詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(2)

2015-02-25 15:16:23 | 詩集
高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(2)(思潮社、2015年01月15日発行)

 「目の国で」の最初の6行を取り上げて、きのう、私は奇妙なことを書いた。その「奇妙」をきょうもつづけて書いてみる。二つ目の断章の6行。

そこ 目の国と呼ばれる地では
絵筆による遠近法は存在しない

 最初の一行は、きのう呼んだ部分と同じ。高橋は、「そこ」ということばで「ここ」でも「あこ」でも「ない」どこか、「どこ」ともわからない「地」を指し示す。指し示しであるから、「そこ」は「ここ」とは関係がない。そして、「ここ」がどこであろうと、「そこ」は存在する。「指し示す」という「動詞」そのものがなくなることはない。指し示しによって生まれた「場」が「そこ」である。
 「そこ」がなくても「指し示す」という「動詞」は存在するということもできるかもしれないが、そういってしまうと「そこ」と「指し示す」の関係そのものもなくなってしまうので、「そこ」は指し示しによって「生まれる(あらわれる)」と私は考える。。
 で、その「そこ」というのは「どこ」かわからないが、「そこ」には何かが存在する。するはずなのだが、高橋は、何かが存在するとはいわずに、まず、

絵筆による遠近法は存在しない

 と言う。
 このとき「存在しない」の主語は「遠近法」だが、「絵筆」は何だろう。なぜ「絵筆」なのだろう。「そこ」には「絵筆」は存在するのか。「絵」は存在するのか。「絵筆」は「ここ(高橋の存在する場)」の「絵筆」と同じものだろうか。「(絵による)遠近法」は「ここ(高橋の存在する場)」の「絵筆」によって描かれるものと同じものだろうか。どうにも、わからない。
 「そこ」には「絵筆」も「遠近法」も存在しない。そこにある「何か」をあらわすとしたら、「ここ(高橋の存在する場)」にある何かを借りて「指し示す」としたら、「絵筆による遠近法は存在しない」ということばにするしかない。そうやって指し示すしかない、ということだろう。
 しかし、これは「指し示し」なのだろうか。「ここ(高橋の存在する場)」から何かを指し示しているのだろうか。そうではなくて、「そこ」の何かを指し示そうとするとき、その指し示すという動詞を通して、逆に「ここ(高橋の存在する場)」が指し示されるのではないだろうか。「ここ(高橋の存在する場)」には「絵筆」がある。「遠近法」がある。「ある」と私たちは思っている。それは、しかし、いったい何なのだろう。
 「そこ」を「指し示す」ときにつかわれる「ここ(高橋の存在する場)」のことば、その「ことば」と「もの」の「関係」は、どうなっているのだろう。そのことが問われているような気がする。

遠くに動く木と近くに坐る岩とは
色彩の濃淡で段階づけられるわけではない

 「そこ」として指し示される何かを思い描くとき、どうしても私は「ここ(高橋の存在する場)」にあるものを借りて想像する。「遠くにある木」「近くにある岩」、「遠い」と「近い」、「木」と「岩」を借りて考えるのだが、そういうものを考えるとき、私は「色彩の濃淡で段階づけ」て考えるわけではない。考えたことがなかった。だから「色彩の濃淡で段階づけられるわけではない」ということばを読むとき、「そこ」に「ある」はずの「遠い」「近い」「木」「岩」ではなく、「ここ(高橋の存在する場)」にあるそれらを「色彩の濃淡で段階づけ」てみるということを迫られる。「ここ(高橋の存在する場)」にあるそれらを「色彩の濃淡で段階づけ」てみないことには、それが「ない」ということがわからない。「ある」を「現実」の場で確かめないことには「ない」がほんとうに「ない」かどうかは、わからない。「ある」があって初めて「ない」が存在する。
 何かを、「遠近法」を、だろうか--それを「色彩の濃淡で段階づけ」るという「動詞」、そういう「指し示し」方を、私はしているか。そもそも「遠近法」とは「色彩の濃淡」かどうか。明確にはわからないが、色彩の濃淡で浮かび上がる「遠近法」というものもあるにはある。存在の大きさの大小ではなく(透視図)ではなく、色彩によっても、それはあらわせうる。手前の山は緑、その背後の山は青、その背後はあわい藍色というような感じの「遠近法」はたしかに見たことはある。高橋が想定しているものがどのようなものかわからないが、私は、そういうものを思い出しながら、「色彩の濃淡で段階づけ」るという描き方(運動、動詞)を感じ取る。
 「そこ」ではどうなのかわからないが、「ここ(高橋の存在する場)」ある「こと」が、いつも逆に「指し示される」。その「指し示し」が「ここ」を活性化する。「そこ」を「鏡」のようにして、「ここ(高橋のいる場)」が映し出される。
 だから、その4行を受けて、

