高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(2)(思潮社、2015年01月15日発行)
「目の国で」の最初の6行を取り上げて、きのう、私は奇妙なことを書いた。その「奇妙」をきょうもつづけて書いてみる。二つ目の断章の6行。
最初の一行は、きのう呼んだ部分と同じ。高橋は、「そこ」ということばで「ここ」でも「あこ」でも「ない」どこか、「どこ」ともわからない「地」を指し示す。指し示しであるから、「そこ」は「ここ」とは関係がない。そして、「ここ」がどこであろうと、「そこ」は存在する。「指し示す」という「動詞」そのものがなくなることはない。指し示しによって生まれた「場」が「そこ」である。
「そこ」がなくても「指し示す」という「動詞」は存在するということもできるかもしれないが、そういってしまうと「そこ」と「指し示す」の関係そのものもなくなってしまうので、「そこ」は指し示しによって「生まれる(あらわれる)」と私は考える。。
で、その「そこ」というのは「どこ」かわからないが、「そこ」には何かが存在する。するはずなのだが、高橋は、何かが存在するとはいわずに、まず、
と言う。
このとき「存在しない」の主語は「遠近法」だが、「絵筆」は何だろう。なぜ「絵筆」なのだろう。「そこ」には「絵筆」は存在するのか。「絵」は存在するのか。「絵筆」は「ここ(高橋の存在する場)」の「絵筆」と同じものだろうか。「(絵による)遠近法」は「ここ(高橋の存在する場)」の「絵筆」によって描かれるものと同じものだろうか。どうにも、わからない。
「そこ」には「絵筆」も「遠近法」も存在しない。そこにある「何か」をあらわすとしたら、「ここ(高橋の存在する場)」にある何かを借りて「指し示す」としたら、「絵筆による遠近法は存在しない」ということばにするしかない。そうやって指し示すしかない、ということだろう。
しかし、これは「指し示し」なのだろうか。「ここ(高橋の存在する場)」から何かを指し示しているのだろうか。そうではなくて、「そこ」の何かを指し示そうとするとき、その指し示すという動詞を通して、逆に「ここ(高橋の存在する場)」が指し示されるのではないだろうか。「ここ(高橋の存在する場)」には「絵筆」がある。「遠近法」がある。「ある」と私たちは思っている。それは、しかし、いったい何なのだろう。
「そこ」を「指し示す」ときにつかわれる「ここ(高橋の存在する場)」のことば、その「ことば」と「もの」の「関係」は、どうなっているのだろう。そのことが問われているような気がする。
「そこ」として指し示される何かを思い描くとき、どうしても私は「ここ(高橋の存在する場)」にあるものを借りて想像する。「遠くにある木」「近くにある岩」、「遠い」と「近い」、「木」と「岩」を借りて考えるのだが、そういうものを考えるとき、私は「色彩の濃淡で段階づけ」て考えるわけではない。考えたことがなかった。だから「色彩の濃淡で段階づけられるわけではない」ということばを読むとき、「そこ」に「ある」はずの「遠い」「近い」「木」「岩」ではなく、「ここ(高橋の存在する場)」にあるそれらを「色彩の濃淡で段階づけ」てみるということを迫られる。「ここ(高橋の存在する場)」にあるそれらを「色彩の濃淡で段階づけ」てみないことには、それが「ない」ということがわからない。「ある」を「現実」の場で確かめないことには「ない」がほんとうに「ない」かどうかは、わからない。「ある」があって初めて「ない」が存在する。
何かを、「遠近法」を、だろうか--それを「色彩の濃淡で段階づけ」るという「動詞」、そういう「指し示し」方を、私はしているか。そもそも「遠近法」とは「色彩の濃淡」かどうか。明確にはわからないが、色彩の濃淡で浮かび上がる「遠近法」というものもあるにはある。存在の大きさの大小ではなく(透視図)ではなく、色彩によっても、それはあらわせうる。手前の山は緑、その背後の山は青、その背後はあわい藍色というような感じの「遠近法」はたしかに見たことはある。高橋が想定しているものがどのようなものかわからないが、私は、そういうものを思い出しながら、「色彩の濃淡で段階づけ」るという描き方(運動、動詞)を感じ取る。
「そこ」ではどうなのかわからないが、「ここ(高橋の存在する場)」ある「こと」が、いつも逆に「指し示される」。その「指し示し」が「ここ」を活性化する。「そこ」を「鏡」のようにして、「ここ(高橋のいる場)」が映し出される。
だから、その4行を受けて、
と詩が展開されたとき、私は問われている気持ちになる。「遠い木」「近い岩」を「同じ線上に並んでいる」と把握しなおしてみたことがあるか。「遠い」「近い」は存在しないと把握しなおしたことはあるか。
「遠い」「近い」をつくりだしているのは、木や岩ではなく、「私」である。木も岩も、ただそこに「ある」。私とは無関係である。(私には「遠い」が高橋には「近い」という遠近が逆転することもあるのだから。)「遠近」は木や岩には関係がない。「遠い」を思うとき、何かを「遠い」と指し示すとき、そこに「遠い」があらわれる。「近い」を思うとき「近い」があらわれる。そして、その「あらわれ」は、「私」をとおって、「私」のなかにあらわれることである。
「視線の舌」とは何か。「視線」はわかる。「舌」もわかる。でも「視線の舌」はわからない。日常的にそういうことばをつかわない。ここでは日常のことばが否定されている。
「遠い」「近い」も日常の感覚が否定されていた。
日常の感覚で知っているものをいったん否定して、視線とは何か、舌とは何か、視線のなかにある「動詞(動き方)」、「舌」のなかにある「動詞(動き方)」を手がかりにして、もう一度「肉体」を動かし直さなければならない。「視線で舐める」「舌で舐める」「舐めるような視線」。それは「視線」を突き破って動く何かだ。「遠い/近い」という「遠近感」ではなく、そのとき別の「遠近感」が「肉体」のなかで動く。「舐める」ときの「快感の遠近法」。「舐められるときの快感の遠近法」が浮かび上がる。じれったさと悦びが「肉体」の奥からあらわれてくる。「舌」よりももっと「肉体」全体をつきうごかすものとしてあらわれてくる。
「目の国」であればこそ、そこでは日常の「目」を超えて、目が「舌」にもなる。最初の断章では「目」が「手」になったように、この章では目が「舌」になって、それが「遠近法」をつくる。--そういうことは、「目の国」にだけあるのではなく、まず「ここ(高橋のいる場)」でも「ある」。「視線で舐める、目で舐める、舐めるような目つき」というようなことばのなかに、それはすでに存在している。目で舐めながら、快感の濃淡を段階づけるということが、「ある」。
「そこ」--どこかわからない場を指し示しながら、その指し示しが、「ここ(高橋のいる場)」の「あり方」を指し示す。その指し示しは、「ここ(高橋のいる場)」をいったん解体したあとの指し示しである。いったん解体したあとの、というのは、直接「ここ(高橋のいる場)」を指し示しているわけではなく、「そこ」を指し示すことによって、それが「ここ(高橋のいる場)」を明らかにするからである。指し示された「ここ」は、そのときすでにかつての「ここ」ではない。新しい「ここ」に生まれ変わっている。
高橋は「ここ」の再生を「ことば」の運動のなかで展開している。
その「ことば」は、「ここ」にある「もの」とは無関係である。「ここ」にある「もの」の関係(日常の定義、流通言語?)を否定して、ここにはない「そこ」を指し示すという運動を経たあとで、「ここ」にあらわれなおした「新しいことば」である。「新しい定義」である。
そういう「ことば」、「ことばの運動」として高橋の詩を読む必要がある。
「目の国で」の最初の6行を取り上げて、きのう、私は奇妙なことを書いた。その「奇妙」をきょうもつづけて書いてみる。二つ目の断章の6行。
