詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』

2015-02-24 12:21:32 | 詩集
高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(思潮社、2015年01月15日発行)

 高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』は現代詩文庫シリーズの一冊。高橋「続続」からわかるように三冊目の選集である。おもしろいのは、それまでの選集が「詩集」の形を基本にしていたのに、今回の選集は「詩集」を解体し「目、生、旅、讃、悼、倣」の6章に編みなおしたものであることだ。「詩集」とはちがった形で読み直してほしいという「意思」があるのだろう。同時に現代詩文庫シリーズの『高橋睦郎詩集』(1969年03月15日初版)『続・高橋睦郎詩集』(1995年12月25日初版)も再版されているのも、その高橋の思いを反映している。
 詩を読むことは常にその瞬間の「事件」であり、どの作品がどの詩集に掲載されていたかは私にとっては関係がない。--とは言うものの、うーん、なんだかテストされているような感じでもある。いま、この一篇をどう読むか。それを問われているような気持ちになる。
 しかし、気にすまい。忘れよう。ただ書いてあることばを読み、それを私はどう読むか、それだけを書こう。

 最初の作品は「目」という章の「目の国で」

そこ 目の国と呼ばれる地では
人人は私たちが見るようには見ない
彼等の目の中には 手があって
指頭で 遠い木や近い岩にさわる
ときには 五つの指を開いた手を伸ばして
太陽を負うた鷲の飛翔をがっしと掴みとる

