今福龍太「違い」(「ミて」133 、2015年12月31日発行)
今福龍太「違い」はリズムが美しい。そして、強い。
二行目から四行目にかけて名詞が対比される。ここに出てくる名詞は実際に存在する名詞である。それを受けて六、七行の名詞は少し違う。川、海、平野。どれも「平凡」なものなので、すぐ自分の知っている川、海、平野を思い出すが、それは実際の川、海、平野ではない。平野には「心の」という修飾語がついている。それは、つまり、「比喩」なのだ。そして、「心の平野」が「比喩」であるということは、川、海もまた「比喩」であり、それは「心の川」「心の海」ということになる。
「比喩」というのは「わかりやすい」ようで「わかりにくい」。川、海、平野というものをだれもが知っている。だから、ここに書いてあることが「わかった」という気持ちになりやすい。でも、自分の知っている川、海、平野を頼りに風景を思い浮かべるとき、それが今福の思い描いた風景と重なるかどうかはわからない。私は、子ども時代過ごした北陸の小さな川、日本海、平野と呼ぶには狭すぎる田んぼの広がる土地を思い浮かべてしまうが、今福が書いているのは、その川、その海、その平野でないのは明らかだ。だから、私は今福の書いていることばを「わかった」と言ってはいけない。「名詞」を基準にして言えば、むしろ、「間違えた」と言うべきである。
「間違えている」ことはたしかなのだが、それでも「わかった」という気持ちになる。なぜなのか。それは「名詞」ではなく「動詞」がそこで動いているからだ。「流れる(流れ下る)」「潤す」という動詞を「水」の働きとしてつかみとることができる。川が何川であり、海が何海であり、平野が何平野であろうが、川ならば海に向かって流れる。(ここに「下る」という動詞がつけくわえられているのは、その平野の近くには山があるからだろうか。)流れながら、平野に(畑や田んぼに)水を供給する。大地を潤す。そこには大地を耕して生きているひとがいる。そういう働きが「わかる」からだ。「名詞」は具体的には何を指すのか「わからない」。しかし、それについて動いている「動詞」が「肉体」に響いてきて、そこに書いてあることが「わかる」。
そして、その「わかる」のなかには、「平野を潤す」ということばにつけくわえる形で書いたが、「人間の動き」(動詞)が重なる。平野は単に潤されるだけではない。その「潤い」をつかってひとは平野を暮らしの場にする。平野を耕し、生きる。平野で遊ぶということもあるが、それも生きることである。「心の平野」は、実は「暮らしの平野」であり、「人間が生きている平野」でもある。
ここから、書き出しの「名詞」の対比に引き返すと、そのとき問われていることがよく「わかる」。「どんな違いがある?」という書き出しの一行が問うているものがよくわかる。
フラメンコを踊る/歌うひとが生きている。フラマン語を話すひとが生きている。そのひとたちの「生きている」ということに、どんな違いがある?
Sではじまるサンバを歌い/踊るひとは生きている。Zではじまるサンバを歌い/踊るひとも生きている。「生きて/歌い/踊る」ということに、どんな違いがある?
短歌(日本の伝統文学)に思いを託すひとが生きている。カンテ・ホンド(スペイン語圏の歌?)に思いを託し生きているひとがいる。ことばに思いを託し、それを歌にして表現し、生きることに、どんな違いがある?
