鍋山ふみえ「栴檀の樹が」、 降戸輝「理由」(現代詩講座@リードカフェ、2016年01月13日)
受講者の感想。
感想は「色の美しさ」に集中した感じがする。そのなかで、「色は動詞かなあ」という感想が特に印象に残った。
どういうことだろう。
これは刺戟的な指摘である。
この定義は、
に、あてはめると、よくわかる。「足跡」が「うすむらさき」であるのは、その足が何かうすむらさきのものを踏んで、それが足裏(靴底)に残っているときにできるが、この詩はそういうことを書いていない。
「足跡」があって、その「足跡」に何かの印象が結びついて、その瞬間に「うすむらさき」という色が生まれた。
<受講者3>は、そういう変化(動き)をつかみとり、色は動詞である、と言った。
他の受講者が語った「動画」という印象は、この「色は動詞である」という定義とは違うものかもしれないが、「色はものと結びついて生まれてくる」という「動き」を土台にして読み直すと、もっと詩全体の動きが繊細になると思う。
栴檀の花は開くことで「うすむらさき」になる。その色は「淡くかげる」「(眠りを)誘う」(「眠りに誘われる」を、ことばの順序を入れ替えてみる)「残る」「深まる」(「深く」を読み替えてみる)「更ける」という「動詞」によって、複雑に変化していることがわかる。
そういう「変化」(変化の軌跡)を「足跡」と考えてみるとどうだろう。
「うすむらさきの足跡」は「足跡」が「うすむらさき」なのではなく、「うすむらさき」そのものが「足跡」になっている。そう読むこともできるのではないだろうか。
「うすむらさき」という色そのものが「足跡」になる、と読むとき、「色が動詞になる」という「定義」とは少し違ってくるのだが、こういうことは厳密に論理化して考えるよりも、どっちでもいい感じでつかみ取った方がおもしろいと思う。
そういうことを考えながら、ひとつ質問をしてみた。
うーん、論理的。
でも、蝶が飛んでいるときの、その「残影/空中に残っている影」がむらさきという具合にも読めるのではないだろうか。蝶のはばたきの背後に生まれる幻の影。そのむらさき。あるいは蝶はもうそこにはいない。けれど蝶が飛んでいた「痕跡」が空中に残っていて、それを「むらさきの影」の蝶と読む。「蝶」はいわば「比喩」。
「蝶の影」が「むらさき」なのではなく、「むらさきの影」が「蝶」に見えると読んでみる。それが空中を舞っている。
そう読むと、どうなるかな?
「夢幻的な動画」がくっきりしてくる。
「三日月と明星」より前の部分は、栴檀の花、ビルの明かりと、まだ「現実」を書いている。そこには栴檀の花がむらさきの蝶になる「予兆」はあっても、まだ蝶にはなりきれていない。
それが後半では、きのうの蝶の記憶と結びつき、現実の薄暮そのものを「夢幻」にかえてしまう。
この変化こそが美しい。
ただ、私の印象では、「撒餌を散らすみたいに」という直喩は、あまりにも「散文的」すぎる。ほかの表現があったのではないだろうか。
*
私の印象では、ことばが抽象的すぎる。「理由」は抽象的なものだから抽象でもいいのかもしれないが、「歩く」「食べる」という具体的な動詞ではじまりながら、具体的にならない。「歩く」「食べる」まで抽象的。
二連目の「地図」も抽象的すぎる。
あ、そうか。
この指摘には、私はびっくりした。「天神の地図」「地下街の地図」、あるいは「四つ角にコンビニ、斜め向かいに郵便ポストが書かれた地図」だと、私には「具体的」だが「渡され」ることによって具体的になる地図もあるのか。
四連目の「食べ物」も、もっと具体的な方が、書いているひとが身近に感じられる。
抽象的に書いてしまうのは、たぶん、具体的に書いてしまうと「意味」がつたわらないのではないか、と考えるためだろう。
詩は「意味」を伝えるというよりも、自分にわかっている「具体的なもの」を、「もっと具体的に」書くものだと思う。「もっと具体的に」というのは、自分でも「意味がわからない」、そこにある「もの」だけがわかる、という感じかなあ。
あ、私の感想の方が抽象的か……。
栴檀の樹が 鍋山ふみえ
栴檀の樹がおおきく枝を広げている
うすむらさきの花 うらむらさきの花
淡くかげり どこまで行っても眠りに誘われる
しらじら雲が残っている夕空
樹影は深く 夜更けていく
明けがた いっそう際立っているだろう
うすむらさきの足跡
むこうのビルの灯りが栴檀の枝のあいだから
みかん色に輝いて吊りさがっている
とぼとぼとぼとぼと
落としたみたいに うるんでいる
三日月と明星が向きあって 中空で抱き合っている
きのうオオムラサキが飛んでいた
モンキチョウも見かけた
夕暮れの澄んだ空気
蝶が飛ぶ
撒餌を散らすみたいに
追いかけて 追いかけて
むらさきの影の蝶たちを
薄暮の時が
横たわりながら
空の帯になって流れていく
受講者の感想。
<受講者1>きれいな詩。色彩がきれい。紫と蜜柑色の対比が美しい。
「三日月と明星が向きあって 中空で抱き合っている」が印象的。
私は三日月とか明星とか、書いたことがあるかなあ。
これを中央にもってきて、前後を分けている。
栴檀の花が蝶に変化して、蝶が飛ぶイメージが美しい。
<受講者2>夢幻的。絵画というよりも美しい動画をみている感じがする。
「眠りに誘われる」が夢幻的。天国の情景みたい。
<受講者3>私は栴檀の花を知らないのだが。
「うすむらさきの足跡」からの「うるんでいる」までの行が美しい。
色がきれいで、色は動詞かなあ、と思った。
<受講者4>色、植物、風景が目に浮かぶ。
色と情景が動画のようなイメージ。
<受講者5>ことば、表現が美しい。
最後の数行が古典のような美しさ。
「とぼとぼとぼとぼと」と「ぼとぼとぼと」と変化しておもしろい。
感想は「色の美しさ」に集中した感じがする。そのなかで、「色は動詞かなあ」という感想が特に印象に残った。
どういうことだろう。
<受講者3>色が動いている。色は最初から固定したものではなく、変化する。
色は何かと結びついて、そのときはじめて色になる。
「色即是空」というのとは違うかもしれないが。
これは刺戟的な指摘である。
この定義は、
うすむらさきの足跡
に、あてはめると、よくわかる。「足跡」が「うすむらさき」であるのは、その足が何かうすむらさきのものを踏んで、それが足裏(靴底)に残っているときにできるが、この詩はそういうことを書いていない。
「足跡」があって、その「足跡」に何かの印象が結びついて、その瞬間に「うすむらさき」という色が生まれた。
<受講者3>は、そういう変化(動き)をつかみとり、色は動詞である、と言った。
他の受講者が語った「動画」という印象は、この「色は動詞である」という定義とは違うものかもしれないが、「色はものと結びついて生まれてくる」という「動き」を土台にして読み直すと、もっと詩全体の動きが繊細になると思う。
栴檀の花は開くことで「うすむらさき」になる。その色は「淡くかげる」「(眠りを)誘う」(「眠りに誘われる」を、ことばの順序を入れ替えてみる)「残る」「深まる」(「深く」を読み替えてみる)「更ける」という「動詞」によって、複雑に変化していることがわかる。
そういう「変化」(変化の軌跡)を「足跡」と考えてみるとどうだろう。
「うすむらさきの足跡」は「足跡」が「うすむらさき」なのではなく、「うすむらさき」そのものが「足跡」になっている。そう読むこともできるのではないだろうか。
「うすむらさき」という色そのものが「足跡」になる、と読むとき、「色が動詞になる」という「定義」とは少し違ってくるのだが、こういうことは厳密に論理化して考えるよりも、どっちでもいい感じでつかみ取った方がおもしろいと思う。
そういうことを考えながら、ひとつ質問をしてみた。
<質 問>「むらさきの影の蝶たち」はどんなイメージ?
