詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤恵子「白粉花」

2015-02-21 09:21:30 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤恵子「白粉花」(「どぅるかまら」17、2015年01月10日発行)

 病室で女房が来るのを待っている男--という視点で書かれた詩。この詩のなかで、斎藤は「夫」になっている。二人がいっしょに暮らしはじめたころのことが書かれている。

夏になると川ばたに白粉花が咲いた。白粉花は夕方ひらき夜まで咲く。よい匂いがする。おれは自転車で白粉花の匂いがしてくると家に帰りついたと思った。

女房は白粉花を摘んでガラスコップに入れた。
 あまりきれいじゃないな。
 川べりで咲いているのが似合うんじゃないか。
おれが言うと、女房はほらと爪先を見せた。紅く染まっていた。
 白粉花で染まったのよ。
紅い爪先をひらひらさせて夕日にかざした。

 夫の視点でことばが動いているのだが、ことばの動きに作為がない。斎藤が過去を思い出して夫の視点からことばを動かしているのではなく、夫はいつかこれと同じことを斎藤に言ったのだ。一度だったかもしれない。あるいは何度か言ったのかもしれない。
 夫の記憶、夫の思い出を斎藤は、夫のことばで共有している。自分のことばではなく、夫のことばをそのままそっくり受け止めて、夫になってる。夫になることで、自分の無邪気さを確認している。「私は白粉花のようにあまりきれいじゃないかもしれない。川べりが似合っているのかもしれない。でも、見て。マニュキアをすると、こんなにきれいでしょ? きれいと言って。」夫といるから、あんなふうに無邪気に、こどもみたいなことができたのだと思い出している。一体になって動いている。自分の、あのときの感情さえも夫のことばで思い出している。

女房はおれが腰痛だと言ったので腰の病気だと思っている。だが実のところあと何回女房の顔が見られるのか、おれにもわからない。

 これは、夫のことばとして書かれているが、妻・斎藤の想像かもしれない。夫は腰痛だと思っている。ほんとうのことを知らされていない。妻は、それを知っている。知っているけれど、夫には言わない。こういうことは、たぶん、言わなくても「わかる」ものである。そして「わかっている」と「わかる」から、夫はいま、こんなふうに考えているのだろうと、斎藤は想像する。
 だから(と言っていいのかどうか……)、先に引用した「白粉花」とマニュキアのやりとりも、ほんとうは斎藤が夫にあのときのことを思い出して、と祈っているのかもしれない。無邪気にこころが出会い、すれ違い、微笑んだ瞬間。あのときは楽しかったね。
 あのとき、私(斎藤)はなにも知らなかった。いまも、なにも知らない。夫か病気とは知らない。夫は腰痛が治れば退院できると無邪気に信じている。--信じている姿を、無邪気なマニュキアの娘の姿のままの私を覚えていて、と祈っている。
 静かなことばの動きに、この時間が少しでも長くつづくようにと祈らずにはいられない。
海と夜祭
斎藤 恵子
思潮社
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嵯峨信之を読む(20)

2015-02-21 01:17:51 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
36 蜻蛉

 「折生迫港」の注釈。港で見た光景。

眼に見えぬ風のざわめきがいつまでもぼくを不安にする

 この「眼に見えぬ」はなぜ書かれなければならないか。「風のざわめき」の「風」そのものはだれにも見えない。風にざわめく木の葉、草は見える。また風によってざわめく木の葉や草の触れあう音は聞こえる。しかし、「風」そのものは見えない。見えないものをわざわざ「見えない」と書くのは、神経が緊張していることをあらわしている。神経が張り詰めていて、そのためにことばが余分に動いてしまう。それが「不安」と呼応している「不安」とは張り詰めた気持ちで何かと向き合うときに動くこころである。
 「眼に見えぬ」は文法的には「風」を修飾しているが、「意味」(主観)としては「不安」を定義している。
 この不安を、嵯峨は別な形で言いなおしている。

