこぼれる太陽の光が車のなかに入ってくる。運転席のシートがちらり、ちらりと黄色の光を受け止める。その光に意味はない。ストーリーにも関係ないのだが、関係ないものがそこにある、ということが美しい。射殺した息子の心理とも、殺された兄の悲劇とも無関係に、ただそこにあるものが美しい。人間が「起きていること」と思っていることとは無関係に、別のことが「起きている」。こういうことに、だれかが気づけば、こういう事件は起きなかっただろうなあ。人間とは無関係なことが世界のどこかに、どの瞬間にもある。そう思った。そして、その瞬間、奇妙なことだがスティーブ・カレル演じる富豪の息子の、人を殺したあとの気持ちに同化してしまうのを感じだ。「おれは悪くない、おれは正しい」という悲鳴が聞こえた。そんな悲鳴など聞く必要はないのに、それが聞こえた。
(KBCシネマ2、2015年02月15日)
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