「名詞」は違っても「動詞」のなかで動くものは、同じだ。そっくりそのままではないが、「肉体」をとおしてできることは、おのずと似てくる。だから、「名詞」がわからなくても、そこでおこなわれている「動詞」を繰り返せば、人間のやっていることは「わかる」。
フラメンコを見る/聞く。そこに動いている「肉体」を見る。見ながら、実際に動かないまでも、自分の肉体を無意識に動かして、そこで動いている肉体を追いかける。そうすると悲しんでいる、憎んでいる、喜んでいるという感情が「肉体」のなかでうまれてくる。そして、その「ことば」が「わからない」にもかかわらず、何かが「わかった」気持ちになる。この「わかった」は「誤解/誤読」を含む。「誤解/誤読」を含んでいるが、そんなことは問題ではない。「共感」が「誤解/誤読」を溶かしてしまう。(あ、これは、今福が「短歌とカンテ・ホンドに」「大きな違いはない」と書いていることが「誤解/誤読」を含んでいるという意味ではない。「誤解/誤読」があったとしても、それは問題にならない。もっと大きな「生きる」ということからことばを動かしている。)
この「共感」から出発して、今福はことばをさらに展開する。
この連は、わかりにくいかもしれない。「どれもみな愛の理由になる/どれもみな戦争の原因になる」の二行の「愛/戦争」は入れ替え可能である。可能というよりも、むしろ積極的に言えかえて読まなければならないのだが、そうすると「愛」と「戦争」が同じものになってしまう。
矛盾してしまう。
「生きている」から愛する。「生きている」から戦争をしてしまう、とは簡単に言いきれない。
だから、むずかしいのだが、「生きている」現場、生と死がからみあう現場から見つめなおすと違ったものが見えてくる。
ここに、今福の「共感」が書かれている。「わかりやすい」とは言わないが、その「共感」をつかみとるための手がかりが書かれている。
一連目の詩を真似て書いてみると。
違いはない。二つの時計は、同じように、その時計とともに「生きている」ひとの暮らし、暮らしがあったこと、ひとが生きていたことを語っている。「生きている」のに、突然、止まってしまった。突然、時間を奪われてしまった。
「生きている」という「動詞」のなかには「たくさんの小さなお話」がつまっている。つまり、ふつうの市民のこまごまとした暮らしがつまっている。それは、「小さなお話」なので、「歴史」としては書かれないかもしれないが、たしかに存在する。それが、突然、奪われてしまった。
「奪われてしまった」と書けるのは、それを書く人が生きているからである。
ここに、かなしみが、ある。
「生者」と「死者」は、もちろん反対のことば。「違い」は「名詞」でとらえるかぎりはっきりしている。「名詞」を取り出して「違いはない」と書いてしまうと「矛盾/間違い」になる。
しかし、時計が止まるまで、だれもが「生きている」(生きていた)。その「動詞」が共通する。その「生きている」のなかには「愛する」がある。「憎む(闘う)」がある。あらゆる「動詞」が「生きる」というひとつの「動詞」のなかで共存する。死者になってさえも、その「生きた」という「動詞」は存在しつづける。
生者と死者を分ける(違ったものにする)のは、「生きているひと」の意思ではない。「小さなお話」の主人公ではない。他のものが強引に、生者と死者を生み出すのだ。その思いに至ったとき、かなしみは変化する。生者と死者の区別を生み出したものへの「怒り」にかわる。
この「怒り」に「長崎」と「絶滅収容所」の「違い」はない。「怒り」は共有のものになる。「怒り」は「共感」へとかわる。
この詩は、「どんな違いがあるの?」という疑問の形からはじまり、「生きる」ということに違いはないという「共感」を引き出し、そこからさらに生者と死者を生み出してしまう「現実」への怒りの共有へと変化していく。怒りの連帯へと動いていく。私の引用では、その変化のダイナミックな感じは伝えきれない。その動きの奥に「生きる」という動詞が書かれない形で存在しているということを指摘するのがせいいっぱいである。原文をぜひ、読んでください。
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今福龍太「違い」はリズムが美しい。そして、強い。
どんな違いがあるの?
フラメンコとフラマン語に?
SではじまるサンバとZではじまるサンバに?
短歌とカンテ・ホンドに?
