詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡会やよひ「かたぎり君の家」

2015-02-05 10:27:31 | 詩(雑誌・同人誌)
渡会やよひ「かたぎり君の家」(「蒐」3、2015年01月05日発行)

夜更けに隣室のNが
「かたぎり君の家に行くので一緒に行って」と言う

 そして、ついていくのだが。行ってみると、かたぎり君の弟が「うちの温室見てみない」と誘う。

「シダ類ばかりさ。オシダ、シケシダ、クジャクシダ」
説明を聞きながら後をついていく
床にはホースのようなものが這い
蒸気の漏れる音もして足もとがおぼつかない
レースのようなシダの葉はどれもよく似ていて
種類も影も判別がつかない
「ベニシダ、シシガシラ、おなじみのスギナやトクサもあるよ」

 シダについては私は何も知らない。だから名前をならべられても、区別がつかない。知らないことは調べるべきだと私はいつも叱られるのだが、調べたって、わからない。「そうか、これがオシダか」と図鑑を見たところで、次の瞬間には忘れている。身に付かない。身に付かなかったことは、私は「知った」とは言わない。
 この詩では、むしろ「知らない」ということが大事でもある。
 「わたし(渡会、と仮定しておく)」はシダについて何も知らない。知らないから「レースのようなシダ」ひとまとめにして「よく似ている」という感想が生まれる。「わたし」に「わかる」のはかたぎり君の弟が「説明してくれている」ということである。かたぎり君の弟は、「わたし」とは別な世界を識別している。その「別な世界」を「わたし」は知らない。このときの「違和」が、ここに書かれていることである。「別な世界(シダの世界)」を知ってしまえば、「違和」は消える。(また別の「違和」が生まれるかもしれないが。)だから、読者は、ここでは「知ってはならない」「調べてはならない」。「知らない」ということを「わたし(渡会)」と共有しなければならない。
 他人が熟知した世界を、知らないまま進んで行くと、どうしても「違和」が拡大して、そこに別な世界があらわれてくる。

天井の暗い照明がまるでまるい月だ
アンリ・ルソーの絵の中に迷い込んだようだ
ではふくらはぎに巻きつくものがあるわたしは蛇使いなのか

 こういう「違和」は忘れることができない。「肉体」はいつまでも、それをおぼえている。だから、

それからすぐにNはかたぎり君と別れ
わたしは引っ越した
Nの消息はずっと不明だが
かたぎり君の家はまだあるような気がする
かたぎり君とかたぎり君にそっくりな弟もいるような気がする

 ふつう、だれかと交流がなくなっても、その人がいなくなったとは思わない。死んだとは思わない。生きているとも意識はしないが、死んだとはめったに思わない。だから「いるような気がする」とも、思わない。「N? 知らない。生きてるんじゃないの」くらいのことしか思わない。
 でも、渡会は「いるような気がする」と書く。
 「いる」は「生きている」ということなのだが、そこから「生きて」が欠落して、「いる」。「存在」という概念が、微妙な形で浮かんでくる。
 どこにいるのか、どの街にいるのか。
 それは「わからない」が、渡会は「わたし」の中に「いる」と感じているのだ。「わたし」の「肉体」のなかに、あの温室があり、シダを説明する弟が「いる」。「わたし」の「肉体」は「おぼえている」。「肉体」にこだわるのは、「渡会」は弟とシダ(温室)を「ふくらはぎ」の記憶としても持っているからである。単なる「記憶」ではない。「蒸気の漏れる音」を聞いた、その耳。「足もとがおぼつかない」まま歩いた足。そして、ふくらはぎ。思い出すのは、いつでも「肉体」がおぼえていること、何かをおぼえている「肉体」そのものである。「肉体」が遠い記憶(過去)といまを「ひとつ」にしている。「肉体」は「ひとつ」であり、それが「ひとつ」であるということが、過去といまを「ひとつ」にする。そして、その「ひとつ」のなかに過去といまがあるという不思議さが「違和」を呼び覚ます。

かたぎり君の家はまだあるような気がする
かたぎり君とかたぎり君にそっくりな弟もいるような気がする

 この二行は強くて、おもしろい。Nについては「肉体」はいっしょについて行ったこと以外にはおぼえていない。そこに「特別な世界」があるわけではない。だから「消息は不明」ということばですますことができる。その違い--その違いのあらわれかたがおもしろい。

途上
渡会 やよひ
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嵯峨信之を読む(4)

2015-02-05 09:27:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
4 別離

できるなら
ぼくはそこでその全部を暗誦したかつた
(生きた日のかぎりを)
それからプールの縁に桜草をいつぱいに植えて行きたかつた
わらべ唄をうたい
遠い日の子供になつて

 幼い日の、だれかとの別れを描いているか「生きた日」ということばから、だれかの死の思い出かもしれない。
 三行目は二行目の言い直し(補足説明)だが、「全部」と「かぎり」という反対のことばが対になっているところに詩を感じた。「全部」は「限定」しないから「全部」。それに対して「かぎり」は「限定」。限定なしと限定が向き合っているのだが、「生きた日のかぎり」ということばが死を連想させ、「全部」の方が「その」という限定をうけているにもかかわらず、言い尽くせない感じ、「かぎり」を超えてどこまでもひろがる印象を引き起こす。「全部」には果てがない。「かぎり(限定)」をしようにも、それができない。どんどん増えていく。増えていくものを「全部」暗誦することは不可能だ。
 そこから悲しみが生まれてくる。

5 イヴ以前の女

笑うことも
泣くことも
まだなに一つ知らぬ女の死顔の無限の寂しさに堪えられなかつた

 「ひとつ」と「無限」は反対のことばである。(「別離」の「全部」と「かぎり」のうように。)「死」と「無限」も反対のことばかもしれない。対極にあることばが一行のなかで出会っている。それは衝突であると同時に分裂でもある。
 こんなふうに「ことば」を文脈からとりはらって見つめることは「解釈」(詩の理解の方法)として正しくはないかもしれない。けれど、詩を読んでいて、こころがまず反応するのは「論理的な意味」ではなく、そこに動いていることばそのものに対してである。「ひとつ」と「無限」は反対のことばなのに、それが一行のなかに同居している。その不思議さに、いままで知っているつもりだった「ひとつ」と「無限」が揺さぶられる。そして、「ひとつ」と「無限」があいまいになったところへ、「死顔」「寂しさ」が結びついてくると、「無限」なのに「ひとつ」になってしまう。寂しさは果てしないのに、果てしないことによって「ひとつ」、どこまでもどこまでも「無限にひとつ」という形に結晶してくる。
 知っているつもりのことばが、知らなかったことばに変化していく。知らなかった(知らない)ものが、そのとき「知っている」に変わる。この「知っている」は、私の勘違い(誤読)かもしれないが、こんなふうに「誤読」することが詩を読むことだと思う。
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
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街角は次々に

2015-02-05 00:53:10 | 
街角は次々に

街角は次々に配置される。
秘密の入り口として。よこしまな隠れ家として。
曲がってはならない。
通ってはならない。
否定のことばが角を曲がり、
枝分かれして、入り乱れた角を増やしていく街。
目を向けるたびに、
拒否が密生する。
来るところじゃない。
扉を開けてはならない。
だが己の声を聞く人間は知っている。
街角はいつでも、こころのように、
隠れるふりをしてあらわれ、
隠れながら誘う。


*

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