遠い木は近い岩と同じ線上に並んでいる
視線の舌は同時に二つを舐めねばならぬ

 と詩が展開されたとき、私は問われている気持ちになる。「遠い木」「近い岩」を「同じ線上に並んでいる」と把握しなおしてみたことがあるか。「遠い」「近い」は存在しないと把握しなおしたことはあるか。
 「遠い」「近い」をつくりだしているのは、木や岩ではなく、「私」である。木も岩も、ただそこに「ある」。私とは無関係である。(私には「遠い」が高橋には「近い」という遠近が逆転することもあるのだから。)「遠近」は木や岩には関係がない。「遠い」を思うとき、何かを「遠い」と指し示すとき、そこに「遠い」があらわれる。「近い」を思うとき「近い」があらわれる。そして、その「あらわれ」は、「私」をとおって、「私」のなかにあらわれることである。
 「視線の舌」とは何か。「視線」はわかる。「舌」もわかる。でも「視線の舌」はわからない。日常的にそういうことばをつかわない。ここでは日常のことばが否定されている。
 「遠い」「近い」も日常の感覚が否定されていた。
 日常の感覚で知っているものをいったん否定して、視線とは何か、舌とは何か、視線のなかにある「動詞(動き方)」、「舌」のなかにある「動詞(動き方)」を手がかりにして、もう一度「肉体」を動かし直さなければならない。「視線で舐める」「舌で舐める」「舐めるような視線」。それは「視線」を突き破って動く何かだ。「遠い/近い」という「遠近感」ではなく、そのとき別の「遠近感」が「肉体」のなかで動く。「舐める」ときの「快感の遠近法」。「舐められるときの快感の遠近法」が浮かび上がる。じれったさと悦びが「肉体」の奥からあらわれてくる。「舌」よりももっと「肉体」全体をつきうごかすものとしてあらわれてくる。
 「目の国」であればこそ、そこでは日常の「目」を超えて、目が「舌」にもなる。最初の断章では「目」が「手」になったように、この章では目が「舌」になって、それが「遠近法」をつくる。--そういうことは、「目の国」にだけあるのではなく、まず「ここ(高橋のいる場)」でも「ある」。「視線で舐める、目で舐める、舐めるような目つき」というようなことばのなかに、それはすでに存在している。目で舐めながら、快感の濃淡を段階づけるということが、「ある」。

 「そこ」--どこかわからない場を指し示しながら、その指し示しが、「ここ(高橋のいる場)」の「あり方」を指し示す。その指し示しは、「ここ(高橋のいる場)」をいったん解体したあとの指し示しである。いったん解体したあとの、というのは、直接「ここ(高橋のいる場)」を指し示しているわけではなく、「そこ」を指し示すことによって、それが「ここ(高橋のいる場)」を明らかにするからである。指し示された「ここ」は、そのときすでにかつての「ここ」ではない。新しい「ここ」に生まれ変わっている。
 高橋は「ここ」の再生を「ことば」の運動のなかで展開している。
 その「ことば」は、「ここ」にある「もの」とは無関係である。「ここ」にある「もの」の関係(日常の定義、流通言語?)を否定して、ここにはない「そこ」を指し示すという運動を経たあとで、「ここ」にあらわれなおした「新しいことば」である。「新しい定義」である。
 そういう「ことば」、「ことばの運動」として高橋の詩を読む必要がある。
続続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫)
高橋 睦郎
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之を読む(24)

2015-02-25 12:14:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
44 一つの島

 「一つの島」は架空の島なのだろう。注釈で特定していない。

あなたの想うことが湖から吹いてきます

 という不思議な一行からはじまる。「あなたの想うこと」とは何か。あなた「が」想うこととは違うのか。「ぼく」があなた「を」想うときにあふれる何かだろうか。「あなた」と「ぼく」と「想う」が交錯する。
 たしかなことは「想う」という「動詞」がそこにあるということ。ほかのことは、わからない。ゆらいでいる。
 そう思っていると、あるいはそう思うからなのか……

あなたは遠い島のようにすべての憧れをあつめ
雨の日や霧の日は姿をかくします

 「島」は「比喩」。「あなた」は「島のよう」。けれど「島」ということばが動いた瞬間から、「島」が「あなた」をのみこんでしまう。雨や霧が隠すのは「あなた」ではなく、「島」である。「あなた」は「島」になってしまっている。もう、そこには「あなた」はいない。
 「島」が「あなた」の比喩なのではなく、「あなた」が「島」の比喩のように思える。「島」を「あなた」と呼んでいるように思える。そう考えると「あなたは遠い島のように」という比喩が、比喩ではなく混乱になってしまうが、「比喩する(比喩にする?)」という「動詞」のなかでは、何が「現実」であり、何が「比喩」なのかという問題は消えてしまうのかもしれない。「比喩にする」という「動詞」が重要なのかもしれない。二つの存在をつなぐことで二つが交錯して「ひとつ」になる。「ひとつ」としてこの世界にあらわれてくる。
 「あなた」と「ぼく」が交錯したように、ここでは「あなた」と「島」が交錯する。そして、そのときわかるのはあこがれを「あつめる」、姿を「隠す」という「動詞」である。何かを「あつめ」、また「かくす/かくれる」。大事なものを「かくす/かくれる」。かくされる(視線が届かない/遠い)ので、その何かがいっそう大切なもの、「あこがれ」になる。ことばは振り返りながらさらに交錯し、渾然一体となる。

 「主語」といえばいいのか「対象」といえばいいのか、この詩に出てくる「もの(人、物/存在)」は、何か、はっきりした輪郭(個別性)を欠いている。
 これは詩が進むとさらに激しくなる。

ぼくは時おりその島に向つて
たれか声ながくさけぶのをきくことがあります

 瞬間的に「たれか」とは「ぼく」に違いないと思う。「ぼく」と「たれか」が交錯して見分けがつかなくなっているのだと思う。
 そうすると、ほら、

ぼくをたちこめている霧の中のどこかで
ちょうどぼくがさけびたくなると
ふしぎにその声はきこえはじめるのです

 「ぼくがさけびたくなるとき」聞こえるなら、それは「ぼく」の代弁者、いや「ぼく」そのものだ。いや、「霧の中」に隠れたのが「島/あなた(あこがれ)」であったはずなのに、それはいつのまにか「ぼく」にかわっているのだから、それは「あなた(あこがれ)」の叫びであり、「あこがれ(あなた)」の叫びであるからこそ「ぼく」の叫びでもある。「あこがれ/あなた」以外のだれかの叫びなら「ぼく」は「ぼくの叫び」とは勘違いしないだろう。
 これを、嵯峨はさらに言いなおしている。

その声をじつときいていると
それはだんだんぼくの声に似てきます

 嵯峨は、「あなた」ではなく「ぼく」を発見する。「ぼく」のなかにある「ほんとうのぼく(あこがれが何であるかわかる人)」。それを「あなた」と呼び、「島」と呼んでいたのだ。それらは「似る」という「動詞」を通ることで、別個のものなのに「ひとつ」になる。
 それは、さらに変化していく。

やがてまた父の切ない声のようにも
いやもつと奥深い永劫のはてからぼくのなかにつづいている なにものかの声に

 「なにものか」としか言えない何か。特定できない何か。
 特定できないのだけれど、「つづく」という動詞でつながっていることがわかる。「似る」ことによって「つづく」になる。「つづく」は「つながる」であり、「つながる」は「ひとつになる」でもある。
 「ぼく」のなかにある「ほんとうのぼく(あなた)」は、父とつながり、父を超えてさらにその父(祖父)という感じでつながり「永劫」につながる。人間がむかしから感じていた「あこがれ」、何かにあこがれる(動詞)ということに、つながる。
 「永劫」といっても、それは遠くにある何かではなく「いま」が「永劫」になるのだ。自分を超えて、何かにつながると感じる瞬間、そこに「永劫」がある。「あこがれる」という「動詞」が、「いま」を「永遠」にする。
 この「あこがれる」は「あなたの想う」の「想う」という動詞でもある。「想う」のなかに「いま」と「永遠」が「ひとつ」になる。
 「ぼく」のなかの「ほんとうのぼく」を「あなた」と呼んだ瞬間(いま)、あるいはその「あなた」を「一つの島」という比喩にした瞬間(いま)、島が霧に隠れる、だれかが叫びをあげると感じた瞬間(いま)、「肉体」のなかで動いた「いま」こそが「永劫(永遠)」なのだ。
 こういうことは「論理的」には説明できない。「比喩」の錯乱(混乱)のなかで、ぱっと爆発して消えていくものである。そして、それが詩なのだ。

45 美少年

 「大淀川河口」の注釈。

きゆうにぼくが起きあがると
つづいて傍らのひとりも立ちあがつた

 この「傍らのひとり」は「比喩」。「ぼく」の「比喩」としての姿だろう。「美少年」になって、大淀川河口を歩いている。ナルシズムかもしれないが、ナルシズムは青春の特権である。
 その「特権」をとおって、感覚はいきいきと動く。そして「風景」に出会い、美しいことばに結晶する。

奥の繁みに射しこんでいた川明かりがみるみる消えはじめる

 「奥の繁みに射しこんでいた川明かり」にびっくりする。視力が強く、透明である。「奥」にある「明かり(光)」を一瞬の内にとらえる強い目を嵯峨はもっている。

汐くさい獣のように満潮の入江が膨らんでいる

 満潮で河口が膨れる。その変化をとらえる視力が鋭敏だ。そして、それを「獣のように」と感じる野性的な感覚。そこには野性に対する共感のようなものがある。嵯峨のことばは繊細な印象を与えるものが多いが、肉感的なものにも触れていることがわかる。その「肉感」の奥に、「くさい」(嗅覚)がうごめいている。
 視覚で風景を描写しているのだが、その奥から嗅覚が視覚を刺戟している。視覚のなかに嗅覚が融合している。

詩集 土地の名~人間の名
嵯峨 信之
詩学社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015-02-25 01:17:26 | 


「橋を眺めた」ということばがあった。「別の橋から」ということばのあいだで、「両腕」ということばは、さびしそうに風にちぎれていた。
「さまたげるものは何もない」というのは「美しい」ことか、「残酷」なことか、あるいは「さびしい」ことか、ことばは考えあぐねていた。

その二行は、「あの橋はなかった」、あるいは「あの橋は見つからなかった」という、葉書に書かれたことばとは遠いところにある。
そして「雪が積もっているせいだろうか、違っているのに、逆に似たところがあるように思えた」ということばの近くにある。

それは「水の流れ」を描写した青い文字の余白をぐるりとまわりながら、宛て名が書かれた表にかけて書かれていたことばだ。
「私は間違っていない」ということばが間違っていることはわかるが、認めることはできないと主張しているように見えた。

そうであるなら、「橋が間違えたのだ」。
「風を映して流れる川」ということばは、川は似ていないが「水は同じ海へつづいている」ということばになりたがった。

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする