監督 マノエル・デ・オリベイラ 出演 リカルド・トレパ、ピラール・ロペス・デ・アジャラ、レオノール・シルベイラ、ルイス・ミゲル・シントラ、アナ・マリア・マガリャーエス
オリベイラの映像の特徴はカメラが動かないことである。動かないことが、カメラの演技になっている。固定されたフレームのなかで、役者が動く。
冒頭は川越しの街の夜景。道路を走る車のライトが動くので「映画」とわかるが、ぼんやり見ていたら「写真」とかわらない。つづく「ストーリー」の発端も、雨の路地にカメラが固定されていて、向こうから車が走ってくる。止まる。人が降りてきて、写真店のベルを押す。二階の明かりがつく。ひとのやりとりがある。これを、固定したフレームで切り取る。
そのとき、何がわかるか。
「世界」には「動いているもの」がある、ということがわかる。そんなことは、わざわざ「映画」を見なくてもわかる、というひとがいると思う。もちろん「映画」を見なくても、わかる。でも、私たちは往々にして「動いているもの」にひっぱられて、「動いているもの」の視点で「世界」を見つめてしまいがちだ。その結果、奇妙な言い方になるが、「ほんとうに動いているもの」は何か、ということが置き去りになる。
たとえば、先に書いたカメラ店のシーン。「館のひとがカメラマンを探している」「夫はポルトに行っていて三日たたないと帰って来ない」というようなやりとりを、話しているひとの「アップ」で撮ってしまうと、観客はその役者の「肉体」にひっぱられ、表情にひっぱられ、そこで「余分」なことを思ってしまう。もちろん、その「余分」な情報にもおもしろさがあるのだけれど、それはこの映画のテーマではない。そういう「余剰」をオリベイラは排除している。このシーンではまだ「ほんとう」に動いているものは少ない。人間は動いているようで、動いていない。ことばだけがストーリーを動かしている。
「ほんとうに動いているもの」だけを撮る。
それを「象徴」するのが、青年カメラマンとアンジェリカが、シャガールの絵の恋人のように空を飛ぶシーンである。ありふれた映画では、ひとが空を飛ぶとき、ひとは動かず背景が動く。ひとが動くときも、背景が動く。つまり背景の変化で「飛ぶ」を実感させる。
ところがオリベイラは背景(フレーム)を固定させ、スクリーンの右から左へ、抱き合った二人を移動させる。水平に飛ぶ二人の足がスクリーンの左へ消えてしまうと場面が変わり、また右から左へと二人が飛んでゆく。
この「映像」を見ることで、あ、これは「現実」ではなく、青年の「こころ」なのだとわかる。青年の「こころ」のほんとう。動いているのは青年のこころだとわかる。アンジェリカに恋をした青年は、アンジェリカと抱き合って、幸福を感じながら空を飛んでいる。それが青年の「夢」だとしても、それは「ほんとう」に動いているこころを、そのまま語っている。
青年は「ほんとう」にアンジェリカに恋をしているのだ、とわかる。
何が動いていて、何が動いていないか、というところから映画を見直すと、あらゆるシーンがおもしろくなる。
青年が館に到着する。死んだアンジェリカの写真を撮る前の、親族が集まっている部屋。人々は動かない。それぞれがひとつの方向を見ている。動くのは、妹と青年。妹は青年に「仕事」の説明をする。ほかのひとたちは、そのことについていろいろ思っているだろうが、「思っている」ということを肉体であらわすだけであって、「何を思っているか」はつたえない。そのシーンで「ほんとうに動いている/時間を動かしている」のは、妹のことばだからである。妹の意思だからである。
青年がアンジェリカの写真を撮るシーンでも同じである。ひとびとは、じっと動かない。動くのは、ほんとうに動く必要がある/時間を動かす必要があるひとだけである。
で、そのとき、死んでいるアンジェリカが、青年のカメラのなかで、突然、微笑む。それは「まぼろし」かもしれない。しかし、ほかのものが動かないなかにあって、アンジェリカの顔だけが動き、目をあけ、微笑むとき、その微笑みが時間を動かしていく。青年のこころを支配し、青年を動かす力になっていく。
それは「ほんとう」に動いた。だから、青年に影響する。
別なシーン、視点からとらえ直してみる。
青年が下宿している家には、ほかにも下宿人がいる。橋の建設に関係している技師(?)と友人(彼も仕事の関係者か)、若い女性。そこでは、青年の様子がおかしいということが語られる。また橋の建設についても語られる。彼らはテーブルに座って、朝食のあと、ただ「ことば」を動かしている。青年の様子から、哲学的な話題へとかわり、さらに橋の建設が中止になったこと、経済の話題へと動いていく。でも、そこではほんとうは何も動いていない。何も動いていないから、青年は、そこから何の影響も受けない。「ことば」はほんとうの動きではないのだ。(だからこそ、ふつう、映画は、ことばのなかで動いているものを役者の「表情」やアクションに置き換えて動かす。ことばは、動いている「表情」の意味を説明するだけである。)
青年がアンジェリカ以外に関心を持つものといえば、ぶどう畑で働く労働者である。鍬をつかって、畑を耕している。(土に空気を入れている。)そこでは人間が動いている。畑を耕すとき、ボス(?)はひとりだけ鍬をふるわず、歌を歌う。その歌にあわせてほかの人間が動く。歌うことでボスは仕事を動かしている。朝食のテーブルの、技師たちの会話とは大違いである。朝食のテーブルでは、何一つ動かない。ことばは、誰にも影響しない。だれかを動かすということはない。ひとを動かさないことばだけが、かってに動いている。
青年は、動かない写真をとおして、動くものをとらえている。動くものが「ほんもの」と感じている。そして、その動くものと「ひとつ」になる。これは何とも言えない、不思議な「矛盾」なのだが、矛盾しているからおもしろい。そこに「ほんとう」があると感じる。
もしかすると。
オリベイラの「映画」は「写真」が動き出す瞬間というものを、しっかりととらえようとしているのだと言えるかもしれない。むかし、映画を「活動写真」と言ったが、まさに「活動写真」としての映画を撮っているのだと言える。
死んだアンジェリカ。動かないアンジェリカ。それが、瞬間的に動く。カメラのなかで、写真のなかで、動く。その「驚き」、あるいはその「喜び」「興奮」が、そのまま一篇の映画へと昇華していく。それを追体験するような興奮がある。
「写真が動く(映像が動く)」は、また、「写真を動かす(映像を動かす)」でもある。これを応用しているのが、先に書いた美しいシーン、青年がアンジェリカと抱き合って空を飛ぶシーン。そこでは青年とアンジェリカがほんとうに飛んでいるのではない。抱き合った二人を動かすことで、「飛んでいる」をつくり出している。「写真」を「活動」させることで恋人が空を飛ぶという映画にしている。
うーん、美しい。何度思い出しても美しい。
この映画は、また、機械文明を批判しているかもしれない。青年が下宿の部屋から見下ろす路をタンクローリーが走っていく。ぶどう畑をトラクターのようなものが耕していく。それらはもちろん人間が運転している、つまり動かしているのだが、逆に人間はタンクローリーやトラクターによって動かされているかもしれない。発達する機械に動かされて、青年のように「夢見る力」を失っているかもしれない。映画は、もしかすると発達する技術によって、「写真」を動かす瞬間に生まれる感動を置き去りにしているかもしれない。そういうことも感じさせる映画である。
(KBCシネマ1、2016年01月27日)
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