 ここには私の知らないことばはない。しかし、ここに書かれている「国」が実際にあるかどうか知らない。「ない」と思っている。これは高橋がことばを組み合わせて作り上げた「空想」のようなものだと考える。
 言いかえると、まず「もの」があって、それに対応して「ことば」があるという世界ではない。「もの=ことば」の世界ではない。実際に「ある(存在する)」国のことを高橋が描写しているわけではない。まず「ことば」があって、その「ことば」にあわせて「もの/私が知っているもの」を結びつけ、私は「世界」を想像する。「ことば=もの」の世界である。「ことば」によって存在しない国を「ある」にしてしまう。
 「もの=ことば」と「ことば=もの」と、どこが違うのか、等記号で書き直してしまうとわからなくなる。等記号で結びつけられたものは入れ換えても同じであるというのが等記号の「意味」だからである。
 だから(と、私は、うまく言えないから/自分でもよくわかっていないから、私は論理を飛躍させるのだが)、「もの=ことば」は「ことば=もの」でもないということを意識しながら読まないといけない。高橋はここでは「ない」ものを、ことばによって「ある」にしようとしている。いや、これでは正確ではない。高橋はことばを書くことで「ある」をそくりだしている。そのとき「ない」は存在しなくなるという言うべきなのかもしれない。
 どういうことか。最初の「そこ」というあいまいなことばから読み直さないといけない。
 「そこ」とは何か。「そこ」ということばは日常では、まず何かを指し示す。「机がある。そこに本がある」という場合、「そこ」は机(の上)である。高橋は、「そこ」に先行して何も書いていない。「そこ」は「ここ」ではない、「あこ」でもない、ということになる。「どこ」か。たぶん、「どこ」でもない。つまり「場」ではない。日常のことばでいう「場」をあらわしてはいない。
 何をあわらわしているか。「指し示す」という運動(行為)をあらわしている。高橋は何かを指し示そうとしている。指し示すために「ことば」を動かしている。「もの」があるのではなく「指し示す」という運動がある。高橋は「もの(存在)」ではなく、「指し示す」を書いてる。「動詞」を書いているのだ。
 「目の国と呼ばれる地では」もおもしろい。「呼ばれる」は、やはり「指し示し」である。「呼ぶ」ことによって、「もの」が何であるかがわかる。「目の国」があって、それが「名前」として流通するのではなく、「目の国」と呼ぶことが、その「地」を「目の国」にする。
 ここでおもしろいのは、冒頭の「そこ」が「ここ」でも「あこ」でも「ない」ということによって初めて成り立っていたように、その「目の国」も否定によって「目の国」になっている点である。「人人は私たちが見るようには見ない」。「目」は日常では「見る」ための「もの/器官」である。けれど、高橋はその日常の「目」を否定した上で、「目の国」と呼ぶ(呼ばれていることを肯定する)。目は「見る」のではなく「さわる」。つまり「手」と同じ働きをする。
 ここからがさらに「動詞(指し示す)」の世界になる。
 「手」は、それでは「比喩」なのか。「比喩」かもしれない。たしかに日常でも目で何かにさわることがある。綿のセーター。ふつうのウールのセーター。カシミアのセーター。その光沢や形の滑らかさを見て、肌触りを感じる。手で触る前に、触ったように感じる。手で、その感触をたしかめ、目の判断は間違っていなかったという具合に思うことがある。だから「目」は「見えない手」で「さわる」ということもできる。「比喩」は、そうやって成り立っている。
 この問題は、もう一度、別な言い方で考え直さないといけないかもしれない。「目」が「手」という「比喩」になるとき、目は「見る」という「動詞」から解放される。「見る」ではなく「たしかめる」という精神的(?)な行為、認識するという「動詞(精神の動き)という領域にまで引き戻される。そして、「たしかめる」「認識する」という動詞をとおって、「手」になっている。「見る」という限定的な「動詞」が、否定され、「見る」というこだわりをなくして、「たしかめる」「認識する」あるいは「知る」という動詞として動きまわる(この動きも限定されたものではない。私は語彙が少ないのでたまたま便宜上「たしかめる」云々と書いているだけである)。そして「手」に生まれ変わる。「比喩」はあるものの「死(否定)」と「再生」の運動である。そして、その運動の奥底には、日常の観念とはちがった別の運動がある。目で「見る」ではなく、目で「たしかめる」というような運動をとおって、「手」で「さわって」たしかめるという具合に動いている。そういう動詞の世界のあり方、世界の動詞的あり方を高橋は指し示している。
 「目の国」と「目」、「手」の関係をそう考えたあとも、高橋のことばを追うのはむずかしい。何度も何度も、いま考えたことを即座に否定して、また新しい「運動」をくぐらなければならない。
 「手」は「私の肉体の一部」である。手は肉体につながっている。そのつながったもので「遠い木」に「さわる」というのは、どういうことか。「ここ」にいては「遠い」はさわれない。日常の定義では、そうなってしまう。「さわる」ためには、手は肉体から自在にならないといけない。肉体の限定を受けていては、遠くはさわれない。そういう限定を否定、拒絶して、高橋は「さわる」という動詞と、その動詞が動いたときにいっしょに動いた感覚を解放する。感覚を自在に動かす。
 「さわる」は「手」と「もの」との直接関係だけをあらわしているのではない。「さわる」は先に書いてしまったが「たしかめる」「知る」「認識する」という「精神的(?)動詞」とどこかで融合している。区別できないものとなっている。この動詞の融合した領域を私は「無(混沌)」と呼んでいるのだが、その「無(混沌)」をとおって動き直すときに、感覚が世界としてあらわれる。鷲(鳥)をつかんだときの、鳥の肉体からつたわってくる人間の肉体にはない躍動が、太陽までを引き込んで動く。
 遠くは「手」では直接さわれない。飛んでいる鷲は直接はつかめない。けれど、想像力でさわることはできる。いままで肉体で体験したきたこと、覚えていることを、動かしながら、さわる。「木」を肉体は覚えている。さわったことがある。鳥にもさわったことがある。だから、その覚えていることをつかって、木にさわる。鷲にさわる。つかむ。想像するとは「肉体を動かすこと」なのである。手が覚えていることが、遠くにさわる。そして、手が覚えていることを確かめる。そして、人間は自分にできないこと、鳥の飛翔さえも、肉体の夢として夢見ることができる。ことばが、それを手助けする。
 高橋のことばは想像力のスピードが速く、つかみにくいことが多いが、わかりやすい動きもきちんと書いて読者を誘い込む。
 たとえば「五つの開いた指を伸ばす」という運動もある。高橋は、ことばのなかで「肉体」を動かしている。そして、その「肉体の動き」があるから、高橋のことばは、ことばだけで動く非現実(想像)の世界なのに、「肉体」を刺戟してくる。そこに書かれていることが「わかる」。ことばを通して肉体が動き、その肉体の動きが指し示すものが「わかる」。何よりも、「指し示している」ということが「わかる」。
続続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫)
高橋 睦郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(23)

2015-02-24 10:10:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
42 帰郷2

 「関の尾の滝」の注釈。

青い林檎のように燃える一つの星が
すぐそこの低い空に大きく重く垂れさがる
ぼくはかがんで湧き水を飲んだ
つめたく濡れた草地に立つていると

 透明な空気を感じさせる描写ではじまる。あまりに透明なので空との距離がわからない。星との距離もわからない。「青い林檎」は若さ、青春の象徴である。
 その透明さは三行目の「湧き水」につながる。
 湧き水は透明でつめたい。その「つめたい」が4行目で「つめたく濡れた草地」につながる。夜露で濡れている。「湧き水」が、ここでは草をびっしりと覆うこまかい水滴になっているのだが、それは地上の青い星のようにも感じられる。
 各行のことばは、前のことばを引き継ぎながら、全体をひろげていく。呼びかけあい、往復しながら、少しずつ世界をひろげていく。
 五行目から、その世界のひろがり方が微妙に変化する。

滝の音が暗がりの向うでしている
葡萄ばたけのほのぬくい匂いが漂う

 「滝」は「湧き水」を引き継いでいる。「湧き水」が「立つ」と滝になる。「滝」は草地に足元を濡らして立つ「ぼく」でもある。
 そういう意味では世界はつながっているし、より緊密に、立体的になっている。その変化と感覚のありようの変化が重なる。
 四行目までは目で見ることのできる世界。視覚が動いて「透明」を感じ取り、「透明」を集めている。しかし、五行目では「音」、つまり聴覚が動いている。目は「暗がり」にさえぎられて見えない。この視覚の休止から聴覚への感覚の移動が、さらに嗅覚を呼び覚まし、葡萄畑の「匂い」をとらえる。
 世界が「足元」から「故郷全体」へひろがり、それが「視覚、聴覚、嗅覚」のひろげがりと重なる。読み返してみると、「濡れる」ということばには「触覚」があり、「葡萄」には「味覚」があることもわかる。「五感」のすべてを動員して、嵯峨は「故郷」を描写していることになる。
 この描写のあとの、最後の二行。

いまぼくのなかを通りすぎるものが
かつてぼくを故郷から遠くつれさつたのだ

 前半の六行は「いま」の故郷である。しかし、それはかつての「故郷」の姿そのままである。嵯峨は「いまの故郷」のなかにいて、「過去の故郷」を反芻している。そのとき、「過去」が嵯峨のなかを「通りすぎる」。それは「時間」というよりも、「五感」そのものが通りすぎる。いや、よみがえる。
 若い時代の(これを書いたときも若かっただろうけれど)新鮮で、敏感な感覚が肉体をなかに復活してくる。
 その「鮮烈な感覚」、世界を新しく美しく透明なものとしてとらえてしまう「五感」が嵯峨を故郷から引き離した。故郷から、遠くへ「つれさつた」。「故郷」の外には、故郷にはないもっと新鮮で美しいものがあると予感する「五感」が嵯峨を突き動かしたのだ。
 その衝動の原点を、嵯峨は帰郷して、実感している。五感の再生、五感の覚醒として。

43 大淀川

ぼくの中に
ぼくの中にどこまでも長く突き出ている堤防
朝焼けの大淀川

 書き出しで「ぼくの中に」が繰り返される。大淀川の堤防は、現実の風景であると同時に、「心象風景」になってしまっている。「ぼくの中に」がくり返されるのは、強調である。
 四行目で

そのすべてを静かに消そう

 と書かれるが、「心象風景」は消せない。消そうとしても、必ず思い出してしまう。肉体は故郷を離れるとなかなか帰郷できないが、こころはいつでも「心象風景」へ帰郷できる。
 この拮抗、あるいは矛盾のなかで、ことばは詩になる。
嵯峨信之詩集 (芸林21世紀文庫)
嵯峨 信之
芸林書房
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午後四時、

2015-02-24 00:50:42 | 
午後四時、

「午後四時」ということばがそこにあったのは、午後四時ではなく、それよりも前のことであった。ことばはいつでも予感となってあらわれてしまう。「ため息をつく必要がある」ということばは、きのうからテーブルの上に影を落としていた。
「午後四時」ということばの隣には「コップ」ということばがあり、そのなかで「ぬるくなった水」ということばが、ゆっくりと光を反射させている。反抗するように、「生の倦怠」ということばが、水の入ったコップに差し込まれた鉛筆のように「屈折」ということばを引き寄せている。

午後四時。「言おうとしていたことばを先に言われてしまうと、怒り出す癖がある」ということばが階段を上っている。


*

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