詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(11)

2015-02-12 09:40:50 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
18 女を愛するとは

女を愛するとは
ひとりの女のすがたを描きかえることだ
また葡萄のひと房のなかに閉じ込めることだ
死からも水晶からも解き放つことだ

 一連目。女の姿をどう「描きかえる」のか。「描きかえる」が「葡萄のひと房のなかに閉じ込める」と言いなおされているが、よくわからない。ただ「葡萄のひと房」が思い浮かぶ。いまは巨峰のような大きな葡萄を思い浮かべてしまうが、この詩が書かれた当時はデラウエアのような小さな粒の葡萄が主流だったかもしれない。「房」は「乳房」を連想させる。ふいに浮かんだイメージを書いただけかもしれない。書くことで、ことばを探しているのかもしれない。
 「死から」解放するは、女を愛しつづけたいということだろうから、なんとなくわかる気がするが、「水晶から」解き放つは、またわからない。硬く、透明なもの。純粋なもの。そういうものに閉じ込めないというのが愛することか。
 葡萄の紫の皮のなかの半透明の果肉、ぬれた果肉のやわらかさと、水晶の透明な硬い輝きが衝突している。
 「意味」(論理)としてはわからないが、葡萄や水晶のイメージが女の何かを感じさせる。詩は、こんなふうにしてイメージが先に動いて、それから意味を誘うのかもしれない。詩は知っていること(わかっていること)を書くのではなく、まだことばになっていないことをことばにすることなのだから。
 この一連目は最終連で、

女を愛するとは
ほんとうの姿にたえず女を近づけることだ
神の姿を追つていくたびとなく描きかえることだ

 と言いなおされている。ただ「描きかえる」のではなく、「ほんとうの姿に」「神の姿に」描きかえる。それも「いくたびも」と、ことばが追加されている。--これは「意味」としては、とてもわかりやすい。
 わかりやすいけれど、わからなかった一連目の方が私には魅力的に感じられる。最終連では、「もの」が見えてこない。「神の姿」といわれても、私は「神」を見たことがない。西洋絵画の「女神」を連想するけれど、それは、女とは違うなあ。目の前の女とは違うとしか言えない。
 一連目の「すがた」が最後で「姿」と漢字に書き直されているのは、思いが整理された結果だろうか。「意味」を明確にするために漢字にしたのかもしれない。
 嵯峨の書きたいのは「意味」かもしれないが、それよりもわけのわからない「葡萄」や「水晶」の方が、いろいろと楽しそう。
 二連目の、

階段に立つていい知れぬ遥かなものを感じておもいにふける

 という女の姿も魅力的だ。
 「意味」がわからなくても、その瞬間に、「見えた」と感じるものの方が詩なのだと思う。

19 招客

 現実と幻想(記憶)が交錯する詩だ。

小さな時を
むかいあつて持ち合う
くぐりぬけられぬ言葉の繁みの奥に
遠い沼が薄くひかつている

むかしそこでわたしは溺死しそうになつた
快い重さでぐんぐん沈んでいつた
しかし沼の底は大きなやわらかい掌で
わたしをふたたび水の上に浮かびあがらせた

あの沼が消えてから年ひさしい
わたしをとりまいてきた無韻のながい日日を
その上をしずかに記憶がさかのぼる

皿の上に匂う林檎は
そのときの水の中の遠い酔いを感じさせる
眠りたい めざめることなく眠りたい

 二人で向き合っているとき、ちょっとしたいさかいが起きたのか。ことばの繁みがからみあう。その奥にある沼は心象風景かもしれない。沼を思い出したのだ。
 沼でおぼれそうになったというのはほんとうの体験か。イメージか。いさかいで、どうにもならぬ深みにはまっていく。しかし、深みのそこにたどりつくと、そこから何かで押されるように浮かび上がる。和解は、そういうイメージかもしれない。
 そういういさかいはしなくなったのだが、いま、ふいに訪れたことばの繁み、絡み合って、ことばがあるのに沈黙してしまったようなとき、そういうことを思い出したのかもしれない。いさかいは詩からは遠い。だから無韻の日日、かな。
 そういうことを考えて読んだあとの、

皿の上に匂う林檎は
そのときの水の中の遠い酔いを感じさせる

 この二行が、とても美しい。突然、自分が林檎になって水のなかに沈み、それから浮かんでくるように感じる。林檎は人間のように水の匂いをかいで、その匂いに酔っている。いったん沈み、それから浮かび上がるときの浮力に酔っている。
 女といさかいをしたときの、こころの感じは、そんなふうになるかもしれない。
 女と向き合っているテーブル。その上に皿があって、林檎がある。だから思いついたことばなのかもしれないが、林檎のリアリティーが心象風景を現実にかえる。この林檎は丸いままの林檎だと思う。皮をむかれて、割られた林檎なら、こんなことは思わないなあ、とも思う。
 「意味」ではなく、そこで起きていること、「わたし(作者)」がいる「場」を想像し、その「わたし」になってみる--それを楽しむのが詩だ。

嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
クリエーター情報なし
思潮社
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野村喜和夫「眩暈原論(12)」、福田拓也「パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の……」

2015-02-12 09:19:21 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(12)」、福田拓也「パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の……」(「hotel 第2章」73、2015年01月15日発行)