そこ 目の国と呼ばれる地では
絵筆による遠近法は存在しない
最初の一行は、きのう呼んだ部分と同じ。高橋は、「そこ」ということばで「ここ」でも「あこ」でも「ない」どこか、「どこ」ともわからない「地」を指し示す。指し示しであるから、「そこ」は「ここ」とは関係がない。そして、「ここ」がどこであろうと、「そこ」は存在する。「指し示す」という「動詞」そのものがなくなることはない。指し示しによって生まれた「場」が「そこ」である。
「そこ」がなくても「指し示す」という「動詞」は存在するということもできるかもしれないが、そういってしまうと「そこ」と「指し示す」の関係そのものもなくなってしまうので、「そこ」は指し示しによって「生まれる(あらわれる)」と私は考える。。
で、その「そこ」というのは「どこ」かわからないが、「そこ」には何かが存在する。するはずなのだが、高橋は、何かが存在するとはいわずに、まず、
絵筆による遠近法は存在しない
と言う。
このとき「存在しない」の主語は「遠近法」だが、「絵筆」は何だろう。なぜ「絵筆」なのだろう。「そこ」には「絵筆」は存在するのか。「絵」は存在するのか。「絵筆」は「ここ(高橋の存在する場)」の「絵筆」と同じものだろうか。「(絵による)遠近法」は「ここ(高橋の存在する場)」の「絵筆」によって描かれるものと同じものだろうか。どうにも、わからない。
「そこ」には「絵筆」も「遠近法」も存在しない。そこにある「何か」をあらわすとしたら、「ここ(高橋の存在する場)」にある何かを借りて「指し示す」としたら、「絵筆による遠近法は存在しない」ということばにするしかない。そうやって指し示すしかない、ということだろう。
しかし、これは「指し示し」なのだろうか。「ここ(高橋の存在する場)」から何かを指し示しているのだろうか。そうではなくて、「そこ」の何かを指し示そうとするとき、その指し示すという動詞を通して、逆に「ここ(高橋の存在する場)」が指し示されるのではないだろうか。「ここ(高橋の存在する場)」には「絵筆」がある。「遠近法」がある。「ある」と私たちは思っている。それは、しかし、いったい何なのだろう。
「そこ」を「指し示す」ときにつかわれる「ここ(高橋の存在する場)」のことば、その「ことば」と「もの」の「関係」は、どうなっているのだろう。そのことが問われているような気がする。
遠くに動く木と近くに坐る岩とは
色彩の濃淡で段階づけられるわけではない
「そこ」として指し示される何かを思い描くとき、どうしても私は「ここ(高橋の存在する場)」にあるものを借りて想像する。「遠くにある木」「近くにある岩」、「遠い」と「近い」、「木」と「岩」を借りて考えるのだが、そういうものを考えるとき、私は「色彩の濃淡で段階づけ」て考えるわけではない。考えたことがなかった。だから「色彩の濃淡で段階づけられるわけではない」ということばを読むとき、「そこ」に「ある」はずの「遠い」「近い」「木」「岩」ではなく、「ここ(高橋の存在する場)」にあるそれらを「色彩の濃淡で段階づけ」てみるということを迫られる。「ここ(高橋の存在する場)」にあるそれらを「色彩の濃淡で段階づけ」てみないことには、それが「ない」ということがわからない。「ある」を「現実」の場で確かめないことには「ない」がほんとうに「ない」かどうかは、わからない。「ある」があって初めて「ない」が存在する。
何かを、「遠近法」を、だろうか--それを「色彩の濃淡で段階づけ」るという「動詞」、そういう「指し示し」方を、私はしているか。そもそも「遠近法」とは「色彩の濃淡」かどうか。明確にはわからないが、色彩の濃淡で浮かび上がる「遠近法」というものもあるにはある。存在の大きさの大小ではなく(透視図)ではなく、色彩によっても、それはあらわせうる。手前の山は緑、その背後の山は青、その背後はあわい藍色というような感じの「遠近法」はたしかに見たことはある。高橋が想定しているものがどのようなものかわからないが、私は、そういうものを思い出しながら、「色彩の濃淡で段階づけ」るという描き方(運動、動詞)を感じ取る。
