詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ベネット・ミラー監督「フォックスキャッチャー」(★★★)

2015-02-15 21:08:27 | 映画
監督 ベネット・ミラー 出演 スティーブ・カレル、チャニング・テイタム、マーク・ラファロ、バネッサ・レッドグレーブ

 暗くて気持ちが悪い映画である。
 レスリングで金メダルをとった兄弟。両親を亡くし、二人で生きてきた。兄がいつも弟の面倒をみている。レスリングでもコーチをしている。練習相手にもなる。二人とも金メダルをとったけれど、貧しい。
 一方、富豪の息子と母親。ここにも強い関係がある。母親がすべてを支配している。息子はその支配から逃れ、他人を支配したいと思っている。支配欲を、指導するという立場で隠蔽しながら。彼はレスリングのコーチになって、選手が金メダルをとる瞬間に立ち会いたいと夢見ている。「父」になりたいと欲望している。「父」になることで、母からの支配を脱したいと欲望している。
 その富豪の息子が、貧しいレスリングの選手を引き抜きチームをつくる。弟を引き抜き、コーチに兄を招く。その過程で、三人の人間関係が、徐々に軋んでくる。弟は、最初は富豪の息子を寛大な、気前のいい「父」のように感じているが、だんだん横暴な「父」に見えてくる。支配されていると感じてくる。逃れたいと感じはじめる。富豪の息子が母の支配から逃れたいと欲望するように。兄はそのあいだに入って、なんとか弟を自立させようともがく。弟は兄を必要としているのに、昔のように兄に頼りきりになれない。誰からも自立できないと感じはじめ、苦悩する。
 これに、富豪の母も、ちらり、ちらりと圧力をかけてくる。その圧力が、息子をおいつめ、三人の関係が緊迫する。兄は、富豪の息子のもとでは弟が実力を発揮できないことを知る。富豪の息子が、富豪の母のもとで実力を発揮できないように。奇妙に、力が歪曲するように。
 この関係を、ベネット・ミラーは台詞を極力排除し(断片の台詞で背景を浮かび上がらせ)、三人(+ひとり)の演技で描き出す。このとき題材にレスリングを選んだのは、とても効果的だ。
 実話だからレスリングは必然なのだが、題材がレスリングであることが、映画に深みを与えている。兄は弟の肉体のすべてをわかっている。どの筋肉が緊張しているかまで、さわっただけで、弟以上にわかる。兄弟はことばで対話する以上に「肉体」そのもので対話し、理解し合っている。弟が自分の肉体にいらだち(思うように動かないことにいらだち)、兄に頭突きをし、兄が鼻血を出す最初の練習シーンが印象的だが、兄は、そういう弟のすべてを受け入れている。頭突きをされても、けんかにならず、さらに練習をつづける。この強い絆があるからこそ、弟は強い。兄の力に支えられているから強い。
 これに対して、富豪の息子と母親とのあいだには接触がない。二人はいつも離れている。ことばが行き交うだけで、抱き合うことで何かを受け止め合うというようなことはしない。息子が、練習場にあらわれた母親の前で、コーチのふりをしてみせるシーンがおもしろい。母親が見えるように、取り囲んだ選手たちのサークルに隙間をつくる。そのうえで、体格の小さい選手を選び、技術指導をしてみせる。「肉体」の接触をみせる。「肉体」を通じて何かを教えるということを見せる。その指導は、へたくそなのだが、そこに何か叫びのような悲しさがある。母親は、その「悲しみ」を見て、何も言わずに去っていく。「やめろ」とさえ、言わない。
 いや、ことばにはしなかったが、「やめろ」と言っているのかもしれない。その声が聞こえるからこそ、息子はレスリングをやめることができないのかもしれてい。どこかで、しっかりと母親とぶつからないことには、その支配からぬけ出すことはできない。
 富豪の息子の「欲望」は何ひとつ実現しない。母は突然死に、育てた選手はオリンピックで敗退する。弟は一回戦で破れてしまう。失望といえばいいのか、怒りといえばいいのか、どうすることもできないものを抱え込んで、富豪の息子はコーチである兄を射殺してしまう。なぜ、そこまでしてしまうか--それがいちばんの問題なのだろうけれど、その「心理」を映画は説明しない。ただ、事実として描く。だから、気持ち悪くて、暗い。
 とても、いやな映画だ。ことばにならない愛憎があらゆる瞬間にスクリーンからあふれてくるので引き込まれてしまうが(演技にみとれてしまうが)、見ながら、これではつらいなあと思ってしまう。
 でも、一か所、私は、あ、美しいなあ、と思ってしまい、そのことに驚いてしまった。富豪の息子が兄を射殺したあと、車を運転するシーン。車が走っているとき、木立のあいだからこぼれる太陽の光が車のなかに入ってくる。運転席のシートがちらり、ちらりと黄色の光を受け止める。その光に意味はない。ストーリーにも関係ないのだが、関係ないものがそこにある、ということが美しい。射殺した息子の心理とも、殺された兄の悲劇とも無関係に、ただそこにあるものが美しい。人間が「起きていること」と思っていることとは無関係に、別のことが「起きている」。こういうことに、だれかが気づけば、こういう事件は起きなかっただろうなあ。人間とは無関係なことが世界のどこかに、どの瞬間にもある。そう思った。そして、その瞬間、奇妙なことだがスティーブ・カレル演じる富豪の息子の、人を殺したあとの気持ちに同化してしまうのを感じだ。「おれは悪くない、おれは正しい」という悲鳴が聞こえた。そんな悲鳴など聞く必要はないのに、それが聞こえた。
                     (KBCシネマ2、2015年02月15日)






