池井昌樹「キス男」、早矢仕典子「空の部屋」(「no-no-me」21、2015年02月08日発行)
池井昌樹「キス男」は小学校のときの思い出。小学校に入ると池井はキス男になった。だれかれかまわずキスをする。友達がいなくて「淋しいんだよおッ」と心の中で叫びながら、人を追いかけていた。ある日、母がいっしょに風呂に入ろうと誘い「あんた、キス男と呼ばれとるんか。なんで、そう呼ばれとるんや」と問われる。答えることができない。「久々に目にする母の子宮筋腫の縫合跡が妙に痛々しかった」と思い出している。そして、そのあと、
父の思い出になる。
ふーん、これが、詩? 詩ではなく、単なるエッセイかもしれないなあ。
「私は千の父になり代わって、千の息子や娘らを追い」という部分の「なり代わって」と「千」が池井の書きたかったことかもしれない。そこから、いろいろなことを書けるかもしれない。でも、それは書きはじめると、きっとうるさくなる。どうしても「理屈」になる。
それよりも、「あの頬ずりのザラザラ感」がおもしろい。「千」とか「なり代わる」とかいう「抽象」を押しやって、直に「肉体」に触れてくる感じがいいなあ。「ザラザラ」というくらいだから気持ちがいいものではないのだけれど、いやだからこそ、それが許される「肉親」の親密感が濃くなる。いやなことも許せるというのが「肉親」なのだ。
「酒臭い」も嫌い、「ザラザラ」も嫌い。その嫌いが「肉体(嗅覚/触覚)」に直に触れてくる。そのとき嫌いだけれど、「淋しい」は入り込まない。「酒臭い」や「ザラザラ」を感じているとき、池井は「淋しい」とは思っていない。(そこに、不思議な「至福」がある。)
池井は「淋しい」と感じる余裕がない。だから、そのときは父が「淋しい」と感じていたとも思っていない。
だが、池井が父親になって、息子も池井の元を離れて、「淋しい」と感じはじめたとき、その「淋しい」が父親を呼び戻す。酒臭い息を吐きかけ、ザラザラの髭面を押しつけることのできる誰かが欲しくなる。自分もそれをしたい。昔はわからなかったことが、いまは、わかる。--その「わかる」につらなって「キス男」の日々が思い出される。「わかる」のまわりで、過去がことばにととのえられていく。
「わかる」を繰り返して、ことばにする。「おぼえている」ことをことばにして反復する。ことばのなかへひっぱり出してきて、ととのえる。
詩は、この書くという行為そのもののなかにある。--こういうことは一篇の詩だけではなかなかわかりにくい。詩集になったとき、それが鮮明に見えてくると思う。
*
早矢仕典子「空の部屋」には、とても魅力的な行がある。
「空」が侵入してくる感じがいい。詩はこのあと「女」が出てくる。女を出さずに「空」を主語(主役)にしてしまった方がおもしろいように感じる。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
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池井昌樹「キス男」は小学校のときの思い出。小学校に入ると池井はキス男になった。だれかれかまわずキスをする。友達がいなくて「淋しいんだよおッ」と心の中で叫びながら、人を追いかけていた。ある日、母がいっしょに風呂に入ろうと誘い「あんた、キス男と呼ばれとるんか。なんで、そう呼ばれとるんや」と問われる。答えることができない。「久々に目にする母の子宮筋腫の縫合跡が妙に痛々しかった」と思い出している。そして、そのあと、
私のキス
男には、どうやら父からの遠因があったらしい。小心で内弁慶
の父は酔って帰ると必ず幼い姉や私を追い回し酒臭いキスをし
た。鬱陶しくもあったが、あの頬ずりのザラザラ感は満更でも
なかった。私は千の父になり代わって、千の息子や娘らを追い
回していたのだった。淋しいんだよおッ。心の中で叫びながら。
その父も逝き、その息子は父となり、やがてその息子らも去っ
てゆき、いまは誰一人いない放課後の校庭に、しかし、キス男
はいまも佇っているのである。
父の思い出になる。
ふーん、これが、詩? 詩ではなく、単なるエッセイかもしれないなあ。
「私は千の父になり代わって、千の息子や娘らを追い」という部分の「なり代わって」と「千」が池井の書きたかったことかもしれない。そこから、いろいろなことを書けるかもしれない。でも、それは書きはじめると、きっとうるさくなる。どうしても「理屈」になる。
それよりも、「あの頬ずりのザラザラ感」がおもしろい。「千」とか「なり代わる」とかいう「抽象」を押しやって、直に「肉体」に触れてくる感じがいいなあ。「ザラザラ」というくらいだから気持ちがいいものではないのだけれど、いやだからこそ、それが許される「肉親」の親密感が濃くなる。いやなことも許せるというのが「肉親」なのだ。
「酒臭い」も嫌い、「ザラザラ」も嫌い。その嫌いが「肉体(嗅覚/触覚)」に直に触れてくる。そのとき嫌いだけれど、「淋しい」は入り込まない。「酒臭い」や「ザラザラ」を感じているとき、池井は「淋しい」とは思っていない。(そこに、不思議な「至福」がある。)
池井は「淋しい」と感じる余裕がない。だから、そのときは父が「淋しい」と感じていたとも思っていない。
だが、池井が父親になって、息子も池井の元を離れて、「淋しい」と感じはじめたとき、その「淋しい」が父親を呼び戻す。酒臭い息を吐きかけ、ザラザラの髭面を押しつけることのできる誰かが欲しくなる。自分もそれをしたい。昔はわからなかったことが、いまは、わかる。--その「わかる」につらなって「キス男」の日々が思い出される。「わかる」のまわりで、過去がことばにととのえられていく。
「わかる」を繰り返して、ことばにする。「おぼえている」ことをことばにして反復する。ことばのなかへひっぱり出してきて、ととのえる。
詩は、この書くという行為そのもののなかにある。--こういうことは一篇の詩だけではなかなかわかりにくい。詩集になったとき、それが鮮明に見えてくると思う。
*
早矢仕典子「空の部屋」には、とても魅力的な行がある。
昨日も開いていた 扉がある
今日も もしやと見れば
開いている 不自然なほど 大きく
角の部屋なので
少しずつ 空に近くなっていた
いよいよ今日は 空き部屋になるらしく
「空」が侵入してくる感じがいい。詩はこのあと「女」が出てくる。女を出さずに「空」を主語(主役)にしてしまった方がおもしろいように感じる。
詩集 空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集 | |
早矢仕 典子 | |
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