<受講者1>蝶が飛ぶとき、その影が地面に落ちる。蝶の影が紫色。
地面の上に影がちらばるように飛ぶ感じ。
うーん、論理的。
でも、蝶が飛んでいるときの、その「残影/空中に残っている影」がむらさきという具合にも読めるのではないだろうか。蝶のはばたきの背後に生まれる幻の影。そのむらさき。あるいは蝶はもうそこにはいない。けれど蝶が飛んでいた「痕跡」が空中に残っていて、それを「むらさきの影」の蝶と読む。「蝶」はいわば「比喩」。
「蝶の影」が「むらさき」なのではなく、「むらさきの影」が「蝶」に見えると読んでみる。それが空中を舞っている。
そう読むと、どうなるかな?
<受講者5>最後の描写が、むらさきの影が帯になって流れていくよう。
薄暮の空気に溶け込んでゆく。薄暮がむらさきに染まってゆく。
「夢幻的な動画」がくっきりしてくる。
「三日月と明星」より前の部分は、栴檀の花、ビルの明かりと、まだ「現実」を書いている。そこには栴檀の花がむらさきの蝶になる「予兆」はあっても、まだ蝶にはなりきれていない。
それが後半では、きのうの蝶の記憶と結びつき、現実の薄暮そのものを「夢幻」にかえてしまう。
この変化こそが美しい。
ただ、私の印象では、「撒餌を散らすみたいに」という直喩は、あまりにも「散文的」すぎる。ほかの表現があったのではないだろうか。
*
理由 降戸輝
僕は歩いている
朝から何も食べずにずっと
理由を探すために
誰からも求められていない理由を
けさ渡されたばかりの地図に
ルートを一本ずつ
慎重に書き加えながら
ずっと理由を探し続けている
蒼い月に誘われて橋を渡ると
そこはまぶしくて
欲しくもないものまで
欲しくなってきた
甘い物と脂っこいものを
一口ずつ食べてみると
気にならなかったものまで
気になりはじめた
<受講者1>理由を探すというテーマがおもしろい。三連目が好き。
「欲しくもないものまで/欲しくなってきた」が好き。
<受講者2>さあ、どこへ行くのかな? 出だしはいい。もう少し書いてほしい。
<受講者3>理由は探していないのだと思う。しつこく探すふりをしている。
<受講者4>理由はなんでもいい。一、二連目は真面目すぎる。純粋すぎる。
「慎重に」ということばに人格が出ている。
四連目がおもしろい。
<受講者5>短いけれどおもしろい。
<受講者1>理由というよりも欲望を探している感じ。
私の印象では、ことばが抽象的すぎる。「理由」は抽象的なものだから抽象でもいいのかもしれないが、「歩く」「食べる」という具体的な動詞ではじまりながら、具体的にならない。「歩く」「食べる」まで抽象的。
二連目の「地図」も抽象的すぎる。
<受講者2>「渡された」地図だから、私は具体的なものを感じた。
あ、そうか。
この指摘には、私はびっくりした。「天神の地図」「地下街の地図」、あるいは「四つ角にコンビニ、斜め向かいに郵便ポストが書かれた地図」だと、私には「具体的」だが「渡され」ることによって具体的になる地図もあるのか。
四連目の「食べ物」も、もっと具体的な方が、書いているひとが身近に感じられる。
<受講者5>「甘い物と脂っこいもの」は「たい焼きとフライド***」とか。
<降 戸>チョコレートとかから揚げは思いつくけれど、たい焼きか……。
<受講者3>甘いものの対比では辛いものを連想する。
脂っこいもの、と対比させているところがおもしろい。
そこに作者の具体的な感じ(他人と違うところ)が出ている。
抽象的に書いてしまうのは、たぶん、具体的に書いてしまうと「意味」がつたわらないのではないか、と考えるためだろう。
詩は「意味」を伝えるというよりも、自分にわかっている「具体的なもの」を、「もっと具体的に」書くものだと思う。「もっと具体的に」というのは、自分でも「意味がわからない」、そこにある「もの」だけがわかる、という感じかなあ。
あ、私の感想の方が抽象的か……。
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