詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリント・イーストウッド監督「アメリカン・スナイパー」(★★★★★)

2015-02-22 21:30:23 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 ブラッドリー・クーパー、シエナ・ミラー

 イーストウッド映画の特徴は劇的な描写を避ける。カメラが演技することを拒否することだ。多くの映画は映像に凝る。観客が、カメラの視線を自分の視線だと勘違いするように仕組むが、イーストウッドは逆だ。観客に感情移入させない。
 クライマックスの、砂嵐直前の、イラクのスナイパーを射殺するシーン。それからつづく敵からの集中攻撃。砂嵐のなかをビルから脱出する主人公たち。アップを避け、状況だけを映し出す。全体の状況は衛星画像の俯瞰図で理解できるが、そこで動いている「肉体」を自分の肉体のように感じることができない。さらに砂嵐を利用して、状況をわかりにくくしてしまう。主人公はどこかを撃たれたようにも見えるが、怪我はしているのか、していないのか。うまく脱出できたのか、できなかったのか。はらはらさせるというよりも、はらはらできないように、不明瞭な映像をつづける。ふつうの映画とはまったく逆である。ふつうの映画なら、車に乗り遅れた主人公の肉体の傷、顔の表情、さらに主人公をみつめるアメリカ兵の表情で状況を描き出すのに、この映画は砂嵐を利用して隠してしまう。これでは感情移入ができない。
 明瞭な映像では、違った手法がとられる。一回目の派兵で、主人公はいきなり子供を射殺する。予告編では前後の時間が省略されているために、とても劇的に見えた。どきどきしてしまった。しかし本編で見ると、あまりどきどきしない。すでに予告編で見ているということも要因かもしれないが、ほかの要因の方が大きい。予告編で切り取られていた「一瞬」が本編では「瞬間」ではなくなっている。「持続」している。時間にひろがりがある。銃撃の瞬間は、長い時間の一部である。瞬間ががすべてではないのだ。多くの映画は、一部の時間を切り取って、それがすべてであるかのように描くが、イーストウッドは逆に、濃密な一瞬を長い時間のなかへ埋め込む。
 子供を射殺するシーンも、そのまま子供が血を飛び散らせて倒れれば、ぞっとするような印象を引き起こすはずだ。そして、その方が主人公の感じた衝撃、こころの傷の深さを一生づけるだろう。けれど、イーストウッドは銃の音を過去の銃の音、鹿を撃ったときの音に重ね合わせることで、時間を一気に過去に引き戻し、いま起きたことを過去からの時間の持続にしてしまう。「心理」を一瞬の問題ではなく、彼の生きてきた時間(歴史/来歴)の問題としてとらえ直す。子供のとき主人公は父から狩りを習った。人間には羊と狼と番犬の三種類がいる。おまえは番犬にならなければいけない、と教えられた。羊を食い殺す狼を退治する番犬に。弟を守る兄に、ならないといけない、とも言い聞かされた。その教えの延長線上に、アメリカをテロから守る(家族をテロから守る)という意識がある。主人公は突然スナイパーになったのではなく、「時間」のなかでスナイパーになったのだ。子供でも射殺してしまう冷酷なスナイパーなのではなく、アメリカを、家族をまもるためのスナイパーであるというのが、主人公の、その瞬間の「意識」なのである。「意識」は時間をかけて作り上げられたものである。
 目を向けなければならないのは「瞬間」ではなく、「長い時間」なのだ。「時間」のなかの人間の変化(成長)なのだ。「瞬間」よりも「時間(ひろがり)」という意識が、映像そのものにも反映される。カメラが映し出しているのはカメラのフレームのなかだけである。その枠のなかを劇的にしてしまうと、その映像(世界)が枠の外へひろがっていることを忘れてしまう。劇的な映像に視線が集中して、周辺の世界を見逃してしまう。そうならないように、イーストウッドの映画では、映像を凝縮させすぎない。最低限のものにする。映像をつねに相対化するといってもいいかもしれない。
 クライマックスの砂嵐の戦闘シーンも、戦争はそれだけではないから、それをクライマックスにしないのだ。戦争を長い時間のなかでとらえ直すために、あえて、そのシーンに集中することを避けているのである。ふつうの戦争映画なら、この困難な戦いをアップをふんだんに盛り込み濃密に描き、「映画史に残る映像」にしてしまう。しかし、イーストウッドは、単なるエピソード、それも視覚に残らない映像にしててしまうのである。

