崔龍源「虹色ペンギン」(「サラン橋」2015年冬号、2015年01月31日発行)
崔龍源「虹色ペンギン」は、ちょっととまどう。何かわけのわからない強烈な音が聞こえる。
これは1連目だが、意味として、わかることころとわからないところがある。「わかる」のは、母は介護施設にいる。認知症である、ということ。「わからない」のは「虹色ペンギン」。これ、何? 崔の詩には何度か出てくることばなのだろうか。崔の詩を読み慣れているひとにはわかることばなのだろうか。私は崔の詩をあまり読んだことがないので、わからない。「ぼく(崔)」のことなのだろうか。また「白いカーネーション」もわからない。母の日のカーネーション。ふつうは赤を贈る。母が亡くなったひとは白いカーネーションを捧げる--と私は記憶しているが……。
2連目で、崔は1連目を書き直しているように感じた。
「虹色ペンギン」は「ぼく」が「幻視」した鳥。いや、それが見えなくなったので、「ぼく」は「ぼくが幻視者ある(あった)」と気づいたということか。幻を見ていて、現実を見ていなかった。「現実」に戻れば介護を必要とする母がいて、その母を介護するのではなく、施設に入れている「ぼく」がいる。うしろめたく感じる「ぼく」がいる。
では、「うしろめたさ」が「現実」なのか。それに「耐えられない」とき、現実はどうなるのか。
「空のひとひらが 雪のように降りてきて/もうすぐ咲くあじさいの花びらになるのを見た」というのは、「見た」と「現実」のように書かれているが、「現実」ではない。あじさいはまだ咲いていない。咲いていないから、空が「雪のように降りてきて」あじさいの花びらになるということが可能なのである。
この「比喩」は美しいが、奇妙でもある。奇妙というのは、カーネーションとまだ咲かないあじさいは「時間」として同時期に存在するのが、雪はその季節にはあわない。とてもかけ離れている。比喩はかけ離れたものをつかうと新鮮だが、かけ離れすぎると、どきまぎしてしまう。
ことばというのは、自分ひとりでは動かせない。ことばにはそれを動かしてきた先人の意識がしみついていて、ことばを動かすとき、それが無意識に反映してくる。その無意識のつながり(文化)を、崔のことばはどこかで断ち切っている。断ち切って比喩を動かしている。どこで断ち切っているのかわからないが、そういう断絶を感じてしまう。
この部分を読むと「虹色ペンギン」は母のようにも見える。認知症の母こそ「幻視者」であり、もうこの世にいない祖母を見ている。母を施設に入れるのではなく、母の故郷へ母といっしょに帰り、そこで母を看護すべきなのではないのか。そう思っているのか。
あるいは、現実には母の故郷へ帰り、母を介護するということはできないのに、そう思っている(幻を思い描いている)から、やっぱり「ぼく」が「虹色ペンギン」なのか。
よくわからないのだが、その思いのなかに突然わりこんでくる
が強烈である。
「内部がない」を、私は「崔自身の内部、こころ(精神)がない」というよりは、
「外部」との無意識の連絡が断絶した状態と感じた。
先に、ことばは無意識に先人のことばの動かし方を引き継ぐ、影響を受けるというような意味のことを書いたが、そういう無意識のようなものを受け継げない状態になっている、と感じた。
先人がととのえたことばの動き、ことばによって暮らしをととのえなおすという生き方が、何か、うまく機能しない。認知症の母を目の前にして、どう自分の暮らしをことばのようにととのえることができるか。それがわからない--そう叫んでいるように聞こえた。
このことばはだれにも向かっていない。崔自身にしか向かっていない。それが強烈だ。自分自身に語りかけるとき、ひとはどんなふうに声を出すだろうか。しずかに、ひっそりか。ぼそぼそと、自分だけに聞こえる感じか。
崔は違う。大声だ。自分にしか語らない。ほかのひとには聞こえない声なのだから、どこまでも大声を出す。大声のなかに入っていく感じだ。声そのものになって、それ以外を忘れてしまう。叫びそのものになってしまいたい。意味ではなく、叫ぶという「動詞」になってしまいたいのかもしれない。
ことばが先人のことばの動きを引き継ぐというのなら、そのことばの「意味」ではなく、ことばを発するときの「肉体」を引き継ぐというあり方もあるはずだ。語り方を引き継ぐという「形式」があってもいいはずだ。
崔は、ことばの意味ではなく、ことばを「叫ぶ」という「動詞」を引き継いで、ことばを書いている。「叫び」は、「意味」よりも叫んでいるという肉体を表現するためのものである。だから「意味」はどうでもいい(と言うと言い過ぎかもしれないが)。「虹色ペンギン」が何かわからなくてもいい。わからないことを叫ぶしかない状況に崔がいるということが伝わればいい。
崔はこんな「声」をしているということが伝わればいい。私はたしかに崔の「声」を聞いた。意味は私にはわからないところがあるが、「声」の強さ、「強い声」を出すことができる「ことばの肉体」を感じた。
昔、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を聞いてびっくりしたときのような感じだ。失恋の歌のなのに大声で歌う。意味(情感)をていねいに伝えるという歌謡曲の常識を打ち破って、声の強さでびっくりさせて聴衆の耳を引っぱる。声に耳をひっぱりこむ輝かしい歌唱力。
そういうものが崔のことばのなかにある。「虹色ペンギン」ということば(音)は、そういうものを凝縮させているように思えた。この詩は大声で叫びとして朗読すると、きっとおもしろいと感じた。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
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崔龍源「虹色ペンギン」は、ちょっととまどう。何かわけのわからない強烈な音が聞こえる。
空を翔けている
虹色ペンギンが 母の日に
買ってきた白いカーネーション
母は施設に入って 深夜
おかあさん おかあさーんと呼んでは 廊下を
徘徊しているという たぶん七歳にかえった母は
夢を見たのだろう 祖母に捨てられた夢を
これは1連目だが、意味として、わかることころとわからないところがある。「わかる」のは、母は介護施設にいる。認知症である、ということ。「わからない」のは「虹色ペンギン」。これ、何? 崔の詩には何度か出てくることばなのだろうか。崔の詩を読み慣れているひとにはわかることばなのだろうか。私は崔の詩をあまり読んだことがないので、わからない。「ぼく(崔)」のことなのだろうか。また「白いカーネーション」もわからない。母の日のカーネーション。ふつうは赤を贈る。母が亡くなったひとは白いカーネーションを捧げる--と私は記憶しているが……。
2連目で、崔は1連目を書き直しているように感じた。
虹色ペンギンは どこへ
飛び去ったのだろう 幻視者となった
ぼくは 母をひとり施設に入れているうしろめたさに
耐えられないまま 白いカーネーションを
運んでゆく 空はあくまでも青く
空のひとひらが 雪のように降りてきて
もうすぐ咲くあじさいの花びらになるのを見た
「虹色ペンギン」は「ぼく」が「幻視」した鳥。いや、それが見えなくなったので、「ぼく」は「ぼくが幻視者ある(あった)」と気づいたということか。幻を見ていて、現実を見ていなかった。「現実」に戻れば介護を必要とする母がいて、その母を介護するのではなく、施設に入れている「ぼく」がいる。うしろめたく感じる「ぼく」がいる。
では、「うしろめたさ」が「現実」なのか。それに「耐えられない」とき、現実はどうなるのか。
「空のひとひらが 雪のように降りてきて/もうすぐ咲くあじさいの花びらになるのを見た」というのは、「見た」と「現実」のように書かれているが、「現実」ではない。あじさいはまだ咲いていない。咲いていないから、空が「雪のように降りてきて」あじさいの花びらになるということが可能なのである。
この「比喩」は美しいが、奇妙でもある。奇妙というのは、カーネーションとまだ咲かないあじさいは「時間」として同時期に存在するのが、雪はその季節にはあわない。とてもかけ離れている。比喩はかけ離れたものをつかうと新鮮だが、かけ離れすぎると、どきまぎしてしまう。
