詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(2)

2015-02-03 10:50:50 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
2

 「心性」。「しんせい」と読むのだろうか。広辞苑をひくと「天性」という「意味」も書いてある。「こころの天性」、さずけられたこころ、か。生まれたままのこころ、本質としての、こころ。

自らを太陽に近づけるために
涯しない氷原へむかつて自分をおいやるものが
しずかにしずかに一日中
愛の糸車を廻している
そして今日
その糸で織られた大きな帆がいつぱい風を孕んで
海から運河の上を滑るようにさかのぼつてくる

 「太陽」と「氷原」は「矛盾」している。太陽に近づくには氷原とは反対の方向に進まなければならない。太陽から遠いから水は凍る。
 「論理」的に考えるならそうなるのだが、この二行は矛盾している、非論理的であるからこそ、「論理」以外のところに響いてくる。何かをするために反対のことをする。反対のことをして、反動でほんとうにしたいことをする。食べたいものをぐっと我慢して最後まで残しておいて、がつがつ食う。そういう「欲望」、あるいは「本能」のようなもの、だれもが肉体でおぼえていることばにならないものを、この二行の「矛盾」は刺戟してくる。
 「肉体」を直接刺戟することばではなく、「太陽」「氷原」という大きな世界のことばが、「肉体」を洗い清め、「矛盾」を美しくしている。
 「氷原」がどこにあるのか、この詩ではわからないが、「氷」のなかにある水が「海」「運河」という「水」になって動く。「さかのぼる」が「水源」を連想させる。「氷原」は「水源」のように、ある「原点」なのだろう。
 太陽(宇宙の頂点/中心)に近づくために、詩人は「原点」へ自分をおいやる。「原点」に到達すれば、そこに「太陽」があるかもしれない。「氷原」にある「太陽」、「氷のなかの太陽」というのは、これも矛盾だが、矛盾が「存在」を強烈にする。
 矛盾のなかで、ことばがいったん崩れ、そこから矛盾をのりこえる運動を探してことばが動く--そういう動きのなかに、詩があるのかもしれない。
 論理にこだわっていたのでは、詩は見えない。
 「太陽」は「氷原」はかけ離れている。そのかけ離れたものを、向き合った二行のことばのなかにつなぎとめる力、そのかけ離れたものの結びつきに驚く瞬間--そこにこそ詩があるのかもしれない。
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青山みゆき『赤く満ちた月』

2015-02-03 10:29:02 | 詩集
青山みゆき『赤く満ちた月』(思潮社、2014年10月30日発行)

 「赤く満ちた月」の2連目の

耳の奥が冷たい日は
ひとりはこわいねひとりはいたいんだね

 という2行が魅力的だ。「耳の奥」の「奥」にはっとする。ふつう、耳の端っこ(?)というか、外側が冷たい。特に冬は風があたると冷たいのだが、そうではなくて「奥」。肉体の「奥」というのは血が流れているからたいてい「あたたかい」はずなのに、そこが冷たい。
 この「冷たい」は次の行で「ひとり」ということばに置き換えられている。「孤独」である。「孤独」が「冷たい」。そして「こわい/いたい」。「肉体」の「奥」(内部)で「ひとり(孤独)」を感じている。このとき青山の「こころ」は「耳の奥」にある。

きれいに剥がせないラベルがかなしくて
買ったばかりのワイングラスを
床にたたきつけてやった

 途中に出てくるこの3行1連。「床にたたきつけてやった」というのは、私には納得できないものがあるのだが、「きれいに剥がせないラベルがなかしくて」は「耳の奥が冷たい」と同じように、とても美しく感じられる。
 なぜ、それが「かなしい」のか。
 その説明をしようとするとむずかしい。最初に引用した「ひとり」と呼応していると思う。「ひとり」でグラスのラベルを「きれいに」剥がそうとしている。「きれいに」にこだわる。こだわることが、それしかない。孤独。ひとり。そういう「肉体」が見える。

 「赤く満ちた月」というのは、いわゆる詩というか、まあ、詩らしい形をしている。そういう詩篇のほかに青山は奇妙な作品も書いている。「息を殺す」「昭和の女」「ゆびさきを見ている」。1行1行が長い。

言いそびれたことばのように置き去りにされた携帯が緑いろに点滅している
すべり台の後ろに隠れたまあくんを誰もさがしてくれない おかあさん、どこにいるの
魚が池の底で笑っている 兄が黙って壁の穴をのぞいている(もういいのでは)
仏陀のように西洋ナシはすでに天を黄金色に染めはじめている
                               (「息を殺す」)

 これは何だろう。
 それぞれの行が不定型(自由律)の短歌のように見える。最近の若い人の書いている短歌は、私には、「感性」自慢のようにみえて不気味である。「定型」があるので、そこにあてはめてしまえばどんな感性も短歌になると甘えきっていて、ことばに「論理」というものがないように思える。「論理」の「理」がないと、「真」がつかまえられない。「真理」にたどりつけないと私は思っている。
 青山の「一行詩」は、「五七五七七」という定型のかわりに「(論)理」を選びとっている。
 「言いそびれたことば」、どこかに置き去りにしてきたことば、それが「置き去りにされた」携帯へとつながり、その「携帯」のなかにはまた別のことばが「ある」。メールか、あるいはただの着信を知らせるだけの点滅かもしれないが、着信だけでメッセージがなくても、発信したときに言おうとした誰かのことばがある。それは、いま「言いそびれた」ことばとなって、点滅している。
 隠れんぼうで見つけてもらえない(さがしてもらえない)まあくん。それは、もしかすると忘れさられているのかも。いや、いじわるされているのかも。いじめかも。声に出せない不安。その不安の中で「おかあさん、どこにいるの」とこころのなかで訴える。声を出してしまえば、「隠れている」(隠れんぼう)の遊びが成り立たなくなる。その矛盾のなかで動くこころ。

ペイシーアで買ったアジを食べる土曜日 セブンイレブンで買った肉じゃがを食べる日曜日

 というような、今風の短歌短歌した一行もあるのだけれど。これは、あまりおもしろくない。

耳の奥が冷たい日は
ひとりはこわいねひとりはいたいんだね

きれいに剥がせないラベルがかなしくて
買ったばかりのワイングラスを
床にたたきつけてやった

 これを「一行詩(自由律短歌)」にすると、どうなるかな?
 行分けよりもおもしろくなる--というのは、私の「感覚の意見」。


赤く満ちた月
青山 みゆき
思潮社

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長い雨のあと

2015-02-03 06:00:00 | 
長い雨のあと

長い雨のあと、流れ込んできた泥で池の水は黄色く濁っている。
裸の木は濡れた黒い幹を逆さまに映している。
透明な水に映るときよりも、なまめかしい強さがある。

黄色い泥のせいかもしれない。
鏡が朱泥によってガラスの透明を失い、透明な反射を手に入れるように、
池は濁りを体内にためこむことによって
つややかな色を水面にひろげる。

共犯、ということばが割り込んでくる。いま、ここにはない比喩と結びつき、
意味をつくりたがっている。その欲望。
しばらく放っておいて、まだ放っておく、そしてことばは少し引き返す。

水中をまさぐるように幹から分裂して潜っていく黒い枝の間には
灰色の空がやはり逆さまに映っている。
この空が逆さまに映るということばは、つまらない観念か、
あるいは発見か。

うまくいかない--詩にならない。
共犯の方へついていけばよかったのか。
コンビニエンスストアで買ってきたエッグサンドを噛み散らしながら
ことばは考える。考えをやめるためには
石でも投げ落として池のそこからさらに濁った泥を噴き上げさせるしかない。


*

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