谷川俊太郎「からだの中に」(『朝のかたち』角川書店、1985年発行)
谷川俊太郎「からだの中に」は映画「谷川さん、詩をひとつ作ってください」(モンタージュ、2014年11月公開)のなかで朗読される一篇。
読み返しながら、なぜ谷川は多作なのかを考えた。
詩人のなかには多作の人と寡作の人がいる。谷川は多作、しかも飛び抜けて多作だと思う。昨年秋、書き下ろしの『おやすみ神たち』(ナナロク社、2014年11月01日)が出たばかりだが、今度は思潮社から新作が出るようだ。
なぜ、多作なのか。「こだわり」がないからだ--と私は書きたいのだが、その「こだわり」の説明がちょっとむずかしい。「からだの中に」が、それを説明するのに都合がいいかもしれない、と思う。
「からだの中に/○○があり/●●はそれ故に……する」という構文の連がつづく。「それ故に」というのは「論理」の文体であり、それが浮かび上がらせるのは「理」である。「理」というのは「真理」の「理」である。
「真理」なのだから「絶対」かというと、うーん、そうでもない。「絶対」というのは「ひとつ」しか存在しないものだろう。谷川はここでは「からだの中に/○○があり/●●はそれ故に……する」を複数書いている。
「複数の真理」というのは、論理的に考えると奇妙である。
でも、詩を読んでいるとき、次々に新しい「真理」が登場してきても、それに対して「奇妙」とは思わない。奇妙なことに……。
なぜだろう。
ここに書かれている「真理」は「矛盾」している。叫びは口を開いて発せられる。しかし、谷川は逆のことを書いている。叫ばないときの方が、からだの中に叫びがある。「深い」叫びがある。「深い」叫びがあるとき、ひとは叫ばない。このことばを読んだ瞬間、叫びをこらえた一瞬を思い出す。あ、あのとき、叫びたいのをがまんしてからだの中にとじこめた--そういう「矛盾」の記憶がよみがえる。
これが人間の真実(真理)なら、そのことだけを書きつづけてもいいはずなのに、谷川は連をかえて
ぱっと、別なことを書いてしまう。
「叫び」と「口」の関係にこだわっていない。一連目に書いた「真理」は「叫び」と「口」という具体的なものによって瞬間的に動いたもの。「どんな叫び」か、「だれの口」か、というような「具体」にこだわっていない。
こだわると、たぶん、「真理」が見えなくなる。
で、次に「夜」「眼」「みはる」という具合に、違った状況で「真理」を書く。ここでも「明けることのない夜(暗い/見えない)」と「目を見開く(見ようとする)」という「矛盾」がある。「矛盾」があって、「見開く」という動詞の切実さがからだの中によみがえってくる。
この切実さは「矛盾」が「それ故に」という「論理」のことばで強引に動くからである。「からだ(肉体)」をこじあけて、「肉体」がおぼえていることを刺戟するから、「常識」が壊れて、あたらしい何かが動き出す--その動きの中、切実さが生まれる。
こういうことが、さらに繰り返される。一連目の「真理」から二連目の「真理」へ、さらに三連目の「真理」軽々と動いていってしまう。
「真理」って、こんなに変わってしまっていいのか。こんなにいいかげん(?)な感じで、いろんなものと一緒に語られていいのか。もっと「具体的に(個別的に)」語られなくていいのか。
たぶん「真理」ということばが間違っている。谷川は「真理」を書いていない。「たったひとつ」(絶対)を書いていない。「真理」にこだわっていない。「叫び」「口」というような具体的なことにこだわっていない。
もし谷川が書いていることが「真理」ではないとしたら、何か。
「理」を書いているのだと、私は思う。「真理」であるか「誤謬」であるかではなく、あることを「真理」であると判断する何か、同時にあることを「誤謬」であると判断する何か--その力を「理」と私は呼びたい。
「理」は何とでも結びつく。どこにでも動いている。「叫び」と出合ったときは「叫び」にふさわしい「理」が「口をつむぐ」ということばといっしょにあらわれる。「明けることのない夜(闇)」と出合ったときは「眼を見開く」ということばといっしょに動いて別の「理」を浮かび上がらせる。
