詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アトム・エゴヤン監督「白い沈黙」(★★★★)

2016-01-26 11:38:20 | 映画
監督 アトム・エゴヤン 出演 ライアン・レイノルズ、スコット・スピードマン、ロザリオ・ドーソン

 予告編を見たとき、誘拐された娘を探す父親の話だと思った。「ストーリー」そのものはその通りなのだが、描かれているのものはまったく違う、と言った方がいい。
 映画はカナダの雪の森からはじまる。雪というのは冷たいものだが、どこかにあたたかみもある。「雪の降る街を」という歌は、その「あたたかみ」を感じさせる。日本の雪は、冷たさ(張り詰めた何か)にふれることで呼び覚まされる「あたたかさ」といっしょにある、と私は感じている。カナダの雪は(アトム・エゴヤン)はそうではない。触れると、そこから凍傷になる、触れた人間は傷ついてしまうという冷たい驚怖がある。何もない雪の原と、立っている木々。その「あたたかさ」をまったく感じさせない感じが、かなり怖い。日本の雪の場合は、大地や木々に「はりつく」というよりも、大地や木々をおおうという感じがする。雪が「真綿」のように大地や木々をつつみ、「冷気」から守る。「かまくら」のなかが、風にさらされない分だけ「あたたかい」のに似ている。日本の雪は、やさしい。アトム・エゴヤンの雪は、そうではない。雪はあらゆるものに「はりつき」、熱を奪う。凍死したくなければ、雪から離れているしかない。
 このあと、突然「ストーリー」がはじまる。誘拐犯と誘拐された少女が突然出てくる。少女は監禁されていて、誘拐犯はテレビモニターで少女を観察している。実際に見ることができるのに、そして実際に会話をするにもかかわらず、モニターで監視することに力点が置かれている。部屋にはモニターがいくつかあって、少女を監禁している部屋以外も映している。それがどこなのか、最初はわからないが、これが変に「冷たい」。「監視」には「見守る」という要素もあるが、「見守る」なら「あたたかい」。「見守る」から「守る」を取り払って、ただ「見る」のだ、ということはストーリーの展開とともにわかってくる。
 「見守る」ではなく「見る」。「見守る」には「守る」に力点を置くと、どうしても「接触」が入ってくる。親が子どもを何かから守るとき、自分の「肉体」で包む。そこに必然的に「接触」、「触れる」という動詞が、「肉体」といっしょに入ってくる。
 「見る」は、「触れる」がない。触れなくても「見る」ことはできる。「見る」から「肉体」の「触れる」が排除されるとき、ひとは「対象」に触れないのだろうか。そんなことはない。「肉体」が触れないかわりに「想像力」が対象に「触れる」。
 これが、怖い。
 「想像力」は「想像力」を満足させるために、暴走する。「肉体」が快楽を求めるように、「想像力」も快楽を求める。
 映画は、娘を誘拐されて苦悩する母をモニター越しに見て楽しむ「組織」の存在へと収斂していくのだが、「想像力」の暴走は、そんなところだけにあるのではない。「犯罪組織」の暴力なら、たぶん、映画は「怖く」ない。「悪の喜び」「悪の愉悦」と、それを最終的に否定するカタストロフィーは映画の定番である。
 この映画では、違う「想像力の暴走」を同時並行で描いて見せる。事件を担当する刑事がふたり。そのうちの男の方は、事実をつみかさねて「真実」に迫る、ということをしない。自分の「想像力」でつくりあげた「真実」に、事実を押し込めようとする。娘は誘拐されたのではない。父親が娘を少女売春の組織に売ったのだ。父親には借金がある。金が必要だった。そう考える。自分自身の「想像力」には親密だが、被害者の父親には親密には接しない。突き放して「見る」。(こういう「想像力の暴力」のために、たぶん、前の部署から外されて、被害に遭ったこどもを救う部署にまわされてきた。前の部署では、想像力の暴力にまかせて「犯人」を逮捕しつづけたのだろう、ということが想像できる。あ、こういう私の「想像」も「想像力の暴力」かもしれないが……。)
 女の刑事の方は、なんだか「のらりくらり」としている。事件は未解決のまま時間が過ぎてゆくのだが、定期的に母親や父親と面会をしている。サポートしている、と最初は感じられる。(父親の方は警察不信なので、面会に指定された場所へは行かない。)しかし、ストーリーが進むと、違ったふうにも見えてくる。刑事は母親をサポートしていたのではなく、母親の苦悩を「見ている」のではないのか。「見る」ことで快感を感じていたのではないのか。
 映画の後半、女刑事の過去が語られる。こどものとき、廃車のなかでひとりで暮らしたことがある。両親に見捨てられたのだ。そこから立ち直り、刑事になった。そしていまは誘拐されたこども(虐待されているこども)を救うために活動している。その活動のなかで、ふっと、「復讐心」のようなものが動くのだ。母親は(父親も)、もっと苦しめばいい。その苦しみを「見たい」と感じているようにも思える。(これも、私の「想像力の暴走」かもしれないが……。)その「見たい」という欲望、「見る」という快感を維持するために、刑事をやっている。さらには、誘拐されたこどもを救う「団体」にも積極的に協力している。
 もし。
 もし彼女がほんとうに事件の解決だけを、誘拐されたこども、虐待されているこどもを救いたいという気持ちだけで動いているのだとしたら、あるいはこどもを心配する両親のことを「守る」ということを考えているのだとしたら。そういう人間なのだとしたら、映画の後半で、こんな「告白」なんかしないだろう。ストーリーを複雑にしないだろう。ストーリーを入り組ませるのは、「謎解き」へと観客を誘い込むためではなく、複雑なストーリーをほうり出してしまって、逆に、登場人物の「こころ」そのものを浮かび上がらせるためなのではないのか。
 というようなことを考えてしまうのは……。
 この映画のストーリーは単純だが、展開の仕方はとても複雑である。最初に書いたように、いきなり犯人と少女の八年後が描かれるという「時制」の不自然さ。犯人探し、少女の生死の心配というストーリーの核心を捨ててはじまる。犯人と少女は何をしているのか、何のために生きているのか?というところへ関心をひっぱっていく。
 「時制」でもっとも混乱してしまうのは、女刑事が監禁されているというシーンのあとに、女刑事が母親の職場(ホテル)で母親を監視する隠しカメラを発見するというシーンがくること。女刑事は逃げ出した? 犯人は女刑事を苦しめるだけ苦しめて解放した? そうではなく、それは女刑事が拉致される前のことなのだ。女刑事は、犯人が母親を監視している、母親が苦しむのを「見て」、快楽をおぼえている、そういう組織があると、気づく。
 そして、そういうことに気づいたからこそ、自分の「性癖」にも気づき、「告白」へとつながっていく、という具合に、ストーリーをかきまぜるようにして「時制」が乱れる。「時制の乱れ」をとおして、「乱れない欲望/感情」を描きだす。人間性の本質を抉り出す。
 うーん、これは傑作かも。
 「スウィートヒアアフター」もそうだったが、アトム・エゴヤンにはストーリーの快感がない。何かを解決しようとするのだが、そしてそれはいちおう「解決」のように思えるけれど、それよりもストーリーの過程で見えてくる人間性に、つらいつらい気持ちになる。この映画では、自分を「安全」な場所に置いたまま、他人が苦しむのをみて快感を感じる人間が描かれているが、映画を見ながら、「あ、母親が苦しんでいる」「父親が苦しんでいる」と感じ、「迫真の演技」と思うとき、この「苦悩する肉体」をもっと見ていたいと欲望する私の存在にも気づかざるを得ない。
 邪悪な欲望、邪悪な欲望に汚れている人間を見たのか、それとも自分自身の邪悪な欲望を見たのか。
                      (KBCシネマ1、2016年01月24日)






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感情のように/理性のように(異聞)

2016-01-26 00:10:22 | 
感情のように/理性のように(異聞)

本の中の冬の石畳を歩いていくと、足音が凍りながら細い路地へ逃げていく。私から離れていく。そこに、「感情のように」ということばを挿入すべきか、それとも「感情のように」ということばを削除すべきか、悩んだ跡が、「見せ消ち」の形で残っている。

まだ書かれていない意識は、そこで新しい路「見せ消ち」という虚構をつくる。肉体がおぼえている地図を拒絶するように。そのとき、だれかが「理解するとは、私が対象(他者)になることだ」と上の階の部屋で叫ぶ。自殺志願者のように、その声が落ちてくる。見上げると明かりがぱっと消える。

さっきまで存在していた影が、私の背後(脇かもしれない)から暗闇になって侵入してくる。あるいは漆黒となって、私の知らない方向へのびていく。そのあと、「理性のように」ということばを続けるべきか、それとも「理性のように」ということばを切断すべきか、悩んだ跡が、「見せ消ち」の形で残っている草稿。
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