50 鯉のぼり
この書き出しは眩暈を感じさせる。「一つの眼差し」と「大きな眼差し」。「一つの眼差し」が「大きな眼差し」に見入る。そのとき見ているのは「眼」だろうか。「眼」ではない。「眼差し」。眼が指し示すものを感じ取り、それに見入る。大きな眼は何を見ているか。その視線は何を指しているか。だが、その指している「対象」ではなく、その「指し示し」が問題なのだ。
「ある日の岸」。明確に特定していないが、それが「ある日の」とあいまいだからこそ、「眼差し」の「指し示す」行為が、肉体を刺戟する。「大きな眼差し」と「わたし」の「一つの眼差し」が「一体」になる。「眼差し」が「一体」であるから、その「対象」が明確でなくても、なまなましく感じる。「眼差し」が「一体」になることで「肉体/感情」が「一体」になる。「同じ気持ち/同じ肉体」で「何か」を見る。
「ある日」は、しかし、「未来」ではない--と私は直観する。
「歩いて/たどりつけなかつたた」という「肉体」の体験(過去)が刺戟する「ある日」。だれかが「歩いた」。歩きながら、何かを見た。そのだれかの体験としての「眼差し」が、しかし、「過去」のものとしてではなく、「過去」から自分の視線をつきやぶって、目の前にあらわれる感じだ。だから、よけいに眩暈を覚える。「既視感」というのとも、すこし違う。「既視感」というのは自分の記憶。けれど「大きな眼差し」と「一体」になって見るのは、あくまで「大きな眼差し」が見てきたもの--他人の、「わたし」を超える大きな存在の「過去」を「いま」、さらには「未来」として見ていくということだ。
「いま」を突き破ってひとりの人間の存在を超える大きな「過去」が動き、それが「未来」になる。
「兎」は小さな人間(わたし)の象徴(比喩)だ。小さなものが大きなものの視線(眼差し)に導かれるようにして歩いてきた。--「わたし」もそのひとり。「いそいでかけあがつた」は「大きな眼差し」と「一体」になって、「大きな眼差し」を追いかける「一つの眼差し」の、激しく「肉体」をつきうごかされたときの動きをあらわしている。嵯峨は、「人間全体の歴史」を象徴的に書いている。
これでは、しかし、抽象的すぎる。抽象的でもいいのかもしれないが、よくわからない。いや、よくわからないという感じを、「いまわたしはなにかに答えられそうにおもう」という一行を挟んで、後半に登場するタイトルの「鯉のぼり」があおりたてる。なぜ、「鯉のぼり」が出てくるのだろう。
わからないことは、わからないまま、そこに置いておこう。いつか、なにかをきっかけにわかるかもしれない。きょうは、前半の眩暈を感じさせる行の展開だけで、詩の悦びは充分だ。
51 野火
静かにうねるようにして動いていく比喩--その音楽のような響き。それが嵯峨の詩のなかにある。
「吊橋」は「孤独」の比喩なのか、「孤独」が「吊橋」の比喩なのか。わからない。二つを同時に感じてしまう。「たしかに」「みごとな」「あらゆる」「むなしく」というようなことばは、直接比喩とは関係がないようにも思えるが、その一種の比喩の経済学(比喩を強く印象づけるなら、ふたつのことばの関係は距離が短い方が効果的だろう)を否定するような「ゆらぎ」が、「孤独」「吊橋」そのもののようにも感じられる。ゆっくりと、おそるおそる「孤独」と「吊橋」のあいだをわたっていく感じがする。
「たしかに」「みごとな」「あらゆる」「むなしく」はどれも四音節で、その統一されたリズムが不思議と「肉体」に残る。
この「孤独」と「吊橋」は二連目で「蝋燭」と「野火」に、「みちびいてゆく」という動詞は「照らす」と書き換えられている。
一連目で「孤独」と「吊橋」が同じものだったように、「蝋燭の火」と「野火」もまた同じものである。それはだれかを照らす。そして照らしたということも知られずに消えていく。
これを嵯峨はさらに詩と人間(読者?)の関係に重ね合わせているように、私には感じられる。
嵯峨は「詩」ではなく「時」と書いているのだが「記されることもなく」の「記す」という動詞を手がかりに「時」を「詩」と読み直すと、嵯峨の祈りが聞こえてくる。
ひとは「孤独」を吊橋や蝋燭や野火に託して考える。そうやって「ことば」を充実させる。それを書けば詩。けれど、その詩は、必ずしもだれかに読まれるとは限らない。書いたものの読まれないまま消えていく詩もある。けれど、その詩は、書かれること(書くことによって)、だれかの「孤独」をたしかにしっかりと結晶させたのだ。またその詩を読んだ人のこころをそっと照らしたのだ。読んだ人は書いた人と同じ人物かもしれない。そのとき「孤独」と「詩」は同じものになる。「詩」と「孤独」は同じものになる。--それでいい、と嵯峨は言っているように思う。
私のような、テキストをかってに書き換えて読むということを「誤読」というのだが、私は「誤読」をすることが好きだ。
遠浅の海をどこまでもどこまでも歩いて
ついにどこの岸にもたどりつかなかつたときに
わたしはただ一つの眼差しでみることしかできない
それはもつと大きな眼差しにみいつているのだ
そしてほんとうはそれがある日の岸なのだ
この書き出しは眩暈を感じさせる。「一つの眼差し」と「大きな眼差し」。「一つの眼差し」が「大きな眼差し」に見入る。そのとき見ているのは「眼」だろうか。「眼」ではない。「眼差し」。眼が指し示すものを感じ取り、それに見入る。大きな眼は何を見ているか。その視線は何を指しているか。だが、その指している「対象」ではなく、その「指し示し」が問題なのだ。
「ある日の岸」。明確に特定していないが、それが「ある日の」とあいまいだからこそ、「眼差し」の「指し示す」行為が、肉体を刺戟する。「大きな眼差し」と「わたし」の「一つの眼差し」が「一体」になる。「眼差し」が「一体」であるから、その「対象」が明確でなくても、なまなましく感じる。「眼差し」が「一体」になることで「肉体/感情」が「一体」になる。「同じ気持ち/同じ肉体」で「何か」を見る。
「ある日」は、しかし、「未来」ではない--と私は直観する。
「歩いて/たどりつけなかつたた」という「肉体」の体験(過去)が刺戟する「ある日」。だれかが「歩いた」。歩きながら、何かを見た。そのだれかの体験としての「眼差し」が、しかし、「過去」のものとしてではなく、「過去」から自分の視線をつきやぶって、目の前にあらわれる感じだ。だから、よけいに眩暈を覚える。「既視感」というのとも、すこし違う。「既視感」というのは自分の記憶。けれど「大きな眼差し」と「一体」になって見るのは、あくまで「大きな眼差し」が見てきたもの--他人の、「わたし」を超える大きな存在の「過去」を「いま」、さらには「未来」として見ていくということだ。
「いま」を突き破ってひとりの人間の存在を超える大きな「過去」が動き、それが「未来」になる。
よくみるとそこにもここにも同じような兎のあし跡がのこつている
いそいでかけあがつた小さな兎のあし跡もある
「兎」は小さな人間(わたし)の象徴(比喩)だ。小さなものが大きなものの視線(眼差し)に導かれるようにして歩いてきた。--「わたし」もそのひとり。「いそいでかけあがつた」は「大きな眼差し」と「一体」になって、「大きな眼差し」を追いかける「一つの眼差し」の、激しく「肉体」をつきうごかされたときの動きをあらわしている。嵯峨は、「人間全体の歴史」を象徴的に書いている。
これでは、しかし、抽象的すぎる。抽象的でもいいのかもしれないが、よくわからない。いや、よくわからないという感じを、「いまわたしはなにかに答えられそうにおもう」という一行を挟んで、後半に登場するタイトルの「鯉のぼり」があおりたてる。なぜ、「鯉のぼり」が出てくるのだろう。
わからないことは、わからないまま、そこに置いておこう。いつか、なにかをきっかけにわかるかもしれない。きょうは、前半の眩暈を感じさせる行の展開だけで、詩の悦びは充分だ。
51 野火
静かにうねるようにして動いていく比喩--その音楽のような響き。それが嵯峨の詩のなかにある。
孤独
それはたしかにみごとな吊橋だ
あらゆるひとの心のなかにむなしくかかつていて
死と生との遠い国境へゆちびいてゆく
「吊橋」は「孤独」の比喩なのか、「孤独」が「吊橋」の比喩なのか。わからない。二つを同時に感じてしまう。「たしかに」「みごとな」「あらゆる」「むなしく」というようなことばは、直接比喩とは関係がないようにも思えるが、その一種の比喩の経済学(比喩を強く印象づけるなら、ふたつのことばの関係は距離が短い方が効果的だろう)を否定するような「ゆらぎ」が、「孤独」「吊橋」そのもののようにも感じられる。ゆっくりと、おそるおそる「孤独」と「吊橋」のあいだをわたっていく感じがする。
「たしかに」「みごとな」「あらゆる」「むなしく」はどれも四音節で、その統一されたリズムが不思議と「肉体」に残る。
この「孤独」と「吊橋」は二連目で「蝋燭」と「野火」に、「みちびいてゆく」という動詞は「照らす」と書き換えられている。
一本の蝋燭がふるえながら燭台の上で消える
もし孤独のうえでとぼしい光りを放つて死ぬのが人間のさだめなら
その光りはたれを照らしているのだろう
あの遠い野火のように
ひとしれぬ野のはてで燃え
そしていつとなく消えてしまう火
一連目で「孤独」と「吊橋」が同じものだったように、「蝋燭の火」と「野火」もまた同じものである。それはだれかを照らす。そして照らしたということも知られずに消えていく。
これを嵯峨はさらに詩と人間(読者?)の関係に重ね合わせているように、私には感じられる。
時はどこにもそれを記していない
時もまた一つの大きな孤独だ
たれに記されることもなく燃えさかり
そして消えてしまうものは尊い
嵯峨は「詩」ではなく「時」と書いているのだが「記されることもなく」の「記す」という動詞を手がかりに「時」を「詩」と読み直すと、嵯峨の祈りが聞こえてくる。
ひとは「孤独」を吊橋や蝋燭や野火に託して考える。そうやって「ことば」を充実させる。それを書けば詩。けれど、その詩は、必ずしもだれかに読まれるとは限らない。書いたものの読まれないまま消えていく詩もある。けれど、その詩は、書かれること(書くことによって)、だれかの「孤独」をたしかにしっかりと結晶させたのだ。またその詩を読んだ人のこころをそっと照らしたのだ。読んだ人は書いた人と同じ人物かもしれない。そのとき「孤独」と「詩」は同じものになる。「詩」と「孤独」は同じものになる。--それでいい、と嵯峨は言っているように思う。
私のような、テキストをかってに書き換えて読むということを「誤読」というのだが、私は「誤読」をすることが好きだ。
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫) | |
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