高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(4)(思潮社、2015年01月15日発行)
「目の国で」について、その高橋のことばについて、もう少し書いてみる。私の書いていることは詩の感想ではないかもしれないが……。
最後の断章。
「見る」とは「日常のことば(流通言語)」では「目」をつかって「見る」「目で見る」ことを意味する。しかし、高橋はそれを否定して「眼球のない窩」で「見る」という。「最もよく見る」とは「もっとも正しく見る」というくらいの意味だと思う。
こういうことは「日常」の常識にあわない。あわないが、常識にあわなくてもいいのが詩であり、また高橋は「日常」を描いているわけでもないので、常識にあわなくてもあたりまえなのだ。。高橋はあくまで「指し示し」をしているだけである。
「指し示し」を追いかけるときに必要なことは、その「指し示し」が指し示している「対象」を見ること(理解すること)で「指し示し」を理解したと勘違いしないことだ。「最もよく見るのは眼球のない窩」ということばの場合「眼球のない窩」(名詞)を想像し、それを思い浮かべることができたからここに書いてあることが「わかった」と思い込んではいけない。
「眼球のない窩」では何も見えない。見えないはずなのに、それが「最もよく見(え)る」と、高橋は、ことばでそういう「事態」をむりやり(わざと)つくり出そうとしている。(「わざと」書くのが「現代詩」である、というのは西脇順三郎の定義だが、そういう意味では高橋の詩は「現代詩」そのものである。)「指し示し」によって「もの(名詞)」ではなく、「見る/見える」という「動詞」の「本質(哲学)」を探ろうとしている。「見る」という「動詞」そのものになろうとしている。
「眼球のない窩」で「見る」とは、どういうことか。そのとき、そこに何が動くのか。どう動くのか。その「動き」を追いかける必要がある。「動き」に「肉体」を重ねて、ことばをとらえなおす(体験し直す)必要がある。
高橋の指し示す動詞にしたがって、「見る」を解体し、再構築しなくてはいけない。(解体、再構築というようなことばは、もう古いかもしれないし、こういうことばは借り物なのであまり好きではないのだが、便利なので借りておく。)
「目で見る」は「視線」が対象に「届く」ということである。目と対象との距離(あいだ/領域)を「超えて」対象に「届く」ということである。
「見る」という「動詞」のなかにある「超える」「届く」という動きを高橋は「指し示し」、その「指し示し」に「闇」を重ねる。そうすると「闇」が「見る」という運動のありようがわかる。
「闇」は日常の目が見る「光の領域」を「超える」。つまり「光」が照らし出さない部分にまで入ってゆく。そこへ「届く」。それは「光」には見えないものまで見るということでもある。そこで「闇」が「一体」に「なる」。
「光」は「対象」の表面で反射し、それを目に像として届けるが、闇はそんなことをしない。闇は「目」による識別をしない。「目」による識別を否定し、「闇」そのものになること、「一体化」することを「見る」と定義する。(闇のなかで手で何かに触り、それが何かを理解するときは、触覚と対象が「一体(同一)」になるということ。それを「手で見る」などというが、ここでは省略。高橋は「手」については最初の断章で別のことを書いていた。もちろん、それは「闇」とつながるというか、循環、往復するのだが、長くなるので省略する。)
「見る」とは見えないもの(闇)と見なないもの(闇)が重なり合うこと。「一体」になること。
「見る」は「わかる」ということばと、ときどき同じ意味になる、闇は闇に届き、「一体」になることで、そこに起きていることを「わかる」。受け入れる。闇のなかで、闇として生まれ変わる。その愉悦。
光の中の目は、その愉悦に嫉妬する。あるいは、驚怖する。--そうわかっているからこそ、高橋は「目のない窩」としての目(闇)になって世界を解体し、再構築する。そして、その再構築の過程を、詩として指し示す。
ただし、高橋はそのとき「解体」を省略して、いきなり「無/空(混沌/解体が終わったあとの場/存在が不定形のエネルギーとしての場)」から「指し示す」という形でことばを書きはじめる。「ことば=もの」という「流通言語」をすてたところから「指し示す」という運動をはじめる。だから「難解」なのだが、「無/空」というのは「形になる前のエネルギーの場」なのだから、そのエネルギーがどんな「動詞」を通るかを手がかりにすれば、そこに「肉体」を重ね合わせ、高橋のことばを追うことができる。「動詞」に「肉体」を重ね、高橋に接近していける、と思う。
その具体例を、今回の感想で書いたつもり。
「目の国で」について、その高橋のことばについて、もう少し書いてみる。私の書いていることは詩の感想ではないかもしれないが……。
