詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

根本明「塩の刻」

2015-02-10 10:42:29 | 詩(雑誌・同人誌)
根本明「塩の刻」(「hotel 第2章」73、2015年01月15日発行)

 根本明「塩の刻」は人間の思考の動きの強さ、人間の思考はいかに強いものであるかを教えてくれる。

かつて海の家小島家や見晴亭がならび
貝を焼く匂いがただようなかを
千葉街道の護岸を登るとき
子供たちは髪に塩の結晶を光らせて
潮の満ちてくる海をふりかえった

 海水浴の後、シャワーも浴びずに帰る。塩の結晶が髪にこびりつく。そういう野蛮な、というか、元気な時代があった。家へ帰って髪を洗う、体を洗う。そういう近さに海があったということでもある。海と子供は共存していた。大人ももちろん共存していた。無力子供が共存できるというのは、すばらしいことである。
 この髪にあらわれた「塩」の結晶からギリシャ神話、「振り返る者を塩の柱とせん」という話と重ね合わせる。そして、

私のなかの幼い者は
失われた黄金色の夕暮れを前に
白濁したオブジェのように硬直する
失われた干潟に累々とひろげられた
海藻や貝、甲殻類たちの惨劇をかぶって
くりかえし、くずれる

 と過去を振り返る。こんな気取った言い方をしなくてもいいのかもしれないけれど、「神話」のことを思ったので、ことばが緊迫したのだ。「神話」に拮抗するようにことばが結晶したのだ。
 このあと、ことばがさらに変化する。過去でも神話でもなく「現実」(いま/ここ)を描写するのだが、それがそのまま「いまの神話」にかわっていく。「もの」が精神性をかかえて動く。「もの」が書いてあるのか、「精神」が書いてあるのか、「もの」を突き破って「精神」が動いてくようにことばが不思議な強靱さを感じさせる。
 「幼い者」が「くりかえし、すぐれる」は、次のように語り直される。それはそのまま「幼い者」の姿ではないが、そのままではないからこそ、「神話」になっている。

埋立地の木の根は地面をのたくって這い伸びる
植樹から半世紀のマテバシイやプラタナスが
地表を争い幾重にもからみあう
根を地下におろすことを畏れるからだ
すぐ下の塩の層にあやまって根の先が触れたとたん
ばりばりと塩を吸い上げることになる

バラ科、マメ科、モクレン科
どのような樹木が最も美しく処断されるか
来光を前に一本の木が原風景に名指されると
まず花に白い結晶が噴き上がり
次々に枝葉が、幹が塩基に染め上げられていく

 これは根本が子供のときには見ることのできなかった風景である。「埋立地」をつくる、そこに暮らす。そのとき人は何をしたのか。その反作用はどんな形で現実になっているか。それは海との共存と言えるのか。
 ひとつの生が別の新しい死と向き合っている。生と死がぶつかりあい、そこに「真実」が語られる。死の塩(塩の死)を避けながら、不自然に地表を這い伸びる樹木の根。その姿と海を埋め立て、そこに生きる人間の姿が重なる。かりそめの征服。いつかは自然からしっぺ返しを食うにちがいない人間の暴挙。
 そういうものを見据えたことばの運動だ。

 海を語るとき、根本のことばはとても強い。海が好きなのだと感じる。海を破壊して生きるいまの社会に対して根本は怒っている。怒りを埋立地の木の悲劇を借りて、神話にして語っている。ことばは、こんなふうに思考を強靱にすることができる。


海神のいます処
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嵯峨信之を読む(9)

