粒来哲蔵「うまぐねぇ蛙(げえる)」(「二人」309 、2015年02月05日発行)
粒来哲蔵「うまぐねぇ蛙(げえる)」はタイトルからわかるように方言で書かれている。私は目が悪く、きちんと作品を引用できるかどうかわからないが、引用してみる。
目が悪いことと、引用を正確にできるかどうかわからないということの間にどんな関係があるのか--そう疑問に思う人もいるかもしれない。
ことばには、なじんだことばとなじんでいないことばがある。どんなことばに対しても、私の場合は「なじんだことば」が優先してしまう。一字一句そのとおりに読んだり聞いたりしているわけではなく、半分以上自分のなじんだことばで先を想像しながら読んでいる。「雨がぽつりぽつり」ということばに出会えば「降る」「降りはじめる」ということばを想像してしまう。「雨がきらきら」なら「輝いている」と想像してしまう。「雨がぽつりぽつり」走り抜けていく、とは想像しない。「雨がザーッと」走り抜けていくとは想像する。想像通りだと「わかった」気持ちになる。想像と違っていると「えっ、いま、何と言った(何と書いてあった)?」とつまずく。詩は、その「つまずき」といっしょにあらわれてくるものけれど、それを読み落とすことも多い。自分のなじんでいる「文体」でことばを受け止めて読みとばすことも多い。
これは「標準語」だけに起きることではなくて、「方言」でも起きる。「方言」であっても日本語の文法が基本だから、その基本(と私が信じているもの)にしたがって、私は読んでしまう。そして、「方言」だからこそ、よく聞きとれない部分を私の「文体」で読んでしまうということがある。そういうものが増えると思う。だから、私の引用ではなく、かならず粒来の「原典」を読んでもらいたいと願っている。
長い前置きになったが……。
引用部分を読んで、蛇に呑まれた蛙が、「うまくない」と吐き出されたということが書いてあると「わかる」。そこに書かれていることばを、その書かれているままではなく、私は無意識に「標準語」にして(いや、私のことばにして)読み直している。同時通訳みたいに、同時進行的に、そういうことをしている。
そして、そのとき「意味」とは別に、「音」にも反応している。「うまくない」「うまぐねぇ」がぶつかりあいながら、「うまぐねぇ」という「音」に「標準語」にはない「強さ」を感じる。「ことばの肉体」を感じる。私の喉や口蓋、舌とは違った動きをする「肉体」をそのまま「ことばの肉体」として感じてしまう。この「音(声)」で語りつづけてきたものがあるのだということが、不思議な感じで迫ってくる。
粒来の詩は散文詩。そこには論理がある。事実をつみかさねて動いていく。この詩のなかにも「論理」はあるだろうけれど、それをたたき壊すくらいの強さで、「音」がある。私が口にしない「音」が動いている。その音といっしょに「肉体」がくっきりと見えるように感じてしまう。私とは別の、けれども同じ「いのち」を生きている「肉体」というものを感じてしまう。蛇に呑まれ、吐き出された蛙のストーリー以上のものを感じる。
その「肉体」の感じのなまなましさが、「蛙」の体験を、まるで「私とは別の人間の体験」のように感じてしまう。蛙のことを書いているのに、私は蛙ではないのに、蛙になったみたい……。
この詩を「標準語」で読んでもそう感じるかもしれないけれど、「方言」の方が、より強く感じると思う。「方言」の音が、これは私ではないと印象づける。「私」を引き剥がしてしまうのかもしれない。「私」が引き剥がされて、「私」以前の何か(いのち?)になって、その何か(いのち)が蛙につながるのかなあ……。
喉の朱色、消化液でとけて緑色がぶちになっている、というような蛇の肉体、蛙の肉体の表現がなまなましい。野性のむき出しのいのちの形を思う。「ペンキの剥げた犬小屋みでぃで、おれ寂しかった」の、突然の「犬小屋」の描写が蛙と人間をごちゃ混ぜにする。蛙なのに、蛇になったり、人間になったりする。非論理的なのだが、その非論理的な動きの底に「いのち」が動いている。「方言」の「音」がそれを強くしていると感じる。ストーリーではなく(論理でもなく/意味でもなく)、その語り口に何か「いのち」を感じる。
