詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(5)

2015-02-06 10:58:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
6 時

手を放したら
誰もそこにいることはできない
目ざめているときも眠つているときもはてしなく墜落する
どんな大きな櫂で漕いでいつても
ついにもとの港には帰れない

 書き出しの5行だが、少し不思議。「墜落する」は「手を放したら」ということばから生まれているのだと思うけれど、その「墜落」した先は海?
 「港」へ「帰る」ということばが、「海」を連想させる。「港」へ「帰る」ならば「墜落」というよりは、漂流するイメージ、垂直運動(墜落)ではなく、水平運動なのだが、どうして墜落なのだろう。
 つづきを読むと、「墜落」のイメージが少し変わる。

それはもつとも大切なものが
たとえば帆柱の上で軋る滑車が
(魂の上でと言つてもいい)
そのたえまなく廻る滑車から帆が切り落とされたのだ

 嵯峨は最初から帆船を思い浮かべている。そして嵯峨自身は「帆」になっている。「帆」なって「時の海」を航海する船を動かしている。「帆」が落ちてしまうと帰れない。「櫂」だけでは航海はできない。
 おもしろいのは、「帆柱の上」の滑車を、「魂の上」と言いなおしていることだ。
 実際の「航海」、ほんとうの帆船での航海ではなく、「魂」の航海なのだ。
 「魂」を手放したら「墜落」する、と嵯峨は言いたいのかもしれない。

どんな大きな櫂で漕いでいつても
ついにもとの港には帰れない

 「魂」が航海をするのは「もとの港に帰る」ため、とも嵯峨は言いたいのだろう。詩とは魂の航海のことであり、それは最初の「港」に帰るためのもの。「大きな櫂」を漕ぐのが「肉体」なら、「肉体」よりも「魂」を重視している、ということになるのかも。
 しかし、詩は「論理」ではないから、こういうことは厳密に考えても意味はないだろうなあと思う。
 たっぷりと風をはらんで帆を輝かせ、港へ帰る船--そういう理想をもって「時」のなかを動いているイメージをぱっとつかみ、そこから帆が「切り落とされる」や「墜落する」という感覚に「肉体」を重ねれば、嵯峨に出会えるのだろう。

7 夜

 書き出しがかわっている。

それほどの夜中

 「それほどの夜中」の「それほど」がわからない。「それ」ということばは、「それ」以前に何かが書かれていて、それを受けることば。先行することばがないので、何のことかわからない。
 わからないけれど、はっとする。何?と疑問が浮かぶ。ふつうはこんな言い方をしないとも思う。ふつうじゃない。
 ふつうじゃないから、詩。詩は変わっているのだ。ふつうの言い方ではないえないから詩になる。詩になってしまう。
 ひとはしかし、大事なことは何とか言いなおそうとする。

それほどの夜中
夜夜をどれほどつみかさねても到達できない夜中

 言いなおされたといっても、よくわからない。よくわからないけれど、あれやこれやの「夜」を思い出す。夜の全部を思い出す。でも、わからない。

到達できない

 この否定形が「わからない」の原因かもしれない。作者が「到達できない」なら読者である私はもっと「到達できない」--はずなのだが、不思議。「わからない」はずの「到達できない」という感じだけは「わかる」。
 何かにたどりつこうとする。けれど、そこへたどりつけない。たどりつくまでに、とても苦労する。こういう「肉体」の感じ、あるいは「精神」の感じは、体験したことがある。何かをしたいけれど、それが達成できない。それは、いつでも体験していることだ。それを思い出す。
 この「できない」がいっぱいつまった「夜」。

 先に読んだ「時」にも「帰れない」という否定の動詞があった。「別離」の「できるなら/ぼくはそこでその全部を暗誦したかつた」も「暗誦できなかった」だろう。
 「できない(不可能)」と向き合い、不可能ゆえにもがく--それが「青春」の記憶を刺戟する。青春の肉体をくすぐる。
 「できない」を別な表現で言うなら「墜落(する)」かもしれない。

ああ その暗闇の底へ堕ちたぼくをもう一度救いあげてくれ

 三行目に出てくる「堕ちて」は「時」の三行目の「墜落する」に重なる。「時」の「墜落する」の「主語」は「魂」と言いなおされていた。
 「魂」は「墜落する」、そしてほんとうのことが「できない」。その不可能を感じながら、なお、それをめざす--魂のほんとうの姿(元の港/純粋な魂)をめざす。そういう魂の運動を嵯峨は象徴詩として書いている。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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さとう三千魚『はなとゆめ』

2015-02-06 09:52:41 | 詩集
さとう三千魚『はなとゆめ』(無明舎出版、2014年10月30日発行)

 さとう三千魚『はなとゆめ』の作品は繰り返しが多い。「野外」という作品。

カタバミの花 咲いた
カタバミの花 咲いたの

きみのいない庭のアマリリスの鉢から

咲いた
咲いたの

カタバミの花

咲いたの

細い茎の先の
先に

むらさき色の花のひらいて

むらさき色の小さな花をひらいて
ひとつふたつみっつ

ひらいて

 書かれている「事実」は単純である。「きみのいない庭のアマリリスの蜂からカタバミの花が咲いた。むらさき色の小さな花である」ということが基本的な事実。なぜ、ほとんど同じことばで何度も繰り返すのか。
 対話なのか。ひとりが「カタバミの花が咲いた」と告げる。それをその花を実際にはみることができない人が「カタバミの花が咲いたの」と繰り返すことで、告げてくれた人が見ている世界を想像している。たとえば「きみ」はいま何らかの事情(病気や何か)で庭を見ることができない。その「きみ」に詩人は庭の様子を報告する。「きみ」はことばを繰り返すことで、自分が見た花の姿を思い出している。詩人といっしょに花を見たときのことを思い出しているのか。
 しかし、この詩は、もっと切羽詰まっている。
 詩人の孤独な対話かもしれない。「きみ」はいない。詩人はひとりだ。庭にカタバミの花が咲いた。その「事実」をことばで反芻する。最初に「カタバミの花 咲いた」というときは、「事実」、外の世界、客観的風景の描写だが、次にそれをくりかえすとき、それは「外の世界」ではない。詩人の「内部の世界」である。
 それは最初の3行目に象徴的にあらわれている。

きみのいない庭のアマリリスの鉢から

 「きみのいない」庭。きみがいてもいなくてもカタバミの花は咲いている。その「事実」はかわらない。「きみのいない」と書かなくても、「きみがいない」という「事実」はかわらない。
 「いない/ない」というのは、「客観」のように見えて、「客観」ではないのかもしれない。「いる/ある」は、その「事実」を描写することで証明できるが、「いない/ない」は簡単ではない。「きみ」という存在を知っていないければならない。「きみ」の存在を知らないひとは「きみのいない庭」とは言えない。
 さとうが見つめている庭は、「安倍首相のいない庭」と言っても「きみのいない庭」と言っても、さとう以外には同じに見える。「きみ」を知っているからこそ、「きみ」をおぼえているからこそ、さとうは「きみのいない」庭、という。
 「きみ」をおぼえているからこそ始まる、さとうの「内部の世界」なのだ。
 「きみのいない」ということばが書かれていないときも、くりかえされる2行目で、さとうは「きみ」を感じながら世界を見ている。

細い茎の先の
先に

 この不完全な(?)繰り返し、同じことをくりかえせずに、その一部だけを繰り返してしまう切実さは、後半に別の形でくりかえされる。
 ひとは大切なことは何度でもくりかえす。「事実」をことばでくりかえし、「内部」の世界にし、その内部の世界をていねいにととのえる。

むらさき色の小さな花ひらいて
消えていったの

消えていくものは

細い茎の先のむらさき色の花ひらいて
細い茎の先の小さなむらさき色の花ひらいて

先なるものと
より先なるものと

なってきみは消えていったの

消えていくきみがいたの

いくつも消えていくきみがいたの
いくつもいくつも消えていくきみがいたの

消えていくきみをしずかにささえていたの
消えていくきみをしずかにささえていたかったの

 「きみ」は「いない」のではなく、「きみ」は「いた」。そして「消えていった」だから、さとうはことばをくりかえすことで「いま/ここ」の「事実」を確かめているのではなく、「いま/ここ」を「きみのいた」時間へとつないでいるのである。
 突然いなくなるのではなく、そこにいながら少しずつ消えていく。何かが牛縄もテイク。「先」を残して、少しずつ消えていく。その「先」までの長い時間。最後まで「先」にあるのは、「きみ」がみせる懸命の笑顔の「花」かもしれない。
 さとうの「内部」にはいつも「きみ」がいる。その「きみ」が「いる」世界へ「いま/ここ」をしっかりと結びつけるために、同じことばをくりかえす。「先」から「元」へかえるように。
 ときには、同じことばをくりかえす余裕がなくて、急いで、急いで急いで急いで、そのいちばん重要なことばだけをくりかえす。
 さらに「ささえていた」に「ささえていたかった」という自分の「欲望/願い/願望」をつけくわえる。
 かなうことのない祈りのように。

 あ、くりかえしは「祈り」だったのだ。

はなとゆめ―詩集
さとう三千魚
無明舎出版

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彼、

2015-02-06 00:42:47 | 
彼、

彼はいつも二本の鉛筆を同時につかう。
濃くやわらかい鉛筆と薄く硬い鉛筆を重ねてスケッチする。
曲線を描くとはみ出していく輪郭と隠れる影が交錯する。
顔にひそんでいた欲望は、ある瞬間ははじき出され、別の瞬間はおびえる。
唇は甘い舌のように乱れ、拒絶をなめるように誘う。
眼は他人のような嘘とあからさまな真実を受け入れている。
それは自画像なのか、恋人の肖像なのか。

*

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