2015-02-10 09:54:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
14 小雀
 
 詩を感じるのは、知らなかったことばのつかい方にふれたときだ。

ぼくは見えないものを好む
たとえば夜の砂 腕の中を通る愛 雨に打たれていく歌
魂の川を下る船
それらの上に空は幾たび来て また去つたことだろう

 四行目で私ははっとする。「空」は動かない。空が来て、去るという動きをしない。それなのに、この行はいいなあ、と思ってしまう。ここに書かれていることが「でたらめ」とは感じない。
 空は動かないのに、なぜ空が動いてやって来て、また去っていくと感じるのだろう。何かをするとき、空はそこにある。いつも、そこにある。その空はいつも違っている。晴れていたり、雨が降っていたり、雲の形が違うし、真昼だったり、夕焼けだったり、真夜中だったりする。そして、何かをするときの気持ちと一致したり、反対だったり、無関係だったりする。
  楽しいことをするときは、空も楽しい。哀しいときは、空も哀しい。もちろん、反対のときもある。楽しいのに、空は不機嫌で雨が降っている、とか。そういうときは、きょうの空は、きょうの楽しみにふさわしくない、と思う。
 でも、無関係のときの方が多いかもしれない。哀しいのに、そんなことはまったく感じないというように星が輝いていたりする。起こっているのに、真っ青な青空だったりする。空は、人間の思いとは関係なしに、いっしょに存在している。無関係という感じで、私に跳ね返ってくる。
 鏡のように無表情だ。無表情だから、そこに気持ちが映りもする。
 空はこころを映す鏡かもしれない。うれしいときうれしいこころを映すだけではなく、うれしいときに、うれしいの陰に隠れている何かを映すということもある。
 こころを映して、空はこころになるのだ。そして、そのこころは「私」の感情を超えてひろがっていく。こころなんて、もともと区切りがない。
 だから、「空」をこころ(気持ち)と置き換えて読んでみる。

それらの上にこころは幾たび来て また去つたことだろう

 私は、無意識のうちに、そんなふうに読んでいるのだ。いままで私が見てきたいくつもの空、その色、雲の形や輝きを思い浮かべながら、ああ、あのときはあんな空だったなあ。私と無関係に、空を見上げてあんなことを思ったなあ、と思い出している。
 「空」を「こころ」と「誤読」して、この一行はいいなあ、と感じている。
 そんな空の下、

五月の爽やかな太陽のかがやきの下に
小雀が一羽
飛沫をはね散らして水浴している

 その雀を見るとき、詩人は雀になっている。詩人が雀になる、というのも、一種の「誤読」だが、「誤読」が楽しい。「誤読」がこころを豊かにしてくれる。どんなに「誤読」したって、空も雀も文句を言わない。

15 利根川 

 利根川を舟が下っていく。それを見ながら詩人は考える。

一日一日色あせていくおもいを
そのはての茫茫とかすんでいる中流を一艘の舟が下つている
それをとどめようとしたのは間違いだつたかも知れない
とどめようとしたぼくたちが
その舟で遠く運ばれているのだろう

 このとき「舟」は現実の舟であると同時に「一日(時間)」の象徴である。日々が流れていく。毎日が過ぎ去っていく。それをとどめることはできない。「一日」はまた「ぼくたち」と言いかえられている。毎日はただの時間ではなく「ぼくたち」そのものである。さまざまな思いが、遠く運ばれていく。そのとき、その「運ぶ」という仕事をするもの「利根川」ではなく「一日一日」である。
 「川」「舟」「一日」「ぼくたち」が交錯しながら、互いの象徴(比喩)になっている。厳密に分析すれば厳密に定義できるかもしれないが、ややこしいことはしないで、全体を「ひとつ」としてつかみ取ればいいのだろう。

川しもへ遠ざかつた舟は罌粟粒ほどに小さくなつている
やがて空へ消えようと
心に消えようと
その上を利根川は流れつづけるだろう

 この最後は不思議。そして、美しい。遠くなった舟が消えるのは川の向こう、海か。でも、水平線までゆくと、それから先は海か空かわからない。だから空へ消えるも、あ、そうなんだと思ってしまう。空を心と呼び変えているのも、そのときの風景は、もう現実というよりも「こころの風景(心象風景)」だからだ。
 でも、最後の、「その上を利根川は流れつづける」は?
 空の上を川が流れる? 川は空の下を流れる。
 「心象風景」だから「空の下」でもいいのだ。「空」は「心」と言いかえられている。「心」は「空」になって、「空」から利根川が流れるのを見ている。
 ここでも、一つのことばが一つの「もの」をあらわすのではなく、交錯しながら意味交換している。これが詩だ。一つの「意味」に縛られないことばが詩だ。


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別のところで

2015-02-10 00:47:30 | 
別のところで、

別のところで、ことばは、女をこんなふう書いていた。
「傘立てのところで傘を入れようかどうしようか迷っている。
いったん何本か傘を引き抜いて閉じ直さないと入りきれないだろう。
手間をかけることは嫌いではないのだが、
他人の傘をたたんでいるところを見られると思うと躊躇するのだ。」
その女がいまコーヒー店を出るところである。
本を一冊読んでいる間に雨があがった。
舗道に西日が射してきていて入り口のガラスが明るい。
傘立てのところで、傘を手に取ろうとして、時間がねじれる。
女は店に入るとき壷に無造作に傘を放り込んだ。
それがていねいにまきたたまれて美しい角度で立っている。

ことばは、いま、そんなふうに女を描写しながら、
これを詩にするならこれ以上書いてはいけないと思っている。



*

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