監督 グリームル・ハゥコーナルソン 出演 シグルヅル・シグルヨンソン、テオドル・ユーリウソン
ひつじというものを私はよく見たことがない。だから間違っているかもしれないが、この映画に出てくるひつじはなんだか毛が長い。そして、脚が細い。「星の王子様」に出てくるひつじの絵とは大違い。
で。
この映画にはひつじを飼っている兄弟が登場するのだが、ふたりともひつじに似ている。同じようにひげをはやし、髪はぼさぼさ。アイスランドのひつじの毛であんだらしいセーターを着ている。違いは、体形である。兄の方がふとっている。その「まるまる感」がひつじに似ている。兄の方が、よりひつじっぽい。
品評会がひらかれる。兄の飼っているひつじが入賞するが、弟の飼っているひつじは選にはいらない。ひつじの評価は飼っているひととは関係がないのだが、うーん、と少し考えてしまうのである。
いっしょにいると、ひつじでも似てくるのかなあ。
こんなことを考えるのは、ふたりとも(そしてたぶんほかの村のひとも)、ひつじにちゃんと名前をつけ、ひつじを名前で呼んでいるからである。畜産家はみなそうなのかもしれないが、この名前を呼んで生きものを育てるというのは、いっしょに生きるということ。いっしょに生きるから、似てくる。
弟の方はきちょうめんで、家の中も整理されている。兄の方は、のみすけで、だらしなく、家の中は散らかっている。そうか。ひつじは、やっぱりどこかで気儘に息抜きしながら生きている方が生き生きと頑丈に育つのか、などとも思うのだが。
その兄のひつじが伝染病にかかっていることがわかる。
きちんと消毒していないから? 管理していないから?
わからないが、兄のひつじが伝染病にかかっているかもしれない、と気がついた弟は、自分のひつじを家に連れて帰ると、ふろで体を洗う。消毒する。わーっ、人間(子ども)の世話をするみたい。実際、「子ども」なんだろうなあ。
ということに、ちょっとややこしいことがからんでくる。
ひつじは伝染病と判明する。村のひつじを全部、殺処分しないといけないことになる。村全体が協力しないといけないのに、兄は「おまえが密告(?)するから、おれの大事なひつじが殺された」と恨んだりする。実は、この兄弟、隣り合わせに住んでいるのだが、四十年間口をきかない仲なのだ。言いたいことは、兄が飼っている犬が手紙を運んで伝言するくらいである。伝染病をきっかけに、さらに仲違いが進む。
ところが。
殺処分しなければならないはずのひつじを数頭、弟の方は、家の地下室に隠して飼っている。ほかのひつじは自分で殺したのだ。それが獣医(検疫官)にみつかる。さて、どうしよう。大切な大切なひつじがほんとうに全部殺されてしまう。
そのことを知った兄は、ふたりで山へ逃げよう、ひつじといっしょに逃げようと提案し、実際に山へ逃げてゆく。ところが、冬。アイスランドの雪は、すごいなあ。砕いた氷である。ひつじを見失い、路に迷う。弟は雪のなかで倒れてしまう。このままでは凍死してしまう。
兄は雪がつもって固まっている部分に「かまくら」を掘る。そこでビバーク。弟の体をあたためるために裸になって、肌をあわせる。赤ん坊のように。まるで子宮の中の双子のようだ。
という、神話的な和解のシーンで映画は終わるのだが。
あ、そうなんだなあ、双子なんだなあと思う。体形は違ってしまったが、ひつじが好き、ひつじなしでは生きていけない、という「気持ち」が双子。相手の考えていることが、そのまま自分の考えとしてわかってしまう。実際に取る行動は違うのだけれど、思考のDNAが同じ。
このビバークの前、兄が二度凍死しそうになる。弟は、一度は風呂に入れて介抱する。二度目はショベルカーのショベルのようなところに兄を乗せて、病院まで運ぶ。病院の前で、荷物のようにほうり出して知らん顔。(病院のひとが気づいて、助ける。)その二つのシーンだけをみていると、しかたなく助けている感じがするが……。そうじゃなかったんだねえ、やっぱり、死ぬなよ、死ぬなよ、死ぬなよ、と泣きたい気持ちで向き合っていたんだろうなあ。ここまでしておけば、なんとか大丈夫ということがわかっていて、そのぎりぎりのことをしている。
