詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「キス男」、早矢仕典子「空の部屋」

2015-02-04 21:29:33 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「キス男」、早矢仕典子「空の部屋」(「no-no-me」21、2015年02月08日発行)

 池井昌樹「キス男」は小学校のときの思い出。小学校に入ると池井はキス男になった。だれかれかまわずキスをする。友達がいなくて「淋しいんだよおッ」と心の中で叫びながら、人を追いかけていた。ある日、母がいっしょに風呂に入ろうと誘い「あんた、キス男と呼ばれとるんか。なんで、そう呼ばれとるんや」と問われる。答えることができない。「久々に目にする母の子宮筋腫の縫合跡が妙に痛々しかった」と思い出している。そして、そのあと、

                        私のキス
男には、どうやら父からの遠因があったらしい。小心で内弁慶
の父は酔って帰ると必ず幼い姉や私を追い回し酒臭いキスをし
た。鬱陶しくもあったが、あの頬ずりのザラザラ感は満更でも
なかった。私は千の父になり代わって、千の息子や娘らを追い
回していたのだった。淋しいんだよおッ。心の中で叫びながら。
その父も逝き、その息子は父となり、やがてその息子らも去っ
てゆき、いまは誰一人いない放課後の校庭に、しかし、キス男
はいまも佇っているのである。

 父の思い出になる。
 ふーん、これが、詩? 詩ではなく、単なるエッセイかもしれないなあ。
 「私は千の父になり代わって、千の息子や娘らを追い」という部分の「なり代わって」と「千」が池井の書きたかったことかもしれない。そこから、いろいろなことを書けるかもしれない。でも、それは書きはじめると、きっとうるさくなる。どうしても「理屈」になる。
 それよりも、「あの頬ずりのザラザラ感」がおもしろい。「千」とか「なり代わる」とかいう「抽象」を押しやって、直に「肉体」に触れてくる感じがいいなあ。「ザラザラ」というくらいだから気持ちがいいものではないのだけれど、いやだからこそ、それが許される「肉親」の親密感が濃くなる。いやなことも許せるというのが「肉親」なのだ。
 「酒臭い」も嫌い、「ザラザラ」も嫌い。その嫌いが「肉体(嗅覚/触覚)」に直に触れてくる。そのとき嫌いだけれど、「淋しい」は入り込まない。「酒臭い」や「ザラザラ」を感じているとき、池井は「淋しい」とは思っていない。(そこに、不思議な「至福」がある。)
 池井は「淋しい」と感じる余裕がない。だから、そのときは父が「淋しい」と感じていたとも思っていない。
 だが、池井が父親になって、息子も池井の元を離れて、「淋しい」と感じはじめたとき、その「淋しい」が父親を呼び戻す。酒臭い息を吐きかけ、ザラザラの髭面を押しつけることのできる誰かが欲しくなる。自分もそれをしたい。昔はわからなかったことが、いまは、わかる。--その「わかる」につらなって「キス男」の日々が思い出される。「わかる」のまわりで、過去がことばにととのえられていく。
 「わかる」を繰り返して、ことばにする。「おぼえている」ことをことばにして反復する。ことばのなかへひっぱり出してきて、ととのえる。
 詩は、この書くという行為そのもののなかにある。--こういうことは一篇の詩だけではなかなかわかりにくい。詩集になったとき、それが鮮明に見えてくると思う。



 早矢仕典子「空の部屋」には、とても魅力的な行がある。

昨日も開いていた 扉がある
今日も もしやと見れば
開いている 不自然なほど 大きく

角の部屋なので
少しずつ 空に近くなっていた
いよいよ今日は 空き部屋になるらしく

 「空」が侵入してくる感じがいい。詩はこのあと「女」が出てくる。女を出さずに「空」を主語(主役)にしてしまった方がおもしろいように感じる。


詩集 空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集
早矢仕 典子
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嵯峨信之を読む(3)

2015-02-04 20:21:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
3 ノアの方舟

 詩はいつでも奇妙なことばといっしょにやってくる。知っていることばなのに、知らない。ことばは知っているが、こういうつかい方は知らなかった、という驚きといっしょにやってくる。


眠つているぼくを起こしにくるのは
どこかの水平線だ

 「水平線」は遠くにあって、それが「くる」ということはありえない。しかし、「起こしにくる」は、どうだろうか。論理的には「くる」ことができないのだから「起こしにくる」もありえないはずである。
 しかし、それならなぜ、この二行で私ははっと驚いたのだろうか。
 ただ「くる」だけではなく「起こしにくる」には「くる」を上回る強さがある。その強さに圧倒されて、「起こしにくる」という動詞を中心にことばを読み直してしまう。「頭」ではなく「肉体」が反応してしまう。
 「起こしにくる」は、起こす「ために」くる。そこには「意思」のようなものがある。「水平線」に「意思」はないだろうが、人間には「意思」がある。そのため「起こしにくる」ということばを読んだとき、「起こしにくる」の主語は「人間」だと思ってしまう。何かを「するために」何かをする。違った動詞を「ひとつの肉体」でつないで実行した記憶がよみがえり、そこに「人間」を浮かび上がらせる。「動詞」の「主語」を、複合動詞を動くことができる「人間」と感じてしまう。
 この詩では「人間」は「ぼく」しかいない。このため「ぼく」が「起こしにくる」ように感じる。「ぼく」が動いているように見える。「水平線」は、「ぼく」でもあるのだ。「ぼく」のなかの「何か」が「水平線」になって「ぼく」を「起こしにくる」--そんなふうに感じてしまう。「水平線」は「現実」の風景であると同時に、「心象風景」であるとも読んでしまう。「二重の世界」を私はさまよう。
 眠り、いや夢のなかで水平線が「現実」以上にあざやかに感じられて、その衝撃に目が覚めるということがあるかもしれない。何かの夢に驚いて、目が覚めた、という経験は誰にでもあると思う。そのとき、その夢に「起こされた」と言えるが、ここに書いてある「起こしにくる」は、そういう現象とどこかで重なりながらも、それを超えている。
 「起こしにくる」ということばのなかに「意思」を感じたときから、「ぼく」は「水平線」と区別がつかなくなる。
 眠っている「ぼく」を「水平線」が「起こす」のか、眠っている「水平線」を「ぼく」が「起こす」のか。いままで誰も書かなかった「水平線」を目覚めさせる(起こす)のか。「水平線」が「起きる」というのは「比喩」になるが、何か、そこから新しい世界がはじまる。これまでことばにならなかった世界がはじまる--そういう予感といっしょに、「ぼく」と「水平線」は互いの区別をなくして、いっしょに動いていく。

そのやわらかな水平線が
縫目のないしかたで遠くからぼくの瞼を撫でる

 「ぼく」は「水平線」になって、「ぼく」の「瞼」を「なでる」。あるいは「ぼく」が「水平線の瞼」をなでる。「水平線」を「瞼」という「比喩」にすることで、「ぼくの瞼」は同時に「水平線」になる。水平線が瞼の比喩か、瞼が水平線の比喩かわからないが、ぴったり重なった感じが、「水平線」が「起こしにくる」のに、現実へと目覚めるのではなく、逆に「夢」の内部へ目覚める、夢の錯乱のなかへより深く入り込んでしまうという感じを与える。
 この詩は、そういう不思議な錯覚をとおって、次のように動く。

それでもぼくが目ざめなかつたら
ノアの方舟の鐘を鳴らして起こされるだろう
ぼくのはるかな記憶を利用して
その背後(うしろ)にひろがる緑の反響(こだま)で
だがぼくはなお目ざめない
しずかなしずかな瞼の中をどこまでも漂流していく

 この数行は「論理」を追いかけても、あまり意味はない。瞬間的に浮かぶイメージのなかで、「論理」を捨てる。「論理」的に考えない。「意味」を特定しない。
 海(水平線)と夢が触れ合って、明るい水平線の果てまで漂流していく。そういう「印象」をもてばいいのだろう。「論理」を考えずに、あっ、この錯乱は詩でしかないなあ、と思えばいいのだろう。
 定義を超えて、詩を感じる--そのときの「感覚」(感じること)が詩という「動詞」のあり方なのだろう。

ぼくには遠ざかるものしか
まだ来ていない

 「論理的」に考えると、この二行は「でたらめ」である。「論理」に反している。「遠ざかる」と「来る」は正反対の動き。「遠ざかる」ものは「来る」ことができない。
 遠ざかっていくものを見ながら、これまで「ぼく」の方へやってきたものは、みんな遠ざかっていく、ということでもない。
 ここでは「具体」ではなく、「遠ざかる」という動き「来る」という動きがある、世界には「遠ざかる」ものと近づいて「来る」ものがある。「遠ざかる」という運動(動詞)と「近づいて来る」という運動(動詞)がある。
 その矛盾が、ひとりの詩人のなかで動くとき、どうしてもはっとしてしまう。「矛盾」なのに、ひとは(私は)それをすることができる。遠ざかることも、近付くこともできる。どの方向へ動くかは「絶対的」ではないのだ。
 「絶対的ではない」ということが「絶対」なのだ。
 
 「矛盾」を描き、同時にその「矛盾」のどちらかを選び取るのではない。むしろ、「矛盾」そのものを選び取る。そこに詩がある。矛盾でしか言い表せないものが、詩なのである。
 2連目は、そういうことを「理屈」ではなく「具体的」にことばにしている。「論理」は「具体」に触れ、その「矛盾」のなかで「真理」になる。「論理」の「理」を「具体」で隠して、真(まこと)に変えるのが、詩。「具体」は「矛盾しているという指摘(論理)」を「矛盾」として抱え込み、真(まこと)に変わる。

ぼくは眼を刳りとつた
心をぼくにしかと釘づけするために
ぼくは耳をおもいきり削いだ
たれからも全くぼくが自由であるように
ぼくは唇を縫い合わせた
他から何一つ求めないために
ぼくは両足を断ち切つた
たれも行きついたもののない遠くへ行きつくために

 「矛盾」「不可能」のなかに、瞬間的に「詩(真=まこと)」がスパークする。「矛盾」を共存させる力が詩なのだろう。両足にこだわっていない。たどりつくということにこだわっていない。そのこだわりを破壊する瞬間に「行く」という運動のなかにある「真(まこと)」が世界をひろげる。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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デビッド・ドブキン監督「ジャッジ 裁かれる判事」(★)

2015-02-04 14:57:13 | 映画
監督 デビッド・ドブキン 出演 ロバート・ダウニー・Jr、ロバート・デュバル

 判事が裁かれる。それを息子が弁護する。アメリカ映画に多い「父子」ものの映画。それはそれでいいのかもしれないが、「家庭」の情報量が多くて、見ていて散漫になる。
 兄はけがで野球をあきらめ、弟には知的障害がある。ロバート・ダウニー・Jrは辣腕弁護士だが、父に愛された思い出がなく、対立している。ほんとうに「家庭(家族)」がテーマなら、母親を冒頭で死なせずに生かしたまま描かないと「家庭」の人間関係がご都合主義になる。母親はこの「家庭」をどんなふうにまとめていたのか。それが少しも描かれない。「家庭」の情報量が多いと最初に書いたが、逆なのだ。まったく描かれていない。ストーリーが優先されすぎている。
 途中に挿入されるロバート・ダウニー・Jrと高校時代のガールフレンドのエピソード。娘がいるが、父親は誰なのか、という部分など、あまりにもばかげた「情報」だ。情報のための情報。映画の時間稼ぎ。
 ロバート・デュバルががっしりした演技をしているのだが、からみあうのはロバート・ダウニー・Jrとだけ。ほかの家族、長男、末っ子とはきちんとした「対立」や「和解」がない。「共存」もない。だから「家庭(家族)」劇にもならない。
 ラストシーンの飴玉のエピソードなど、こざかしい短編小説のトリック(伏線あわせ)のようでしらけてしまう。ここで、ロバート・ダウニー・Jrと娘との伏線を生かすのなら、途中の娘と昔のガールフレンドの娘の同じ仕草のエピソードなど絶対に避けるべきである。
 こんな騒がしい映画(脚本)は最近では珍しい。
 みどころはひとつ。
 ロバート・デュバルがトイレで倒れる。それをロバート・ダウニー・Jrが介護する。糞尿にまみれ、風呂で体を洗う。そのときのロバート・デュバルの、身を任せきった老人の演技が真に迫っている。苦しみと、放心と、ゆっくりやってくる安心を全身と顔とで確実に表現する。名優だ。
     (2015年02月02日、ユナイテッドシネマ キャロルシティ・スクリーン4)






「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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比喩

2015-02-04 00:44:48 | 
比喩

二月の月が空の天辺にのぼる時間、
私の部屋の窓から見えるビルの裏側にもう一つのビルがあって、
その三階の角の窓は破れている。
夜になるとその部屋のなかの闇は外よりも暗くなり、
壁に黒い穴が開いているように見える。
壁にまでたどりついた月の光は割れたガラスの縁のところで拒絶され、
部屋のなかに入ることができない。

その下の上り坂を通りながら、私は考える。
私が私の部屋にいて、私の窓からは見えないこの窓についてことばを動かすとき、
あの暗い穴は私の比喩だろうか。
それとも私があの暗い穴の比喩なのだろうか。

*

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