詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島浩二「図書館は黄昏を抱きしめる」

2015-02-17 11:31:14 | 詩(雑誌・同人誌)
小島浩二「図書館は黄昏を抱きしめる」(「モーアシビ」30号、2015年02月10日発行)

 詩は不思議だ。作者が書きたいことはここなんだろうなあ、でも私が読みたいのは別なところ。そういうとき、私は、作者を無視する。
 小島浩二「図書館は黄昏を抱きしめる」は、まあ、タイトルは読みたくないね。というか、タイトルを読んだ瞬間、この詩全体を読みたいという気持ちは消えるのだけれど、批判するにはどう言えばいいのか。どんなふうに批判できるか、そのとき私のことばはどんなふうに動くのか。それを知りたいと思って読みはじめたら……。

閲覧室 に
西陽が射して 日向
ほこりは 活字の
断片に 見えました

 あ、おもしろい。「ほこりは 活字の/断片に 見えました」はほこりが活字に見えたということか、それとも活字の端っこ(?)に断片のように見えたのか。ほこりが「比喩」なのか、活字が「比喩」なのか。私は即物的な人間なので、活字の縁に触れている活字に気づいた、と読んだ。そのほこりに西陽が射して、ほこりが黄色く輝いている。
 ほこりも活字も「比喩」ではなく現実と思うと、図書館がなつかしくなる。
 一字空きの「空き(空白)」が世界をばらばらにして、その断片を輝かせている。全体はどうでもいい。断片しか見えない、という感じになるのも、妙にうれしい。西陽、夜へ帰っていく太陽は世界をばらばらに孤立させるのかな?

眼差しは活字を追います
難しい漢字も何となく覚えています
ただ 上手く表記できないだけです

 不思議ななつかしさがある。漢字にてこずった子供のころを思い出す。(いまでもてこずってはいるけれど。)
 1連目に出てきた「活字」が2連目にも出てくるが、ここでも「断片」として出てきているように思える。本を読むとき、ストーリーを追っているのか、それとも活字を追っているのか。活字を追って、音にして、ことばをつかんで、それからまた活字を追いかける。そういう「肉体」の感覚を思い出したりする。
 小島は「いま」を書いているのかもしれないが、その「いま」のなかへ「過去」が噴出してくる。「いま」を「過去」が突き破って動く。そんな印象がある。そして、それは考えようによっては「図書館」のあり方そのもののようでもある。古い本(古典)を読むと、いつでも「いま」を突き破って動いてくる「過去」の力を感じる。
 小島は、しかし、そんな「うるさい」ことは言わない。「意味」を語らない。
 それがまた「なつかしい」という感じを刺戟する。

 眼が 痛い

紙の饐えた におい
生もの 本の味
その記憶

 あ、いいなあ。「意味」を語らずに、逆戻り。あくまで「生理」にこだわる。古い本の、「紙の饐えた におい」。いろんなひとの、手の汗がしみこんだせいかな? それはそきまま、「本」が「生もの」であることを語る。新鮮なときは、みんなが喜んで味わう。時間が経つに連れて、だんだん腐ってくる。古くなってくる。「饐えた におい」がしてくる。あ、本は「生もの」だったのだと気づく。
 その直前の、独立した1行。「眼が 痛い」は小さい活字を読むと(特に日が傾いた時間に読むと)眼が痛いということなのかもしれないが、その「痛み」は活字(本)が発する「饐えた におい」が原因かもしれない。醗酵するにおいは、眼に刺激的だ。何か、眼を射してくるものがある。
 この、本のことを書いているのに、図書館のことを書いているいるのに、そこに「嗅覚」(におい)や「生もの」(味覚の変化)が混じり込んでくる部分が、「肉体の記憶」を刺戟して、とてもおもしろい。
 本を読むのは「知的」なこと、「頭」の仕事かもしれないけれど、それだけではない。どこかで、知らず知らず「肉体」を総動員している、という感じがする。幼いときは、そういうことには無頓着。「難しい漢字」もそれを読めるかどうか、意味がわかるかどうかが重要な位置を占めるけれど、そのとき覚えた「意味」や「読み方」、あるいは「表記(書き方)」とは別なところで、本の記憶は動いているね。
 こういう行をもっと読みたいなあ、と私は思う。そう思っているから、そう思ったところで「誤読」を繰り返している。
 でも、このあと詩は別な方向へ動いていく。

