大江麻衣「テレビの犬」、和田まさ子「発熱する家」(地上十センチ」9、2015年02月15日発行)
大江麻衣「テレビの犬」は、書き出しがすばらしい。最初の二行だけで、わっ、傑作だと叫んでしまう。
あ、確かに、昔はテレビの前できちんと座っていた。寝転んで見てたりするとだらしないと叱られた、というのはテレビもかなり普及してきてからだ。テレビそのものが貴重なので、その前で寝そべるというのは、テレビに対して失礼だった!
最初にテレビを見たときの、あの「見る」という動詞は、たしかにことばにはならないなあ。「テレビを見る」ということばのあり方自体が、ここでは批評され、さらに批評になっている。
うーん、強い。強いことばの運動だ。
この批評のことばの強さは、生まれたときからカラーテレビがひとり一台(以上?)の世代にはわかりにくいことかもしれないけれど……。
で、わかりにくいとわかっているから、大江はこの批評を「現象(風俗)」という肉体に移行させながら、ことばを動かす。肉体を描くこと、風俗を描くことのなかに、批評を組み込んでゆく。
そのちきちんと座って見る姿は、たしかに犬がお座りをしてまっている姿に似ている。尻をそろえて、きちんと並んでいる。
まっすぐに座ろうが、寝転んでいようが、テレビのなかで起きることが変わるわけではないのだが、そんな「客観」的事実なんかは関係がない。テレビを見るというのは、もっと「主観的」。真剣。真剣だから、
これは鋭い指摘だ。「11PM」と聞いて「えろい」とときめいたことをおぼえているひとが何人いるか。いや、いま「11PM」があったとして、えろいと感じて「注意深く」(あるいは隠れるようにして)見るひとが何人いるだろうか。
詩を読みながら、いろいろ思ってしまう。思い出してしまうし、これからを想像してもしまう。大江の書いていることを忘れて、自分の思い出に夢中になってしまう。大江には悪いが、こういう作者を忘れてしまって何かを勝手に考えたり想像したりするというのが、私は詩だと思っている。
たぶん、詩に限らないが、本を読むというのは、そこに書いてあることを理解する(学ぶ)ということよりも、そこに書いていないことを勝手に知ってしまう(思ってしまう)ということなんだろうなあ。大江の詩を読みながら、大江の「生活」を知るわけではない。大江の「考え」を知るわけではない。そのことばを通して、自分のおぼえていることを思い出したり、自分の考えを動かしたりする。そういうものだと思う。
途中を省略して、最後
「あとで見る」と言ったテレビは、だいたい、見ない。「あとで見る」は、うそである。笑ってしまうなあ。
引用では省略した部分から「あとで見る」までの変化は、「地上十センチ」でお読み下さい。
*
和田まさ子「発熱する家」。あいかわらず変なことを書いている。
たしかに明るくなったらものがはっきり見える。はっきり見えるというのは「大きく」見えるということ。大きいから、はっきり。そこまでは、ふつう。いや、繊細な視覚の変化をとらえた「正しい」表現。
でもねえ、「ウィンナーソーセージ」は「棍棒」には見えない(ならない)でしょう。言い過ぎでしょう。「千切りキャベツ」が「藁小屋のわら」のようになるというのも、嘘。だいたい、「棍棒」に「わら」って、まずくない? 和田さん、いったい何を食べてる? どうせ嘘を書くなら、もっとおいしそうなものを書けばいいのに、なんていう「ちゃちゃ」を入れたくなるなあ。
こうなると、もう、だめ。
すっぽり和田の世界にはまりこんでしまう。
「ワンピース」が「カーテン」くらいになったって、カーテンが重く動けないなんてことはないだろう。劇場の緞帳ではあるまいし。
そう言いたいのだが、
あ、先回りして「意味」の一撃。
まいるね。嘘ばっかりついて、と避難したいのに、そうだなあ、「生きているとなにかの重さに/へとへとになる」ことだなあ、と思ってしまう。
そして、
これは「家」? それとも「和田」? 和田自身を「比喩」のように書いている? 「へとへと」に鞭打って、「へとへと」を「怒り」にかえて、動き出そうとしている人間の姿を思ってしまう。
和田のなかでも、家と和田が入り混じっている。和田は家になってしまっている。だいたい、このひとは何にでもなってしまうからなあ。何でもなって、それをくぐりぬけて動いていくからなあ。何かにこだわらずに、「きょうは、これ」という感じが強くていいなあ。「もっと家を困惑させたい」というのは「自虐」のようにも読めるけれど、「自虐」することで突っぱねる。いじけない。それが、おもしろい。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
大江麻衣「テレビの犬」は、書き出しがすばらしい。最初の二行だけで、わっ、傑作だと叫んでしまう。
むかしのテレビはきちんと見る(「見る!」は言葉にならない、「絶対」もない、その選択肢自体がない)
おとなしく三人並んで、まっすぐ座って見る、犬犬犬。犬の後ろすがた。
あ、確かに、昔はテレビの前できちんと座っていた。寝転んで見てたりするとだらしないと叱られた、というのはテレビもかなり普及してきてからだ。テレビそのものが貴重なので、その前で寝そべるというのは、テレビに対して失礼だった!
最初にテレビを見たときの、あの「見る」という動詞は、たしかにことばにはならないなあ。「テレビを見る」ということばのあり方自体が、ここでは批評され、さらに批評になっている。
うーん、強い。強いことばの運動だ。
この批評のことばの強さは、生まれたときからカラーテレビがひとり一台(以上?)の世代にはわかりにくいことかもしれないけれど……。
で、わかりにくいとわかっているから、大江はこの批評を「現象(風俗)」という肉体に移行させながら、ことばを動かす。肉体を描くこと、風俗を描くことのなかに、批評を組み込んでゆく。
そのちきちんと座って見る姿は、たしかに犬がお座りをしてまっている姿に似ている。尻をそろえて、きちんと並んでいる。
並んでドラマ、並んでテレビ
歌番組ではレコードの声を思い出さない
知らない歌詞が出てきそうで、まっすぐ座る
まっすぐに座ろうが、寝転んでいようが、テレビのなかで起きることが変わるわけではないのだが、そんな「客観」的事実なんかは関係がない。テレビを見るというのは、もっと「主観的」。真剣。真剣だから、
テレビの犬が死んだら哀しい
性欲は減退するから、えろいテレビは消えていった
性とギャグはむずかしいのに簡単に古くなる
これは鋭い指摘だ。「11PM」と聞いて「えろい」とときめいたことをおぼえているひとが何人いるか。いや、いま「11PM」があったとして、えろいと感じて「注意深く」(あるいは隠れるようにして)見るひとが何人いるだろうか。
詩を読みながら、いろいろ思ってしまう。思い出してしまうし、これからを想像してもしまう。大江の書いていることを忘れて、自分の思い出に夢中になってしまう。大江には悪いが、こういう作者を忘れてしまって何かを勝手に考えたり想像したりするというのが、私は詩だと思っている。
たぶん、詩に限らないが、本を読むというのは、そこに書いてあることを理解する(学ぶ)ということよりも、そこに書いていないことを勝手に知ってしまう(思ってしまう)ということなんだろうなあ。大江の詩を読みながら、大江の「生活」を知るわけではない。大江の「考え」を知るわけではない。そのことばを通して、自分のおぼえていることを思い出したり、自分の考えを動かしたりする。そういうものだと思う。
途中を省略して、最後
「あとで見る」だいたい うそをつく
「あとで見る」と言ったテレビは、だいたい、見ない。「あとで見る」は、うそである。笑ってしまうなあ。
引用では省略した部分から「あとで見る」までの変化は、「地上十センチ」でお読み下さい。
*
和田まさ子「発熱する家」。あいかわらず変なことを書いている。
電球が切れたので
替えたら
部屋が新しい白熱灯で煌々とし
ものが大きく見えてきた
夕飯のおかずのウィンナーソーセージが棍棒くらいになり
千切りキャベツが藁小屋のわらのようだ
わたしの着るワンピースはカーテンくらいの大きさで
着たら重さで動けないだろう
たしかに明るくなったらものがはっきり見える。はっきり見えるというのは「大きく」見えるということ。大きいから、はっきり。そこまでは、ふつう。いや、繊細な視覚の変化をとらえた「正しい」表現。
でもねえ、「ウィンナーソーセージ」は「棍棒」には見えない(ならない)でしょう。言い過ぎでしょう。「千切りキャベツ」が「藁小屋のわら」のようになるというのも、嘘。だいたい、「棍棒」に「わら」って、まずくない? 和田さん、いったい何を食べてる? どうせ嘘を書くなら、もっとおいしそうなものを書けばいいのに、なんていう「ちゃちゃ」を入れたくなるなあ。
こうなると、もう、だめ。
すっぽり和田の世界にはまりこんでしまう。
「ワンピース」が「カーテン」くらいになったって、カーテンが重く動けないなんてことはないだろう。劇場の緞帳ではあるまいし。
そう言いたいのだが、
生きているとなにかの重さに
へとへとになる
あ、先回りして「意味」の一撃。
まいるね。嘘ばっかりついて、と避難したいのに、そうだなあ、「生きているとなにかの重さに/へとへとになる」ことだなあ、と思ってしまう。
そして、
家を出て
外から見ると
ちんまりと建っていたわたしの家は
赤黒くなって
膨脹し
窓からは粉を吹きあげて
光を放ち
恒星のようだ
何かに怒っているのか
熱を帯びて
ゆらゆらと動き出しそうだ
これは「家」? それとも「和田」? 和田自身を「比喩」のように書いている? 「へとへと」に鞭打って、「へとへと」を「怒り」にかえて、動き出そうとしている人間の姿を思ってしまう。
近所の人が出てきて
わたしの家を見ていた
その間にも
家は膨脹しつづけ
心音のような脈を打ち
くらがりのなか
発光しつづける
わたしは歩き出す
電球をさらに十個買うために
コンビニに向う
もっと家を困惑させたい
和田のなかでも、家と和田が入り混じっている。和田は家になってしまっている。だいたい、このひとは何にでもなってしまうからなあ。何でもなって、それをくぐりぬけて動いていくからなあ。何かにこだわらずに、「きょうは、これ」という感じが強くていいなあ。「もっと家を困惑させたい」というのは「自虐」のようにも読めるけれど、「自虐」することで突っぱねる。いじけない。それが、おもしろい。
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。