ことばというのは、自分ひとりでは動かせない。ことばにはそれを動かしてきた先人の意識がしみついていて、ことばを動かすとき、それが無意識に反映してくる。その無意識のつながり(文化)を、崔のことばはどこかで断ち切っている。断ち切って比喩を動かしている。どこで断ち切っているのかわからないが、そういう断絶を感じてしまう。
ああ母のいる施設にゆくよりは
虹色ペンギンを どこまでも追いかけてゆこうか
きっと母の生まれ故郷の海岸へ
翔け去ってゆくのだろうから
内部のない人間になったような気がするのだ
母の面倒を看て倒れるにしても
そちらを選ぶべきではなかったか と
この部分を読むと「虹色ペンギン」は母のようにも見える。認知症の母こそ「幻視者」であり、もうこの世にいない祖母を見ている。母を施設に入れるのではなく、母の故郷へ母といっしょに帰り、そこで母を看護すべきなのではないのか。そう思っているのか。
あるいは、現実には母の故郷へ帰り、母を介護するということはできないのに、そう思っている(幻を思い描いている)から、やっぱり「ぼく」が「虹色ペンギン」なのか。
よくわからないのだが、その思いのなかに突然わりこんでくる
内部のない人間になったような気がするのだ
が強烈である。
「内部がない」を、私は「崔自身の内部、こころ(精神)がない」というよりは、
「外部」との無意識の連絡が断絶した状態と感じた。
先に、ことばは無意識に先人のことばの動かし方を引き継ぐ、影響を受けるというような意味のことを書いたが、そういう無意識のようなものを受け継げない状態になっている、と感じた。
先人がととのえたことばの動き、ことばによって暮らしをととのえなおすという生き方が、何か、うまく機能しない。認知症の母を目の前にして、どう自分の暮らしをことばのようにととのえることができるか。それがわからない--そう叫んでいるように聞こえた。
だが何を変えられるのいうのだろう
絶望よりは希望を
死者よりは生者を恋うたにしても
何を贖い 償えるというのだろう
ぼくの日常は どこかぽっかりと深い穴があいたまま
その穴を見入ることを避けて過ぎてゆく
今が狂うべき時だとしたら 狂うべきではないか
このことばはだれにも向かっていない。崔自身にしか向かっていない。それが強烈だ。自分自身に語りかけるとき、ひとはどんなふうに声を出すだろうか。しずかに、ひっそりか。ぼそぼそと、自分だけに聞こえる感じか。
崔は違う。大声だ。自分にしか語らない。ほかのひとには聞こえない声なのだから、どこまでも大声を出す。大声のなかに入っていく感じだ。声そのものになって、それ以外を忘れてしまう。叫びそのものになってしまいたい。意味ではなく、叫ぶという「動詞」になってしまいたいのかもしれない。
ことばが先人のことばの動きを引き継ぐというのなら、そのことばの「意味」ではなく、ことばを発するときの「肉体」を引き継ぐというあり方もあるはずだ。語り方を引き継ぐという「形式」があってもいいはずだ。
崔は、ことばの意味ではなく、ことばを「叫ぶ」という「動詞」を引き継いで、ことばを書いている。「叫び」は、「意味」よりも叫んでいるという肉体を表現するためのものである。だから「意味」はどうでもいい(と言うと言い過ぎかもしれないが)。「虹色ペンギン」が何かわからなくてもいい。わからないことを叫ぶしかない状況に崔がいるということが伝わればいい。
崔はこんな「声」をしているということが伝わればいい。私はたしかに崔の「声」を聞いた。意味は私にはわからないところがあるが、「声」の強さ、「強い声」を出すことができる「ことばの肉体」を感じた。
昔、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を聞いてびっくりしたときのような感じだ。失恋の歌のなのに大声で歌う。意味(情感)をていねいに伝えるという歌謡曲の常識を打ち破って、声の強さでびっくりさせて聴衆の耳を引っぱる。声に耳をひっぱりこむ輝かしい歌唱力。
そういうものが崔のことばのなかにある。「虹色ペンギン」ということば(音)は、そういうものを凝縮させているように思えた。この詩は大声で叫びとして朗読すると、きっとおもしろいと感じた。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。