詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵「うまぐねぇ蛙(げえる)」

2015-02-07 11:44:21 | 詩(雑誌・同人誌)
粒来哲蔵「うまぐねぇ蛙(げえる)」(「二人」309 、2015年02月05日発行)

 粒来哲蔵「うまぐねぇ蛙(げえる)」はタイトルからわかるように方言で書かれている。私は目が悪く、きちんと作品を引用できるかどうかわからないが、引用してみる。

 おれ、うまぐねぇんだとさ。蛇がそうゆってだ。うまぐねぇって……。
 初めパクンと呑まれたばい。そしたらペッと吐(く)ん出されちまった。蛇はゆってだな、うまぐねぇって。蛇の奴、唾(つばき)吐(く)ん出して頭振り振りいっちまった。

 目が悪いことと、引用を正確にできるかどうかわからないということの間にどんな関係があるのか--そう疑問に思う人もいるかもしれない。
 ことばには、なじんだことばとなじんでいないことばがある。どんなことばに対しても、私の場合は「なじんだことば」が優先してしまう。一字一句そのとおりに読んだり聞いたりしているわけではなく、半分以上自分のなじんだことばで先を想像しながら読んでいる。「雨がぽつりぽつり」ということばに出会えば「降る」「降りはじめる」ということばを想像してしまう。「雨がきらきら」なら「輝いている」と想像してしまう。「雨がぽつりぽつり」走り抜けていく、とは想像しない。「雨がザーッと」走り抜けていくとは想像する。想像通りだと「わかった」気持ちになる。想像と違っていると「えっ、いま、何と言った(何と書いてあった)?」とつまずく。詩は、その「つまずき」といっしょにあらわれてくるものけれど、それを読み落とすことも多い。自分のなじんでいる「文体」でことばを受け止めて読みとばすことも多い。
 これは「標準語」だけに起きることではなくて、「方言」でも起きる。「方言」であっても日本語の文法が基本だから、その基本(と私が信じているもの)にしたがって、私は読んでしまう。そして、「方言」だからこそ、よく聞きとれない部分を私の「文体」で読んでしまうということがある。そういうものが増えると思う。だから、私の引用ではなく、かならず粒来の「原典」を読んでもらいたいと願っている。

 長い前置きになったが……。

 引用部分を読んで、蛇に呑まれた蛙が、「うまくない」と吐き出されたということが書いてあると「わかる」。そこに書かれていることばを、その書かれているままではなく、私は無意識に「標準語」にして(いや、私のことばにして)読み直している。同時通訳みたいに、同時進行的に、そういうことをしている。
 そして、そのとき「意味」とは別に、「音」にも反応している。「うまくない」「うまぐねぇ」がぶつかりあいながら、「うまぐねぇ」という「音」に「標準語」にはない「強さ」を感じる。「ことばの肉体」を感じる。私の喉や口蓋、舌とは違った動きをする「肉体」をそのまま「ことばの肉体」として感じてしまう。この「音(声)」で語りつづけてきたものがあるのだということが、不思議な感じで迫ってくる。
 粒来の詩は散文詩。そこには論理がある。事実をつみかさねて動いていく。この詩のなかにも「論理」はあるだろうけれど、それをたたき壊すくらいの強さで、「音」がある。私が口にしない「音」が動いている。その音といっしょに「肉体」がくっきりと見えるように感じてしまう。私とは別の、けれども同じ「いのち」を生きている「肉体」というものを感じてしまう。蛇に呑まれ、吐き出された蛙のストーリー以上のものを感じる。
 その「肉体」の感じのなまなましさが、「蛙」の体験を、まるで「私とは別の人間の体験」のように感じてしまう。蛙のことを書いているのに、私は蛙ではないのに、蛙になったみたい……。
 この詩を「標準語」で読んでもそう感じるかもしれないけれど、「方言」の方が、より強く感じると思う。「方言」の音が、これは私ではないと印象づける。「私」を引き剥がしてしまうのかもしれない。「私」が引き剥がされて、「私」以前の何か(いのち?)になって、その何か(いのち)が蛙につながるのかなあ……。