最後の断章。
そこ 目の国と呼ばれる地では
しかし 最もよく見るのは眼球のない窩
「見る」とは「日常のことば(流通言語)」では「目」をつかって「見る」「目で見る」ことを意味する。しかし、高橋はそれを否定して「眼球のない窩」で「見る」という。「最もよく見る」とは「もっとも正しく見る」というくらいの意味だと思う。
こういうことは「日常」の常識にあわない。あわないが、常識にあわなくてもいいのが詩であり、また高橋は「日常」を描いているわけでもないので、常識にあわなくてもあたりまえなのだ。。高橋はあくまで「指し示し」をしているだけである。
「指し示し」を追いかけるときに必要なことは、その「指し示し」が指し示している「対象」を見ること(理解すること)で「指し示し」を理解したと勘違いしないことだ。「最もよく見るのは眼球のない窩」ということばの場合「眼球のない窩」(名詞)を想像し、それを思い浮かべることができたからここに書いてあることが「わかった」と思い込んではいけない。
「眼球のない窩」では何も見えない。見えないはずなのに、それが「最もよく見(え)る」と、高橋は、ことばでそういう「事態」をむりやり(わざと)つくり出そうとしている。(「わざと」書くのが「現代詩」である、というのは西脇順三郎の定義だが、そういう意味では高橋の詩は「現代詩」そのものである。)「指し示し」によって「もの(名詞)」ではなく、「見る/見える」という「動詞」の「本質(哲学)」を探ろうとしている。「見る」という「動詞」そのものになろうとしている。
「眼球のない窩」で「見る」とは、どういうことか。そのとき、そこに何が動くのか。どう動くのか。その「動き」を追いかける必要がある。「動き」に「肉体」を重ねて、ことばをとらえなおす(体験し直す)必要がある。
高橋の指し示す動詞にしたがって、「見る」を解体し、再構築しなくてはいけない。(解体、再構築というようなことばは、もう古いかもしれないし、こういうことばは借り物なのであまり好きではないのだが、便利なので借りておく。)
窩に詰まった闇は 光の領域を超えて
影の国の傾斜の濃いどんづまりまで届く
「目で見る」は「視線」が対象に「届く」ということである。目と対象との距離(あいだ/領域)を「超えて」対象に「届く」ということである。
「見る」という「動詞」のなかにある「超える」「届く」という動きを高橋は「指し示し」、その「指し示し」に「闇」を重ねる。そうすると「闇」が「見る」という運動のありようがわかる。
「闇」は日常の目が見る「光の領域」を「超える」。つまり「光」が照らし出さない部分にまで入ってゆく。そこへ「届く」。それは「光」には見えないものまで見るということでもある。そこで「闇」が「一体」に「なる」。
「光」は「対象」の表面で反射し、それを目に像として届けるが、闇はそんなことをしない。闇は「目」による識別をしない。「目」による識別を否定し、「闇」そのものになること、「一体化」することを「見る」と定義する。(闇のなかで手で何かに触り、それが何かを理解するときは、触覚と対象が「一体(同一)」になるということ。それを「手で見る」などというが、ここでは省略。高橋は「手」については最初の断章で別のことを書いていた。もちろん、それは「闇」とつながるというか、循環、往復するのだが、長くなるので省略する。)
見るとはつまることろ闇が闇を見ること
光の中の目たちはそれを知っている
「見る」とは見えないもの(闇)と見なないもの(闇)が重なり合うこと。「一体」になること。
「見る」は「わかる」ということばと、ときどき同じ意味になる、闇は闇に届き、「一体」になることで、そこに起きていることを「わかる」。受け入れる。闇のなかで、闇として生まれ変わる。その愉悦。
光の中の目は、その愉悦に嫉妬する。あるいは、驚怖する。--そうわかっているからこそ、高橋は「目のない窩」としての目(闇)になって世界を解体し、再構築する。そして、その再構築の過程を、詩として指し示す。
ただし、高橋はそのとき「解体」を省略して、いきなり「無/空(混沌/解体が終わったあとの場/存在が不定形のエネルギーとしての場)」から「指し示す」という形でことばを書きはじめる。「ことば=もの」という「流通言語」をすてたところから「指し示す」という運動をはじめる。だから「難解」なのだが、「無/空」というのは「形になる前のエネルギーの場」なのだから、そのエネルギーがどんな「動詞」を通るかを手がかりにすれば、そこに「肉体」を重ね合わせ、高橋のことばを追うことができる。「動詞」に「肉体」を重ね、高橋に接近していける、と思う。
その具体例を、今回の感想で書いたつもり。
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