 相対化を別な角度から言いなおせば……。
 子供を射殺するシーン。主人公が照準器(というのだろうか)で子供を見る。子供がアップになる。これは主人公の見た映像。その主人公の目を、カメラは銃口の方から映して見せる。巨大な目がスクリーンにひろがる。子供が直接見た目ではないけれど、主人公から狙われ、射殺された人はその目を感じたかもしれない。見たら逃さない目。その目のなかに閉じ込められて、逃げられない--そう感じさせる目。狙われる側から見れば、その目がどんなに青く澄んでいようと、それはたしかに悪魔の目ということになる。
 主人公がアメリカにいる妻と電話をしているとき、銃撃で戦がはじまる。戦場とアメリカでのシーンが交錯する。妻は電話から聞こえてくる音だけが頼りである。何が起きているのか、わからない。銃撃戦をしていることはわかるが、細部はわからない。観客は(私は)どうしても戦場で起きている激しい変化に目を奪われるし、また妻の動揺に反応してしまうが、この瞬間、主人公のこころは妻から離れてしまっているということを見落としている。そして、このことがあとで妻から追及される。「あなたのこころはどこにあるのか、肉体は帰って来たけれどこころは帰って来ていない。」戦場では、生きるか死ぬか。殺さないと殺される。だから、妻がどんなに心配しているか、ということを考えている暇はない。「大丈夫、撃たれなかった」というようなことを一々電話している暇はない。それはそうなのだが、そんなことは妻からはわからない。せっかく帰国したのに、また戦場へ行く、そこでアメリカを守ると言われても何を言っているかわからない。
 また、主人公は凄腕のスナイパーゆえに「伝説」と呼ばれるのだが、そのことに恥じらう主人公の目は、仲間が主人公を見ているものとは違うものを主人公が見ていることを察知させる。主人公の弟もイラクで戦い、そのあと帰国する。帰国する弟を見かけたとき、弟はすっかりかわっていた。戦争に対して主人公とは違った見方をしていた。こころに深い傷を負い、それを前面に出していた。
 そういう相対化も描かれる。
 イラク側のスナイパーの様子も単に五輪の金メダリストの腕前というだけではなく、やはり仲間を守るために戦うという視点(主人公と同じ視点)でとらえられている。そこでも相対化が行なわれ、世界が見つめなおされている。
 繰り返される相対化、瞬間の時間への還元によって、この映画は戦場ではなく、戦場で戦った男の「こころ」の変化を最後に浮かび上がらせる。「こころの傷」の深さを浮かび上がらせる。戦争とは結局ひとを殺すことであり、人を殺して「伝説(英雄)」になっても、それは他人の評価であり、その人自身にとっては「伝説」は「絶対」ではない。「伝説」を生きることはできない。日常は「伝説」とは違った時間を動いている。そう語ることで、静かに戦争を告発している。国家の暴力を告発している映画であるとも言える。
 でも、こういう言い方は、たぶんイーストウッドは好まないだろう。そんな「意味」づけは映画にとってはどうでもいいことだ。
 この映画は、やっぱり最初に書いたことにつきる。クライマックスを、まったく観客が感情移入できないような不完全な映像として描ききったところにすごみがある。イラクのテロリストを殺す。それが正義である。その戦いのためにアメリカ兵はこんなにがんばっている--という視点に観客が染まらないようにして映画を動かしたところにある。映像としてはどこにも見どころはないのだが、この見どころのない映像こそ、「映画史に残る」と私は言いたい。
                        (天神東宝1、2015年02月22日)







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嵯峨信之を読む(21)

2015-02-22 09:36:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
38 手術

 「宮崎病院」という注釈。最後の二行

いま金いろの天秤(はかり)で計つているのは
たしかにわたしの切りとられた小さな死です

 から盲腸の手術を想像した。切り取られた盲腸。それを「死」と呼ぶところにこの詩の「核」がある。死を排除して、嵯峨は生き続ける。--というような「意味」を誘い込む飛躍がある。
 「比喩」はものの言いかえではなく、そこにある「もの」(向き合っているもの)をいったん忘れ去り(解体し、脱構築し、と流行言語では言うかもしれない)、「無(混沌)」へたどりつき、そこからもう一度、「いま」へ戻ってくる運動。「分節」されたものを「未分節」へもどし、再度「分節」しなおす運動。
 盲腸。体内で異変を起こし、化膿している。機能しなくなっている。死んでいる。それをそのままにしておくと、肉体全体に影響する。だから、その小さな死を、肉体の連続(未分節)から分離し(分節し)、肉体を健全な状態にもどす。その肉体の内部へ入り込み(未分節の世界へ入り込み)、そこから盲腸を盲腸ではなく「死」ということばで分節しなおし、排除する。
 未分節をくぐりぬけた盲腸は、最初に痛みをもたらした盲腸と同じものではあっても、同じではない。「意味」が違ってきている。「死」ということばで定義し直されて、別なものになっている。違った意味になっているけれど、また、同じものでもある。「定義」というのは瞬間的な方便であって、こだわりすぎてはいけない。運動そのもの、「比喩」を運動のエネルギーとして感じ取るということが必要なのだと思う。