「音」そのものについても、こんなことを考えた。濁音が多い。「か行」はその音が後ろにくると濁る。「うまく」→「ぐ」、「朱(あかい)(あけぇ)」→「げぇ」。先頭の「は」は消えてしまう。「吐き出す」「はきんだす」→「くん」。子音のHとKは音の出し方に似通ったところがある。無声音だ。GとHも、ある外国語では似ている。Gは有声音で、発音しやすいということがあるのかもしれない。TがDになるのも有声音の方がエネルギーをあまりつかわずに発音できるからかもしれない。口を大きく開けなくても発音できる--というのが、粒来の書いている方言の音の特徴かもしれない。口先で音を区別するのではなく、喉の奥で音を豊かに響かせるのがこの方言の特徴かもしれない。
そういうことを思いながら、
という部分を読むと、「ばか」「はじ」という音が「特別」であることがわかる。「ばか」「はじ」を強く意識している。そのことばを明瞭に語ろうとしていることが、わかる。強い反発心が「ばか」「はじ」と言わせている。黙読で読んでも、異様に感じるが、この方言になじんでいるひとの朗読でこの詩を聞けば、「ばか」「はじ」という部分で、私はどきっとしてしまうかもしれない。ほかのことばとは違った響きが稲妻のように光って聞こえるかもしれない。
こういうことは「意味」ではない。「論理」でもない。
ことばを聞いて(読んで)、感じる「ことばの肉体」そのものの印象である。
「方言」で書かなければならない必然がそこにある。「標準語」が覆い隠している「肉体」を浮かび上がらせる力--それをこの詩に感じた。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
粒来哲蔵「うまぐねぇ蛙(げえる)」はタイトルからわかるように方言で書かれている。私は目が悪く、きちんと作品を引用できるかどうかわからないが、引用してみる。
おれ、うまぐねぇんだとさ。蛇がそうゆってだ。うまぐねぇって……。
初めパクンと呑まれたばい。そしたらペッと吐(く)ん出されちまった。蛇はゆってだな、うまぐねぇって。蛇の奴、唾(つばき)吐(く)ん出して頭振り振りいっちまった。
目が悪いことと、引用を正確にできるかどうかわからないということの間にどんな関係があるのか--そう疑問に思う人もいるかもしれない。
ことばには、なじんだことばとなじんでいないことばがある。どんなことばに対しても、私の場合は「なじんだことば」が優先してしまう。一字一句そのとおりに読んだり聞いたりしているわけではなく、半分以上自分のなじんだことばで先を想像しながら読んでいる。「雨がぽつりぽつり」ということばに出会えば「降る」「降りはじめる」ということばを想像してしまう。「雨がきらきら」なら「輝いている」と想像してしまう。「雨がぽつりぽつり」走り抜けていく、とは想像しない。「雨がザーッと」走り抜けていくとは想像する。想像通りだと「わかった」気持ちになる。想像と違っていると「えっ、いま、何と言った(何と書いてあった)?」とつまずく。詩は、その「つまずき」といっしょにあらわれてくるものけれど、それを読み落とすことも多い。自分のなじんでいる「文体」でことばを受け止めて読みとばすことも多い。
これは「標準語」だけに起きることではなくて、「方言」でも起きる。「方言」であっても日本語の文法が基本だから、その基本(と私が信じているもの)にしたがって、私は読んでしまう。そして、「方言」だからこそ、よく聞きとれない部分を私の「文体」で読んでしまうということがある。そういうものが増えると思う。だから、私の引用ではなく、かならず粒来の「原典」を読んでもらいたいと願っている。
長い前置きになったが……。
引用部分を読んで、蛇に呑まれた蛙が、「うまくない」と吐き出されたということが書いてあると「わかる」。そこに書かれていることばを、その書かれているままではなく、私は無意識に「標準語」にして(いや、私のことばにして)読み直している。同時通訳みたいに、同時進行的に、そういうことをしている。
そして、そのとき「意味」とは別に、「音」にも反応している。「うまくない」「うまぐねぇ」がぶつかりあいながら、「うまぐねぇ」という「音」に「標準語」にはない「強さ」を感じる。「ことばの肉体」を感じる。私の喉や口蓋、舌とは違った動きをする「肉体」をそのまま「ことばの肉体」として感じてしまう。この「音(声)」で語りつづけてきたものがあるのだということが、不思議な感じで迫ってくる。
粒来の詩は散文詩。そこには論理がある。事実をつみかさねて動いていく。この詩のなかにも「論理」はあるだろうけれど、それをたたき壊すくらいの強さで、「音」がある。私が口にしない「音」が動いている。その音といっしょに「肉体」がくっきりと見えるように感じてしまう。私とは別の、けれども同じ「いのち」を生きている「肉体」というものを感じてしまう。蛇に呑まれ、吐き出された蛙のストーリー以上のものを感じる。
その「肉体」の感じのなまなましさが、「蛙」の体験を、まるで「私とは別の人間の体験」のように感じてしまう。蛙のことを書いているのに、私は蛙ではないのに、蛙になったみたい……。
この詩を「標準語」で読んでもそう感じるかもしれないけれど、「方言」の方が、より強く感じると思う。「方言」の音が、これは私ではないと印象づける。「私」を引き剥がしてしまうのかもしれない。「私」が引き剥がされて、「私」以前の何か(いのち?)になって、その何か(いのち)が蛙につながるのかなあ……。
蛇の喉朱(あげ)ぇがった。咥(くわ)え込まれだ時、眼(めだま)開げだらば、蛇の喉の朱(あげ)ぇトンネルの奥で、先に呑まれた誰かがおいでおいでしていだ。こっちさござってなぃ。おれの躰奥の方さどんどんずれ込んで、もう一寸(ちょっと)だんたんだ、あそこさ届ぐの--。もういいんだべがなと思って眼(めだま)開げだら、急にペッと吐(く)ん出されちまった。おれはよぐよぐうまぐねぇみでぇだなぃ。
蛇がくり返(けえ)しゆってだ。おめえうまぐねぇぞって。知ってるわぃとおれはゆった。おれは肩を怒らせて蛇を睨(にら)んだげんちょ、だめだったんだわぃ。おれってばそん時蛇の消化液で躰が溶(とろ)けて、緑色の体色がもう斑(ぶち)ていだんだ。--ペンキの剥げた犬小屋みでぃで、おれ寂しかった。蛇はゆった。おめえうまぐねぇぞって。そしてニヤリとした。蛇の笑い寒(さぶ)かったぞぃ。
喉の朱色、消化液でとけて緑色がぶちになっている、というような蛇の肉体、蛙の肉体の表現がなまなましい。野性のむき出しのいのちの形を思う。「ペンキの剥げた犬小屋みでぃで、おれ寂しかった」の、突然の「犬小屋」の描写が蛙と人間をごちゃ混ぜにする。蛙なのに、蛇になったり、人間になったりする。非論理的なのだが、その非論理的な動きの底に「いのち」が動いている。「方言」の「音」がそれを強くしていると感じる。ストーリーではなく(論理でもなく/意味でもなく)、その語り口に何か「いのち」を感じる。
「音」そのものについても、こんなことを考えた。濁音が多い。「か行」はその音が後ろにくると濁る。「うまく」→「ぐ」、「朱(あかい)(あけぇ)」→「げぇ」。先頭の「は」は消えてしまう。「吐き出す」「はきんだす」→「くん」。子音のHとKは音の出し方に似通ったところがある。無声音だ。GとHも、ある外国語では似ている。Gは有声音で、発音しやすいということがあるのかもしれない。TがDになるのも有声音の方がエネルギーをあまりつかわずに発音できるからかもしれない。口を大きく開けなくても発音できる--というのが、粒来の書いている方言の音の特徴かもしれない。口先で音を区別するのではなく、喉の奥で音を豊かに響かせるのがこの方言の特徴かもしれない。
そういうことを思いながら、
寂(さぶ)しかったな、おれ……。んだっておれ軽蔑(ばか)にされちゃったんだぞぃ。一度呑まれで吐んだされるなんて恥辱(はじ)だばい。
という部分を読むと、「ばか」「はじ」という音が「特別」であることがわかる。「ばか」「はじ」を強く意識している。そのことばを明瞭に語ろうとしていることが、わかる。強い反発心が「ばか」「はじ」と言わせている。黙読で読んでも、異様に感じるが、この方言になじんでいるひとの朗読でこの詩を聞けば、「ばか」「はじ」という部分で、私はどきっとしてしまうかもしれない。ほかのことばとは違った響きが稲妻のように光って聞こえるかもしれない。
こういうことは「意味」ではない。「論理」でもない。
ことばを聞いて(読んで)、感じる「ことばの肉体」そのものの印象である。
「方言」で書かなければならない必然がそこにある。「標準語」が覆い隠している「肉体」を浮かび上がらせる力--それをこの詩に感じた。
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