18 女を愛するとは
一連目。女の姿をどう「描きかえる」のか。「描きかえる」が「葡萄のひと房のなかに閉じ込める」と言いなおされているが、よくわからない。ただ「葡萄のひと房」が思い浮かぶ。いまは巨峰のような大きな葡萄を思い浮かべてしまうが、この詩が書かれた当時はデラウエアのような小さな粒の葡萄が主流だったかもしれない。「房」は「乳房」を連想させる。ふいに浮かんだイメージを書いただけかもしれない。書くことで、ことばを探しているのかもしれない。
「死から」解放するは、女を愛しつづけたいということだろうから、なんとなくわかる気がするが、「水晶から」解き放つは、またわからない。硬く、透明なもの。純粋なもの。そういうものに閉じ込めないというのが愛することか。
葡萄の紫の皮のなかの半透明の果肉、ぬれた果肉のやわらかさと、水晶の透明な硬い輝きが衝突している。
「意味」(論理)としてはわからないが、葡萄や水晶のイメージが女の何かを感じさせる。詩は、こんなふうにしてイメージが先に動いて、それから意味を誘うのかもしれない。詩は知っていること(わかっていること)を書くのではなく、まだことばになっていないことをことばにすることなのだから。
この一連目は最終連で、
と言いなおされている。ただ「描きかえる」のではなく、「ほんとうの姿に」「神の姿に」描きかえる。それも「いくたびも」と、ことばが追加されている。--これは「意味」としては、とてもわかりやすい。
わかりやすいけれど、わからなかった一連目の方が私には魅力的に感じられる。最終連では、「もの」が見えてこない。「神の姿」といわれても、私は「神」を見たことがない。西洋絵画の「女神」を連想するけれど、それは、女とは違うなあ。目の前の女とは違うとしか言えない。
一連目の「すがた」が最後で「姿」と漢字に書き直されているのは、思いが整理された結果だろうか。「意味」を明確にするために漢字にしたのかもしれない。
嵯峨の書きたいのは「意味」かもしれないが、それよりもわけのわからない「葡萄」や「水晶」の方が、いろいろと楽しそう。
二連目の、
という女の姿も魅力的だ。
「意味」がわからなくても、その瞬間に、「見えた」と感じるものの方が詩なのだと思う。
19 招客
現実と幻想(記憶)が交錯する詩だ。
二人で向き合っているとき、ちょっとしたいさかいが起きたのか。ことばの繁みがからみあう。その奥にある沼は心象風景かもしれない。沼を思い出したのだ。
沼でおぼれそうになったというのはほんとうの体験か。イメージか。いさかいで、どうにもならぬ深みにはまっていく。しかし、深みのそこにたどりつくと、そこから何かで押されるように浮かび上がる。和解は、そういうイメージかもしれない。
そういういさかいはしなくなったのだが、いま、ふいに訪れたことばの繁み、絡み合って、ことばがあるのに沈黙してしまったようなとき、そういうことを思い出したのかもしれない。いさかいは詩からは遠い。だから無韻の日日、かな。
そういうことを考えて読んだあとの、
この二行が、とても美しい。突然、自分が林檎になって水のなかに沈み、それから浮かんでくるように感じる。林檎は人間のように水の匂いをかいで、その匂いに酔っている。いったん沈み、それから浮かび上がるときの浮力に酔っている。
女といさかいをしたときの、こころの感じは、そんなふうになるかもしれない。
女と向き合っているテーブル。その上に皿があって、林檎がある。だから思いついたことばなのかもしれないが、林檎のリアリティーが心象風景を現実にかえる。この林檎は丸いままの林檎だと思う。皮をむかれて、割られた林檎なら、こんなことは思わないなあ、とも思う。
「意味」ではなく、そこで起きていること、「わたし(作者)」がいる「場」を想像し、その「わたし」になってみる--それを楽しむのが詩だ。
女を愛するとは
ひとりの女のすがたを描きかえることだ
また葡萄のひと房のなかに閉じ込めることだ
死からも水晶からも解き放つことだ
一連目。女の姿をどう「描きかえる」のか。「描きかえる」が「葡萄のひと房のなかに閉じ込める」と言いなおされているが、よくわからない。ただ「葡萄のひと房」が思い浮かぶ。いまは巨峰のような大きな葡萄を思い浮かべてしまうが、この詩が書かれた当時はデラウエアのような小さな粒の葡萄が主流だったかもしれない。「房」は「乳房」を連想させる。ふいに浮かんだイメージを書いただけかもしれない。書くことで、ことばを探しているのかもしれない。