 あ、書いていることが、だんだんややこしくなってきた。ここまでにしておいて、少し視点を変える。

 この詩の核は「死」ということば、その「比喩」の動き方にあるのだけれど、あまりにも意味が強すぎる。私は、その行よりも、前半の手術が終わり、麻酔から醒めてくるときの描写が好きである。特に、

暗くみえていたゼラニウムの花が鮮やかな紅いろに変りました

 という一行が好きだ。「暗く」から「鮮やか」に変わるという自然な状態(そう見えるようになるという肉体の運動)が、そのまま肉体の回復につながる。それが、読んでいて、うれしい。

39 深夜

 「弟妹に」という注釈。「わたしは疲れているので」と書き出されているが、「わたし」のことを書いているのではなく、弟と妹に呼びかけているのだろう。

二つの日のあいだの戸を閉じて休もう
そして一日の怒りをすつかり忘れよう

 「……しよう」の繰り返しが、おだやかなリズムとなっている。二度繰り返されると、次もきっと「……しよう」ということばがつづくと想像できる。そのため、「……しよう」の前のことばに意識を集中させて聞くことができる。(読むことができる。)
 で、ちょっと複雑なことが書かれる。

休息のなかに大きな夜をみちびき入れよう

 知らないことばがないので、すっと読んでしまうが、「夜をみちびき入れる」という表現は、変わっている。夜は導き入れなくても自然にやってくる。拒もうとしても、拒めない。
 夜なので、もう何もしないで休息しよう(休もう)、休息(休み)のなかで「怒り」も休ませよう、眠らせよう(落ち着かせよう)というのは、「現実的」だが(日常、だれもがすること、体験したことだが)、休息の「なかに」夜を導き入れるというのは、「現実的」ではない。
 ことばのなかだけで表現できる、一種の「嘘」、虚構である。
 で、その「嘘」が、詩である。
 単なる夜ではなく「大きな」夜--その「大きな」に嵯峨の意識が集中していく。何度も言い直し、「大きな夜」、その夜の「大きさ」を語り直す。

限りないひろがりが遠いところでその口を少しずつゆるめている

 「大きい」は「限りないひろがり」であり、「遠いところ」とも関係している。「遠い」というのは距離の「大きさ」でもある。夜は暗くて何も見えないが、ほんとうは限りない大きさ、ひろがり、豊かさをもっている。その「豊か」なものを導き入れよう、自分のものにしよう、と嵯峨は弟と妹に語っている。
 大きなもの、豊かなもの、って何? 嵯峨は最後にもう一度言いなおす。

まだ歌にならぬ音階の上を
はやくも未来がしずかに歩みよる

 「まだ歌にならぬ」という「比喩」のなかに、「大きさ/豊かさ」がある。「まだ歌にならぬ」とは「歌」として「分節されていない/未分節」の状態ということ。「無/混沌」とした、エネルギーだけが存在する状態。そこから新しい「音階」、新しい「歌」がはじまる。「分節」がはじまる。「未来」がはじまる。
 きょうあったことは忘れてしまい(「無我」になり)、まだきまった形のない状態(未分節/無我)をとおりぬけて、また新しく生きはじめよう、と語りかけている。
 弟、妹に語りかけていると先に書いたが、嵯峨は自分自身のなかに生きている「幼いわたし」に語りかけているという感じがする。

 でも、こんなふうに「意味」だらけにしてしまうと、詩は、おもしろくないね。
 いま書いたことは、さっと忘れて(なかったことこにして)、私は、その前の三行に帰ろう。

子供たちはまるめた手足のなかに小さく眠りこみ
ふとどこかで出会う運命に
それと知らずかすかに微笑みかける

 眠っている子が、夢のなかでふっと微笑み、それが顔に出てくる。あ、何かいいことがあったんだな。そのときの、幼い子の表情が見える--「運命」という抽象的なことばがあいだにあるのだけれど、子のあかるい微笑みが具体的に見えてくるこの三行が美しくていいなあ、と思う。

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「まだ可能かもしれない

2015-02-22 01:14:23 | 
「まだ可能かもしれない

「まだ可能かもしれないという考えが間違っている。そう自分自身に言い聞かせることをできるだけ先のばしにした」ということばがあった。
「だれのことばなのかわからなかったが、いま、私がしているのはそのとおりのことである」ということばが並んでいた。
「どうすることもできない苦しみがまといついてくるが、そう感じるとき苦痛ということばは甘い怠惰のようでもあった」ということばが、どこからともなくあらわれた。




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