高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(3)(思潮社、2015年01月15日発行)
「目の国で」について、その高橋のことばについて、さらにどんなことが言えるだろうか。すでに言いすぎているのか、言い足りないのか。三つ目の6行について書いてみる。
この2行は先行する二つの断章の2行と構造が同じである。1行目は、そっくりそのままである。2行目は「……ない」と非定型で終わる。指し示しがあって、次にその指し示しは「ある」ではなく「ない」を提示する。
2行目に触れる前に、この繰り返される2行の「意味」について考えてみたい。なぜ各断章のはじまりを「そこ 目の国と呼ばれる地では」と繰り返さなければならなかったのか。繰り返さなくてもタイトルが「目の国で」なのだから、そこに書かれていることは「目の国」で起きていることというのは「わかる」。ことばの経済学からいうと、書き出しの1行の繰り返しは「むだ」である。
でも、繰り返す。繰り返さざるを得ない。それは、なぜか。
最初の断章に出てくる「目の国」と次に出てくる「目の国」は違うのだ。同じ「目の国」と呼ばれるが、まったく違うものである。「指し示し」はそのつど行なわれている。最初の「指し示し」によって「目」ではなく「手」で「見る」ということが指し示された。手、その肉体でなにかに触れる、つかむ、そういう「こと」が、高橋のことばとともに、「事実」としてそこに存在した。それは「真実」でもある。
しかし、それは「手」ということばで指し示すときの「事実/真実」であって、それ以外にも「指し示し方」はある。そのことを明らかにするために、高橋は、何度でも「指し示す」ということから初め直すのである。
仮に「目の国」を海の上に浮かんでいる島であると考えてみる。南の方向から島を指し示す。そのとき見えるものと、北から指し示すときに見えるものは違っている。晴れたときに西から指し示すとき見えてるものと、雨のときに東から指し示し見えるものも違う。違うけれど「ひとつの島」。しかし、その「島」を「ひとつ」にするのは「島」の存在であると同時に、指し示すという「行為」が「ひとつ」にするのだ。「指し示し」がないかぎり、それは存在しない。「指し示し」という「動詞」のなかで「島」が「島になる」。最初の「指し示し」によってあらわれたものは、そのときの「事実/真実」であって、別な「指し示し方」をすれば違った「事実/真実」があらわれてくる。そのとき「真実/事実」が複数になるのではなく、「指し示すと、そこから存在があらわれる」という「ひとつの事実」が生まれてくるのである。「指し示す」という「動詞」、そういうふうにして世界を出会うという「方法」が「事実/真実」になってくる。
高橋は「指し示し」によってあらわれる「世界」と同時に、なによりも「指し示す」という「ことばの運動」そのものを「詩」として提示しているのだ。そのことを明らかにするために、1行目は繰り返されなければならないし、2行目は「……ない」という非定型にならないといけない。
2行目の「目たちはけっして幻を見ることがない」は、何を指し示しているのか。「幻を見る」ということばは常套句であり、そこに「見る」ということばがつかわれているために、「目で見る」という常套句を思い出してしまうが、もし幻があったとして、それはほんとうに「目」で見るものなのか。
そうではないかもしれない。「目」がとらえた何かを、既成の情報ではつかみきれずに錯覚したとき、それが「幻」になるのかもしれない。「目」で見た何かをととのえ直す(情報として処理し直す)ときの混乱が「幻」と呼ばれるものかもしれない。
「迷宮」は一種の「幻」か。つかみきれない幻、つかみきれない迷宮(なぞ)は「つかみきれない」という「動詞」のなかで重なり合うが、もし迷宮というものがあるとすれば、それは通常の通路とは違う形で通路がつくられているということ。通常とは違うという「法則(計算/理性)」によってつくり出されたもの。「幻」とは裏腹に、正確な理性が存在しないことには「迷宮」はつくることができない。通常の理性を上回るとき、そこに存在するものが「謎(迷宮)」になる。迷宮は「理性」がつくり出し(指し示し)、それを「迷宮」と受け止めてしまうのも「理性」である。
「目」が、それを把握しているわけではない。
「怪物」というものが存在するとして、それが「怪物」になるのは、その「頭」を「牛の頭」ということばで指し示し、一方陰部を「人の陰部」ということばで指し示すから、その何かが「怪物」になる。「頭」と「陰部」はあらゆる「肉体」に共通するものだが、それを統合するものは一般的には「ひとつ」である。「牛」か「人」か。けれど、ここに登場する生き物は「牛」ではない。「人」でもない。その別個のものが「統合(合体)」しているから「怪物」と呼ばれる。そういう指し示し方をされる。目ではなく、ある存在を指し示すときの、それを解体し、統合するときの仕方が「怪物」をつくりだすのである。
別な言い方をすれば。牛には「角」があっても、それは鬼ではない。「角」を「人」を指し示すときの方法で何かに結びつけるとき、それは「鬼」になる。結びつけるのは「目」の仕事ではない。目はものを見るが、それを「ことば」でととのえ直すわけではない。
この2行は抽象的すぎて、どう把握すればいいのか、よくわからない。「ことば」は「音」。それは「わかる」。「音」だから、それは「音」に分断(分解?)される。ひとつながりの音は、それぞれの「音」としてとらえ直すことができる。その「音価(このことばを、私は知らない)」を「視覚的に計算する」というのは、さっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、
のことを指し示しているのかな、と思う。牛の「あたま」と人の「いんぶ」と言ったときには、「頭」と「陰部」がかけはなれるが、「かしら」「かくしどころ」と頭韻を踏むと「か」という音のなかで、かってに結びついてしまう。その「か」の音の重なりが、牛と人をも重ねてしまう。
このとき、この「か」をどう考えるか。「音」なのだが、「音」を表記方法でとらえなおすとどうなるのか。「か」を表に出さず「頭」「陰部」と漢字に隠してしまうと、どうしても「あたま」「いんぶ」と読んでしまって、「か」が重ならない。そのためにルビで「音」を指し示している。その「ルビ」をふるという操作のことを「音価を視覚的に」とらえるといっているのではないか。
何が書かれているか(意味)ではなく、どんなふうに指し示しているか、その差し示しによって世界がどんなふうにあらわれてくるか。それを問うのが詩なのである。指し示しは、それが「目の国」であろうと、「耳の国」であろうと、ことばによっておこなわれる。その指し示しが「もの=ことば」の関係を解体し、無意味をくぐりぬけて、もう一度「運動」としておこなわれ、そこに「もの」が新しくあらわれてくるとき、それが詩なのである。
逆に言えば、そこに書かれていることばが、既成の「もの=ことば」の関係を解体し、別なものを指し示すとき、それが詩なのである。詩が難解であるといわれるなら、それは既成の「もの=ことば」の関係を解体し、もういちど「指し示す」という過程を経ているためである。そういう「過程」を思い描かずに、「ことば=もの」の関係を追うと、「難解」というより「わけのわからないもの」になる。
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「目の国で」について、その高橋のことばについて、さらにどんなことが言えるだろうか。すでに言いすぎているのか、言い足りないのか。三つ目の6行について書いてみる。
そこ 目の国と呼ばれる地では
目たちはけっして幻を見ることがない
この2行は先行する二つの断章の2行と構造が同じである。1行目は、そっくりそのままである。2行目は「……ない」と非定型で終わる。指し示しがあって、次にその指し示しは「ある」ではなく「ない」を提示する。
2行目に触れる前に、この繰り返される2行の「意味」について考えてみたい。なぜ各断章のはじまりを「そこ 目の国と呼ばれる地では」と繰り返さなければならなかったのか。繰り返さなくてもタイトルが「目の国で」なのだから、そこに書かれていることは「目の国」で起きていることというのは「わかる」。ことばの経済学からいうと、書き出しの1行の繰り返しは「むだ」である。
でも、繰り返す。繰り返さざるを得ない。それは、なぜか。
最初の断章に出てくる「目の国」と次に出てくる「目の国」は違うのだ。同じ「目の国」と呼ばれるが、まったく違うものである。「指し示し」はそのつど行なわれている。最初の「指し示し」によって「目」ではなく「手」で「見る」ということが指し示された。手、その肉体でなにかに触れる、つかむ、そういう「こと」が、高橋のことばとともに、「事実」としてそこに存在した。それは「真実」でもある。
しかし、それは「手」ということばで指し示すときの「事実/真実」であって、それ以外にも「指し示し方」はある。そのことを明らかにするために、高橋は、何度でも「指し示す」ということから初め直すのである。
仮に「目の国」を海の上に浮かんでいる島であると考えてみる。南の方向から島を指し示す。そのとき見えるものと、北から指し示すときに見えるものは違っている。晴れたときに西から指し示すとき見えてるものと、雨のときに東から指し示し見えるものも違う。違うけれど「ひとつの島」。しかし、その「島」を「ひとつ」にするのは「島」の存在であると同時に、指し示すという「行為」が「ひとつ」にするのだ。「指し示し」がないかぎり、それは存在しない。「指し示し」という「動詞」のなかで「島」が「島になる」。最初の「指し示し」によってあらわれたものは、そのときの「事実/真実」であって、別な「指し示し方」をすれば違った「事実/真実」があらわれてくる。そのとき「真実/事実」が複数になるのではなく、「指し示すと、そこから存在があらわれる」という「ひとつの事実」が生まれてくるのである。「指し示す」という「動詞」、そういうふうにして世界を出会うという「方法」が「事実/真実」になってくる。