うーん。
昨年見た「馬と人間」(正確なタイトルは忘れた)もそうだったが、アイスランドの人間関係がおもしろい。ひととひととの距離のとり方が、やっぱりイギリスやフランス、イタリア、スペインなんかとは違うなあ。(映画で見ているだけだから、「偏見」かもしれないけれど……)。厳しい自然と向きって生きている。どこかで自分のいのちは自分でまもらないといけないという感じが、「べたべた」感を洗いさる。でも、どこかで協力しないと生きていけないので、決定的な「批判(非難?)」はしない。距離を置いて、他人を許容するという感じとでもいえばいいのかなあ。
こいの映画では、その「距離」が兄弟なので、ほかの他人との関係とは少し違う。そこに不思議な「味」がある。
映画(ストーリー)とは直接関係がないかもしれないが。
ふたりのけんかのとき、兄が弟の家に銃を撃つ。ガラスが割れる。そのガラスを次の日に弟がしている。そのとき気がついたのだが、ガラスが二重ガラスになっている。あいだに「空気」があり、それが冷気を遮断しているのだ。北国の知恵といえばそれまでなのだが、雨戸で外を遮断するのではなく、透明なガラス(空気)で寒さを遮断する。いつでも外は見える状態。内側は寒さからしっかり守っているが、内に閉じこもるのではなく、常に外に開かれてもいる。
こういう生き方というのは、やはり、思想というものなのだろうなあ。
もうひとつ。
犬もおもしろかったなあ。兄が飼っている犬なのだが、手紙を弟から兄へ、兄から弟へと運んでいる。犬は二人が「兄弟」であること(親密な関係であること)がわかってるようだ。それが、おかしい。けんかしているにもかかわらず、どこかでつながっているということを犬は知っている。
そういう犬のつかい方がおもしろい。
ボーダーコリーである。毛が黒と白。で、「役名」は忘れたが、クレジットを見ていると、「実名」は「パンダ」であった。そうか、白と黒だからパンダか。白黒の配置(?)はパンダとは逆なんだけれど。
愛犬家なので、そういうことも思ったりするのだった。
(2016年01月21日、KBCシネマ1)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ひつじというものを私はよく見たことがない。だから間違っているかもしれないが、この映画に出てくるひつじはなんだか毛が長い。そして、脚が細い。「星の王子様」に出てくるひつじの絵とは大違い。
で。
この映画にはひつじを飼っている兄弟が登場するのだが、ふたりともひつじに似ている。同じようにひげをはやし、髪はぼさぼさ。アイスランドのひつじの毛であんだらしいセーターを着ている。違いは、体形である。兄の方がふとっている。その「まるまる感」がひつじに似ている。兄の方が、よりひつじっぽい。
品評会がひらかれる。兄の飼っているひつじが入賞するが、弟の飼っているひつじは選にはいらない。ひつじの評価は飼っているひととは関係がないのだが、うーん、と少し考えてしまうのである。
いっしょにいると、ひつじでも似てくるのかなあ。
こんなことを考えるのは、ふたりとも(そしてたぶんほかの村のひとも)、ひつじにちゃんと名前をつけ、ひつじを名前で呼んでいるからである。畜産家はみなそうなのかもしれないが、この名前を呼んで生きものを育てるというのは、いっしょに生きるということ。いっしょに生きるから、似てくる。
弟の方はきちょうめんで、家の中も整理されている。兄の方は、のみすけで、だらしなく、家の中は散らかっている。そうか。ひつじは、やっぱりどこかで気儘に息抜きしながら生きている方が生き生きと頑丈に育つのか、などとも思うのだが。
その兄のひつじが伝染病にかかっていることがわかる。
きちんと消毒していないから? 管理していないから?
