詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

崔龍源「虹色ペンギン」

2015-02-23 10:59:08 | 詩(雑誌・同人誌)
崔龍源「虹色ペンギン」(「サラン橋」2015年冬号、2015年01月31日発行)

 崔龍源「虹色ペンギン」は、ちょっととまどう。何かわけのわからない強烈な音が聞こえる。

空を翔けている
虹色ペンギンが 母の日に
買ってきた白いカーネーション
母は施設に入って 深夜
おかあさん おかあさーんと呼んでは 廊下を
徘徊しているという たぶん七歳にかえった母は
夢を見たのだろう 祖母に捨てられた夢を

 これは1連目だが、意味として、わかることころとわからないところがある。「わかる」のは、母は介護施設にいる。認知症である、ということ。「わからない」のは「虹色ペンギン」。これ、何? 崔の詩には何度か出てくることばなのだろうか。崔の詩を読み慣れているひとにはわかることばなのだろうか。私は崔の詩をあまり読んだことがないので、わからない。「ぼく(崔)」のことなのだろうか。また「白いカーネーション」もわからない。母の日のカーネーション。ふつうは赤を贈る。母が亡くなったひとは白いカーネーションを捧げる--と私は記憶しているが……。
 2連目で、崔は1連目を書き直しているように感じた。

虹色ペンギンは どこへ
飛び去ったのだろう 幻視者となった
ぼくは 母をひとり施設に入れているうしろめたさに
耐えられないまま 白いカーネーションを
運んでゆく 空はあくまでも青く
空のひとひらが 雪のように降りてきて
もうすぐ咲くあじさいの花びらになるのを見た

 「虹色ペンギン」は「ぼく」が「幻視」した鳥。いや、それが見えなくなったので、「ぼく」は「ぼくが幻視者ある(あった)」と気づいたということか。幻を見ていて、現実を見ていなかった。「現実」に戻れば介護を必要とする母がいて、その母を介護するのではなく、施設に入れている「ぼく」がいる。うしろめたく感じる「ぼく」がいる。
 では、「うしろめたさ」が「現実」なのか。それに「耐えられない」とき、現実はどうなるのか。
 「空のひとひらが 雪のように降りてきて/もうすぐ咲くあじさいの花びらになるのを見た」というのは、「見た」と「現実」のように書かれているが、「現実」ではない。あじさいはまだ咲いていない。咲いていないから、空が「雪のように降りてきて」あじさいの花びらになるということが可能なのである。
 この「比喩」は美しいが、奇妙でもある。奇妙というのは、カーネーションとまだ咲かないあじさいは「時間」として同時期に存在するのが、雪はその季節にはあわない。とてもかけ離れている。比喩はかけ離れたものをつかうと新鮮だが、かけ離れすぎると、どきまぎしてしまう。
 ことばというのは、自分ひとりでは動かせない。ことばにはそれを動かしてきた先人の意識がしみついていて、ことばを動かすとき、それが無意識に反映してくる。その無意識のつながり(文化)を、崔のことばはどこかで断ち切っている。断ち切って比喩を動かしている。どこで断ち切っているのかわからないが、そういう断絶を感じてしまう。

ああ母のいる施設にゆくよりは
虹色ペンギンを どこまでも追いかけてゆこうか
きっと母の生まれ故郷の海岸へ
翔け去ってゆくのだろうから
内部のない人間になったような気がするのだ
母の面倒を看て倒れるにしても
そちらを選ぶべきではなかったか と

 この部分を読むと「虹色ペンギン」は母のようにも見える。認知症の母こそ「幻視者」であり、もうこの世にいない祖母を見ている。母を施設に入れるのではなく、母の故郷へ母といっしょに帰り、そこで母を看護すべきなのではないのか。そう思っているのか。
 あるいは、現実には母の故郷へ帰り、母を介護するということはできないのに、そう思っている(幻を思い描いている)から、やっぱり「ぼく」が「虹色ペンギン」なのか。
 よくわからないのだが、その思いのなかに突然わりこんでくる

