齋藤健一「今の日」、夏目美知子「淡い光の集まる場所で」(「乾河」72、2015年02月01日発行)
齋藤健一「今の日」は、ことばが短い。ある意味で不完全である。読みながら、私はどうしても順序を入れ換えたり、ことばを補ってしまう。つまり「誤読」をする。齋藤が書いていることではなく、私が覚えていることを思い出し、齋藤のことばで私の記憶を整え直す。
電燈のともる部屋。発熱球だろうか。光が散らないように笠がかかっている。その笠の内側は、ほんとうは白熱球のために熱い。しかし、「寒い」と感じる。それは「事実」というよりも「主観」である。室内の風景、そこで起きていることを、断片のまま、客観的に描いているようでも、そこには「主観」が動いている。「主観」が世界を「断片」にしてしまっている。「持続」(接続)させてしまうと苦しくなるので、断片にすることで、呼吸をしているのかもしれない。
笠の内側が「寒い」のではない。室内が「寒い」ということでもある。季節は晩秋か、初冬か。みぞれが降っている。齋藤がすわっている右側に窓があり、そこからみぞれが降るのが見えるのかもしれない。室内を、電燈の「笠の内側」を「寒い」と感じるのは、しかし、みぞれが降っているからではない。そこに死を待つ人がいるからだ。人が集まってきている。けれど、そのひとたちは、生きている自分たちのことを忘れ、死んでいくだれかをみつめている。それは父かもしれない。父は、畳と同じ色になって死んだ。--というのは、齋藤が思い出していること。そして、私が齋藤のことばからこういう風景を思い浮かべるのは、そういう光景に私自身が立ち会ったことがあるからだ。死んでいく人間ではなく、死んでしまった人間を囲む場だったかもしれないが、死者のまわりで、ものが個別に分断されていく。意味が消えて、ものだけが、ストーリーにならない「主観」と結びついて、そこに「ある」という感じ。
「主観」の孤独が齋藤のことばの特徴かもしれない。
齋藤がそんなことを思い出すのは、齋藤が、かつて父が死んだ部屋とよく似た雰囲気の部屋にいるからかもしれない。闘病しながら、部屋を見まわしているからかもしれない。(齋藤の詩には、いつも「病室」のにおいがする。)思い出しながら、目を、室内から外へ向ける。遮断機が見える。雨で(みぞれで)濡れている。特急がとおりすぎる。その窓から明かりが見えるのか。その明かりを見ながら、この部屋が特急の「個室」であったなら、と想像しているのか。旅へのあこがれを抱いているのか。
私の読み取ったものは、みんな「誤読」なのだが、その「誤読」のなかで、齋藤の孤独な主観に触れたように感じ、なぜだが、こころが震える。主観の孤独に向き合って、それをことばにする齋藤の詩を「強い」と感じるのかもしれない。
*
夏目美知子「淡い光の集まる場所で」は、齋藤の詩に比べると「散文性」が強い。ことばとことばの関係が密着している。ストーリーになっている。
読みながら、あ、わかりやすくていいなあ、と思う。しかし、この「わかりやすい」は実は「現実」ではない。
雨の「降り続く静かな音が、部屋で流れる音楽に溶け込む。」というのは、「現実」ではなく、ことばによって整えられた世界である。雨の音が音楽に「溶け込む」を客観的に証明する(客観的に言いなおす)のはむずかしい。音の聞き分けがつかなくなることか。「和音」になってしまうことか。雨の音と音楽が調和すると言いなおしても、雨の音が音楽に似合うと言いなおしても、言いなおされたことは「現実(客観)」ではない。「現実」というものがあるとすれば、雨の音が音楽に溶け込んでいるように「聞こえる」(感じる)という夏目の「主観」が「現実」なのである。ことばを読みながら、私は夏目の主観に触れている。齋藤のことばを読み、齋藤の主観に触れたように。
