詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高柳誠『高柳誠詩集成 Ⅰ』

2016-01-12 11:59:16 | 詩集
高柳誠『高柳誠詩集成 Ⅰ』(書肆山田、2016年01月10日発行)

 高柳誠『高柳誠詩集成 Ⅰ』には『アリスランド』から『塔』までの詩集が収録されている。きょうは未読の『アリスランド』の感想。
 「1 存在原理」の書き出しに、高柳の「本質(思想/肉体)」が明確に描かれている。

 アリスランドは、アイスランドやアイルランドといった地名から
人々が類推するように島国である。しかし、四方を海に囲まれた島
国を想像してはいけない。勿論、暗黒の宇宙にポッカリと浮く島を、
あるいは、地底の闇を漂う島を想像するならば、その想像はいくぶ
ん正しいと言わなければならないが。

 「想像/想像する」ということばが三回繰り返されている。高柳は、読者に「想像する」ことを求めている。つまり、ここに書かれていることは、わざわざ書く必要がないかもしれないが、「現実」ではない、ということである。
 「島(アリスランド)」は「現実」ではない。「実在」はしない。
 では、ここに「現実」はないのか。
 いや、あるのだ。ひとは「想像」だけを書きつづけることはできない。
 高柳は、実は「現実」を書いている。「ことば」の現実、「ことばの肉体」を書いている。「アリスランド」は「ことばの肉体」を表現するための方便である。

 「想像する」という「ことば」。「想像する」ときの「ことばの肉体」の動き方が「現実」である。ひとは「ことばの肉体」を無視して、でたらめに「想像する」わけではない。「想像する」ためには、必要な手順がある。

 アリスランドは、アイスランドやアイルランドといった地名から
人々が類推するように島国である。

 ここでは「想像する」ではなく「類推する」という動詞がつかわれている。アイスランド、アイルランドは「実在する」。実在するものを手がかりにして、さらにそのふたつのものが「ランド(島)」ということばをもっていることを手がかりにして、知らないものを「想像する」。「ランド(島)」が共通するから「島だろう」と想像する。これを「類推する」と言う。
 この「類推」は正しい。「アリスランド」は「島国である」と、高柳は「類推」を肯定する。この「肯定」が、高柳の「ことばの肉体」が利用する「罠」である。「肯定する」ことによって、「アリスランド」が存在してしまう。
 「島」を肯定しておいて、

                しかし、四方を海に囲まれた島
国を想像してはいけない。

 「想像してはいけない」と、「類推」につながる「想像」を否定する。いったん、そういう具合に否定しておいて、

            勿論、暗黒の宇宙にポッカリと浮く島を、
あるいは、地底の闇を漂う島を想像するならば、その想像はいくぶ
ん正しいと言わなければならないが。

 今度は「正しい」ということばで、もう一度肯定する。
 肯定→否定→肯定と、「ことばの肉体」を「島(もの/存在)」とは違った方向で明確にする。「対象(もの)」と「ことば(名前)」を結びつけるという「ことばの運動」とは違った方向へ、ことばを動かしていく。
 「ことば=名前」ではない。
 「肯定→否定→肯定」があらわしているのは何か。「論理」である。「論理の運動」である。高柳は「論理の運動」としての「ことばの肉体」を描いている。
 「暗黒の宇宙にポッカリと浮く島」「地底の闇を漂う島」というイメージではなく、注目しなければならないのは、

しかし、

あるいは、

 そっと差し挟まれた、このことばである。「しかし」は逆説を導く。「あるいは」は並列を導く。「しかし」「あるいは」ということばによって、「論理の肉体」はスムーズに動く。この「論理の肉体」こそが、高柳の「ことばの肉体」である。「思想」である。
 高柳はいつでも「論理」を書いている。
 「論理の肉体」は「数学の肉体」と同じように美しい。あるいは「音楽の肉体」と同じように美しい。整合性が予兆されていて、実際、整合性をもつことによって完成する。

 いずれにしろ、アリスランドは、飛行している。あるいは航海し
ている、より正確には想像宇宙に浮游していることは疑えない事実
である。つまりは、浮游していることが、アリスランドの第一の存
在原理なのだ。
 しかも、激しい勢いで回転している独楽が一瞬静止して見えるこ
とがあるように、アリスランドが浮游しているのも、見せかけの浮
游にすぎない。見せかけの浮游--これが存在原理の第二である。

 「想像宇宙」というめずらしいことばが印象的だ。「浮游」ということばも何度も出てくるので印象に残る。しかし、そういう「名詞」にとらわれては、高柳の「ことばの肉体」の本質が見えにくくなる。
 繰り返される「浮游」は一段落目の「ポッカリ浮く」「漂う」を言い直したもので、その「固定化されない状況」というのが、高柳の「ことばの肉体/論理の肉体」のめざしている運動である。
 「アリスランド」という「名詞」を説明するとき「島」「宇宙」「航海」「独楽」などが「比喩」としてつかわれているが、注目しなければならないのは、そういう「比喩」ではない。さまざまな「名詞」を「比喩」として持ち出してくるときに、つねにそこに「論理の肉体」が動いていることである。
 「いずれにしろ」「あるいは」「つまり」「しかも」ということば、さちには「より正確には」「疑えない事実」「……であるように」という具合である。(一段落目には「勿論」という強調のことばもあった。)
 「論理」というのは「散文」のものであって、「詩」とは相いれないもの、「ポエジー」を殺すものという印象があるかもしれないが、高柳は逆に考えている。「論理」は「ポエジー」のように「固定化」していない。「論理」は「暴走」することができる。その「暴走」のなかに、「運動することば」の「ことばの肉体」の美しさがあると、考えている。
 ひとつひとつその「暴走」を指摘していくと、全部の作品に触れないといけないので、思いっきり端折って書くと、「論理の暴走」を支えものには、「偽(書)」(3 建国/書物)「捏造」(15 女王アリスの(捏造された)独白」というものがある。嘘、虚構が「論理の暴走」を支える。「嘘/捏造/虚構」とは「想像されたもの」でもある。そしてそれは、最初に指摘した「肯定→否定→肯定」のように「循環」する。この「循環」ということばは「4 海・川・湖」に出てくる。

水は自ら循環を止めることはできない。

 この「水」という「比喩」を「論理」と言い直してみるとき、高柳の詩がそのまま見えてくる。



 補足。
 一段落目について、書き急ぎすぎて、漏らしてしまったことがある。
 「暗黒の宇宙にポッカリと浮く島」「地底の闇を漂う島」。ここに「島」ということばがつかわれているが、それはもちろん「島」ではない。そういうものを「島」とは、私たちは言わない。しかし、高柳は「類推」の部分で「島」という「存在」を肯定している。肯定することで「島」は「比喩」ではなく、「共有された概念/ある存在を指し示すための特別のことば」になってしまっている。そして、それを引き継いでつかっている。こういう「概念」のつかい方も、実は、「ことばの肉体」の「暴力」のひとつである。「さっき、島であると認めたじゃないか」(肯定しているだろう)というわけである。
 「しかし」「あるいは」というような「論理を導入/推進することば」以外にも、「論理として成立した概念」を強引に(強引を感じさせずに)動かすというのも「ことばの肉体」の特徴である。
星間の採譜術
高柳 誠
書肆山田
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