渡会やよひ「かたぎり君の家」(「蒐」3、2015年01月05日発行)
そして、ついていくのだが。行ってみると、かたぎり君の弟が「うちの温室見てみない」と誘う。
シダについては私は何も知らない。だから名前をならべられても、区別がつかない。知らないことは調べるべきだと私はいつも叱られるのだが、調べたって、わからない。「そうか、これがオシダか」と図鑑を見たところで、次の瞬間には忘れている。身に付かない。身に付かなかったことは、私は「知った」とは言わない。
この詩では、むしろ「知らない」ということが大事でもある。
「わたし(渡会、と仮定しておく)」はシダについて何も知らない。知らないから「レースのようなシダ」ひとまとめにして「よく似ている」という感想が生まれる。「わたし」に「わかる」のはかたぎり君の弟が「説明してくれている」ということである。かたぎり君の弟は、「わたし」とは別な世界を識別している。その「別な世界」を「わたし」は知らない。このときの「違和」が、ここに書かれていることである。「別な世界(シダの世界)」を知ってしまえば、「違和」は消える。(また別の「違和」が生まれるかもしれないが。)だから、読者は、ここでは「知ってはならない」「調べてはならない」。「知らない」ということを「わたし(渡会)」と共有しなければならない。
他人が熟知した世界を、知らないまま進んで行くと、どうしても「違和」が拡大して、そこに別な世界があらわれてくる。
こういう「違和」は忘れることができない。「肉体」はいつまでも、それをおぼえている。だから、
ふつう、だれかと交流がなくなっても、その人がいなくなったとは思わない。死んだとは思わない。生きているとも意識はしないが、死んだとはめったに思わない。だから「いるような気がする」とも、思わない。「N? 知らない。生きてるんじゃないの」くらいのことしか思わない。
でも、渡会は「いるような気がする」と書く。
「いる」は「生きている」ということなのだが、そこから「生きて」が欠落して、「いる」。「存在」という概念が、微妙な形で浮かんでくる。
どこにいるのか、どの街にいるのか。
それは「わからない」が、渡会は「わたし」の中に「いる」と感じているのだ。「わたし」の「肉体」のなかに、あの温室があり、シダを説明する弟が「いる」。「わたし」の「肉体」は「おぼえている」。「肉体」にこだわるのは、「渡会」は弟とシダ(温室)を「ふくらはぎ」の記憶としても持っているからである。単なる「記憶」ではない。「蒸気の漏れる音」を聞いた、その耳。「足もとがおぼつかない」まま歩いた足。そして、ふくらはぎ。思い出すのは、いつでも「肉体」がおぼえていること、何かをおぼえている「肉体」そのものである。「肉体」が遠い記憶(過去)といまを「ひとつ」にしている。「肉体」は「ひとつ」であり、それが「ひとつ」であるということが、過去といまを「ひとつ」にする。そして、その「ひとつ」のなかに過去といまがあるという不思議さが「違和」を呼び覚ます。
この二行は強くて、おもしろい。Nについては「肉体」はいっしょについて行ったこと以外にはおぼえていない。そこに「特別な世界」があるわけではない。だから「消息は不明」ということばですますことができる。その違い--その違いのあらわれかたがおもしろい。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
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夜更けに隣室のNが
「かたぎり君の家に行くので一緒に行って」と言う
そして、ついていくのだが。行ってみると、かたぎり君の弟が「うちの温室見てみない」と誘う。
「シダ類ばかりさ。オシダ、シケシダ、クジャクシダ」
説明を聞きながら後をついていく
床にはホースのようなものが這い
蒸気の漏れる音もして足もとがおぼつかない
レースのようなシダの葉はどれもよく似ていて
種類も影も判別がつかない
「ベニシダ、シシガシラ、おなじみのスギナやトクサもあるよ」
シダについては私は何も知らない。だから名前をならべられても、区別がつかない。知らないことは調べるべきだと私はいつも叱られるのだが、調べたって、わからない。「そうか、これがオシダか」と図鑑を見たところで、次の瞬間には忘れている。身に付かない。身に付かなかったことは、私は「知った」とは言わない。
この詩では、むしろ「知らない」ということが大事でもある。
「わたし(渡会、と仮定しておく)」はシダについて何も知らない。知らないから「レースのようなシダ」ひとまとめにして「よく似ている」という感想が生まれる。「わたし」に「わかる」のはかたぎり君の弟が「説明してくれている」ということである。かたぎり君の弟は、「わたし」とは別な世界を識別している。その「別な世界」を「わたし」は知らない。このときの「違和」が、ここに書かれていることである。「別な世界(シダの世界)」を知ってしまえば、「違和」は消える。(また別の「違和」が生まれるかもしれないが。)だから、読者は、ここでは「知ってはならない」「調べてはならない」。「知らない」ということを「わたし(渡会)」と共有しなければならない。
他人が熟知した世界を、知らないまま進んで行くと、どうしても「違和」が拡大して、そこに別な世界があらわれてくる。
天井の暗い照明がまるでまるい月だ
アンリ・ルソーの絵の中に迷い込んだようだ
ではふくらはぎに巻きつくものがあるわたしは蛇使いなのか
こういう「違和」は忘れることができない。「肉体」はいつまでも、それをおぼえている。だから、
それからすぐにNはかたぎり君と別れ
わたしは引っ越した
Nの消息はずっと不明だが
かたぎり君の家はまだあるような気がする
かたぎり君とかたぎり君にそっくりな弟もいるような気がする
ふつう、だれかと交流がなくなっても、その人がいなくなったとは思わない。死んだとは思わない。生きているとも意識はしないが、死んだとはめったに思わない。だから「いるような気がする」とも、思わない。「N? 知らない。生きてるんじゃないの」くらいのことしか思わない。
でも、渡会は「いるような気がする」と書く。
「いる」は「生きている」ということなのだが、そこから「生きて」が欠落して、「いる」。「存在」という概念が、微妙な形で浮かんでくる。
どこにいるのか、どの街にいるのか。
それは「わからない」が、渡会は「わたし」の中に「いる」と感じているのだ。「わたし」の「肉体」のなかに、あの温室があり、シダを説明する弟が「いる」。「わたし」の「肉体」は「おぼえている」。「肉体」にこだわるのは、「渡会」は弟とシダ(温室)を「ふくらはぎ」の記憶としても持っているからである。単なる「記憶」ではない。「蒸気の漏れる音」を聞いた、その耳。「足もとがおぼつかない」まま歩いた足。そして、ふくらはぎ。思い出すのは、いつでも「肉体」がおぼえていること、何かをおぼえている「肉体」そのものである。「肉体」が遠い記憶(過去)といまを「ひとつ」にしている。「肉体」は「ひとつ」であり、それが「ひとつ」であるということが、過去といまを「ひとつ」にする。そして、その「ひとつ」のなかに過去といまがあるという不思議さが「違和」を呼び覚ます。
かたぎり君の家はまだあるような気がする
かたぎり君とかたぎり君にそっくりな弟もいるような気がする
この二行は強くて、おもしろい。Nについては「肉体」はいっしょについて行ったこと以外にはおぼえていない。そこに「特別な世界」があるわけではない。だから「消息は不明」ということばですますことができる。その違い--その違いのあらわれかたがおもしろい。
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