詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原「暗闇」

2016-01-08 09:11:19 | 詩(雑誌・同人誌)
田原「暗闇」(「現代詩手帖」2016年01月号)

 田原の詩は(ことばは)、私には、わかったり、わからなかったりする。「意味」がとても強い。その「意味」の強さが、逆に「わかりにくい」という感じになるのかなあ。あるいは「わかりにくい」ところがあるから、「わかった」と錯覚してしまうのかな。

真っ暗やみにある街路樹の梢
空中に道らしいものを作って
夜陰にそれが揺らめいている

 夜の街路樹。見上げると梢が並んでいる。空中に「道」が見える。あ、そうか、あの空間は「道」なのか。
 その発見に誘われて、あ、そうだなあ、と思う。
 しかし、そのあと少しへんな気持ちになる。

道らしいもの

 たしかに「道」ではないのだから「道らしい」の方が正しい(?)のだろうけれど、この「らしい」って何だろう。「比喩」であることをあらわしている。「比喩」であることを強調している。「直喩」ということになる。さらに、そのあと「もの」ということばがつづく。「道」ではないけれど、「道らしい」と「道」を強調することになるのかなあ。よくわからないが、こんなふうに「丁寧」に言われると、視線は、「道らしいもの/空中の形」に固定されてしまう。
 で、三行目。

夜陰にそれが揺らめいている

 えっ、「道」って「揺らめく」?
 あ、違うね。街路樹の「梢」が「揺らめいている」。「梢が」道らしいものを「作って」「揺らめいている」。
 三行目の「それが」は「道らしいもの」ではなく、一行目の「梢」なのだ。
 でも、そう「わかり」ながら、逆に、「道らしいもの」が「揺らめいている」と読みたい(誤読したい/わかりたい)という気持ちに襲われる。
 「梢が揺らめいている」では「意味」になりすぎる。「意味」として通じすