詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(19)

2015-02-20 11:11:57 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

 「日向抒情歌」。日向は嵯峨の故郷。宮崎と言わず日向と言うのは、嵯峨がほんとうに育ってきた場所という意識があるからだろう。「宮崎」では広すぎる。知らない場所のことは書かない、という意識が働いているだろう。そこに嵯峨の誠実さを感じる。

34 川ぎしの歌

 「神田橋旅館で」という注釈(?)が最後についている。川岸にある旅館なのだろう。そこで嵯峨は「あなた」と会った。それはきょうのことではなく、「その日」、過去のことである。

その日あなたは多くのことを話した
だが多くの言葉のなかで一語だけが絃(げん)のように高らかに鳴つた

 こう書き出される詩は、しかし「一語」については説明しない。どういう一語だったのか、書いていない。客観的なことは何もわからない。わからないけれど、詩を感じる。嵯峨がそのことばを聞いたときの「主観」がわかる。「主観」といっても「かなしい」とか「うれしい」という「流通言語」になる「主観」ではない。簡単にことばにできないから、「わかる」ではなく「感じる」と言った方がいいのかもしれない。嵯峨の「主観」を感じる、その主観に触れたように感じる、という錯覚(誤解/誤読)を私は詩と呼んでいるだけなのかもしれないが。

一語だけが絃のように高らかに鳴つた

 「絃のように鳴つた」と嵯峨は感じた、その「感じた」ということだけが、わかる。
 「絃の音」とどういうものか。バイオリンの弦? チェロの弦? 琴の絃? 低い音? 高い音? 澄んだ音? 暗い音? 明るい音? わからない。わからないけれど、「絃のように鳴つた」を私は美しい表現だと思う。瞬間的に、理由もなく(根拠もなく)、その音は透明で悲しみに満ちたものだろうと想像する。バイオリンのアリアのような、音。「その日」と過去を思い出すことばが、そう感じさせる。「過去」を思い出すのは、「抒情」の場合、悲しみが寄り添う--というのは「定型」の発想かもしれないが……。
 でも、「高らか」とあるから、そうではないかもしれない。明るい喜びに満ちた音かもしれない。愛をほのめかすことばだったかもしれない。他人にはわからないが、ふたりにはわかる愛のことば。でも、そうであるなら……いま、どうして「ぼく」はそれを思い出しているのか。いま、「あなた」はどこにいるのか。「その日」は幸福だったが、その後、悲しみがやって来たのか。愛は、どんな具合に破綻してしまったのか。どうして「高らかに鳴つた」音が、「高らかに鳴つた」と書いてあるのに、「高らか」なまま聞こえてこないのか。何があったのか。
 これも、わからない。
 わかるのは、嵯峨が、その日を思い出している、ということ。思い出しているから「話した」「鳴つた」と動詞が過去形になっている。「いま」から離れている。過去を思い出しているが、その過去に直接触れるというよりも、すこし距離を置いて触れている。「いま」と「過去」のあいだに、不思議な「距離/隔たり/空間」のようなものがある。「過去」だから、いま「高らか」に聞こえてこない。だから、哀しい、寂しいというようなことを連想するのか。
 しかし、「高らか」ではないが、「その音」は鳴っている。
 これを嵯峨は、

余韻はいまもつづいている

 と三行目で書き直している。「その日」、あることばが「絃のように鳴つた」、その音を直接思い出しているのではなく、その音の「余韻」を嵯峨は聞いている。いま、聞いている。
 「話した」「鳴つた」という過去形から「つづいている」という現在形へ動詞が変わっている。
 この瞬間に、「過去」と「いま」がしずかに融合する。「一体」になる。「主観」のなかで「過去」と「いま」の区別がなくなる。「その日」は「きょう」のことのように近くにある。「その日」なのに、「いま」、その日に触れている。「余韻」は「いま」と共振し、そこに新しい「音」を響かせている。

しかしよく見ると砂の上に
かすかに翼の触れた跡が残つている

 ある音が強く響く、それが余韻となっていつまでも残る。その余韻に共振して、「いま」が静かに響きを生み出す。そのときの「和音」。そういうものを嵯峨は書いている。嵯峨は、その「和音」を聞いている。「悲しみの和音」を嵯峨は聞いている。

35 入江

 「大淀川河口」という注釈がついている。

なぜこんなに心せかれてくるのだろう
ぼくの立つている砂地がもう残り少ない
くりかえしくりかえし寄せていた夕汐が滑らかに沖へひろがつていて
他のひとのしずけさに似た穏やかな海の上

 「ぼく」のこころのありようが、「他のひとのしずけさ」と対比されている。静かな海の「比喩」に「他のひとの」ということばがつくことで、「ぼく」のこころがくっきりみえてくる。
 嵯峨の詩は、静かな悲しみに満ちているが、その静けさは自己の感情を暴走させるのではなく、常に「他のひと(他者)」によって相対化されているからかもしれない。感情に溺れない。相対化によって、「主観」が「客観」化される。

どこかにかくれている一つの約束が見える
大きな鳥が一羽 砂洲の上をすれすれに飛んだ

 「一つの約束」とは何か。「大きな鳥」とは何か。わからないけれど、隠れていた約束が「鳥」になって砂洲の上を飛んでいくように見える。その鳥、そのあらわれ方が「約束」の「比喩」である。空の高みではなく、砂洲の上を「すれすれに」という飛び方が「かくれている」や「見える」と呼応する。
 「ぼく」の感情(主観)が「他者」によって相対化された瞬間に、感情に流されていたときには見えなかった何かが見える。
 嵯峨の詩のことばは、そんな動きを含んでいる。
小詩無辺
嵯峨 信之
詩学社
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外と内と、

2015-02-20 01:26:54 | 
外と内と、

「朝の六時から雨が降りはじめていた」ということばは、「三時からだった」ということばによってさっとかき消された。
テーブルの上の黄色い白熱球。その光が硝子窓に映っている。
互いのことばを憎んでいる二つの影は、
「無言のまま、海が灰色に変わるのをみつめていた」。
ひとりの日記にそう書かれたあと、
「悲しみの断崖」ということばと同じように記憶になってしまった。

遠くで鴎の鳴く声、近くで青いガスの花の開く音。
「外からやってくるのか、私のなかから聞こえてくるのかわかならかった」ということばは、風のない日に聞こえるあの音、雨が海に触れるの音のよう。

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