詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小野正嗣「九年前の祈り」

2015-02-11 21:22:29 | その他(音楽、小説etc)
小野正嗣「九年前の祈り」(「文藝春秋」2015年03月号)

 小野正嗣「九年前の祈り」は第百五十二回芥川賞受賞作。
  420ページ(「文藝春秋」03月号のページ)まで読んできて、小野が書きたいのは「詩」なのかと思った。ある瞬間に人間の本質のようなものが人間から分離して、いままでとは違った人間に見えてくる--その瞬間を描きたいのか、と思った。

窓を背にしたみっちゃん姉のすぐ後ろに悲しみが立っていた。それはみっちゃん姉のそばにずっといたのだけれど、日の光の下では見えなかったのだ。悲しみはいま薄暗がりのなかで初めてその姿を現わし、みっちゃん姉の肩を優しくさすっていた。しかし悲しみが行なうそんな慰めの仕草は、さすられる者とそれに気づいてしまった者の心の痛みを増すだけだった。

 「悲しみ」を人格化している。「現代詩」なら、もう少し「悲しみ」を整理して、文体を凝縮させるが、小説なのでその手間を省いているような、ラフな感じがする。
 「悲しみが立っていた」は初めて登場する文章なので、それでいい。次の「悲しみはいま薄暗がりのなかで初めてその姿を現わし」は「立っていた」の言い直し。人は大事なことはくりかえす。くりかえすことで、それが「事実」になっていく。ここも、書かなければならない理由がある。しかし、そのあとの「しかし悲しみが行なうそんな慰めの仕草は」という文章はどうだろうか。作者が「悲しみ」ということばに酔ってしまっている。詩ではなくなっている。「悲しみ」が「主語」から「歌」のリフレインになってしまっている。
 ここで、私は、最初につまずいた。もう一度同じことを別な形でくりかえすために、わざとラフに書いているの加登も思った。
 そして、小説の最後( 447ページ)で、私はがっかりしてしまった。

 いま悲しみはさなえのなかになかった。それはさなえの背後に立っていた。振り返ったところで日の光の下では見えないのはわかっている悲しみが身じろぎするのを感じた。それは身をかがめると、さなえの手の上にその手を重ね、愛撫するようにさすった。

  420ページの「悲しみ」がくりかえされている。そっくりそのまま。まるで歌謡曲のさびのメロディーのように、少しだけ変奏されて。これでは小説ではない。詩でもない。「歌」でしかない。歌謡曲、ど演歌だ。(演歌が悪いというわけではないのだが。)
 起きたことを「歌」にして、反復し、伝えたいというのならそれはそれでいいかのもしれないが、「悲しみ」の安売りのようで、こんなふうに作者一人が酔ってしまっているのではなあ、とげんなりする。結末が小説を壊してしまっている。
  425ページの「子供っちゅうもんは泣くもんじゃ。」から「みっちゃん姉が希敏を連れていってくれた。」を経て 426ページ「みっちゃん姉が連れ去ってくれたのだ。」の反復までのように凝縮した部分もあるが、たいていはリフレインが目障りである。反復によって、その反復されるものの「本質」を明確にしたいということはわかるが、反復が反復のままでは、小説のおもしろさに欠ける。
 結論(?)がこんな具合に、あからさまな反復の形で閉じられると、小説の構造があまりにもあらわになって、興ざめしてしまう。現在(子供をかかえてふるさとに帰って来て、母のふるさとである島へ行くという小さな旅)と過去(カナダへみっちゃん姉たちと旅行した旅)、そのなかで「手をつなぐ/手をはなさない」が反復されるが、それは「伏線」というよりも、「既視感」の方が強くなる。「結論」がはじめにあって、それをことばで飾っているという印象になってしまう。
 そのために、せっかく方言をつかって生活感あふれるおばさん集団を描きながら、そのおばさんたちから「個性」が消えてしまう。(おばさんのカナダ旅行、カナダ旅行のおばさんの行動はとてもおもしろいのに、それが「歌」の「枠」に乗っ取られてしまっている。)さらに主人公に影響を与えたはずの男たちの描写の「手抜き」も気になる。「悲しみ」のリフレインの邪魔をしないように、非常に弱い調子でしか描かれていない。具体的に見えてこない。いちばん重要な希敏が何度も「引きちぎられたミミズ」と簡単に反復されるのも、信じられない。もっと、そのときそのときの個別の「泣き叫び」を書かないと、希敏がかわいそうすぎる。ストーリーの「狂言回し」になってしまっている。母親がたいへんなのはわかるが、子供だってたいへんなのに、と言いたくなってしまう。



 小野のふるさとの描写では、

二つの島は、陸地を振り切って大海原に飛び出そうとしているように見えた。逃がしてたまるものかといくつもの岬が、たがいの邪魔をしながら、島々に執拗に追いすがり伸びていく--( 391ページ)

このむさくるしい男が誰だか知らないが、男のほうは明らかにさなえを知っていた。さなえがカナダ人と結婚したことも、そのカナダ人とのあいたに男の子が生まれたことも、そしてさなえがカナダ人に捨てられ、男の子を連れて実家に戻ってきたこともすでに知っていた。( 402ページ) 
 