硝子窓の向こうで葵の大きな葉が濡れるというのは「事実」。それが「美しい」も事実(客観)かもしれない。けれど、「気持ちを明るくしてくれる」は事実(客観)というより「主観」だ。「そうした時、私は嬉しい」は「主観」そのものである。「主観」だから、そんなものは私には関係がないと言ってもいいのだけれど、その「主観」に知らずに同調してしまう。雨が「降り続く静かな音が、部屋で流れる音楽に溶け込む」という文が、主観でありながら「客観」を装っている。「主観」が「客観」になってしまっている。そのために、それにつづけて書かれる「気持ちを明るくする」「嬉しい」が「客観」のように、「事実」のように感じられるのだ。
「主観」と「現実」が、静かに調和している。連続して調和している。
齋藤の詩では、主観が現実を分断し、ものを孤立させていたのに対して、齋藤のことばはものを主観でつなぎながら世界を統合する。その統合のなかに「主観(明るい気持ち/うれしい)」という「わかりやすい主観」をしっかりと注ぎ込む。
ただし、途中に「それは悲しみの色を帯びている」という「主観的すぎる」表現もあり、そういう部分は「うるさく」感じる。
主観が過剰であると感じるのは「色」ということばが「悲しみ」を常套句にしてしまうからなのか、「帯びる」という動詞が抒情の論理であるためなのか、あるいはその二つが複合するからなのか、よくわからない。(考えても、あまりおもしろくないので、端折ってしまう……。)
けれど、
という文章は美しい。思わず傍線を引く。いつか「盗作」してみたい気持ちに襲われる。「淡い光が集まってくる」は事実なのか、そのように見えるという「主観」なのか。「主観」なのだけれど、「客観」と感じたくなる。こういう錯覚(誤読)を許してくれるのが詩である。
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
齋藤健一「今の日」は、ことばが短い。ある意味で不完全である。読みながら、私はどうしても順序を入れ換えたり、ことばを補ってしまう。つまり「誤読」をする。齋藤が書いていることではなく、私が覚えていることを思い出し、齋藤のことばで私の記憶を整え直す。
電燈。真下の微笑。内側の笠は寒い。頬の右側にみぞれ
の音がはりついている。ただ部屋は生きる者が忘れられ
ているのだ。ずっと以前に父との。畳と同じ色になった。
ほどなく死んだのである。湿めりを帯びた光がここから
折れ曲がる。遮断機の横棒。ぐっしょりと濡れる。特別
急行列車の窓は唯一だ。
電燈のともる部屋。発熱球だろうか。光が散らないように笠がかかっている。その笠の内側は、ほんとうは白熱球のために熱い。しかし、「寒い」と感じる。それは「事実」というよりも「主観」である。室内の風景、そこで起きていることを、断片のまま、客観的に描いているようでも、そこには「主観」が動いている。「主観」が世界を「断片」にしてしまっている。「持続」(接続)させてしまうと苦しくなるので、断片にすることで、呼吸をしているのかもしれない。
笠の内側が「寒い」のではない。室内が「寒い」ということでもある。季節は晩秋か、初冬か。みぞれが降っている。齋藤がすわっている右側に窓があり、そこからみぞれが降るのが見えるのかもしれない。室内を、電燈の「笠の内側」を「寒い」と感じるのは、しかし、みぞれが降っているからではない。そこに死を待つ人がいるからだ。人が集まってきている。けれど、そのひとたちは、生きている自分たちのことを忘れ、死んでいくだれかをみつめている。それは父かもしれない。父は、畳と同じ色になって死んだ。--というのは、齋藤が思い出していること。そして、私が齋藤のことばからこういう風景を思い浮かべるのは、そういう光景に私自身が立ち会ったことがあるからだ。死んでいく人間ではなく、死んでしまった人間を囲む場だったかもしれないが、死者のまわりで、ものが個別に分断されていく。意味が消えて、ものだけが、ストーリーにならない「主観」と結びついて、そこに「ある」という感じ。
「主観」の孤独が齋藤のことばの特徴かもしれない。