内部のない人間になったような気がするのだ

 が強烈である。
 「内部がない」を、私は「崔自身の内部、こころ(精神)がない」というよりは、
「外部」との無意識の連絡が断絶した状態と感じた。
 先に、ことばは無意識に先人のことばの動かし方を引き継ぐ、影響を受けるというような意味のことを書いたが、そういう無意識のようなものを受け継げない状態になっている、と感じた。
 先人がととのえたことばの動き、ことばによって暮らしをととのえなおすという生き方が、何か、うまく機能しない。認知症の母を目の前にして、どう自分の暮らしをことばのようにととのえることができるか。それがわからない--そう叫んでいるように聞こえた。

だが何を変えられるのいうのだろう
絶望よりは希望を
死者よりは生者を恋うたにしても
何を贖い 償えるというのだろう
ぼくの日常は どこかぽっかりと深い穴があいたまま
その穴を見入ることを避けて過ぎてゆく
今が狂うべき時だとしたら 狂うべきではないか

 このことばはだれにも向かっていない。崔自身にしか向かっていない。それが強烈だ。自分自身に語りかけるとき、ひとはどんなふうに声を出すだろうか。しずかに、ひっそりか。ぼそぼそと、自分だけに聞こえる感じか。
 崔は違う。大声だ。自分にしか語らない。ほかのひとには聞こえない声なのだから、どこまでも大声を出す。大声のなかに入っていく感じだ。声そのものになって、それ以外を忘れてしまう。叫びそのものになってしまいたい。意味ではなく、叫ぶという「動詞」になってしまいたいのかもしれない。
 ことばが先人のことばの動きを引き継ぐというのなら、そのことばの「意味」ではなく、ことばを発するときの「肉体」を引き継ぐというあり方もあるはずだ。語り方を引き継ぐという「形式」があってもいいはずだ。
 崔は、ことばの意味ではなく、ことばを「叫ぶ」という「動詞」を引き継いで、ことばを書いている。「叫び」は、「意味」よりも叫んでいるという肉体を表現するためのものである。だから「意味」はどうでもいい(と言うと言い過ぎかもしれないが)。「虹色ペンギン」が何かわからなくてもいい。わからないことを叫ぶしかない状況に崔がいるということが伝わればいい。
 崔はこんな「声」をしているということが伝わればいい。私はたしかに崔の「声」を聞いた。意味は私にはわからないところがあるが、「声」の強さ、「強い声」を出すことができる「ことばの肉体」を感じた。
 昔、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を聞いてびっくりしたときのような感じだ。失恋の歌のなのに大声で歌う。意味(情感)をていねいに伝えるという歌謡曲の常識を打ち破って、声の強さでびっくりさせて聴衆の耳を引っぱる。声に耳をひっぱりこむ輝かしい歌唱力。
 そういうものが崔のことばのなかにある。「虹色ペンギン」ということば(音)は、そういうものを凝縮させているように思えた。この詩は大声で叫びとして朗読すると、きっとおもしろいと感じた。

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崔 竜源
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嵯峨信之を読む(22)

2015-02-23 09:31:58 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

40 留守居

 「都城旧居」の注釈。

ある日の午後を
じつとひとりで留守居をしている
子供の眼にうつる高い梢
その梢は遠い並木のはずれになつていて
たれも帰つてこない道がはるかにつづいている

 四行目が美しい。「つづいている」の主語は「道」なのだが、読んでいると「たれも帰つてこない」という時間がつづいているようにも感じられる。風景と時間がまじりあう感じがする。
 留守居を「している」と現在形で書かれていることも影響しているかもしれない。「いま」が永遠につながる感じがしてくる。
 この並木は道の両側に木が並んだ並木だろうか。木の高さがそろっていて、道はまっすぐで、並木が透視図のようにXの形を浮かび上がらせる。対称形の道を思い浮かべてしまう。そういう道は実際にはないかもしれないが、実際にないからこそ詩(永遠)のなかで存在する。現実が詩をつくるのではなく、詩(永遠)のことばが現実(いま)をととのえていく--そういう夢をみたくなるような感じがする。子供の眼は、そういう「非現実」の美を見てしまうものである。
 「じつとひとりで」という動かない印象、静的な印象、一点透視の対称形が響きあう。ひとりだから、その空想をだれも邪魔しない。

41 帰郷1

 「高鍋町」の注釈。

遠い村の周りで夜明けをつげる鶏が啼いている
近くの方の鶏があとから啼きはじめた

 この対になった二行がおもしろい。「遠く」から「近く」へ夜明けが動いてくる。光だけではなく、音(鶏の鳴き声)といっしょに動くことで、それが「現実」になる。視覚でとらえた明るさの変化だけではなく、耳でとらえた事実が、現実を豊かにする。
 時系列的には「遠くで啼いていた」→「近くで啼きはじめる」なのだが、感覚のなかでそれが逆になるのもおもしろい。逆になることで時間がかきまぜられる。過去といまの区別がなくなる。入り乱れ、融合する。
 この視覚と聴覚、さらに過去といまの混じりあった世界は、しかし、現実というよりも「心象風景」かもしれない。「留守居」の並木道もまた「心象風景」であったかもしれない。「こころ」がととのえなおした、ことばによる世界だったかもしれない。
 そんなふうに思うのは、

海へ傾斜した丘の上の松に白い月がひつかかつていて
一つの唄が唇に浮かんできたがそのまま消えてしまつた
唄はぼくの孤独のころを想いだして消えてしまつたのだろう

 という三行に、また、視覚と聴覚の連動した動きがあるからだ。白い月(視覚)を見たとき、唄(聴覚)が消える。松に引っ掛かった月は、孤独の象徴。唄(聴覚、ただし唇も含まれるので発声器官を含むが)を歌わなくても、(それを自分で聞かなくても)、視覚がかわりに松に引っ掛かった月を見て、そこに孤独を感じ取っている。だから唄を必要がなくなった。聴覚を刺戟する必要がなくなった。
 こんなふうに「理詰め」にしてしまうと嘘っぽくなる。
 詩は理詰めにせず、ことばの瞬間瞬間の印象つなげて、イメージを錯覚してしまう方が楽しい。夜明けと鶏の鳴き声に視覚と聴覚の結びつきがあったように、松に引っ掛かった月と歌われなかった唄にも視覚と聴覚の結びつきがあり、それは「孤独」とも結びついていると感じるだけでいいのだろう。
 「ぼく」が主語ではなく、「唄」がしゅごになり、孤独を想いだす、消えるというのも、主客の意識のいれかわりのようでおもしろい。翻訳調の文体というよりも、意識が交錯する一瞬ととらえたい。
 最終行、

永いあいだ忘れていたぼくの心のなかに立つていた

 この「立つ」の主語は「ぼく」。「ぼく」が「ぼくの心のなかに立つ」というのは、心象風景のなかに「ぼく」は「いる」ということだろう。
 鶏も月も心象風景。だから、そこには視覚、聴覚の明確な区別はなく、それはどこかでいっしょになっている。感覚の融合が心象風景を豊かにする。



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そんなはずはない、

2015-02-23 01:17:09 | 
そんなはずはない、

「そんなはずはない」ということばの鼻の先に「窓辺」ということばがあり、「椅子」という名詞と「引く」という動詞を組み合わせると常套句になってしまうと考え、ことばは文章になりあぐねている。
その頭のなかで、「この部屋にすんだことがある人ならだれもが知っている」ということばが、夕日のようにドアをノックする。「夕日」ではなく「夕刊」にした方が、風景ではなく、情景になるというのは、ことばが思ったことか、それともあの本に書いてあったことか。
「あの本に書いてあった」ということばは、それから「窓辺」から出て行き、「裸の木の影は地面に倒れながら少しずつ伸びて、壁のところまで行き着くと、木と平行になる形で壁をのぼりはじめた」という長い文章になった。単語のままでいると息が細くなってしまうので。
「そんなはずはない」ということばは傍線で消されて、かわりに「しかし二階の窓には届かない」ということばが、おんなの日記から借りてこられた。「そんなはずはない」と、向かいの窓から見ていたことばは現実を記憶にあわせて書き直そうとする。「窓と窓は話し合っていた」。あるいは「開かれた窓の、それぞれの部屋の奥には鏡があって、たがいを映しあっていた。」
そうしているうちに、ことばには、「鏡に映っている」のが向うの部屋の鏡なのか、自分の姿が向うの鏡に映って、それが「跳ね返ってきている」のか、わからず、混乱してくるのだが、「鏡に映っている」や「跳ね返ってきている」は、抒情的すぎないか、それが恥ずかしいという気持ちだけははっきりしてくる。


*

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