 蛇の喉朱(あげ)ぇがった。咥(くわ)え込まれだ時、眼(めだま)開げだらば、蛇の喉の朱(あげ)ぇトンネルの奥で、先に呑まれた誰かがおいでおいでしていだ。こっちさござってなぃ。おれの躰奥の方さどんどんずれ込んで、もう一寸(ちょっと)だんたんだ、あそこさ届ぐの--。もういいんだべがなと思って眼(めだま)開げだら、急にペッと吐(く)ん出されちまった。おれはよぐよぐうまぐねぇみでぇだなぃ。
 蛇がくり返(けえ)しゆってだ。おめえうまぐねぇぞって。知ってるわぃとおれはゆった。おれは肩を怒らせて蛇を睨(にら)んだげんちょ、だめだったんだわぃ。おれってばそん時蛇の消化液で躰が溶(とろ)けて、緑色の体色がもう斑(ぶち)ていだんだ。--ペンキの剥げた犬小屋みでぃで、おれ寂しかった。蛇はゆった。おめえうまぐねぇぞって。そしてニヤリとした。蛇の笑い寒(さぶ)かったぞぃ。

 喉の朱色、消化液でとけて緑色がぶちになっている、というような蛇の肉体、蛙の肉体の表現がなまなましい。野性のむき出しのいのちの形を思う。「ペンキの剥げた犬小屋みでぃで、おれ寂しかった」の、突然の「犬小屋」の描写が蛙と人間をごちゃ混ぜにする。蛙なのに、蛇になったり、人間になったりする。非論理的なのだが、その非論理的な動きの底に「いのち」が動いている。「方言」の「音」がそれを強くしていると感じる。ストーリーではなく(論理でもなく/意味でもなく)、その語り口に何か「いのち」を感じる。

 「音」そのものについても、こんなことを考えた。濁音が多い。「か行」はその音が後ろにくると濁る。「うまく」→「ぐ」、「朱(あかい)(あけぇ)」→「げぇ」。先頭の「は」は消えてしまう。「吐き出す」「はきんだす」→「くん」。子音のHとKは音の出し方に似通ったところがある。無声音だ。GとHも、ある外国語では似ている。Gは有声音で、発音しやすいということがあるのかもしれない。TがDになるのも有声音の方がエネルギーをあまりつかわずに発音できるからかもしれない。口を大きく開けなくても発音できる--というのが、粒来の書いている方言の音の特徴かもしれない。口先で音を区別するのではなく、喉の奥で音を豊かに響かせるのがこの方言の特徴かもしれない。
 そういうことを思いながら、

 寂(さぶ)しかったな、おれ……。んだっておれ軽蔑(ばか)にされちゃったんだぞぃ。一度呑まれで吐んだされるなんて恥辱(はじ)だばい。

 という部分を読むと、「ばか」「はじ」という音が「特別」であることがわかる。「ばか」「はじ」を強く意識している。そのことばを明瞭に語ろうとしていることが、わかる。強い反発心が「ばか」「はじ」と言わせている。黙読で読んでも、異様に感じるが、この方言になじんでいるひとの朗読でこの詩を聞けば、「ばか」「はじ」という部分で、私はどきっとしてしまうかもしれない。ほかのことばとは違った響きが稲妻のように光って聞こえるかもしれない。
 こういうことは「意味」ではない。「論理」でもない。
 ことばを聞いて(読んで)、感じる「ことばの肉体」そのものの印象である。
 「方言」で書かなければならない必然がそこにある。「標準語」が覆い隠している「肉体」を浮かび上がらせる力--それをこの詩に感じた。
蛾を吐く―詩集
粒来哲蔵
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嵯峨信之を読む(6)

2015-02-07 10:00:11 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
8 火

 「火」という作品は不思議だ。「火」は「愛」のことだ、「無償の愛」について書いていると直感的に感じる。

二度と消さないでくれ
わたしの中からお前の中へうつす小さな火を
それはこの世にただ一つしかない火だ
わたしと死との深い谷底から大きな鳥が舞い降りて拾いあげたのだ
その小さな火は
お前に何も求めない
だが零(ぜろ)のように空しさをもつてお前を庇い
あらゆるものからお前を拒むのだ
いま素裸のお前は
その火をかかげて階段に立つている
はてしれぬ二階につづいている階段の上に