齋藤がそんなことを思い出すのは、齋藤が、かつて父が死んだ部屋とよく似た雰囲気の部屋にいるからかもしれない。闘病しながら、部屋を見まわしているからかもしれない。(齋藤の詩には、いつも「病室」のにおいがする。)思い出しながら、目を、室内から外へ向ける。遮断機が見える。雨で(みぞれで)濡れている。特急がとおりすぎる。その窓から明かりが見えるのか。その明かりを見ながら、この部屋が特急の「個室」であったなら、と想像しているのか。旅へのあこがれを抱いているのか。
私の読み取ったものは、みんな「誤読」なのだが、その「誤読」のなかで、齋藤の孤独な主観に触れたように感じ、なぜだが、こころが震える。主観の孤独に向き合って、それをことばにする齋藤の詩を「強い」と感じるのかもしれない。
*
夏目美知子「淡い光の集まる場所で」は、齋藤の詩に比べると「散文性」が強い。ことばとことばの関係が密着している。ストーリーになっている。
雨の日、窓の傍のテーブルで紅茶を飲む。雨は激しく
はなく、降り続く静かな音が、部屋で流れる音楽に溶
け込む。
読みながら、あ、わかりやすくていいなあ、と思う。しかし、この「わかりやすい」は実は「現実」ではない。
雨の「降り続く静かな音が、部屋で流れる音楽に溶け込む。」というのは、「現実」ではなく、ことばによって整えられた世界である。雨の音が音楽に「溶け込む」を客観的に証明する(客観的に言いなおす)のはむずかしい。音の聞き分けがつかなくなることか。「和音」になってしまうことか。雨の音と音楽が調和すると言いなおしても、雨の音が音楽に似合うと言いなおしても、言いなおされたことは「現実(客観)」ではない。「現実」というものがあるとすれば、雨の音が音楽に溶け込んでいるように「聞こえる」(感じる)という夏目の「主観」が「現実」なのである。ことばを読みながら、私は夏目の主観に触れている。齋藤のことばを読み、齋藤の主観に触れたように。
硝子窓の向こうの濡れて美しい葵の大きな葉
が気持ちを明るくしてくれる。そうした時、私は嬉し
いのだ。温かいお茶はゆっくり私の喉を下りていき、
穏やかさに包まれる。
硝子窓の向こうで葵の大きな葉が濡れるというのは「事実」。それが「美しい」も事実(客観)かもしれない。けれど、「気持ちを明るくしてくれる」は事実(客観)というより「主観」だ。「そうした時、私は嬉しい」は「主観」そのものである。「主観」だから、そんなものは私には関係がないと言ってもいいのだけれど、その「主観」に知らずに同調してしまう。雨が「降り続く静かな音が、部屋で流れる音楽に溶け込む」という文が、主観でありながら「客観」を装っている。「主観」が「客観」になってしまっている。そのために、それにつづけて書かれる「気持ちを明るくする」「嬉しい」が「客観」のように、「事実」のように感じられるのだ。
「主観」と「現実」が、静かに調和している。連続して調和している。
齋藤の詩では、主観が現実を分断し、ものを孤立させていたのに対して、齋藤のことばはものを主観でつなぎながら世界を統合する。その統合のなかに「主観(明るい気持ち/うれしい)」という「わかりやすい主観」をしっかりと注ぎ込む。
ただし、途中に「それは悲しみの色を帯びている」という「主観的すぎる」表現もあり、そういう部分は「うるさく」感じる。
主観が過剰であると感じるのは「色」ということばが「悲しみ」を常套句にしてしまうからなのか、「帯びる」という動詞が抒情の論理であるためなのか、あるいはその二つが複合するからなのか、よくわからない。(考えても、あまりおもしろくないので、端折ってしまう……。)
けれど、
河は二本だが、ここで交わるので、淡い光が集まって
来る。
という文章は美しい。思わず傍線を引く。いつか「盗作」してみたい気持ちに襲われる。「淡い光が集まってくる」は事実なのか、そのように見えるという「主観」なのか。「主観」なのだけれど、「客観」と感じたくなる。こういう錯覚(誤読)を許してくれるのが詩である。
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