「死から」解放するは、女を愛しつづけたいということだろうから、なんとなくわかる気がするが、「水晶から」解き放つは、またわからない。硬く、透明なもの。純粋なもの。そういうものに閉じ込めないというのが愛することか。
葡萄の紫の皮のなかの半透明の果肉、ぬれた果肉のやわらかさと、水晶の透明な硬い輝きが衝突している。
「意味」(論理)としてはわからないが、葡萄や水晶のイメージが女の何かを感じさせる。詩は、こんなふうにしてイメージが先に動いて、それから意味を誘うのかもしれない。詩は知っていること(わかっていること)を書くのではなく、まだことばになっていないことをことばにすることなのだから。
この一連目は最終連で、
女を愛するとは
ほんとうの姿にたえず女を近づけることだ
神の姿を追つていくたびとなく描きかえることだ
と言いなおされている。ただ「描きかえる」のではなく、「ほんとうの姿に」「神の姿に」描きかえる。それも「いくたびも」と、ことばが追加されている。--これは「意味」としては、とてもわかりやすい。
わかりやすいけれど、わからなかった一連目の方が私には魅力的に感じられる。最終連では、「もの」が見えてこない。「神の姿」といわれても、私は「神」を見たことがない。西洋絵画の「女神」を連想するけれど、それは、女とは違うなあ。目の前の女とは違うとしか言えない。
一連目の「すがた」が最後で「姿」と漢字に書き直されているのは、思いが整理された結果だろうか。「意味」を明確にするために漢字にしたのかもしれない。
嵯峨の書きたいのは「意味」かもしれないが、それよりもわけのわからない「葡萄」や「水晶」の方が、いろいろと楽しそう。
二連目の、
階段に立つていい知れぬ遥かなものを感じておもいにふける
という女の姿も魅力的だ。
「意味」がわからなくても、その瞬間に、「見えた」と感じるものの方が詩なのだと思う。
19 招客
現実と幻想(記憶)が交錯する詩だ。
小さな時を
むかいあつて持ち合う
くぐりぬけられぬ言葉の繁みの奥に
遠い沼が薄くひかつている
むかしそこでわたしは溺死しそうになつた
快い重さでぐんぐん沈んでいつた
しかし沼の底は大きなやわらかい掌で
わたしをふたたび水の上に浮かびあがらせた
あの沼が消えてから年ひさしい
わたしをとりまいてきた無韻のながい日日を
その上をしずかに記憶がさかのぼる
皿の上に匂う林檎は
そのときの水の中の遠い酔いを感じさせる
眠りたい めざめることなく眠りたい
二人で向き合っているとき、ちょっとしたいさかいが起きたのか。ことばの繁みがからみあう。その奥にある沼は心象風景かもしれない。沼を思い出したのだ。
沼でおぼれそうになったというのはほんとうの体験か。イメージか。いさかいで、どうにもならぬ深みにはまっていく。しかし、深みのそこにたどりつくと、そこから何かで押されるように浮かび上がる。和解は、そういうイメージかもしれない。
そういういさかいはしなくなったのだが、いま、ふいに訪れたことばの繁み、絡み合って、ことばがあるのに沈黙してしまったようなとき、そういうことを思い出したのかもしれない。いさかいは詩からは遠い。だから無韻の日日、かな。
そういうことを考えて読んだあとの、
皿の上に匂う林檎は
そのときの水の中の遠い酔いを感じさせる
この二行が、とても美しい。突然、自分が林檎になって水のなかに沈み、それから浮かんでくるように感じる。林檎は人間のように水の匂いをかいで、その匂いに酔っている。いったん沈み、それから浮かび上がるときの浮力に酔っている。
女といさかいをしたときの、こころの感じは、そんなふうになるかもしれない。
女と向き合っているテーブル。その上に皿があって、林檎がある。だから思いついたことばなのかもしれないが、林檎のリアリティーが心象風景を現実にかえる。この林檎は丸いままの林檎だと思う。皮をむかれて、割られた林檎なら、こんなことは思わないなあ、とも思う。
「意味」ではなく、そこで起きていること、「わたし(作者)」がいる「場」を想像し、その「わたし」になってみる--それを楽しむのが詩だ。
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫) | |
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