詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウベルト・パゾリーニ監督「おみおくりの作法」(★★★)

2015-02-18 21:01:12 | 映画

監督 ウベルト・パゾリーニ 出演 エディ・マーサン

 孤独死。身寄りのない人の死に向き合い、葬儀の手続きをする民生委員を描いている。ロンドンが舞台だが、この仕事は日本ではどうなっているのか。これから問題になってくるテーマである。
 主人公はリストラ(?)のため首になる。その最後の仕事の孤独死の男は、主人公のアパートの真向かいに住んでいた。何も知らない。そのことが気になり、その男の人生を追いかける。娘がいるが、疎遠である。また、かつての恋人が産んだ娘もいる。男はその事実を知らないまま死んだ。フォークランド紛争のときの戦友がいる。ホームレス仲間もいる。男は問題をかかえていたが、友人も恋人もいたのだ。娘やかつての恋人や友人を訪ね、葬儀への参列を呼びかける。
 これをたんたんと描いているのだが。
 一か所、はっとしたシーンがある。父親(男)を嫌っていた娘が主人公を訪ねてくる。葬儀に参列する、そのあと一緒にお茶をのみたい、という。そし「ありがとう」とお礼を言うのだが、それに対して主人公は「自分の仕事をしただけです」という。「イッツ・マイ・ジョブ」というような英語が聞こえた。(正確ではないかもしれないが。)
 「仕事が人間をつくる」というのはマルクスの「哲学」だと思うが、ああ、そうなのだ、人間は「仕事」を通してしか人間になれない。何かをつくる(する)ということが人間をつくっていく。そのことを強く感じた。
 孤独な死と向き合い、その人の人生を想像してみる。その人の葬儀にはどんな音楽を流せばいいのか。どんな弔辞がいいのか。考えながら、仕事を繰り返してきた主人公。もし、身寄りが見つかれば、その人に連絡し、葬儀への参列を呼びかける。それまでも主人公はそうしてきたのだが、最後の仕事では、アパートの向かいにいるのだから、もしかしたら自分自身も彼の「知人」であったかもしれないのに何も知らないということに衝撃を受け、もっと死者の「人生」に触れてみよう、親身になってみようと思い、彼の人生をたどる。恋愛をして喧嘩して別れ、また別な人と恋愛をしてこどももできるが、やっぱり持続しない。もがきながら生きている男が見えてくる。同時に、彼の周りで同じようにもがきながら生きている人間が見えてくる。死者に寄り添いながら、また、生きている人たちにも寄り添う。すると、それまでばらばらだった人たちがだんだん近づいてくる。近づくことで、死んでしまった男のことが、生きていたとき以上に親密に見えてくる。世の中というものも見えてくる。
 主人公は、ひとりひっそりと身寄りのない死者を葬るという仕事をしている、忠実に仕事をしているだけなのだが、彼は、だれにも気づかれないまま「親密」をつくるというもうひとつの仕事をしていたのだ。そのことに主人公は気づいていないけれど、この映画に登場する人たちにはそれがわかるし、観客にもわかる。すばらしいことをしているのに、それを「仕事」と表現する謙虚な姿に、こころを打たれる。
 仕事をていねいにすれば、そこからていねいな人間が生まれてくる、美しい人間が生まれてくる--と書いてしまうと、何か、資本主義の都合のいいような「論理(意味)」になってしまうかもしれないけれど、それをもう一度マルクスの「哲学」から見つめなおせたらいいかもしれないなあ。あ、私はマルクスは何も読んだことがなく、「世間」から聞こえてくマルクスのことばから勝手に考えているので、これは「誤読」かもしれないけれど。(いま、マルクスではなくピケティの「21世紀の資本」が話題になっているが、格差社会の構造を指摘するピケティよりも、マルクスの「哲学」を読み直した方がいいのかもしれない、ということも頭をよぎった。)
 仕事か、仕事(労働)が人間をつくるのか。だから、ていねいに働かなければならない。自分自身をつくるためには--というようなことを、ふと、思ったのだ。だれかのためにではなく、自分自身のために。