高橋は「指し示し」によってあらわれる「世界」と同時に、なによりも「指し示す」という「ことばの運動」そのものを「詩」として提示しているのだ。そのことを明らかにするために、1行目は繰り返されなければならないし、2行目は「……ない」という非定型にならないといけない。
2行目の「目たちはけっして幻を見ることがない」は、何を指し示しているのか。「幻を見る」ということばは常套句であり、そこに「見る」ということばがつかわれているために、「目で見る」という常套句を思い出してしまうが、もし幻があったとして、それはほんとうに「目」で見るものなのか。
そうではないかもしれない。「目」がとらえた何かを、既成の情報ではつかみきれずに錯覚したとき、それが「幻」になるのかもしれない。「目」で見た何かをととのえ直す(情報として処理し直す)ときの混乱が「幻」と呼ばれるものかもしれない。
迷宮は正確な計算によって地下を巡り
怪物は具体的に牛の頭(かしら)と人の陰部(かくしどころ)から成る
「迷宮」は一種の「幻」か。つかみきれない幻、つかみきれない迷宮(なぞ)は「つかみきれない」という「動詞」のなかで重なり合うが、もし迷宮というものがあるとすれば、それは通常の通路とは違う形で通路がつくられているということ。通常とは違うという「法則(計算/理性)」によってつくり出されたもの。「幻」とは裏腹に、正確な理性が存在しないことには「迷宮」はつくることができない。通常の理性を上回るとき、そこに存在するものが「謎(迷宮)」になる。迷宮は「理性」がつくり出し(指し示し)、それを「迷宮」と受け止めてしまうのも「理性」である。
「目」が、それを把握しているわけではない。
「怪物」というものが存在するとして、それが「怪物」になるのは、その「頭」を「牛の頭」ということばで指し示し、一方陰部を「人の陰部」ということばで指し示すから、その何かが「怪物」になる。「頭」と「陰部」はあらゆる「肉体」に共通するものだが、それを統合するものは一般的には「ひとつ」である。「牛」か「人」か。けれど、ここに登場する生き物は「牛」ではない。「人」でもない。その別個のものが「統合(合体)」しているから「怪物」と呼ばれる。そういう指し示し方をされる。目ではなく、ある存在を指し示すときの、それを解体し、統合するときの仕方が「怪物」をつくりだすのである。
別な言い方をすれば。牛には「角」があっても、それは鬼ではない。「角」を「人」を指し示すときの方法で何かに結びつけるとき、それは「鬼」になる。結びつけるのは「目」の仕事ではない。目はものを見るが、それを「ことば」でととのえ直すわけではない。
幻という言葉じたい 音節に分断され
目はその音価を視覚的に計量する
この2行は抽象的すぎて、どう把握すればいいのか、よくわからない。「ことば」は「音」。それは「わかる」。「音」だから、それは「音」に分断(分解?)される。ひとつながりの音は、それぞれの「音」としてとらえ直すことができる。その「音価(このことばを、私は知らない)」を「視覚的に計算する」というのは、さっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、
牛の頭(かしら)と人の陰部(かくしどころ)
のことを指し示しているのかな、と思う。牛の「あたま」と人の「いんぶ」と言ったときには、「頭」と「陰部」がかけはなれるが、「かしら」「かくしどころ」と頭韻を踏むと「か」という音のなかで、かってに結びついてしまう。その「か」の音の重なりが、牛と人をも重ねてしまう。
このとき、この「か」をどう考えるか。「音」なのだが、「音」を表記方法でとらえなおすとどうなるのか。「か」を表に出さず「頭」「陰部」と漢字に隠してしまうと、どうしても「あたま」「いんぶ」と読んでしまって、「か」が重ならない。そのためにルビで「音」を指し示している。その「ルビ」をふるという操作のことを「音価を視覚的に」とらえるといっているのではないか。
何が書かれているか(意味)ではなく、どんなふうに指し示しているか、その差し示しによって世界がどんなふうにあらわれてくるか。それを問うのが詩なのである。指し示しは、それが「目の国」であろうと、「耳の国」であろうと、ことばによっておこなわれる。その指し示しが「もの=ことば」の関係を解体し、無意味をくぐりぬけて、もう一度「運動」としておこなわれ、そこに「もの」が新しくあらわれてくるとき、それが詩なのである。
逆に言えば、そこに書かれていることばが、既成の「もの=ことば」の関係を解体し、別なものを指し示すとき、それが詩なのである。詩が難解であるといわれるなら、それは既成の「もの=ことば」の関係を解体し、もういちど「指し示す」という過程を経ているためである。そういう「過程」を思い描かずに、「ことば=もの」の関係を追うと、「難解」というより「わけのわからないもの」になる。
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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
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