詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大江麻衣「テレビの犬」、和田まさ子「発熱する家」

2015-02-16 11:55:20 | 詩(雑誌・同人誌)
大江麻衣「テレビの犬」、和田まさ子「発熱する家」(地上十センチ」9、2015年02月15日発行)

 大江麻衣「テレビの犬」は、書き出しがすばらしい。最初の二行だけで、わっ、傑作だと叫んでしまう。

むかしのテレビはきちんと見る(「見る!」は言葉にならない、「絶対」もない、その選択肢自体がない)
おとなしく三人並んで、まっすぐ座って見る、犬犬犬。犬の後ろすがた。

 あ、確かに、昔はテレビの前できちんと座っていた。寝転んで見てたりするとだらしないと叱られた、というのはテレビもかなり普及してきてからだ。テレビそのものが貴重なので、その前で寝そべるというのは、テレビに対して失礼だった!
 最初にテレビを見たときの、あの「見る」という動詞は、たしかにことばにはならないなあ。「テレビを見る」ということばのあり方自体が、ここでは批評され、さらに批評になっている。
 うーん、強い。強いことばの運動だ。
 この批評のことばの強さは、生まれたときからカラーテレビがひとり一台(以上?)の世代にはわかりにくいことかもしれないけれど……。
 で、わかりにくいとわかっているから、大江はこの批評を「現象(風俗)」という肉体に移行させながら、ことばを動かす。肉体を描くこと、風俗を描くことのなかに、批評を組み込んでゆく。
 そのちきちんと座って見る姿は、たしかに犬がお座りをしてまっている姿に似ている。尻をそろえて、きちんと並んでいる。

並んでドラマ、並んでテレビ
歌番組ではレコードの声を思い出さない
知らない歌詞が出てきそうで、まっすぐ座る

 まっすぐに座ろうが、寝転んでいようが、テレビのなかで起きることが変わるわけではないのだが、そんな「客観」的事実なんかは関係がない。テレビを見るというのは、もっと「主観的」。真剣。真剣だから、

テレビの犬が死んだら哀しい
性欲は減退するから、えろいテレビは消えていった
性とギャグはむずかしいのに簡単に古くなる

 これは鋭い指摘だ。「11PM」と聞いて「えろい」とときめいたことをおぼえているひとが何人いるか。いや、いま「11PM」があったとして、えろいと感じて「注意深く」(あるいは隠れるようにして)見るひとが何人いるだろうか。
 詩を読みながら、いろいろ思ってしまう。思い出してしまうし、これからを想像してもしまう。大江の書いていることを忘れて、自分の思い出に夢中になってしまう。大江には悪いが、こういう作者を忘れてしまって何かを勝手に考えたり想像したりするというのが、私は詩だと思っている。
 たぶん、詩に限らないが、本を読むというのは、そこに書いてあることを理解する(学ぶ)ということよりも、そこに書いていないことを勝手に知ってしまう(思ってしまう)ということなんだろうなあ。大江の詩を読みながら、大江の「生活」を知るわけではない。大江の「考え」を知るわけではない。そのことばを通して、自分のおぼえていることを思い出したり、自分の考えを動かしたりする。そういうものだと思う。
 途中を省略して、最後

「あとで見る」だいたい うそをつく

 「あとで見る」と言ったテレビは、だいたい、見ない。「あとで見る」は、うそである。笑ってしまうなあ。
 引用では省略した部分から「あとで見る」までの変化は、「地上十センチ」でお読み下さい。



 和田まさ子「発熱する家」。あいかわらず変なことを書いている。

電球が切れたので
替えたら
部屋が新しい白熱灯で煌々とし
ものが大きく見えてきた
夕飯のおかずのウィンナーソーセージが棍棒くらいになり
千切りキャベツが藁小屋のわらのようだ
わたしの着るワンピースはカーテンくらいの大きさで
着たら重さで動けないだろう

 たしかに明るくなったらものがはっきり見える。はっきり見えるというのは「大きく」見えるということ。大きいから、はっきり。そこまでは、ふつう。いや、繊細な視覚の変化をとらえた「正しい」表現。
 でもねえ、「ウィンナーソーセージ」は「棍棒」には見えない(ならない)でしょう。言い過ぎでしょう。「千切りキャベツ」が「藁小屋のわら」のようになるというのも、嘘。だいたい、「棍棒」に「わら」って、まずくない? 和田さん、いったい何を食べてる? どうせ嘘を書くなら、もっとおいしそうなものを書けばいいのに、なんていう「ちゃちゃ」を入れたくなるなあ。
 こうなると、もう、だめ。
 すっぽり和田の世界にはまりこんでしまう。
 「ワンピース」が「カーテン」くらいになったって、カーテンが重く動けないなんてことはないだろう。劇場の緞帳ではあるまいし。
 そう言いたいのだが、