 ラストシーン。主人公が人生をたどりなおした男の埋葬に家族や友人が集まってくる。そこに男の人生が見えてる。一方、事故で死んでしまった主人公は共同墓地に葬られる。身寄りはだれもいない。だから参列者もいない。男の葬儀に参列した人たちのだれひとりも、主人公が死んだことすら知らない。寂しい埋葬である。けれど、そのまわりに主人公が最後を見届けた死者たちが集まってくる。幽霊。彼らが、主人公の人生を浮かび上がらせる。人生はいつでも「他人」が集まってきてつくり出すものなのかもしれない。仕事が「他人」と自分を結びつけ、そこから人生がはじまる。「人間」がはじまる。
 声高な主張ではないし、どんどん盛り上がっていくクライマックスでもないのだが、映画館の方々からすすり泣きが聞こえる。私の隣の女性は、そのすすり泣きを聞けば、ほかの人も泣かずにはいられないと思うくらいの切実さで泣いていた。私は、こういうシーンでは泣いたことがないのだけれど、その女性の切実な声につられて泣きそうになった。
 この日、水曜日ということもあってか、映画館は満員で、補助椅子まで埋まってしまった。
                      (KBCシネマ1、2015年02月18日)








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「誤読」について

2015-02-18 13:34:59 | 詩集

「誤読」について

 「李白詩選」(松浦友久編訳、岩波文庫)に「與史郎中飲聴、黄鶴楼上吹笛(史郎中と飲み黄鶴楼上に笛を吹くを聴く)」という詩がある。その「現代語訳」が面白い。

一為遷客去長沙  一たび遷客と為って長沙に去る
西望長安不見家  西のかた長安を望めども家を見ず
黄鶴楼中吹玉笛  黄鶴楼中 玉笛を吹く
江城五月落梅花  江城 五月 落梅花

郎中の史君と酒を飲み、黄鶴楼上で吹く笛の音を聴く。
一たび左遷の客(たびびと)となって、はるかな長沙へと旅立って以来、
西のかた遠く長安を望んでも、わが家が見えるはずもない。
長江ぞいのこの城(まち)では、夏の盛りの五月というのに「落梅花」の曲が流れてゆく。
 ――あたかも、梅の花びらが風に乗って散るように。

 「現代語訳」なのでところどころに原文にないことばが補われている。「笛を吹くを聴く」は「笛の音の聴く」と「音」が補われる。そうすることで日本語らしくなる。「遷客」は「左遷された/客(たびびと)」と意味が補われている。それだけなら、そんなに違和感はないのだが、4 行目の「現代語訳」はどうだろう。「長江ぞいのこの城(まち)では、夏の盛りの五月というのに「落梅花」の曲が流れてゆく。」は「夏の盛りの」が補われ、梅の花と奇異さが強調されている。さらに、

 ――あたかも、梅の花びらが風に乗って散るように。

 これはいったいどこからきているのだろう。どこにも書かれていない。梅の花が風に乗って散るというのは、「常套句」であり、「常套句」というのは「美の形式」なのだろう。その「美の形式」を伝えたくて松浦は「現代語訳」をつくっている。
 これは、我田引水させてもらうと、私がいつも書いている「誤読」である。書いていないことを、勝手に付け加えているのだから。
 でも、詩を読む(文学を読む)とは、こんな風に「自分はこう思う」を付け加えてしまうものなのだ。なぜ付け加えるかというと、付け加えたことばで自分の存在(肉体/暮らし)をととのえるためである。ことばを、肉体で模倣する。肉体はことばを模倣するものである。「常套句」というのは、多くの肉体が模倣することで、「ことばの肉体」になったもののことである。
 「笛を聴く」ではなく「笛の音を聴く」と「音」を補うのも「常套句」である。「音」のなかには「調べ/音楽」がある。「笛を聴く」のではなく「音楽を聴く」というのが「日本語の肉体」なのだ。「笛」を超えた「真(まこと)」を聴くといってもいいかもしれないが。詩はこの「常套句/ことばの肉体」をどう破って、「新しいことばの肉体」をつくりだすかという試みなのだと思う。
 あ、書こうとしていたことからだんだんずれていくなあ。まあ、いいか。
 他人の「誤読」の暴走を見ると、私はうれしくなる。読むというのは、やっぱり「誤読」以外にないのだ。

 ちょっとめんどくさいのは……。
 「常套句」がめんどうくさいのは、「常套句」というのは本来、多くの肉体を潜り抜け、肉体の共有と同じ形で成立したはずなのに、いったん「常套句」になってしまうと肉体を通らずに「頭」と直接結びつくことができる点だ。だから作家や詩人は「常套句」に対して慎重なのだが(「常套句」をつかうときは、その前後に「文学(共有されたことばの肉体)」をはりめぐらし、「常套句」が独立して歩き出すのをひきとめる工夫をする)、「文学」を意識しない人は、無頓着に、「ことばの経済学」(わかりやすく、合理的な「意味の伝達」手段)としてつかうとこである。

 あ、ますます何を書こうとしていたのかわからなくなっていくが、端折って、松浦友久の現代語訳の最後の1行は「誤読」だが、「誤読」だからこそ、読んで楽しい、読んでよかったなあと私は感動した――と書いておく。
 

