10 声
海は凪いでいる。嵐ではない。港へ帰る必要はない。この書き出しは、そういうことを語っているのだろうか。明るい静かな恋を感じさせる。同時に、「理性」を感じさせる。「静けさ(穏やかさ)」は「理性」にささえられているとも。
恋というのは「理性」とは反対の衝動かもしれないが、感情を理性でととのえ、持続させる、持続させたいという思いが働いているのかもしれない。
「理性」ということばを思いついてしまうのは、「……だから」ということばの影響である。「……だから……である」という「論理」の動きを感じ、そこに「理性」を感じる。
しかし、「理性」とはいっても、あるいは「論理」とはいっても、その「……だから……である」の「……である」は、詩の場合、予測がつかない。予測がつかないから、詩であるとも言える。
大嵐なのだから船は出航できない、というような「常識的結論」とは無縁のところへ詩のことばは動いていく。
私は最初、この三行について「海は凪いでいる。嵐ではない。だから港へ帰る必要はない。」と書いたが、「海は凪いでいる。風がない。だから帆船は港へ帰れない。」とも読むことはできる。「論理」のはずなのに、それは「予測」できる論理ではなく、結論に達したときに「論理」になってしまうというような、不確定の「論理」である。そこに、詩のおもしろさがある。
港へ「帰れない」ではなく、「帰る必要はない」と感じてしまうのは、ここに書かれている「大凪」が幸福の瞬間のように感じられるからである。
この幸福は三連目で、次のように語られる。
読みながら、思わず傍線を引いてしまう。ここが好き。「はじめて」が輝いている。この「はじめて」に私は何を言えるだろう。
「はじめて」の声は「うまれたときのままの」「真裸の」と言いなおされている。無防備で、純真で、正直な声。そういう声を受け入れてくれるとわかって、どんどん正直になっていく声。
それだけではない。
いままでつかってきた声を捨てて、新しい声をつかっている。いま、目の前にいるひとのためにだけの声を自分のなかからつくり出している。「はじめて」の声なのに、とても豊かに響いてくるのは、それがあふれてくるからだろう。輝きながら、あふれてくる。真昼まぶしい明るさ--そういうものを感じる。
この幸福を「はじめて」という静かで論理的なことばで語っているのが、嵯峨の詩の特徴だと思う。
11 ある島
「声」と対になった作品かもしれない。対ではなくても、どこかでつながっている。「海」が出てくるので、そう思うのかもしれない。
この詩は「島」について書いているのだが、私を最初に夢中にさせるのは、「どこにいても ぼくを優しくとらえる広い海」ということばだ。海の近くにいなくても、街の真ん中にいても、海がぼく(嵯峨)を誘っている。海に誘われる。どこかへ行くとき、ぼく(嵯峨)は海をわたってどこかへ行くのだ。「広い海」は「広い」が形容詞で「海」は名詞、そして名詞が「主語(主役)」であると考えるのが一般的なのだろうけれど、嵯峨の詩を読んでいると「広い」ということこそ書きたくて「海」ということばを借りているようにも思える。「広い」が主語であると考えたくなる。
「広い(広さ/無限)」こそが、ぼくを動かす。「広い」がその対極にある「狭さ(ある限定された広がり/個)」としての「島」を引き出す。「広い陸地」ではなく「個としての島」。
「意味」が特定しにくい三行だが、私は読みながら「ぼく」と「島」は同じもの、「島」は「ぼく」の比喩なのだと感じる。
いま、ここにいる陸を離れ、広い海の広さのなかに、それまでの陸の習慣を捨てる。「声」に出てきた表現をつかえば「はじめて」の自分になる、「生まれたときのままの真裸」の自分になる。その古いけれど新しい自分が「島」。それを発見するために、航海へ出る。
話しているうちにぼくの姿が消えてしまうというのは、古いぼくが消えて、新しいぼくに生まれ変わるということだろう。
ことばの海へ出て行き、古いことばを捨て、新しいことばで語る。そのとき新しいぼくは誕生し、古いぼくは消える。新しいことば(島/詩)そのものにぼくはなってしまう。そういう印象がする。
この島(新しいことば/詩)を「声」のときのように「恋人」と考えることもできる。
大凪の海で知りあったのだから
ふたりは
どこの港からも遠い
海は凪いでいる。嵐ではない。港へ帰る必要はない。この書き出しは、そういうことを語っているのだろうか。明るい静かな恋を感じさせる。同時に、「理性」を感じさせる。「静けさ(穏やかさ)」は「理性」にささえられているとも。
