6 時
書き出しの5行だが、少し不思議。「墜落する」は「手を放したら」ということばから生まれているのだと思うけれど、その「墜落」した先は海?
「港」へ「帰る」ということばが、「海」を連想させる。「港」へ「帰る」ならば「墜落」というよりは、漂流するイメージ、垂直運動(墜落)ではなく、水平運動なのだが、どうして墜落なのだろう。
つづきを読むと、「墜落」のイメージが少し変わる。
嵯峨は最初から帆船を思い浮かべている。そして嵯峨自身は「帆」になっている。「帆」なって「時の海」を航海する船を動かしている。「帆」が落ちてしまうと帰れない。「櫂」だけでは航海はできない。
おもしろいのは、「帆柱の上」の滑車を、「魂の上」と言いなおしていることだ。
実際の「航海」、ほんとうの帆船での航海ではなく、「魂」の航海なのだ。
「魂」を手放したら「墜落」する、と嵯峨は言いたいのかもしれない。
「魂」が航海をするのは「もとの港に帰る」ため、とも嵯峨は言いたいのだろう。詩とは魂の航海のことであり、それは最初の「港」に帰るためのもの。「大きな櫂」を漕ぐのが「肉体」なら、「肉体」よりも「魂」を重視している、ということになるのかも。
しかし、詩は「論理」ではないから、こういうことは厳密に考えても意味はないだろうなあと思う。
たっぷりと風をはらんで帆を輝かせ、港へ帰る船--そういう理想をもって「時」のなかを動いているイメージをぱっとつかみ、そこから帆が「切り落とされる」や「墜落する」という感覚に「肉体」を重ねれば、嵯峨に出会えるのだろう。
7 夜
書き出しがかわっている。
「それほどの夜中」の「それほど」がわからない。「それ」ということばは、「それ」以前に何かが書かれていて、それを受けることば。先行することばがないので、何のことかわからない。
わからないけれど、はっとする。何?と疑問が浮かぶ。ふつうはこんな言い方をしないとも思う。ふつうじゃない。
ふつうじゃないから、詩。詩は変わっているのだ。ふつうの言い方ではないえないから詩になる。詩になってしまう。
ひとはしかし、大事なことは何とか言いなおそうとする。
言いなおされたといっても、よくわからない。よくわからないけれど、あれやこれやの「夜」を思い出す。夜の全部を思い出す。でも、わからない。
この否定形が「わからない」の原因かもしれない。作者が「到達できない」なら読者である私はもっと「到達できない」--はずなのだが、不思議。「わからない」はずの「到達できない」という感じだけは「わかる」。
何かにたどりつこうとする。けれど、そこへたどりつけない。たどりつくまでに、とても苦労する。こういう「肉体」の感じ、あるいは「精神」の感じは、体験したことがある。何かをしたいけれど、それが達成できない。それは、いつでも体験していることだ。それを思い出す。
この「できない」がいっぱいつまった「夜」。
先に読んだ「時」にも「帰れない」という否定の動詞があった。「別離」の「できるなら/ぼくはそこでその全部を暗誦したかつた」も「暗誦できなかった」だろう。
「できない(不可能)」と向き合い、不可能ゆえにもがく--それが「青春」の記憶を刺戟する。青春の肉体をくすぐる。
「できない」を別な表現で言うなら「墜落(する)」かもしれない。
三行目に出てくる「堕ちて」は「時」の三行目の「墜落する」に重なる。「時」の「墜落する」の「主語」は「魂」と言いなおされていた。
「魂」は「墜落する」、そしてほんとうのことが「できない」。その不可能を感じながら、なお、それをめざす--魂のほんとうの姿(元の港/純粋な魂)をめざす。そういう魂の運動を嵯峨は象徴詩として書いている。
手を放したら
誰もそこにいることはできない
目ざめているときも眠つているときもはてしなく墜落する
どんな大きな櫂で漕いでいつても
ついにもとの港には帰れない
書き出しの5行だが、少し不思議。「墜落する」は「手を放したら」ということばから生まれているのだと思うけれど、その「墜落」した先は海?