 が簡潔で印象に残った。風景描写の人格化と、集落のひとの生き方が濃密に交差し、溶け合っている。



 作品ではないのだが、受賞のことばの「三歳年上の兄、史敬(ふみたか)が昨年十月亡くなりました。」という文章の「亡くなる」という動詞のつかい方に、私は違和感をおぼえた。こういうとき「亡くなる」というのだろうか。「死んだ」ではないのだろうか。「亡くなる」なら「史敬」ではなく「史敬さん」と敬称をつけそうなものだけれど……。

九年前の祈り
小野 正嗣
講談社
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嵯峨信之を読む(10)

2015-02-11 09:49:24 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
16 エデンの妻

 「エデンの妻」からは「愛の唄」という章になっている。「ノアの方舟」にも女は描かれていたが、接近の仕方が微妙に違う。

妻よ
今日わたしはさるすべりの木を植えよう
ふたりでエデンに近づくために
雨とふる理性にも
けつしてSEXを失わないように
わたしの手のとどくところに
いつもほのぼのと桃いろの花がさいているように
妻よ
エデンの妻よ

 女は「妻」になっている。「エデンの妻よ」と言いかえられている。「エデン」は「SEX」と言いかえられている。
 このエデンの特徴は、しかしSEXというよりも「ふたりで近づく」にある。
 ふつうに読めば、どこかにあるエデンに近づく、エデンの園へゆくということになるのかもしれないが、エデンはどこかにあるのではなく「ふたりで」同じことをするときに、その行為の先にあらわれてくるものかもしれない。「同じこと」というのはSEXをすることだが、それだけを意味するわけではないと思う。
 たとえば「さるすべりの木を植える」。「植える」の文法上の「主語」は「わたし」であるけれど、気持ちは妻といっしょに植えている。「ふたりで」植えている。「ふたりのために」植えている。だから、たとえそれが一人でしたことであっても、「同じこと」をふたりでしたことになる。
 エデンはSEXだけで成り立っているのではない。それ以前からはじまっている。そういう思いがあるから、「さるすべりの木を植える」という、SEXとは無関係なところから詩がはじまる。

 途中に出てくる

雨とふる理性にも

 この一行は何だろうか。
 私には、よくわからない。なぜこの行を嵯峨が書いたのか、見当がつかないが、この一行があるために「さるすべりの木」が見えてくる。「桃いろの花」が見えてくる。SEXということばは「肉体」を浮かび上がらせるが、その「肉体」とは別の何かがあるということを「理性」ということばが思い出させる。そして、その「肉体(欲望)」と向き合い、「肉体」をととのえるものとして「さるすべり」「桃いろの花」というものがあるように感じられる
 ことばが愛欲一色に染まらず、愛欲が洗い清められ、その底から落ち着いた肉体があらわれ、静かに呼吸するような感じ。

17 水辺

 「エデンの妻」のつづきとして読むことができる。「エデンの妻」では「わたし」は「さるすべりの木」を植えたが、それだけでエデンが完成するわけではない。

わたしは水を通わせようとおもう
愛する女の方へひとすじの流れをつくつて
多くのひとの心のそばを通らせながら
そのときは透明な小きざみで流れるようにしよう

 「多くのひとの心のそばを通らせ」が、ちょっと複雑である。「愛する女」とは「エデンの妻」だろう。妻なのだけれど、ほかの人(男)を遮断してしまうのではない。ほかの人にも存在を知ってもらいたい。ここには、自分には妻がいるのだという喜び(自慢)が反映している。
 その喜びが、ほかの行動をも誘う。

うねうねとのぼつてゆく仔鰻のむれを水に浮かべよう
その縁で蛙はやさしくとび跳ね
その岸で翡翠(かわせみ)は嘴を水に浸すようにしよう

 のどかな自然。エデンという西洋の楽園ではなく、どことなく東洋の楽園(桃源郷)を想像してしまう。「うねうねとのぼつてゆく仔鰻のむれ」というのは精子の群れを想像させる。「桃源郷」の住民もセックスに夢中になっているかどうかわからないが、こういう不思議なイメージが世界を攪乱するのも詩なのだと思う。
 ひとつの読み方を強いるのではなく、逆に、かってきままに自分の好きなふうに読める要素、矛盾した(?)何かを含んでいる方が、何度でも読み直す楽しみがある。

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新聞を読んだ後、

2015-02-11 01:23:47 | 
新聞を読んだ後、

新聞を読んだ後、
残った金で買うのにふさわしいのは
終わらない恋愛小説か
一人一人が別の方向へ散らばり消えていく推理小説か、

新聞を読んだ後、
プラスチックの椅子に座ってキオスクの遠い棚を見つめ、
あるいは立ち上がって壁の鏡をのぞく
ような詩がいいのか考える。
新聞はうまくたためない。

新聞を読んだ後、ふりかえると
女が電話をかけているヒースロー空港。
ハイヒールをぬいで足裏を左手でもみながら、
無言を受話器にあずけているが

新聞を読んだ後、
ふいに訪れる空白は砂糖入りのコーヒーを飲んだよう。
体の底からこみあげてくる退屈と
何も起きない小説はどちらが破壊的か。





*

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