恋というのは「理性」とは反対の衝動かもしれないが、感情を理性でととのえ、持続させる、持続させたいという思いが働いているのかもしれない。
「理性」ということばを思いついてしまうのは、「……だから」ということばの影響である。「……だから……である」という「論理」の動きを感じ、そこに「理性」を感じる。
しかし、「理性」とはいっても、あるいは「論理」とはいっても、その「……だから……である」の「……である」は、詩の場合、予測がつかない。予測がつかないから、詩であるとも言える。
大嵐なのだから船は出航できない、というような「常識的結論」とは無縁のところへ詩のことばは動いていく。
私は最初、この三行について「海は凪いでいる。嵐ではない。だから港へ帰る必要はない。」と書いたが、「海は凪いでいる。風がない。だから帆船は港へ帰れない。」とも読むことはできる。「論理」のはずなのに、それは「予測」できる論理ではなく、結論に達したときに「論理」になってしまうというような、不確定の「論理」である。そこに、詩のおもしろさがある。
港へ「帰れない」ではなく、「帰る必要はない」と感じてしまうのは、ここに書かれている「大凪」が幸福の瞬間のように感じられるからである。
この幸福は三連目で、次のように語られる。
ふたりは話し合うのに
はじめて自分の声をつかつた
うまれたときのままの真裸の声を
読みながら、思わず傍線を引いてしまう。ここが好き。「はじめて」が輝いている。この「はじめて」に私は何を言えるだろう。
「はじめて」の声は「うまれたときのままの」「真裸の」と言いなおされている。無防備で、純真で、正直な声。そういう声を受け入れてくれるとわかって、どんどん正直になっていく声。
それだけではない。
いままでつかってきた声を捨てて、新しい声をつかっている。いま、目の前にいるひとのためにだけの声を自分のなかからつくり出している。「はじめて」の声なのに、とても豊かに響いてくるのは、それがあふれてくるからだろう。輝きながら、あふれてくる。真昼まぶしい明るさ--そういうものを感じる。
この幸福を「はじめて」という静かで論理的なことばで語っているのが、嵯峨の詩の特徴だと思う。
11 ある島
「声」と対になった作品かもしれない。対ではなくても、どこかでつながっている。「海」が出てくるので、そう思うのかもしれない。
ただどこにいても ぼくを優しくとらえる広い海が
その島へ ぼくをつれて行つたのだ
この詩は「島」について書いているのだが、私を最初に夢中にさせるのは、「どこにいても ぼくを優しくとらえる広い海」ということばだ。海の近くにいなくても、街の真ん中にいても、海がぼく(嵯峨)を誘っている。海に誘われる。どこかへ行くとき、ぼく(嵯峨)は海をわたってどこかへ行くのだ。「広い海」は「広い」が形容詞で「海」は名詞、そして名詞が「主語(主役)」であると考えるのが一般的なのだろうけれど、嵯峨の詩を読んでいると「広い」ということこそ書きたくて「海」ということばを借りているようにも思える。「広い」が主語であると考えたくなる。
「広い(広さ/無限)」こそが、ぼくを動かす。「広い」がその対極にある「狭さ(ある限定された広がり/個)」としての「島」を引き出す。「広い陸地」ではなく「個としての島」。
ぼくは その島の全貌をうまく話すことができるが
どうしたことか 話しているうちに
ぼくの姿は 薄い雲のように いつとなく消えてしまう
「意味」が特定しにくい三行だが、私は読みながら「ぼく」と「島」は同じもの、「島」は「ぼく」の比喩なのだと感じる。
いま、ここにいる陸を離れ、広い海の広さのなかに、それまでの陸の習慣を捨てる。「声」に出てきた表現をつかえば「はじめて」の自分になる、「生まれたときのままの真裸」の自分になる。その古いけれど新しい自分が「島」。それを発見するために、航海へ出る。
話しているうちにぼくの姿が消えてしまうというのは、古いぼくが消えて、新しいぼくに生まれ変わるということだろう。
ことばの海へ出て行き、古いことばを捨て、新しいことばで語る。そのとき新しいぼくは誕生し、古いぼくは消える。新しいことば(島/詩)そのものにぼくはなってしまう。そういう印象がする。
この島(新しいことば/詩)を「声」のときのように「恋人」と考えることもできる。
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