わからないが、兄のひつじが伝染病にかかっているかもしれない、と気がついた弟は、自分のひつじを家に連れて帰ると、ふろで体を洗う。消毒する。わーっ、人間(子ども)の世話をするみたい。実際、「子ども」なんだろうなあ。
ということに、ちょっとややこしいことがからんでくる。
ひつじは伝染病と判明する。村のひつじを全部、殺処分しないといけないことになる。村全体が協力しないといけないのに、兄は「おまえが密告(?)するから、おれの大事なひつじが殺された」と恨んだりする。実は、この兄弟、隣り合わせに住んでいるのだが、四十年間口をきかない仲なのだ。言いたいことは、兄が飼っている犬が手紙を運んで伝言するくらいである。伝染病をきっかけに、さらに仲違いが進む。
ところが。
殺処分しなければならないはずのひつじを数頭、弟の方は、家の地下室に隠して飼っている。ほかのひつじは自分で殺したのだ。それが獣医(検疫官)にみつかる。さて、どうしよう。大切な大切なひつじがほんとうに全部殺されてしまう。
そのことを知った兄は、ふたりで山へ逃げよう、ひつじといっしょに逃げようと提案し、実際に山へ逃げてゆく。ところが、冬。アイスランドの雪は、すごいなあ。砕いた氷である。ひつじを見失い、路に迷う。弟は雪のなかで倒れてしまう。このままでは凍死してしまう。
兄は雪がつもって固まっている部分に「かまくら」を掘る。そこでビバーク。弟の体をあたためるために裸になって、肌をあわせる。赤ん坊のように。まるで子宮の中の双子のようだ。
という、神話的な和解のシーンで映画は終わるのだが。
あ、そうなんだなあ、双子なんだなあと思う。体形は違ってしまったが、ひつじが好き、ひつじなしでは生きていけない、という「気持ち」が双子。相手の考えていることが、そのまま自分の考えとしてわかってしまう。実際に取る行動は違うのだけれど、思考のDNAが同じ。
このビバークの前、兄が二度凍死しそうになる。弟は、一度は風呂に入れて介抱する。二度目はショベルカーのショベルのようなところに兄を乗せて、病院まで運ぶ。病院の前で、荷物のようにほうり出して知らん顔。(病院のひとが気づいて、助ける。)その二つのシーンだけをみていると、しかたなく助けている感じがするが……。そうじゃなかったんだねえ、やっぱり、死ぬなよ、死ぬなよ、死ぬなよ、と泣きたい気持ちで向き合っていたんだろうなあ。ここまでしておけば、なんとか大丈夫ということがわかっていて、そのぎりぎりのことをしている。
うーん。
昨年見た「馬と人間」(正確なタイトルは忘れた)もそうだったが、アイスランドの人間関係がおもしろい。ひととひととの距離のとり方が、やっぱりイギリスやフランス、イタリア、スペインなんかとは違うなあ。(映画で見ているだけだから、「偏見」かもしれないけれど……)。厳しい自然と向きって生きている。どこかで自分のいのちは自分でまもらないといけないという感じが、「べたべた」感を洗いさる。でも、どこかで協力しないと生きていけないので、決定的な「批判(非難?)」はしない。距離を置いて、他人を許容するという感じとでもいえばいいのかなあ。
こいの映画では、その「距離」が兄弟なので、ほかの他人との関係とは少し違う。そこに不思議な「味」がある。
映画(ストーリー)とは直接関係がないかもしれないが。
ふたりのけんかのとき、兄が弟の家に銃を撃つ。ガラスが割れる。そのガラスを次の日に弟がしている。そのとき気がついたのだが、ガラスが二重ガラスになっている。あいだに「空気」があり、それが冷気を遮断しているのだ。北国の知恵といえばそれまでなのだが、雨戸で外を遮断するのではなく、透明なガラス(空気)で寒さを遮断する。いつでも外は見える状態。内側は寒さからしっかり守っているが、内に閉じこもるのではなく、常に外に開かれてもいる。
こういう生き方というのは、やはり、思想というものなのだろうなあ。
もうひとつ。
犬もおもしろかったなあ。兄が飼っている犬なのだが、手紙を弟から兄へ、兄から弟へと運んでいる。犬は二人が「兄弟」であること(親密な関係であること)がわかってるようだ。それが、おかしい。けんかしているにもかかわらず、どこかでつながっているということを犬は知っている。
そういう犬のつかい方がおもしろい。
ボーダーコリーである。毛が黒と白。で、「役名」は忘れたが、クレジットを見ていると、「実名」は「パンダ」であった。そうか、白と黒だからパンダか。白黒の配置(?)はパンダとは逆なんだけれど。
愛犬家なので、そういうことも思ったりするのだった。
(2016年01月21日、KBCシネマ1)
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