詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(12)

2015-02-13 11:30:23 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
20 恋情

 「恋情」とは「恋ごころ」「恋い慕うこころ」のことだと思うが、嵯峨が書いている「恋情」は、私が想像するものとはまったく違う。

死はもつとも深い谷だ
尾根を伝うわれらの一列の長い影が
目もくらむ大きな谷の方へ消えている
ときどき立ちどまつてふつと呼吸を整える

 いきなり「死」ということばからはじまる。「恋」とは反対の場にあることば。死んだら恋なんかできない。それとも死をかけての恋、死さえもいとわない情熱と言いたいのだろうか。「呼吸を整える」も「恋」とは無関係なことばのように思える。「呼吸」が乱れるのが、「恋」ではないだろうか。

その日からわたしはふしぎな磁気を感じて顫えはじめた
おそらく生の最後の炎だろう
あわただしい青春の日がいつか終つて
石刷りのような穏やかな日がつづいていたのに

 青春の恋ではなく、年老いてからの恋? しかし、この詩は嵯峨の晩年の詩ではない。若い時代のものだけれど、年老いてからの恋の気持ちを想像して書いたのか。青春とは先走りするものである。どんなに若い時代の恋であっても、これが最後の恋と思うのかもしれない。そして、その最後の恋という思いが、「死」を呼び寄せ、恋のいのちの温かさを強調するのかもしれない。
 しかし、

どこからともなく花びらが舞いおりる
露台の上に立つと
夕日をうけた遠い丘を騎馬警官の一隊が駆けのぼつている

 この最後も、恋のはげしさ、熱さからは遠い。
 悲恋、失恋を書いたものなのだろうか。恋を禁じられたときの悲しみを書いているのだろうか。
 失恋をしたら、こんなふうな哀しいイメージが自分をつつむだろうと想像しているのだろうか。

21 雨季来る

 「女を愛するとは」から、この「雨季来る」まではソネットの形式で書かれている。形式があると、ことばの動かし方が限定される。それは逆に言えば、ときどきイメージが飛躍して動くということでもある。厳密な「論理」でことばを動かしていくには、形式が窮屈すぎる。「論理」を省略し、イメージを提出することで何かを言ってしまおうとする。詩は、もともと「論理」ではないから、それでいいのだろう。
 この詩は、

とどまりたい 心の上に
あなたのただ一度の優しさが残つているわたしの心の上に
数数の小さな日が消えても
その日だけがわたしから少しも消えようとしない

 抽象的(論理的?)なことばの動きからはじまる。「心」「優しさ」「日」というのは、どれも知っていることばだが、漠然としすぎていて、よくわからない。「残る」「消える」という動詞、「とどまる」という動詞も、わかったようでわからない。
 嵯峨が何を書いているのか、「見えない」。
 ところが、二連目、

川岸に舫(もや)つている小舟がひとりでに岸を離れていく
自らの影のうえを滑るように

 一連目の「とどまる」「消える」が言いなおされると、その様子がくっきりと見えてくる。
 「川岸に舫つている小舟」とは川岸に「とどまっている」小舟である。「自らの影のうえを滑るように」という美しいイメージは「やさしい」と重なる。それが「ひとりでに岸を離れて」「消える」。
 恋が、あるいはあなたが(女が)、そこ(岸につながれて)にいるはずなのに、知らないうちに岸を離れていく。「わたし」を離れていく。そのことが、舟が岸から離れて流れていくのを見たときのようにくっきりと見える。

あなたはどのような岸からたち去つたのか
いま岸から舟を離れさせるものがあなたを遠く去らせたのか

 岸も流れも抽象的だが、舟が川を流れるイメージのあとでは、そのときのいいようのない悲しみ、「わたし」にはどうすることもできない悲しみがくっきりと見える。あ、失恋とは、岸につないでいた舟が流れて去っていくような感じなのだなあ、とわかる。
 この詩はさらにタイトルの「雨季来る」というところへ動いていくのだが、私は、「川岸に舫つている小舟……」の2行を何度も読み返してしまう。この2行が好きだ。
嵯峨信之詩集 (芸林21世紀文庫)
嵯峨 信之
芸林書房
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鈴木志郎康「深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。」

2015-02-13 11:05:55 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木志郎康「深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。」(「モーアシビ」302015年02月10日発行)

 鈴木志郎康「深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。」は書き出しがおもしろい。

秋も深まって、
十月も三十日に近づくと、
わたしの家の、
大きな窓ガラスを通して、
深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。
大きなガラス窓。
深まる秋の陽射しを、
テーブルまで届けさせる
わたしの家の
大きな窓ガラス。

 書かれていることばに知らないことばはない。情景もとてもよくわかる。秋の陽射しが部屋のテーブルまで届く。届いている。それを、最初は「テーブルの上にまで届くんです。」と「陽射し」を主語にして書いている。それを「大きな窓」を主語にして「テーブルまで届けさせる」と書き直している。ただし、「大きなガラス窓。」といったん文章を終えている。「それが」深まる秋の陽射しを、テーブルまで届けさせるという具合に「主語」を補わないと文章にはならないのだが。その不完全さを、さらに倒置法をつかって「深まる秋の陽射しを、/テーブルまで届けさせる/わたしの家の/大きな窓ガラス。」言いなおしている。
 書かれている「情報」は非常に少ない。わざわざくりかえさなくても、この情景を「誤読」するひとはいないだろう。
 では、なぜ繰り返したのだろう。
 「誤読」したいのだ。「誤読」させたいのだ。「情景」いがいのものを伝えたいのだ。
 秋の陽射し、大きな窓ガラス、テーブル。その「情景」の「主語」は何? 陽射し? 窓ガラス? (鈴木は「ガラス窓」という言い方もしている)それともテーブル?
 テーブルを「主語」にすると、