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嵯峨信之を読む(14)

2015-02-15 09:54:04 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
24 一つの綱

 「たれもかれも時には魂を不用なものだとおもう」と書き出される。魂がなければ、上手な嘘で女を誑かすことができる。そういう「論理/意味」が書かれたあと、

そして女をすつかり手なずけたところで一緒に戸外へ出て
深い夜霧に酔つぱらつてしまおう
それから二つの口から呑んだ霧を綯い混ぜて
なにより丈夫な一つの白い綱を作ろう
その両端を力いつぱい引つ張りあつて男と女の悲しさを知ろう

 男が魂をほうり出して女を誑かすなら、女もまた魂をほうり出して男に誑かされているという嘘をつくのかもしれない。知っていて、騙されたふりをするのかもしれない。二人のことばは、夜霧のようにぼんやりしている。それが絡み合ってだんだん「一つの白い綱」(一つの男と女のストーリー)になる。互いに、それを自分の方に引っぱろうとする。「誑かす」ときの「主導権」を握ろうとする。
 そういうことが書いてあるのだと思う。
 この詩で、私が傍線を引いて、あ、このことばについて書こうと思ったのは、最後の「男と女の悲しさを知ろう」である。「悲しさ」というのは安直なことばのようにも見える。「悲しい」ということばをつかわずに「悲しい」を書くのが詩だ、と言われるが、そういう「定義」にしたがえば、この「悲しさ」に詩はない、ということになるのだが。
 それでも、私はそこに詩を感じる。
 ここに書かれている「悲しさ」は、ふつうにいわれている「悲しさ」とは違うからだ。何かを失くして「悲しい」というような、喪失をともなうものではない。あえて言えば、「嘘をついてしまう」「主導権をとろうとしてしまう」--そういうことを「してしまう」ことの「悲しさ」、人間の宿命のような「悲しさ」だからである。「宿命」を言いかえた「比喩」になっているからである。
 詩の前半と結びつけて、「魂を失った悲しさ」と言えなくもないけれど、そんなふうに読んでしまうと、あまりにも「論理的」でおもしろくない。だいたい他人を誑かすことで魂を失くしているのなら、魂は「悲しさ」を感じないだろう。
 最後の「悲しさ」は魂を超越する「業」なのだ。
 それを「知ろう」と、女にも呼びかけていることろがおもしろい。この「業(宿命)」は男だけのもの、女だけのものではない。男と女を結び、男と女の区別なく、人間の本質につながるものなのだ。

25 忠告

 女と喧嘩して別れてきた。三週間も、家から遠いところでひとりですごした。もう家へ帰るときだ。

もう三週間も汐かぜに吹かれていたのだから
罵りさわいだ腹の虫もすつかりおさまつているだろう
それ以上 本当にそれ以上遠いところのない心のはてに来たのだから
その悲しみを話してみるがいい

 「それ以上 本当にそれ以上遠いところのない心のはてに来た」という部分に思わず傍線を引く。「心のはて」というのは主観なのだが、「それ以上に遠いところのない」も主観なのだが、なぜか、心のはてを別な視点で見ている感じがする。その新しい視線のあり方に、はっと目が覚める感じ。
 「罵りさわいだ」心ではない、「別の」心。その「別の」こころによって、それまでのことが見つめなおされている。見つめなおしによって「客観」が生まれている。
 感情を感情の暴走するままに書くのではなく、感情を見つめなおす。そのときの「客観」が描き出す不思議な冷たさ。「冷たい主観」が抒情というものなのか。
 こういう「冷たい主観」のあとでは「悲しみ」も感情に溺れた悲しみではなく「客観的」な悲しみに見える。抒情というのは、ある種の「理性」によって統制された(制御された)こころの動きなのだろう。
 このあと、この詩は、もう一歩先へ進む。

誰に言うというのか
誰もいなければやつぱりきみ自身に話すことだ
もしきみがいなかつたら
もしきみがいなかつたらと言うのか
それから先きはぼくにはなにも分からない

 自分自身との「対話」。これも「客観」の方法である。「別の」きみになって、きみ自身に言う。
 そういう「対話」ができなかったら、というのは、また怒りが爆発したらということかもしれない。自分を見失ってしまったら、どうすればいいのか。
 家に帰る前に、もう「対話」ははじまっているのだが、その「対話」の、「対話」にならないところが、とてもおもしろい。とても切実だ。何度も何度も読み返し、考えたくなる行だ。
                           2015年02月14日(土曜日)



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たぶん、

2015-02-15 01:23:20 | 
たぶん、

犬のあとにしたがってロープを張った空き地から出てきたとき、
女のスニーカーの紐に草の種が無数についていた。
砂鉄のようにとがっている黒い種。
磁石が動いていったあとを、その向きのなかに残している。

この四行だけでは詩にならない。だれも詩とは認めてくれない。
たぶん、




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