「理」のなかをとおって、あらゆる具体的なものが動く。「それ故」をとおって、いろいろな具体的なものに分かれ、また「ひとつ」に戻ってくる。その往復運動の通路が「理」なのだ。
そして、その「理」はあって、同時に、ない。
「叫び」についてことばを動かすとき、「叫び」「口をとざす」といっしょにあらわれ、「闇」について考えるときは「叫び」について動いていたことばは消えて、別な形になって動く。
ことばは自在に動き回る。その「自在」をささえる「理」。
「叫び」と「口をつぐむ」という関係だけに「真理」があるとこだわると、「理」にたどりつけない。「自在」にたどりつけない。「叫び」と「口をつぐむ」のなかにある「真理」は「理」のひとつの姿、「叫び」について考えたときにあらわれた「理」のひとつの形(色)にすぎない。
「理」は「具体」と結びつくと「真理」になるのかもしれない。
「理」はひとつ。「具体」は無数。だから「理」と「具体」の結びつき(真理)は無限にあることになる。それを実感しているから、谷川は多作になるのだろう。
谷川の「理」は、この詩では、「私」と「あなた」、孤立した(独立した)存在が出会いへと動いていくが、それは「理」の発見には、誰かと出会わなければならないといっているようにも見える。出会うためには「独立(ひとり)」であることが必要なのだ。「ひとり(孤立/独立)」あれば必ず「ひとり」に出会うことができる。そして出会いがあれば、それは「理」をとおって「真(理)」になる、と語っているように思える。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
谷川俊太郎「からだの中に」は映画「谷川さん、詩をひとつ作ってください」(モンタージュ、2014年11月公開)のなかで朗読される一篇。
読み返しながら、なぜ谷川は多作なのかを考えた。
詩人のなかには多作の人と寡作の人がいる。谷川は多作、しかも飛び抜けて多作だと思う。昨年秋、書き下ろしの『おやすみ神たち』(ナナロク社、2014年11月01日)が出たばかりだが、今度は思潮社から新作が出るようだ。
なぜ、多作なのか。「こだわり」がないからだ--と私は書きたいのだが、その「こだわり」の説明がちょっとむずかしい。「からだの中に」が、それを説明するのに都合がいいかもしれない、と思う。
からだの中に
深いさけびがあり
口はそれ故につぐまれる
からだの中に
明けることのない夜があり
眼はそれ故にみはられる
からだの中に
ころがってゆく石があり
足はそれ故に立ちどまる
からだの中に
閉じられた回路があり
心はそれ故にひらかれる
からだの中に
いかなる比喩も語れぬものがあり
言葉はそれ故に記される
からだの中に
ああからだの中に
私をあなたにむすぶ血と肉があり
人はそれ故にこんなにも
ひとりひとりだ
「からだの中に/○○があり/●●はそれ故に……する」という構文の連がつづく。「それ故に」というのは「論理」の文体であり、それが浮かび上がらせるのは「理」である。「理」というのは「真理」の「理」である。
「真理」なのだから「絶対」かというと、うーん、そうでもない。「絶対」というのは「ひとつ」しか存在しないものだろう。谷川はここでは「からだの中に/○○があり/●●はそれ故に……する」を複数書いている。
「複数の真理」というのは、論理的に考えると奇妙である。
でも、詩を読んでいるとき、次々に新しい「真理」が登場してきても、それに対して「奇妙」とは思わない。奇妙なことに……。
なぜだろう。
からだの中に
深いさけびがあり
口はそれ故につぐまれる
ここに書かれている「真理」は「矛盾」している。叫びは口を開いて発せられる。しかし、谷川は逆のことを書いている。叫ばないときの方が、からだの中に叫びがある。「深い」叫びがある。「深い」叫びがあるとき、ひとは叫ばない。このことばを読んだ瞬間、叫びをこらえた一瞬を思い出す。あ、あのとき、叫びたいのをがまんしてからだの中にとじこめた--そういう「矛盾」の記憶がよみがえる。