大きな違いはない
どれもみな川のように海に向かって流れ下り
わたしたちの心の平野を潤してくれる
二行目から四行目にかけて名詞が対比される。ここに出てくる名詞は実際に存在する名詞である。それを受けて六、七行の名詞は少し違う。川、海、平野。どれも「平凡」なものなので、すぐ自分の知っている川、海、平野を思い出すが、それは実際の川、海、平野ではない。平野には「心の」という修飾語がついている。それは、つまり、「比喩」なのだ。そして、「心の平野」が「比喩」であるということは、川、海もまた「比喩」であり、それは「心の川」「心の海」ということになる。
「比喩」というのは「わかりやすい」ようで「わかりにくい」。川、海、平野というものをだれもが知っている。だから、ここに書いてあることが「わかった」という気持ちになりやすい。でも、自分の知っている川、海、平野を頼りに風景を思い浮かべるとき、それが今福の思い描いた風景と重なるかどうかはわからない。私は、子ども時代過ごした北陸の小さな川、日本海、平野と呼ぶには狭すぎる田んぼの広がる土地を思い浮かべてしまうが、今福が書いているのは、その川、その海、その平野でないのは明らかだ。だから、私は今福の書いていることばを「わかった」と言ってはいけない。「名詞」を基準にして言えば、むしろ、「間違えた」と言うべきである。
「間違えている」ことはたしかなのだが、それでも「わかった」という気持ちになる。なぜなのか。それは「名詞」ではなく「動詞」がそこで動いているからだ。「流れる(流れ下る)」「潤す」という動詞を「水」の働きとしてつかみとることができる。川が何川であり、海が何海であり、平野が何平野であろうが、川ならば海に向かって流れる。(ここに「下る」という動詞がつけくわえられているのは、その平野の近くには山があるからだろうか。)流れながら、平野に(畑や田んぼに)水を供給する。大地を潤す。そこには大地を耕して生きているひとがいる。そういう働きが「わかる」からだ。「名詞」は具体的には何を指すのか「わからない」。しかし、それについて動いている「動詞」が「肉体」に響いてきて、そこに書いてあることが「わかる」。
そして、その「わかる」のなかには、「平野を潤す」ということばにつけくわえる形で書いたが、「人間の動き」(動詞)が重なる。平野は単に潤されるだけではない。その「潤い」をつかってひとは平野を暮らしの場にする。平野を耕し、生きる。平野で遊ぶということもあるが、それも生きることである。「心の平野」は、実は「暮らしの平野」であり、「人間が生きている平野」でもある。
ここから、書き出しの「名詞」の対比に引き返すと、そのとき問われていることがよく「わかる」。「どんな違いがある?」という書き出しの一行が問うているものがよくわかる。
フラメンコを踊る/歌うひとが生きている。フラマン語を話すひとが生きている。そのひとたちの「生きている」ということに、どんな違いがある?
Sではじまるサンバを歌い/踊るひとは生きている。Zではじまるサンバを歌い/踊るひとも生きている。「生きて/歌い/踊る」ということに、どんな違いがある?
短歌(日本の伝統文学)に思いを託すひとが生きている。カンテ・ホンド(スペイン語圏の歌?)に思いを託し生きているひとがいる。ことばに思いを託し、それを歌にして表現し、生きることに、どんな違いがある?
「名詞」は違っても「動詞」のなかで動くものは、同じだ。そっくりそのままではないが、「肉体」をとおしてできることは、おのずと似てくる。だから、「名詞」がわからなくても、そこでおこなわれている「動詞」を繰り返せば、人間のやっていることは「わかる」。
フラメンコを見る/聞く。そこに動いている「肉体」を見る。見ながら、実際に動かないまでも、自分の肉体を無意識に動かして、そこで動いている肉体を追いかける。そうすると悲しんでいる、憎んでいる、喜んでいるという感情が「肉体」のなかでうまれてくる。そして、その「ことば」が「わからない」にもかかわらず、何かが「わかった」気持ちになる。この「わかった」は「誤解/誤読」を含む。「誤解/誤読」を含んでいるが、そんなことは問題ではない。「共感」が「誤解/誤読」を溶かしてしまう。(あ、これは、今福が「短歌とカンテ・ホンドに」「大きな違いはない」と書いていることが「誤解/誤読」を含んでいるという意味ではない。「誤解/誤読」があったとしても、それは問題にならない。もっと大きな「生きる」ということからことばを動かしている。)
この「共感」から出発して、今福はことばをさらに展開する。
どんな違いがあるの?