ぼくのなかにある不安の小さな塊り
なにも刻んでないその石の上に
薄い翅をふるわせながら
蜻蛉はとまろうとしては離れている

 「不安」は直接的には「石」と言いかえられているが、詩を読むと、「不安」は「蜻蛉」のように見える。「薄い翅」の「薄い」が弱さ、こころの弱さと重なり、「不安」を連想させる。「ふるわせる」も「不安」と重なる。なによりも「とまろうとしては離れている」という不安定な動きが「不安」を感じさせる。
 そこには「風」の動きも感じられる。風があって、蜻蛉は風に流され、とまとうとしてとまれない。石から離されてしまう、というような動きも。
 書かれていることば、その定義を無視して、私は「用言(動詞)」に引っぱられて、不安を身近に感じる。
 これは「誤読」、あるいは読みの「逸脱」なのだが、そういうことを許しているのが詩である。

37 葡萄蔓

 「宮崎旧居」の注釈。嵯峨の家には葡萄があったのか。葡萄は「女を愛するとは」「わが哀傷の日の歌」にも出てきた。女の思い出といっしょにある。「旧居」といっしょに登場してくると、そこに「母」を感じる。嵯峨は、女を母と重ねるようにして感じ取っていたのかもしれない。--この詩は女(あるいは愛)というものを主題としているわけではないのだが、ふと、そういうことを思い起こさせる。
 一粒の実も葉もつけていない葡萄の蔓、

しかしそれはなんとしずかなことだろう
それは盲(めし)いたひとの言葉のようにやさしく
その蔓は真実の心からひたむきに伸びあがつている

 「しずかな」は「盲いたひとの言葉」という比喩をとおり「やさしく(やさしい)」と言いかえられる。さらに「盲いたひとの言葉」は「真実の心からひたむきに伸びあが」ると言いなおされる。
 「比喩」をとおって、ことばの「意味」が深まる。「比喩」は単なる言い直しではなく、特化された「意味」なのだ。何かをゆがめ、印象づける。明確な意味ではなく、不明確であっても、強烈に印象に残る「強いことば」。それが「比喩」の特権である。
 真実の心から発せられたことばは「しずか」であり、「やさしい」。
 私は先に女、母、愛ということばを連ねたが、「盲いた」は「盲目の愛」、「母の愛」のやさしさ、「母の真実の心」からの愛、というふうに連想を広げていくこともできると思う。
 「しずか」「やさしい」は、それだけでは抽象的なことばなので、いろいろなことを引き受け、受け止めてくれる。

穏やかな夕日をうけると その静けさはさらに深まる
どこかにぼくの知らない価値があるようだ

 嵯峨は「しずか」「やさしさ」をさらにそう言いなおしているが、それでも抽象的なままである。ただし、そこに「ぼくの知らない」ということばが入り込むことで、ことばの向きが少し変化し、その抽象はまた違った「真実」になる。
 なにも身にまとわない葡萄蔓に、嵯峨は「しずけさ(静けさ)」を感じている。その静けさは「比喩」としてなら語れるが、具体的には語れない。語る方法を「ぼく」は「知らない」。--そう語る正直さ。ここでは、嵯峨の「真実の心」が「知らない」という「正直な告白」でたしかなもの、「事実」になる。
 「知らない価値」(語れない価値)というものが、「語らない」ことによって「嘘」からすくわれる。「真実の心から」のことば、「知らない」という正直が、「抽象」を「事実(具体)」に変える。
 正直なこころが、そのとき「しずけさ」のかわりに、そこに存在しはじめる。「しずけさ」と「正直なこころ」がひとつのものとして、そこに存在する。
 比喩とはかけ離れた何かを結びつける方法ではなく、まだ言語化されていないものをことばにして存在させる方法なのだが、それは「方法」というよりは、こころのあり方なのだ。
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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