李白詩選 (岩波文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店
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嵯峨信之を読む(17)

2015-02-18 10:19:34 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
30 新生

 「意味性」と言えばいいのか「精神性」と言えばいいのか、抽象的な部分が多い。

人間の内部で
神がそのひとを自らの成長に任せはじめる時がある

 「神」と語られているものがどのような神なのか、私にはわからない。嵯峨の信仰について私は何も知らない。また、私は「神」というものを信じていないので、尚更、わからないのだが。しかし、人間の内部で何かが自らの力で育つということは、わかる。実感することがある。
 この二行を、嵯峨は、最後で言いなおしている。

するとなにかしら遠い合図が帰つてくる
あの盲(めし)いたひとに伝わるものが
急にまちがえてぼくの手に伝わつてきたように
怖ろしいまでに深い注意をひめた一つの合図が

 人は自ら成長するときがあるが、その前には「合図」がある。合図を受け止めて、それから成長する。だから、それはほんとうの「自ら」ではなく、あくまで「神」が与えてくれたものである。「神」が「任せ」たのである。
 「神」ということばの必然性は、「合図」という形で言いなおされている。
 この「合図」のことを「急にまちがえてぼくの手に伝わつてきたように」と書いているところが、この詩のポイントかもしれない。それは望んでいる瞬間にやってくるのではない。予期しないときに、突然、やってくる。「間違い」のようにやってくる。それが「間違い」であるかどうかは、それを受け止められるかどうかによって異なってくる。「間違い」であっても、それを受け止めれば、それは「正しい」に変わるのだ。あらゆる「合図」とは、そういうものだと思う。
 秘められた「深い注意」に気づくこと--それが自ら成長するということだ。
 
 この抽象的なことばの運動のなかほどに、少し不思議なイメージが書かれている。

熱帯の涼しい村のはずれを
ぼくがたどりついたこともない
静かな限界が眼の前に横たわる
無の川を流れる樹木
色とひかりと雲を沈めた丘

 日本の風景なのか、外国の風景なのか。桃源郷か。空想の風景なのだが、「無の川」の「無」のように、そこにふいに「日本的」な概念がまぎれこんでいる。(東洋の概念といってもいいのかも。)
 先に引用した「神」ということばを「西洋」風、この「無」を「日本」風と感じるのは、私の「誤解」かもしれないが、「熱帯」と「涼しい」が出会うように、「西洋」と「日本」が出会っているようでおもしろい。
 詩は「実感」を書いたものだが、その「実感」はときには知っていることばをつかってつくり出していくものでもある。「実感」に近づくために知っていることばをつかって、「自ら成長」していくものでもある。

31 櫂

 抽象的な詩、象徴詩というのは、ことばのすべてを「意味」にしなくてもいいのだと思う。イメージが動き、その動きが読者のなかに何かの印象を残せば、それでいいのだと思う。書いている詩人も「意味」を厳密に書いているわけではなく、「意味」になりきれない揺らぎを書いていると思う。
 嵯峨は「とらえられない」ということばで、そういうあいまいさと実感を書いている。「詩」を「櫂」という比喩にたくして、「詩はとらえられないもの」である、その「とらえられない」という気持ちのなかに生まれ、消えていくのもだと書いているようにわたしには感じられる。

それはどんな韻律(リズム)でもとらえられない
それはどんな文字綴(シラブル)でもとらえられない
もつともつと大気を自由にして
もつともつと光線を垂直にしても遂にとらえられない
ああ 昨日までぼくが触れていたものを
いま水面にとり落とした櫂のように
ぼくの心の渦をひとまわりしてやがてぼくから急速に遠ざかつていく

 こういう抽象的なこと、象徴的なことばの運動が詩になったり、詩ではない何か(哲学とか小説とか)になったりのは、何の違いによって起きるのか。
 ことばの音楽性によるのだと思う。音楽性が強いとき、読んで耳にことばが心地よく響いてくるとき、その響きを詩と言うのだと思う。
 この詩では、嵯峨は「韻律」に「リズム」ルビをふっている。「文字綴」と書いて「シラブル」と読ませている。「リズム」「シラブル」は音が軽い。そして日本語とは異質の音の組み合わせがあり、それがなんとなく楽しい。こういう音を本能的に選びとり、その響きにことばの全体をあわせていくことができる--これは詩人にとって重要な「才能」だと思う。
 イメージの美しさは、そこにあらわれる「視覚」の要素が美しいだけではなく、音として美しくないと広がりを書いてしまう。嵯峨はどんなときでも「耳」で音を確かめながら書いているようだ。耳の確かさを感じる。

嵯峨信之詩集 (芸林21世紀文庫)
嵯峨 信之
芸林書房
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