「港」へ「帰る」ということばが、「海」を連想させる。「港」へ「帰る」ならば「墜落」というよりは、漂流するイメージ、垂直運動(墜落)ではなく、水平運動なのだが、どうして墜落なのだろう。
つづきを読むと、「墜落」のイメージが少し変わる。
それはもつとも大切なものが
たとえば帆柱の上で軋る滑車が
(魂の上でと言つてもいい)
そのたえまなく廻る滑車から帆が切り落とされたのだ
嵯峨は最初から帆船を思い浮かべている。そして嵯峨自身は「帆」になっている。「帆」なって「時の海」を航海する船を動かしている。「帆」が落ちてしまうと帰れない。「櫂」だけでは航海はできない。
おもしろいのは、「帆柱の上」の滑車を、「魂の上」と言いなおしていることだ。
実際の「航海」、ほんとうの帆船での航海ではなく、「魂」の航海なのだ。
「魂」を手放したら「墜落」する、と嵯峨は言いたいのかもしれない。
どんな大きな櫂で漕いでいつても
ついにもとの港には帰れない
「魂」が航海をするのは「もとの港に帰る」ため、とも嵯峨は言いたいのだろう。詩とは魂の航海のことであり、それは最初の「港」に帰るためのもの。「大きな櫂」を漕ぐのが「肉体」なら、「肉体」よりも「魂」を重視している、ということになるのかも。
しかし、詩は「論理」ではないから、こういうことは厳密に考えても意味はないだろうなあと思う。
たっぷりと風をはらんで帆を輝かせ、港へ帰る船--そういう理想をもって「時」のなかを動いているイメージをぱっとつかみ、そこから帆が「切り落とされる」や「墜落する」という感覚に「肉体」を重ねれば、嵯峨に出会えるのだろう。
7 夜
書き出しがかわっている。
それほどの夜中
「それほどの夜中」の「それほど」がわからない。「それ」ということばは、「それ」以前に何かが書かれていて、それを受けることば。先行することばがないので、何のことかわからない。
わからないけれど、はっとする。何?と疑問が浮かぶ。ふつうはこんな言い方をしないとも思う。ふつうじゃない。
ふつうじゃないから、詩。詩は変わっているのだ。ふつうの言い方ではないえないから詩になる。詩になってしまう。
ひとはしかし、大事なことは何とか言いなおそうとする。
それほどの夜中
夜夜をどれほどつみかさねても到達できない夜中
言いなおされたといっても、よくわからない。よくわからないけれど、あれやこれやの「夜」を思い出す。夜の全部を思い出す。でも、わからない。
到達できない
この否定形が「わからない」の原因かもしれない。作者が「到達できない」なら読者である私はもっと「到達できない」--はずなのだが、不思議。「わからない」はずの「到達できない」という感じだけは「わかる」。
何かにたどりつこうとする。けれど、そこへたどりつけない。たどりつくまでに、とても苦労する。こういう「肉体」の感じ、あるいは「精神」の感じは、体験したことがある。何かをしたいけれど、それが達成できない。それは、いつでも体験していることだ。それを思い出す。
この「できない」がいっぱいつまった「夜」。
先に読んだ「時」にも「帰れない」という否定の動詞があった。「別離」の「できるなら/ぼくはそこでその全部を暗誦したかつた」も「暗誦できなかった」だろう。
「できない(不可能)」と向き合い、不可能ゆえにもがく--それが「青春」の記憶を刺戟する。青春の肉体をくすぐる。
「できない」を別な表現で言うなら「墜落(する)」かもしれない。
ああ その暗闇の底へ堕ちたぼくをもう一度救いあげてくれ
三行目に出てくる「堕ちて」は「時」の三行目の「墜落する」に重なる。「時」の「墜落する」の「主語」は「魂」と言いなおされていた。
「魂」は「墜落する」、そしてほんとうのことが「できない」。その不可能を感じながら、なお、それをめざす--魂のほんとうの姿(元の港/純粋な魂)をめざす。そういう魂の運動を嵯峨は象徴詩として書いている。
嵯峨信之全詩集 | |
嵯峨 信之 | |
思潮社 |