瞬間と永遠に?
届けられた手紙と送られなかった手紙に?
闘いと平和に?
本質的には違いはない
どれもみな愛の理由になる
どれもみな戦争の原因になる
この連は、わかりにくいかもしれない。「どれもみな愛の理由になる/どれもみな戦争の原因になる」の二行の「愛/戦争」は入れ替え可能である。可能というよりも、むしろ積極的に言えかえて読まなければならないのだが、そうすると「愛」と「戦争」が同じものになってしまう。
矛盾してしまう。
「生きている」から愛する。「生きている」から戦争をしてしまう、とは簡単に言いきれない。
だから、むずかしいのだが、「生きている」現場、生と死がからみあう現場から見つめなおすと違ったものが見えてくる。
あの日きみに長崎の瓦礫の中から見つかった時計の写真を送った
核爆発の瞬間に止まってしまった時計
焼け焦げた針は11時02分を指していた
そしていま、きみはぼくに別の時計のイメージを送ってくれる
長針は3時少し前で止まっている
ヘントの町から絶滅収容所までの長く一瞬の道のり
時計は止まり、歴史は麻痺するけれど
物語の衝動はそこからはじまって
知られざる出来事を語りはじめる
それはたくさんの小さなお話でできた果てしない海
そこでは生者と死者の違いはない
現実世界と虚構の違いもない
ここに、今福の「共感」が書かれている。「わかりやすい」とは言わないが、その「共感」をつかみとるための手がかりが書かれている。
一連目の詩を真似て書いてみると。
どんな違いがあるの?
長崎原爆で止まった時計と、きみの3時少し前で止まった時計に?
違いはない。二つの時計は、同じように、その時計とともに「生きている」ひとの暮らし、暮らしがあったこと、ひとが生きていたことを語っている。「生きている」のに、突然、止まってしまった。突然、時間を奪われてしまった。
「生きている」という「動詞」のなかには「たくさんの小さなお話」がつまっている。つまり、ふつうの市民のこまごまとした暮らしがつまっている。それは、「小さなお話」なので、「歴史」としては書かれないかもしれないが、たしかに存在する。それが、突然、奪われてしまった。
「奪われてしまった」と書けるのは、それを書く人が生きているからである。
ここに、かなしみが、ある。
そこでは生者と死者の違いはない
「生者」と「死者」は、もちろん反対のことば。「違い」は「名詞」でとらえるかぎりはっきりしている。「名詞」を取り出して「違いはない」と書いてしまうと「矛盾/間違い」になる。
しかし、時計が止まるまで、だれもが「生きている」(生きていた)。その「動詞」が共通する。その「生きている」のなかには「愛する」がある。「憎む(闘う)」がある。あらゆる「動詞」が「生きる」というひとつの「動詞」のなかで共存する。死者になってさえも、その「生きた」という「動詞」は存在しつづける。
生者と死者を分ける(違ったものにする)のは、「生きているひと」の意思ではない。「小さなお話」の主人公ではない。他のものが強引に、生者と死者を生み出すのだ。その思いに至ったとき、かなしみは変化する。生者と死者の区別を生み出したものへの「怒り」にかわる。
この「怒り」に「長崎」と「絶滅収容所」の「違い」はない。「怒り」は共有のものになる。「怒り」は「共感」へとかわる。
この詩は、「どんな違いがあるの?」という疑問の形からはじまり、「生きる」ということに違いはないという「共感」を引き出し、そこからさらに生者と死者を生み出してしまう「現実」への怒りの共有へと変化していく。怒りの連帯へと動いていく。私の引用では、その変化のダイナミックな感じは伝えきれない。その動きの奥に「生きる」という動詞が書かれない形で存在しているということを指摘するのがせいいっぱいである。原文をぜひ、読んでください。
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
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ご希望の方は、
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
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