これが人間の真実(真理)なら、そのことだけを書きつづけてもいいはずなのに、谷川は連をかえて
からだの中に
明けることのない夜があり
眼はそれ故にみはられる
ぱっと、別なことを書いてしまう。
「叫び」と「口」の関係にこだわっていない。一連目に書いた「真理」は「叫び」と「口」という具体的なものによって瞬間的に動いたもの。「どんな叫び」か、「だれの口」か、というような「具体」にこだわっていない。
こだわると、たぶん、「真理」が見えなくなる。
で、次に「夜」「眼」「みはる」という具合に、違った状況で「真理」を書く。ここでも「明けることのない夜(暗い/見えない)」と「目を見開く(見ようとする)」という「矛盾」がある。「矛盾」があって、「見開く」という動詞の切実さがからだの中によみがえってくる。
この切実さは「矛盾」が「それ故に」という「論理」のことばで強引に動くからである。「からだ(肉体)」をこじあけて、「肉体」がおぼえていることを刺戟するから、「常識」が壊れて、あたらしい何かが動き出す--その動きの中、切実さが生まれる。
こういうことが、さらに繰り返される。一連目の「真理」から二連目の「真理」へ、さらに三連目の「真理」軽々と動いていってしまう。
「真理」って、こんなに変わってしまっていいのか。こんなにいいかげん(?)な感じで、いろんなものと一緒に語られていいのか。もっと「具体的に(個別的に)」語られなくていいのか。
たぶん「真理」ということばが間違っている。谷川は「真理」を書いていない。「たったひとつ」(絶対)を書いていない。「真理」にこだわっていない。「叫び」「口」というような具体的なことにこだわっていない。
もし谷川が書いていることが「真理」ではないとしたら、何か。
「理」を書いているのだと、私は思う。「真理」であるか「誤謬」であるかではなく、あることを「真理」であると判断する何か、同時にあることを「誤謬」であると判断する何か--その力を「理」と私は呼びたい。
「理」は何とでも結びつく。どこにでも動いている。「叫び」と出合ったときは「叫び」にふさわしい「理」が「口をつむぐ」ということばといっしょにあらわれる。「明けることのない夜(闇)」と出合ったときは「眼を見開く」ということばといっしょに動いて別の「理」を浮かび上がらせる。
「理」のなかをとおって、あらゆる具体的なものが動く。「それ故」をとおって、いろいろな具体的なものに分かれ、また「ひとつ」に戻ってくる。その往復運動の通路が「理」なのだ。
そして、その「理」はあって、同時に、ない。
「叫び」についてことばを動かすとき、「叫び」「口をとざす」といっしょにあらわれ、「闇」について考えるときは「叫び」について動いていたことばは消えて、別な形になって動く。
ことばは自在に動き回る。その「自在」をささえる「理」。
「叫び」と「口をつぐむ」という関係だけに「真理」があるとこだわると、「理」にたどりつけない。「自在」にたどりつけない。「叫び」と「口をつぐむ」のなかにある「真理」は「理」のひとつの姿、「叫び」について考えたときにあらわれた「理」のひとつの形(色)にすぎない。
「理」は「具体」と結びつくと「真理」になるのかもしれない。
「理」はひとつ。「具体」は無数。だから「理」と「具体」の結びつき(真理)は無限にあることになる。それを実感しているから、谷川は多作になるのだろう。
谷川の「理」は、この詩では、「私」と「あなた」、孤立した(独立した)存在が出会いへと動いていくが、それは「理」の発見には、誰かと出会わなければならないといっているようにも見える。出会うためには「独立(ひとり)」であることが必要なのだ。「ひとり(孤立/独立)」あれば必ず「ひとり」に出会うことができる。そして出会いがあれば、それは「理」をとおって「真(理)」になる、と語っているように思える。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。