テーブルが、
大きな窓ガラスを通して、
秋の陽射しを届けさせる。

 と言うことができる。最後は「テーブルは/秋の陽射しを招く。」「テーブルは/秋の光を通らせる(通過させる)。」という文章も可能かもしれない。
 こんなふうに書き換えてみて「わかる」ことは、「情景」はいろいろな書き方ができるということである。そして「書き方」をかえるにしたがって、そこにあるものが少しだけ違って見える。秋の陽射し、窓ガラス、テーブルは同じなのに、視線の焦点が微妙に動く。揺らぐ。
 揺らぎながら、「大切な何か」が見えてくる。いや、「大切」が見えてくる。
 鈴木の書いている主語「陽射し」が大切なのか、それとも主語「ガラス窓/窓ガラス」が大切なのか。主語はどっち? 窓ガラスはガラス窓とも書かれているが「窓」が主役? それとも「ガラス」の方に重点が置かれている?
 その区別はない。「主語」の区別はなくて、「大切」と感じるこころがそこにあることがわかる。「大切」が「主語(主役)」のだ。いま/ここにある全てが「同等」に大切である。その「同等の大切」を書くためには、情景を繰り返して書くしかない。
 そこにある「情景」を書きたいのではなく、書きたいのは「大切」ということ--そういうふうに「誤読」させたいのだ。「誤読」を誘ってるのだ。
 「大切」を書くために、鈴木は「秋の陽射し」「窓ガラス」を離れて動いていく。繰り返し、言いなおしたものを離れてゆく。

その外は小さな庭。
野ぼたんの紫の花、
メキシカンセージの薄紫の花穂、
チェリーセージの真っ赤な小さな花、
それにまだまだ朝顔の花もかじかんだ姿で咲いている。
その小さな庭を毎朝わたしは見ているんです。

 窓から見える小さな庭。そこに咲いている花。かじかんでいる花。それを「見ること」が、「見えること」が「大切」なのだ。鈴木は、庭を、花を「大切」にしている。「それにまだまだ朝顔の花もかじかんだ姿で咲いている。」という一行の「それに」ということば、「まだまだ」ということば、思わずつけくわえてしまうことばに「大切」という気持ちがあふれている。「それに/まだまだ」がなくても朝顔の花はかじかんだ姿で咲いている。「事実」はかわらない。その「事実」を語るのに「それに/まだまだ」をつけくわえ、ほら、これも見てという気持ちのなかに「大切」が動いている。
 いいなあ、この余分。余剰。過剰。
 最初の陽射し、窓ガラス、テーブルの繰り返しも、余剰、過剰。一回言えば誰にだって情景はつたわる。けれど、ことばの順序を入れ換えて、主語を入れ換えて、もう一度言わずに入らない。「大切」なものだから、くりかえすのだ。
 「大切」なものはくりかえす。「大切」という気持ちを繰り返し、それを味わうのだ。ふたたび鈴木は書く。

深まる秋、
隣の家の屋根の上の秋の空の
低くなった太陽の
秋の陽射しが、
大きな窓ガラスを通してテーブルの上にまで届くんです。

 「届く」のは「陽射し」ではなく「大切」が届くのだ。それを受け止めて鈴木は「大切」を生きる。

新聞を拡げたわたしは
その秋の陽射しを浴びて、
わたしは記憶が呼び覚まされる。
わたしは記憶に溺れる。
秋の陽射しに溺れる。
ウンガワイヤ、ウンガワイヤ、ウンガワイヤ
テレビのアナウンサーの声が遠いなあ。

 「大切」なものを鈴木はおぼえている。秋の陽射しとともにある(あった)何かを見つめ、それをことばにした。記憶した。そういうことを「大切」におぼえている。
 テレビから聞こえる何かは、鈴木以外のひとにとって「大切」なことかもしれないが、鈴木には、それは「遠い」。「大切」ではない。鈴木に近い(届くもの/届いているもの)は秋の陽射しだ。その陽射しをとおって、鈴木は「記憶」へ帰っていく。そして「記憶」へかえっていくこと、「記憶」に溺れることが、「いま/ここ」を「大切」に生きることと重なる。



 「大切」ということばを鈴木は書いているわけではない。だから、私の書いた感想は「誤読」の感想なのだが、私はこんなふうに「誤読」する以外に読む方法を知らない。「誤読」を通して、出会ったことばを好きになる。また、鈴木が「誤読」させたかっている、というのも私の「誤読」にすぎない。しかし、こういう読み方しか私にはできない。
 ただし、「誤読」にこだわるわけではない。
むしろ 「真実(真理)」ではないとわかっているので、「誤読」を捨てたい。だから、ひとつの作品を読むと別の作品を読む。そして、自分のことばを動かし直す。違った作品を「誤読」しつづけることで、「誤読」を「中和」したいと思っている。

胡桃ポインタ―鈴木志郎康詩集
鈴木 志郎康
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遠くを見たいと、

2015-02-13 00:55:38 | 
遠くを見たいと、

遠くを見たいと思って、
苦しみをわざと繰り返しつづけた日の終わり、
遠くを見たいと思って、
あらゆる自意識と感覚が互いをすっかり疲れさせた日の終わり、

遠くを見たいと思って屋上にのぼれば、
寄せてきた波が静かに海に帰るきわに西の砂浜がやわらかに光る。






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