「そこ」ではどうなのかわからないが、「ここ(高橋の存在する場)」ある「こと」が、いつも逆に「指し示される」。その「指し示し」が「ここ」を活性化する。「そこ」を「鏡」のようにして、「ここ(高橋のいる場)」が映し出される。
だから、その4行を受けて、
遠い木は近い岩と同じ線上に並んでいる
視線の舌は同時に二つを舐めねばならぬ
と詩が展開されたとき、私は問われている気持ちになる。「遠い木」「近い岩」を「同じ線上に並んでいる」と把握しなおしてみたことがあるか。「遠い」「近い」は存在しないと把握しなおしたことはあるか。
「遠い」「近い」をつくりだしているのは、木や岩ではなく、「私」である。木も岩も、ただそこに「ある」。私とは無関係である。(私には「遠い」が高橋には「近い」という遠近が逆転することもあるのだから。)「遠近」は木や岩には関係がない。「遠い」を思うとき、何かを「遠い」と指し示すとき、そこに「遠い」があらわれる。「近い」を思うとき「近い」があらわれる。そして、その「あらわれ」は、「私」をとおって、「私」のなかにあらわれることである。
「視線の舌」とは何か。「視線」はわかる。「舌」もわかる。でも「視線の舌」はわからない。日常的にそういうことばをつかわない。ここでは日常のことばが否定されている。
「遠い」「近い」も日常の感覚が否定されていた。
日常の感覚で知っているものをいったん否定して、視線とは何か、舌とは何か、視線のなかにある「動詞(動き方)」、「舌」のなかにある「動詞(動き方)」を手がかりにして、もう一度「肉体」を動かし直さなければならない。「視線で舐める」「舌で舐める」「舐めるような視線」。それは「視線」を突き破って動く何かだ。「遠い/近い」という「遠近感」ではなく、そのとき別の「遠近感」が「肉体」のなかで動く。「舐める」ときの「快感の遠近法」。「舐められるときの快感の遠近法」が浮かび上がる。じれったさと悦びが「肉体」の奥からあらわれてくる。「舌」よりももっと「肉体」全体をつきうごかすものとしてあらわれてくる。
「目の国」であればこそ、そこでは日常の「目」を超えて、目が「舌」にもなる。最初の断章では「目」が「手」になったように、この章では目が「舌」になって、それが「遠近法」をつくる。--そういうことは、「目の国」にだけあるのではなく、まず「ここ(高橋のいる場)」でも「ある」。「視線で舐める、目で舐める、舐めるような目つき」というようなことばのなかに、それはすでに存在している。目で舐めながら、快感の濃淡を段階づけるということが、「ある」。
「そこ」--どこかわからない場を指し示しながら、その指し示しが、「ここ(高橋のいる場)」の「あり方」を指し示す。その指し示しは、「ここ(高橋のいる場)」をいったん解体したあとの指し示しである。いったん解体したあとの、というのは、直接「ここ(高橋のいる場)」を指し示しているわけではなく、「そこ」を指し示すことによって、それが「ここ(高橋のいる場)」を明らかにするからである。指し示された「ここ」は、そのときすでにかつての「ここ」ではない。新しい「ここ」に生まれ変わっている。
高橋は「ここ」の再生を「ことば」の運動のなかで展開している。
その「ことば」は、「ここ」にある「もの」とは無関係である。「ここ」にある「もの」の関係(日常の定義、流通言語?)を否定して、ここにはない「そこ」を指し示すという運動を経たあとで、「ここ」にあらわれなおした「新しいことば」である。「新しい定義」である。
そういう「ことば」、「ことばの運動」として高橋の詩を読む必要がある。
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