生きているとなにかの重さに
へとへとになる

 あ、先回りして「意味」の一撃。
 まいるね。嘘ばっかりついて、と避難したいのに、そうだなあ、「生きているとなにかの重さに/へとへとになる」ことだなあ、と思ってしまう。
 そして、

家を出て
外から見ると
ちんまりと建っていたわたしの家は
赤黒くなって
膨脹し
窓からは粉を吹きあげて
光を放ち
恒星のようだ
何かに怒っているのか
熱を帯びて
ゆらゆらと動き出しそうだ

 これは「家」? それとも「和田」? 和田自身を「比喩」のように書いている? 「へとへと」に鞭打って、「へとへと」を「怒り」にかえて、動き出そうとしている人間の姿を思ってしまう。

近所の人が出てきて
わたしの家を見ていた
その間にも
家は膨脹しつづけ
心音のような脈を打ち
くらがりのなか
発光しつづける
わたしは歩き出す
電球をさらに十個買うために
コンビニに向う

もっと家を困惑させたい

 和田のなかでも、家と和田が入り混じっている。和田は家になってしまっている。だいたい、このひとは何にでもなってしまうからなあ。何でもなって、それをくぐりぬけて動いていくからなあ。何かにこだわらずに、「きょうは、これ」という感じが強くていいなあ。「もっと家を困惑させたい」というのは「自虐」のようにも読めるけれど、「自虐」することで突っぱねる。いじけない。それが、おもしろい。

なりたいわたし
和田 まさ子
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嵯峨信之を読む(15)

2015-02-16 09:18:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
26 路上の女

 この詩には私に触れてくるものは何もなかった。「絨毯」の比喩が実感できなかった。

ひと眠りしよう
遠い路 はるかな丘の起伏 ところどころの森や林
どこまでも曲りくねつている川
そんな絨毯をすつかり巻き収めて

 嵯峨のふるさと、日向の「原風景」だろうか。夢にあらわれるのは、いつもその風景なのだろうか。

27 わが哀傷の日の歌--旧詩残抄

 断章で構成されている。その最初の部分。

女は
夜空に
白い腕をのばして
星をつかみたいとおもいました
葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとるように

 「女を愛するとは」のなかに出てきた「また葡萄のひと房のなかに閉じこめることだ」を思い出す。「葡萄のひと房のなかに閉じこめること」とは「葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとる」女の姿をしっかりと記憶することという意味かもしれない。それが「愛する」ということ。その女は「白い腕」をしている。その「白」が葡萄の色と似合う。
 嵯峨は「星をつかむ」という女の非現実的な行為よりも、「葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとる」という具体的な姿を書きたいなのかもしれない。「葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとるように」というのは比喩だが、現実には「星をつかむ」の方が比喩として動いている。「現実」と「比喩」が瞬間的に入れ代わっているように感じられる。

 砂漠ということばを含む断章もおもしろい。

とある日
かの女は砂のような言葉を
わたしの顔の上に吹きかけた
わたしが通りぬけた砂漠は
かの女の心のなかであつたのだろうか

 心の内と外が入れ代わり、交錯する。「砂のような言葉」の「砂」は比喩なのだが、心の中では「砂漠」という「比喩」が心の外へ出ることで「現実」になった。あるいは「砂のような言葉」の「砂」は、心の中の「砂漠」という比喩を、心の中で「現実」にしてしまう。
 瞬間的な「錯覚」がスパークする。
 どちらが比喩で、どちらが現実か。何が比喩で、何が現実か。こだわってはいけないのだ。どちらかが現実であり、どちらかが比喩であるという相対的なことではなく、それを超えたところに「砂」を感じる「事実」があるのだ。
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暗い人

2015-02-16 00:29:40 | 
暗い人

二時を過ぎると路地の向こう、電車通りをトラックが通り抜ける音が聞こえる。
バスもタクシーも走らなくなったためにトラックの音が聞こえるのか、
電車がいなくなってトラックが集まってくるために聞こえるのか。

暗い人は、いま書いたことばをベッドサイドの椅子に座って読み返す。
ジャケットのなかで肩を回して背中をほぐし、大通りを拡げていく。

二時を過ぎると、耳のなかへ電車通りをトラックが通り抜ける音が押し寄せてくる。
眼は美術館の角の信号の色を思い出すが、街路樹の花の色を思い出せない。
必要なのは地下鉄の階段をのぼってくる匂いを破壊する排気ガスの塊かもしれない。

書きなおしながら、暗い人は間違えた。
坂の上から見た海から運河をのぼってくる潮を挿入する場所がない。





*

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