 野村喜和夫「眩暈原論(12)」は連載の完結。連載期間中、何度か感想を書いてきたが、何を書いたかおぼえていない。何が書いてあったかも、おぼえていない。いいかげんな話だが、たしかに読んだぞということだけはおぼえている。
 詩にかぎらないが、あらゆることは、だいたいそういうものだろう。
 私は、昔は野村の作品は好きではなかった。ことばのリズムがあわなかった。しかし、いまは好きである。ことばが読みやすい。リズムがあう。

だがリズムだ、リズムこそは眩暈とその固定という矛盾しきった欲望の運動の
特権的な反映である。テンポある織物のなかで、結論は拒まれている、構造は
循環的である、中心紋がひらく、きれいごとは脱臼する。またがったり、切り
刻んだりするものがふえる。

 何が書いてあるか--ということは重要かもしれないが、「意味」というのはたいていの場合、他人を動かすための勝手なものだから、私は気にしない。この詩でおもしろいのは、「矛盾」と「特権」を強引に結びつけて、それを加速させていくところである。
 「矛盾」しているから「結論」なんてどうでもいい。「結論」を「拒絶」して、逆に「構造」を見ていく。しかし、それは「解体」というよりも(解体ということばは野村は書いていない)、「脱臼」である。
 というような感じで、私は気に入ったことばをつないで、なんとなく「意味」をつくるのだが、それが野村の「意図」と合致しているかどうかは気にしない、という意味である。--意味を気にしない、ということを言いなおすと。
 だいたい作者の「意図」を正確に把握しないと作品を批評したことにならない、評価したことにならないという意見を私は信じていない。作者の言い分を正確に理解した上で、その作品が「つまらない」というようなことは、ありえない。作者の言い分を完全に理解するということは、その作者に成り代わることであって、作者に成り代わったのになおかつ共感しないというようなことは私にはできない。
 私は作者の「意図」など無視する。これはこういう意味なんだと自分の思っていること、考えていることを暴走させる。どんなに「誤読」を暴走させても、作者の「意図」を無視しても、作者の「熱意(書きたい気持ち/ことばにしたい気持ち)」が伝わってくるのがいい作品なのだ。作者の思っていることなんか私とは関係がないのに、読むと驚かされて、そこにひっぱられていってしまうのがいい作品、そして作品のなかで自由気ままにあれこれ遊べるのがいい作品である。私の「理解」が「誤読」であっても、そんなことは関係がない。私がどんなに「誤読」を書きつらねても、その「誤読」を突き破って動いてくる、私を動かしつづける作品が、私は好きだ。
 野村の「眩暈原論」が読みやすいのは、ここに書かれていることばの暴走が、暴走でありながら「日本語」を引き継いでいるからである。「脱臼」ということばがでてきたが、「脱臼」させながら、完全な解体(ばらばら)ではなく接続を感じさせるからである。

喪だし藻だしね、沈黙の吃水が迫っているのだ。

 「喪/藻」の反復は那珂太郎(もももももももも……)を思い出させるが、「もだし」「もだす(黙す)」「沈黙」という具合にことばが変化していく部分に触れると「日本語が共有されている」という感じになる。それは野村の「限界」であるという見方もあるかもしれないが、私は、「共有」をふくまないものにはついていけない保守的な人間なので、そういうものをしっかりとつかんでいる日本語を「いいなあ」と思う。楽しいと思う。「限界」とは感じない。



 福田拓也「パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の……」は、

パリの燕通りにある安ホテルの螺旋状の階段を、あれは右回りだったか
左回りだったか、確か左回りに旋回しつつ上り最上段の炉床に身を横た
えるとガラス張りの青空が見える、その青空がむくむく盛り上がったか
と思うと見る見るうちに青空の記号として分解され炉床の灰となって青
灰色に静まる、

 とはじまる。何が書いてあるのかは、野村の「眩暈原論」とは違って部分部分が具体的であるだけに、よけいにわけがわからない。「むくむく盛り上がった」「見る見るうちに」というような古くさい常套句を「日本語が共有されている」と言っていいかどうか、私は、まあ、悩むね。そういうことばを捨て去って、それでも「共有」を感じさせるものが詩なのだと思うけれど。
 この詩は「パリの安ホテル」からはじまり、「江戸川台の家」へ移り、さらに「頭蓋」骨や「亡霊」の世界へと行ってしまうのだが、その切断と接続の部分に、

記号として分解され

 というような「抽象(論理)」が強引に割り込んでくる。

記号の森

文字を構成する

痕跡の図式

 前後を省略して「キーワード」だけを抜き出すと、そんな感じ。ここでは世界を「記号」として把握し直すという「論理」が「共有」されている。これは新しそうに見えて、そうではないかもしれない。
 野村の「喪だし藻だしね、沈黙の吃水」はだじゃれの無意味さが日本語の「肉体」を浮かび上がらせるのに対し、福田の「意味」は輸入物の「頭」を浮かび上がらせる。この「頭」をどうやって「肉体」にまで育て上げるか--育て上げてしまえばおもしろいのだと思うが。この詩では「頭」が分離して見える。頭の悪い私には。

まだ言葉のない朝
福田 拓也
思潮社
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