 「だが零(ぜろ)のように空しさをもつてお前を庇い/あらゆるものからお前を拒むのだ」の「空しさ」と「拒む」につまずく。
 何も求めない、無償だから「零」。だが「無償の愛」の「無償」と「空しい」は同じだろうか。「零」と「空しい」は通じるものがあるかもしれないが、「無償」と「空しい」を同じと考えることは私にはできない。
 無償の愛でお前を「庇う」ということはわかるけれど、「空しさをもつて」がわからない。「庇う」と「拒む」の関係もわからない。「庇う」のは「守る」ためである。
 もしかすると、「拒む」ことが「庇う」こと?
 いろいろの人がお前に愛を捧げるかもしれない。それらの愛は無償の愛ではない。そういうものを、「わたし」は「無償の愛」で撥ねつける。愛の防禦壁(庇)になるというのだろうか。
 そうだとしたら、この「理屈」はややこしいなあ。
 私の読み方は「誤読」かもしれない。「誤読」であっても、かまわない。「正解」よりも、これは何だろう、と考えること、考えながら自分のことばを見つめなおすことの方が大切なのだと私は思っている。
 ある日、あ、あれはこういうことだったのかと突然気が付くかもしれない。それまでは、無償の愛で他人からお前を守る--そういうことが書いてあるのだと想像しておく。
 それに答えるように、お前は素裸で「わたし」を迎えている。

はてしれぬ二階へつづいている階段の上に

 最後の「はてしれぬ」がいいなあ。「無償」(零)に対して「無限」。零だけが無限に近付くことができる--というのは「矛盾」だが、その「矛盾」は「零の空しさをもつてお前を庇い/あらゆるものからお前を拒む」という表現の複雑な何かと拮抗する。

わたしと死との深い谷底から大きな鳥が舞い降りて拾いあげたのだ

 この一行は

大きな鳥が舞い降りてわたしと死との深い谷底から(その火を)拾いあげたのだ

 ということだと思って読んだが、このいりくんだ構文、順序が逆(?)の構文も、そういう複雑な拮抗と響きあって、ことばを「流通言語」ではなく、詩にしているように思える。
 よくわからないのだけれど、その「わからない」のなかには何か「わかる」と錯覚するものがあって、それが私に響いてきて、私をゆさぶる。その揺さぶられた瞬間に、揺さぶられるまでは見えなかった何かが見える--見えると錯覚し、それを探したいという気持ちになる。
 私は、そこに詩があると思う。

9 死

 この作品にも、ふつうの文章とは違った「構文」が出てくる。

ぼくに許すことのできる唯一もの
生きることを証明する唯ひとりのたしかな責任者
ぼくはその前にひれ伏してはいないが
そこから何処ともなく遠ざかる道のはずれに立つている

 三行目の「ひれ伏してはいないが」の「が」のつかい方が、少し変だなあ。微妙だなあ。ひれ伏してはいないが、征服しているわけでもない。その唯一の責任者から離れている。距離をとっている。その人から「遠ざかる道のはずれに立つている」ということか。
 そうであるなら。
 「征服しているわけでもない」ということばが省略されていることになる。なぜ、省略したのかな? 「死」はけっして制服でいないもの、人間の必然だからだろうか。「ひれ伏す」の反対、「征服する」というような動詞はなじまないというこころが働いているのだろうか。明確なことばにしたくない、する必要はないという思いがあるのかもしれない。
 あるいは……。死こそが「生きる」を証明できる。これは逆説だが、たしかに死ぬからこそ生きている、生きているものだけが死ぬことができる。これは、しかし、何かさむざむしい「論理」でもある。

あらゆるものを向うへ押しやつて
そのまま立ちつくすぼくはなんだろう
それをただの一つの塔と言えば
その周りを吹いている風はなんと言えるだろう

 「塔」とは「論理」をつらぬく「精神」の運動だろうか。「論理」は「魂」ではないだろう。魂は「論理」の周りを吹いている寂しい風なのだろうか。「時」のなかに出てきた「魂」ということばを思い出しながら、そう考えた。

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殺し屋

2015-02-07 01:44:53 | 
殺し屋

誰が私を殺しに来るのか。
わからないときはドアについて考える。
たとえば内側に向かって開くドア。
金属のドアの錆びた蝶番ということばのなかに住んでいる蝶が
銀色の粉をまきちらして飛び立つ。

誰が私を殺しに来るのか。
わからないときはソファに体を沈め、
殺し屋のやってくる暗いドアを見つめる。
外は雨で、雨に叩かれるドアの音が強くなり、
ノブを回す速度で雨の匂いがなだれてくる。

想像の銃に撃たれて私は死ぬ。
ドアのことなどもう考えることはできないと考えながら。
その私のために殺し屋は
「思考が排除されたとき残るものが時間である」と言わなければならない。
それを聞きたくて私は殺し屋を雇ったのだが、

何の手違いだろう。誰の、何のための手違いなのだろう。
「おまえの孤独に友人はいるのか。」
言ったことも聞いたこともないことばがドアを開けずに入ってくる。
誰か私を殺しに来たのか、
わからないまま死んでしまって私はくだらない夢をみている。




*

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