詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(3)

2015-02-26 10:52:10 | 詩集
高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(3)(思潮社、2015年01月15日発行)

 「目の国で」について、その高橋のことばについて、さらにどんなことが言えるだろうか。すでに言いすぎているのか、言い足りないのか。三つ目の6行について書いてみる。

そこ 目の国と呼ばれる地では
目たちはけっして幻を見ることがない

 この2行は先行する二つの断章の2行と構造が同じである。1行目は、そっくりそのままである。2行目は「……ない」と非定型で終わる。指し示しがあって、次にその指し示しは「ある」ではなく「ない」を提示する。
 2行目に触れる前に、この繰り返される2行の「意味」について考えてみたい。なぜ各断章のはじまりを「そこ 目の国と呼ばれる地では」と繰り返さなければならなかったのか。繰り返さなくてもタイトルが「目の国で」なのだから、そこに書かれていることは「目の国」で起きていることというのは「わかる」。ことばの経済学からいうと、書き出しの1行の繰り返しは「むだ」である。
 でも、繰り返す。繰り返さざるを得ない。それは、なぜか。
 最初の断章に出てくる「目の国」と次に出てくる「目の国」は違うのだ。同じ「目の国」と呼ばれるが、まったく違うものである。「指し示し」はそのつど行なわれている。最初の「指し示し」によって「目」ではなく「手」で「見る」ということが指し示された。手、その肉体でなにかに触れる、つかむ、そういう「こと」が、高橋のことばとともに、「事実」としてそこに存在した。それは「真実」でもある。
 しかし、それは「手」ということばで指し示すときの「事実/真実」であって、それ以外にも「指し示し方」はある。そのことを明らかにするために、高橋は、何度でも「指し示す」ということから初め直すのである。
 仮に「目の国」を海の上に浮かんでいる島であると考えてみる。南の方向から島を指し示す。そのとき見えるものと、北から指し示すときに見えるものは違っている。晴れたときに西から指し示すとき見えてるものと、雨のときに東から指し示し見えるものも違う。違うけれど「ひとつの島」。しかし、その「島」を「ひとつ」にするのは「島」の存在であると同時に、指し示すという「行為」が「ひとつ」にするのだ。「指し示し」がないかぎり、それは存在しない。「指し示し」という「動詞」のなかで「島」が「島になる」。最初の「指し示し」によってあらわれたものは、そのときの「事実/真実」であって、別な「指し示し方」をすれば違った「事実/真実」があらわれてくる。そのとき「真実/事実」が複数になるのではなく、「指し示すと、そこから存在があらわれる」という「ひとつの事実」が生まれてくるのである。「指し示す」という「動詞」、そういうふうにして世界を出会うという「方法」が「事実/真実」になってくる。
 高橋は「指し示し」によってあらわれる「世界」と同時に、なによりも「指し示す」という「ことばの運動」そのものを「詩」として提示しているのだ。そのことを明らかにするために、1行目は繰り返されなければならないし、2行目は「……ない」という非定型にならないといけない。

 2行目の「目たちはけっして幻を見ることがない」は、何を指し示しているのか。「幻を見る」ということばは常套句であり、そこに「見る」ということばがつかわれているために、「目で見る」という常套句を思い出してしまうが、もし幻があったとして、それはほんとうに「目」で見るものなのか。
 そうではないかもしれない。「目」がとらえた何かを、既成の情報ではつかみきれずに錯覚したとき、それが「幻」になるのかもしれない。「目」で見た何かをととのえ直す(情報として処理し直す)ときの混乱が「幻」と呼ばれるものかもしれない。

迷宮は正確な計算によって地下を巡り
怪物は具体的に牛の頭(かしら)と人の陰部(かくしどころ)から成る

 「迷宮」は一種の「幻」か。つかみきれない幻、つかみきれない迷宮(なぞ)は「つかみきれない」という「動詞」のなかで重なり合うが、もし迷宮というものがあるとすれば、それは通常の通路とは違う形で通路がつくられているということ。通常とは違うという「法則(計算/理性)」によってつくり出されたもの。「幻」とは裏腹に、正確な理性が存在しないことには「迷宮」はつくることができない。通常の理性を上回るとき、そこに存在するものが「謎(迷宮)」になる。迷宮は「理性」がつくり出し(指し示し)、それを「迷宮」と受け止めてしまうのも「理性」である。
 「目」が、それを把握しているわけではない。
 「怪物」というものが存在するとして、それが「怪物」になるのは、その「頭」を「牛の頭」ということばで指し示し、一方陰部を「人の陰部」ということばで指し示すから、その何かが「怪物」になる。「頭」と「陰部」はあらゆる「肉体」に共通するものだが、それを統合するものは一般的には「ひとつ」である。「牛」か「人」か。けれど、ここに登場する生き物は「牛」ではない。「人」でもない。その別個のものが「統合(合体)」しているから「怪物」と呼ばれる。そういう指し示し方をされる。目ではなく、ある存在を指し示すときの、それを解体し、統合するときの仕方が「怪物」をつくりだすのである。
 別な言い方をすれば。牛には「角」があっても、それは鬼ではない。「角」を「人」を指し示すときの方法で何かに結びつけるとき、それは「鬼」になる。結びつけるのは「目」の仕事ではない。目はものを見るが、それを「ことば」でととのえ直すわけではない。

幻という言葉じたい 音節に分断され
目はその音価を視覚的に計量する

 この2行は抽象的すぎて、どう把握すればいいのか、よくわからない。「ことば」は「音」。それは「わかる」。「音」だから、それは「音」に分断(分解?)される。ひとつながりの音は、それぞれの「音」としてとらえ直すことができる。その「音価(このことばを、私は知らない)」を「視覚的に計算する」というのは、さっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、

牛の頭(かしら)と人の陰部(かくしどころ)

 のことを指し示しているのかな、と思う。牛の「あたま」と人の「いんぶ」と言ったときには、「頭」と「陰部」がかけはなれるが、「かしら」「かくしどころ」と頭韻を踏むと「か」という音のなかで、かってに結びついてしまう。その「か」の音の重なりが、牛と人をも重ねてしまう。
 このとき、この「か」をどう考えるか。「音」なのだが、「音」を表記方法でとらえなおすとどうなるのか。「か」を表に出さず「頭」「陰部」と漢字に隠してしまうと、どうしても「あたま」「いんぶ」と読んでしまって、「か」が重ならない。そのためにルビで「音」を指し示している。その「ルビ」をふるという操作のことを「音価を視覚的に」とらえるといっているのではないか。

 何が書かれているか(意味)ではなく、どんなふうに指し示しているか、その差し示しによって世界がどんなふうにあらわれてくるか。それを問うのが詩なのである。指し示しは、それが「目の国」であろうと、「耳の国」であろうと、ことばによっておこなわれる。その指し示しが「もの=ことば」の関係を解体し、無意味をくぐりぬけて、もう一度「運動」としておこなわれ、そこに「もの」が新しくあらわれてくるとき、それが詩なのである。
 逆に言えば、そこに書かれていることばが、既成の「もの=ことば」の関係を解体し、別なものを指し示すとき、それが詩なのである。詩が難解であるといわれるなら、それは既成の「もの=ことば」の関係を解体し、もういちど「指し示す」という過程を経ているためである。そういう「過程」を思い描かずに、「ことば=もの」の関係を追うと、「難解」というより「わけのわからないもの」になる。

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嵯峨信之を読む(25)

2015-02-26 10:34:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
46 時雨

 「住吉海岸」の注釈。

少しの時雨を 吸取紙のように 暗い松林が吸い込んでいる

 時雨に濡れながら暗くなる(黒くなる)松林が目に浮かぶ。時雨の水分の量だけ暗く、黒くなる。吸取紙が水をすって暗くなるように。
 この書き出しは、三行目から少し別な形で言い換えられている。

心をそそぎこんで
かなしく外にあふれてしまう
まもなく信じられないほどの広いしずけさがやつてくる

 「吸取紙」は基本的に水をあふれさせない。しかし水の量が多ければ、紙だけでは吸収できず、あふれてしまう。心はどうなのだろう。悲しみの雫が心に落ちてくる。それが次第に増えて、水を注ぎこむように注がれると、それはあふれてしまう。
 最初は松林だけがぬれて見える。松の葉と幹がぬれて色を変える。時雨がさらに降り続くと、その「暗い」変化は松林だけではおさまらない。松林の周囲にもひろがっていく。周囲も徐々に暗くなる。
 その変化を「信じられないほどの広いしずけさ」と嵯峨は書く。
 「やつてくる」は松林のなかから外へあふるれ感じ、それを見つめている詩人の方にあふれてくる感じ。その「あふれる」が心のなかで動き、かなしみがあふれるにかわる。嵯峨は「かなしく」と書いているが、副詞ではなく「かなしい」という名詞として感じてしまう。そして、「しずけさ」と「かなしさ」が、「あふれる(やつてくる)」という「動詞」のなかで「ひとつ」になっているように感じられる。「しずけれ「ではなく「かなしみ」がやってくる。

47 少年哀歌

 「かつて音丸という妓あり」という注釈。嵯峨の初恋だろうか。悲恋に終わった恋なのだろうか。

ぼくはふと手くびに重みを感じる
あのひとの心からなにか去りゆくしずけさが
いまぼくの手につたわつてくるのだろう

 「あのひとの心」から去っていく(消えていく)のは嵯峨への恋かもしれない。あきらめるしかない恋が、「しずけさ」を感じさせる。
 「しずけさ」は「時雨」では「かなしく(かなしみ)」と言い換えられていた。この詩でも「しずけさ」は「かなしみ」と言い換えられるだろう。嵯峨の言語感覚では「しずけさ(しずかに)」「かなしさ(かなしく)」は通い合っている。
 静かな風景が描写されるとき、それは「かなしい風景」を象徴する。
 そう思うとき、引用した行の直前の一行がおもしろい。

蜜蜂の唸りが線を描いて消えていつた

 「唸り(音)」を「線」に変換してとらえるところは嵯峨が「視覚の詩人」であることを象徴している。「音」が消えていったのだが、そのとき「唸り」は「音」ではなく「線」という視覚でとられるものに変わっている。
 それが一義的なおもしろさだが、もうひとつ、「音」が消える、静かになるということが、「ぼくはふと手くびに重みを感じる」という感覚の引き金になっていることが非常におもしろい。その「重み」は次の行で「しずけさ」と書き換えられ、「かなしみ」につながっていく。蜜蜂の翅の音が消えて、しずかになるから、かなしみがみちてくるのである。かなしみが、手首を重くする。

 心から手首へ(肉体へ)、「かなしみ」が伝わるというのは、そこに断絶(飛躍)があるから、余計に鮮烈に感じられる。ふつうのことばでは表現できないことが起きているという印象となって、そこにある。


OB抒情歌
嵯峨 信之
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展覧会の絵

2015-02-26 01:05:42 | 
展覧会の絵

三階の窓から身を乗り出して一階の庭をみおろしたとき、展覧会で見た「絵」がよみがえり、「テーブル」ということばになった。その上には「広げられた新聞紙」ということばがあり、「無防備」ということばが四階の窓から降ってきたような気がした。

だれが、見ているのか。

背後で「彼女の髪のぬれた匂い」ということばが、ドライヤーの音に隠れて動いていた。「無防備」とは、そういう意味であったような気がする。「鏡の中の女は、鏡の外の左右反対の女を見ている」ということばの方が「無防備」の定義にふさわしいが、それは次の詩に書くために考えたことだ。

だれが、見ているのか。

「展覧会の絵」には、一階の庭の向こう、樹の奥に家の窓があった。「昼間隠れていた」ということばは、「明かりが窓の形を教えてくれる」という警告にかわり、それままた別の「無防備」を指摘する。星を見るふりをして「深い井戸をのぞく」ように空を見るが、「絵」がそうであったように、そこには「星」ということばは、なかった。

だれが、見てしまったのか。





*

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