詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(4)

2015-02-27 11:59:40 | 詩集
高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(4)(思潮社、2015年01月15日発行)

 「目の国で」について、その高橋のことばについて、もう少し書いてみる。私の書いていることは詩の感想ではないかもしれないが……。
 最後の断章。

そこ 目の国と呼ばれる地では
しかし 最もよく見るのは眼球のない窩

 「見る」とは「日常のことば(流通言語)」では「目」をつかって「見る」「目で見る」ことを意味する。しかし、高橋はそれを否定して「眼球のない窩」で「見る」という。「最もよく見る」とは「もっとも正しく見る」というくらいの意味だと思う。
 こういうことは「日常」の常識にあわない。あわないが、常識にあわなくてもいいのが詩であり、また高橋は「日常」を描いているわけでもないので、常識にあわなくてもあたりまえなのだ。。高橋はあくまで「指し示し」をしているだけである。
 「指し示し」を追いかけるときに必要なことは、その「指し示し」が指し示している「対象」を見ること(理解すること)で「指し示し」を理解したと勘違いしないことだ。「最もよく見るのは眼球のない窩」ということばの場合「眼球のない窩」(名詞)を想像し、それを思い浮かべることができたからここに書いてあることが「わかった」と思い込んではいけない。
 「眼球のない窩」では何も見えない。見えないはずなのに、それが「最もよく見(え)る」と、高橋は、ことばでそういう「事態」をむりやり(わざと)つくり出そうとしている。(「わざと」書くのが「現代詩」である、というのは西脇順三郎の定義だが、そういう意味では高橋の詩は「現代詩」そのものである。)「指し示し」によって「もの(名詞)」ではなく、「見る/見える」という「動詞」の「本質(哲学)」を探ろうとしている。「見る」という「動詞」そのものになろうとしている。
 「眼球のない窩」で「見る」とは、どういうことか。そのとき、そこに何が動くのか。どう動くのか。その「動き」を追いかける必要がある。「動き」に「肉体」を重ねて、ことばをとらえなおす(体験し直す)必要がある。
 高橋の指し示す動詞にしたがって、「見る」を解体し、再構築しなくてはいけない。(解体、再構築というようなことばは、もう古いかもしれないし、こういうことばは借り物なのであまり好きではないのだが、便利なので借りておく。)

窩に詰まった闇は 光の領域を超えて
影の国の傾斜の濃いどんづまりまで届く

 「目で見る」は「視線」が対象に「届く」ということである。目と対象との距離(あいだ/領域)を「超えて」対象に「届く」ということである。
 「見る」という「動詞」のなかにある「超える」「届く」という動きを高橋は「指し示し」、その「指し示し」に「闇」を重ねる。そうすると「闇」が「見る」という運動のありようがわかる。
 「闇」は日常の目が見る「光の領域」を「超える」。つまり「光」が照らし出さない部分にまで入ってゆく。そこへ「届く」。それは「光」には見えないものまで見るということでもある。そこで「闇」が「一体」に「なる」。
 「光」は「対象」の表面で反射し、それを目に像として届けるが、闇はそんなことをしない。闇は「目」による識別をしない。「目」による識別を否定し、「闇」そのものになること、「一体化」することを「見る」と定義する。(闇のなかで手で何かに触り、それが何かを理解するときは、触覚と対象が「一体(同一)」になるということ。それを「手で見る」などというが、ここでは省略。高橋は「手」については最初の断章で別のことを書いていた。もちろん、それは「闇」とつながるというか、循環、往復するのだが、長くなるので省略する。)

見るとはつまることろ闇が闇を見ること
光の中の目たちはそれを知っている

 「見る」とは見えないもの(闇)と見なないもの(闇)が重なり合うこと。「一体」になること。
 「見る」は「わかる」ということばと、ときどき同じ意味になる、闇は闇に届き、「一体」になることで、そこに起きていることを「わかる」。受け入れる。闇のなかで、闇として生まれ変わる。その愉悦。
 光の中の目は、その愉悦に嫉妬する。あるいは、驚怖する。--そうわかっているからこそ、高橋は「目のない窩」としての目(闇)になって世界を解体し、再構築する。そして、その再構築の過程を、詩として指し示す。
 ただし、高橋はそのとき「解体」を省略して、いきなり「無/空(混沌/解体が終わったあとの場/存在が不定形のエネルギーとしての場)」から「指し示す」という形でことばを書きはじめる。「ことば=もの」という「流通言語」をすてたところから「指し示す」という運動をはじめる。だから「難解」なのだが、「無/空」というのは「形になる前のエネルギーの場」なのだから、そのエネルギーがどんな「動詞」を通るかを手がかりにすれば、そこに「肉体」を重ね合わせ、高橋のことばを追うことができる。「動詞」に「肉体」を重ね、高橋に接近していける、と思う。
 その具体例を、今回の感想で書いたつもり。

続続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫)
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嵯峨信之を読む(26)

2015-02-27 10:48:20 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
48 赤江村

 「静けさについて語るのをきこう」という一行からはじまる。だれが語るのか。「静けさ」が自分自身で語っているのを、「静かに」聞いている感じがする。そのとき「静けさ」が交錯する。その交錯は、詩人が自分で「静けさ」について語り、それを詩人自身が聞きながら反芻する姿にも見える。
 「ここ」にない「「静けさ」がどこかから、ことばといっしょに「ここ」あらわれてきて、「ここ」にある「静けさ」をさらに深くする。

汐のみちている河口の方を考えよう
そこはすでに一つの静けさだ
静けさはそうしてひとしれぬ遠いところでみのるのだ

 静かな河口を考える、思い浮かべる。そうするとそこに河口の「静けさ」があらわれてくる。河口が「静けさ」になる。そういうことを、嵯峨は「みのる」ということばで表現している。
 「静けさ」というものが、だんだんわかってくる。その「わかる」という感じが「みのる」。それは「頭」で「わかる」のではなく、「肉体」で「わかる」。
 嵯峨は、言い換えている。

時の内部は見えなくても
あなたの手はそれをじかに感じる

 「静けさ」と「時の内部」と言い換えられている。「時」は流れる。ときには激流になって流れる。「時」という川は流れ終わって、河口でたゆたっている。激しく流れるときも、ゆったりとたゆたっているときも、その「内部」にあるものは「外部」の姿とは違っているかもしれない。嵯峨が感じているのは「静かな」姿である。「静か」が実って(大きくなって)、そこに「存在している」。それを「じかに」感じている。

たわわにみのる静けさと
暗やみに刻まれている 一つの浄らかな彫姿(レリイフ)に触れることができる

 「たわわ」は「豊かさ」を言い換えたもの。「静けさ」が果実のように充実して重くなっている。その充実した彫姿に「触れる」。「手」で「触れる」。
 「触れる」というのは、手があって、その外側に彫姿があって、それが接触することだが、この詩の場合、外にある何かに触れる、という感じはしない。
 自分自身の内部に触れる、という感じがする。
 「時の内部」の「内部」ということばが、視線を「内部」に誘い込む。「見えなくても(見えない)」「暗闇」ということばも、意識を「内部」に誘い込む。「内部の暗闇」「見えない内部」。そこで「静けさ」が「みのる」。
 「暗やみに刻まれている」ということばが印象的だ。「暗やみ」のなかにある何か(大理石とか、木とか)ではなく、「暗やみ」そのものが刻まれている。詩人の「肉体の内部」にある「暗やみ」が刻まれて、「暗やみ」なのだけれど「浄らかな」ものになる。透明なものになる。透明だから、見えない。暗やみのなかだから、透明はなおさら見えない。そういう詩人の内部の、変化。
 「じかに感じる」の「じか」は、そういう「肉体の内部」の変化の感触だ。「手」で感じるというよりも「いのち」で感じる。
 嵯峨は「肉体内部」の「いのち」が直接感じたことを書いている。「静けさ」は自分の内部にある。それが満潮の河口の姿を思い浮かべるとき、その姿のなかにあらわれてくる。その「あらわれてくる」感じを「じかに」感じる。自分の内部で起きているから「じかに」しかありえないことである。
 「いのち」が「じかに」感じている。そのためだろうか、嵯峨の書いている「静けさ」は「かなしさ」にもつながっているように思える。何かを愛したときに動く静かな動きを感じさせる。

 「じかに」としか言えないことがある。「じかに」は詩人が感じていること。それを、「間接的に」触れることができる形にしたのが、詩。

49 純粋の流れ

 「純粋の流れ」からは「野火」という「章」の作品。

そのままじつと黙つていよう
ながれはじめた純粋の流れにこの身を浸すために
それを注意ぶかくみつめているきらめける白い星星
音楽はそれに刻んでいる
落葉のように無数の手で

 抽象的な詩だ。「純粋の流れ」というのは何のことだろう。よくわからない。
 私が思わず傍線を引いたのは「音楽はそれを刻んでいる」という行。
 音楽は何を何に刻んでいるのか。音楽に「純粋の流れ」が刻まれているようにも感じられる。嵯峨が書いている「文法」では、そんなふうに読むことはできないのだが、詩のことばは文法とは無関係に、何かをつきやぶって動く。動いた瞬間に、あるいは「誤読」した瞬間に感じ取るものが詩なのかもしれない。
 嵯峨の詩は、「きらめける白い星星」とか「落葉のように無数の手」というような表現のために「視覚の詩」という印象がある。嵯峨は視覚の詩人である、といいたくなるところがある。
 しかし、一方、この詩に書かれている「音楽」ということばが隠れた意識をあらわしているように、聴覚の詩人、音の詩人でもある。
 「ながれはじめた純粋の流れ」ということばのなかには「ながれ/流れ」が重複している。ことばの経済学からいうと「不経済」。「そのままじつと黙つていよう」の「そのまま」と「じつと」は同じ。「じつと」と「黙る」も意味的に重複している。不経済だ。でも、嵯峨は重複して書いてしまう。重複するときイメージが明確になると同時に、単なる「音」ではなく、重複がつくりだすリズム、音楽が生まれるからだ。
 詩の「音楽」というと、音の響きあいが問題になるが、音の響きあい以外にも、無意識の意味の反復のリズム、無意識の逸脱(?)のリズムにも耳を傾けないといけないと思う。
 「きらめける白い星星」というのは過剰な美しさで、視覚的にはうるさいかもしれない。けれど「きらめける」という暴走が「白い星星」という「音の連なり」には必要なのだ。「七五調」になって耳のなかをかけぬける軽さが、ここでは「音楽」のひとつだ。
(全体が「七五調」という意味ではない。)
 




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探していた

2015-02-27 00:50:21 | 
探していた

 「探していた」ということばが、「引き出しのなか」にあった。影に封筒からはみ出た便箋があった。折り畳まれているので、そこにどんなことばがあったのかわからないが、本のなかのことばは「探すふりをして時間稼ぎをしていたのかもしれない」という具合に動いた。「本のなかのことば」ということば、そこにはなかったので、つけたした。

 「写真のなかに一本の綱」ということばがあった。「知らない」ということばが、遠くから帰って来たとき、「写真」ということばは「鏡」にかわって、引き出しのなかの手紙から抜け出し、直訴をこころみた。鏡の木枠と、写真立てのフレームはたしかに「似ている」。「似ている」ということばが、とんでもない方向から飛んできて、飛び去った。

 追いかけてはいけない。「追いかけてはいけない」ということばがあったが、否定形のあまい誘いにのってはいけない。追いかけてはいけないのだ。

 「探していた」ということばに戻っていく。「半開きのドアの蝶番」ということばを開けて、錆びた金属の粉を差し込んできた光のなかに散らす。床に足跡が「暗い水のように」ということばになって、存在していた。「裸足」ということばが、ぶらさがっていた。「鏡のなかに」。動かないので鏡ではなく「写真だと思った」と、ことばは主張するのだ。「ほんとうだろうか」。








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