「また 会えるかな」
本を閉じて呟いた
少年と すれ違った書架

 「少年」が小島なのか、「書架」が小島なのか。両方とも小島なのだろうけれど、ここから「定型」の「少年の記憶」、「少年」をなつかしむ詩にかわってしまって、「本」の「生もの」の感じが突然消える。
 そこからが、つまらない。前半はとってもおもしろいのに。

水にその名を―詩集
小島 浩二
七月堂
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嵯峨信之を読む(16)

2015-02-17 08:35:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
28 小詩篇

 三つの断章の、二つ目。

愛というものは
薔薇の新種のようなものだろう
そのつよい匂い
そのやるせない色
そしてもの憂いつかれ
もしそれを数え唄に唄おうとすれば
それはどこまでも果しなくなつてしまう

 愛には限りがない、無数の形があるということか。
 途中の「そのつよい匂い/そのやるせない色/そしてもの憂いつかれ」のリズムがおもしろい。「その」「その」と繰り返されている。新種の「薔薇」に意識が集中している。嗅覚と視覚が薔薇にぴったりと密着している。そういう強さを「その」ということばの響きに感じる。「その」と言わざるを得ない何か。
 「そのつよい匂い/そのやるせない色」と「その」を繰り返すとき、匂いがいっそう強くなり、色がいっそうやるせなくなる。
 ところが「もの憂いつかれ」には「その」ということばがない。肉体が薔薇から少し離れている。離れた場所で冷静に見つめている。
 愛とは、そういうものも含めている。熱中するだけではないのだ。

29 出会い

 この詩も短い。

ぼくは何処かへいつて
ある精神から一株の松葉牡丹を持ち帰つたのだ
(一日一日を小さな花でやさしく充たすために)
そしてこころの霜を消して
あたたかな斜面を登つていこう
その頂きでふたりは始めて出会うだろう

 「ある精神」とは「女の精神」のことだろうか。その精神の象徴「松葉牡丹」によって自分の「こころ」を温める。「牡丹」は「愛」かもしれない。女の愛によって、自分のこころを温め、「霜」を消す。そういうことを想像している。
 そのあとの2行とのあいだには、不思議な飛躍があるのだが、その説明しにくい飛躍がおもしろい。
 「精神」というような冷たい(冷静な?)ことばではなく、「あたたかい」何かをたどっていく。あたたかいものを追いながら斜面(丘だろうか)をのぼっていく。そうすると、そこには女が待っていて、初めてのようにして、出会う。あるいは、ふたりで一緒にのぼっていくのだが、のぼりつめて、「その頂き」で初めて出会う。「その頂き」が「初めて」の印になる。「初めて」を実感する。共有する。そういう思いの強さが「その頂き」の「その」ということばのなかにある。
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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空き缶

2015-02-17 00:54:51 | 
空き缶

最終の地下鉄が走り去ったあと、
遅れてきた一本が
仕方がないというように動き出す。
吊り輪が白い光のなかで
さらに白くなっている。

通路に空き缶が転がる。
飲み残しの液体を
だらしなく漏らしながら
座席の下の鉄板にぶつかり
押し返され、方向を変える。

進行方向にまっすぐに、
連結部分まで行って、
また戻る。扉のところで
革靴でしずかにけられる。

何もかもわかっているさ。

それから、
誰とも口をきくものかと決めた
未熟な若者のように、
泣きそうになる。
回送列車がすれ違うとき、
はげしく揺れる。








*

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