20 恋情
「恋情」とは「恋ごころ」「恋い慕うこころ」のことだと思うが、嵯峨が書いている「恋情」は、私が想像するものとはまったく違う。
いきなり「死」ということばからはじまる。「恋」とは反対の場にあることば。死んだら恋なんかできない。それとも死をかけての恋、死さえもいとわない情熱と言いたいのだろうか。「呼吸を整える」も「恋」とは無関係なことばのように思える。「呼吸」が乱れるのが、「恋」ではないだろうか。
青春の恋ではなく、年老いてからの恋? しかし、この詩は嵯峨の晩年の詩ではない。若い時代のものだけれど、年老いてからの恋の気持ちを想像して書いたのか。青春とは先走りするものである。どんなに若い時代の恋であっても、これが最後の恋と思うのかもしれない。そして、その最後の恋という思いが、「死」を呼び寄せ、恋のいのちの温かさを強調するのかもしれない。
しかし、
この最後も、恋のはげしさ、熱さからは遠い。
悲恋、失恋を書いたものなのだろうか。恋を禁じられたときの悲しみを書いているのだろうか。
失恋をしたら、こんなふうな哀しいイメージが自分をつつむだろうと想像しているのだろうか。
21 雨季来る
「女を愛するとは」から、この「雨季来る」まではソネットの形式で書かれている。形式があると、ことばの動かし方が限定される。それは逆に言えば、ときどきイメージが飛躍して動くということでもある。厳密な「論理」でことばを動かしていくには、形式が窮屈すぎる。「論理」を省略し、イメージを提出することで何かを言ってしまおうとする。詩は、もともと「論理」ではないから、それでいいのだろう。
この詩は、
抽象的(論理的?)なことばの動きからはじまる。「心」「優しさ」「日」というのは、どれも知っていることばだが、漠然としすぎていて、よくわからない。「残る」「消える」という動詞、「とどまる」という動詞も、わかったようでわからない。
嵯峨が何を書いているのか、「見えない」。
ところが、二連目、
一連目の「とどまる」「消える」が言いなおされると、その様子がくっきりと見えてくる。
「川岸に舫つている小舟」とは川岸に「とどまっている」小舟である。「自らの影のうえを滑るように」という美しいイメージは「やさしい」と重なる。それが「ひとりでに岸を離れて」「消える」。
恋が、あるいはあなたが(女が)、そこ(岸につながれて)にいるはずなのに、知らないうちに岸を離れていく。「わたし」を離れていく。そのことが、舟が岸から離れて流れていくのを見たときのようにくっきりと見える。
岸も流れも抽象的だが、舟が川を流れるイメージのあとでは、そのときのいいようのない悲しみ、「わたし」にはどうすることもできない悲しみがくっきりと見える。あ、失恋とは、岸につないでいた舟が流れて去っていくような感じなのだなあ、とわかる。
この詩はさらにタイトルの「雨季来る」というところへ動いていくのだが、私は、「川岸に舫つている小舟……」の2行を何度も読み返してしまう。この2行が好きだ。
「恋情」とは「恋ごころ」「恋い慕うこころ」のことだと思うが、嵯峨が書いている「恋情」は、私が想像するものとはまったく違う。
死はもつとも深い谷だ
尾根を伝うわれらの一列の長い影が
目もくらむ大きな谷の方へ消えている
ときどき立ちどまつてふつと呼吸を整える
いきなり「死」ということばからはじまる。「恋」とは反対の場にあることば。死んだら恋なんかできない。それとも死をかけての恋、死さえもいとわない情熱と言いたいのだろうか。「呼吸を整える」も「恋」とは無関係なことばのように思える。「呼吸」が乱れるのが、「恋」ではないだろうか。
その日からわたしはふしぎな磁気を感じて顫えはじめた
おそらく生の最後の炎だろう
あわただしい青春の日がいつか終つて
石刷りのような穏やかな日がつづいていたのに
青春の恋ではなく、年老いてからの恋? しかし、この詩は嵯峨の晩年の詩ではない。若い時代のものだけれど、年老いてからの恋の気持ちを想像して書いたのか。青春とは先走りするものである。どんなに若い時代の恋であっても、これが最後の恋と思うのかもしれない。そして、その最後の恋という思いが、「死」を呼び寄せ、恋のいのちの温かさを強調するのかもしれない。
しかし、
どこからともなく花びらが舞いおりる
露台の上に立つと
夕日をうけた遠い丘を騎馬警官の一隊が駆けのぼつている
この最後も、恋のはげしさ、熱さからは遠い。
悲恋、失恋を書いたものなのだろうか。恋を禁じられたときの悲しみを書いているのだろうか。
失恋をしたら、こんなふうな哀しいイメージが自分をつつむだろうと想像しているのだろうか。
21 雨季来る
「女を愛するとは」から、この「雨季来る」まではソネットの形式で書かれている。形式があると、ことばの動かし方が限定される。それは逆に言えば、ときどきイメージが飛躍して動くということでもある。厳密な「論理」でことばを動かしていくには、形式が窮屈すぎる。「論理」を省略し、イメージを提出することで何かを言ってしまおうとする。詩は、もともと「論理」ではないから、それでいいのだろう。
この詩は、
とどまりたい 心の上に
あなたのただ一度の優しさが残つているわたしの心の上に
数数の小さな日が消えても
その日だけがわたしから少しも消えようとしない
抽象的(論理的?)なことばの動きからはじまる。「心」「優しさ」「日」というのは、どれも知っていることばだが、漠然としすぎていて、よくわからない。「残る」「消える」という動詞、「とどまる」という動詞も、わかったようでわからない。
嵯峨が何を書いているのか、「見えない」。
ところが、二連目、
川岸に舫(もや)つている小舟がひとりでに岸を離れていく
自らの影のうえを滑るように
一連目の「とどまる」「消える」が言いなおされると、その様子がくっきりと見えてくる。
「川岸に舫つている小舟」とは川岸に「とどまっている」小舟である。「自らの影のうえを滑るように」という美しいイメージは「やさしい」と重なる。それが「ひとりでに岸を離れて」「消える」。
恋が、あるいはあなたが(女が)、そこ(岸につながれて)にいるはずなのに、知らないうちに岸を離れていく。「わたし」を離れていく。そのことが、舟が岸から離れて流れていくのを見たときのようにくっきりと見える。
あなたはどのような岸からたち去つたのか
いま岸から舟を離れさせるものがあなたを遠く去らせたのか
岸も流れも抽象的だが、舟が川を流れるイメージのあとでは、そのときのいいようのない悲しみ、「わたし」にはどうすることもできない悲しみがくっきりと見える。あ、失恋とは、岸につないでいた舟が流れて去っていくような感じなのだなあ、とわかる。
この詩はさらにタイトルの「雨季来る」というところへ動いていくのだが、私は、「川岸に舫つている小舟……」の2行を何度も読み返してしまう。この2行が好きだ。
嵯峨信之詩集 (芸林21世紀文庫) | |
嵯峨 信之 | |
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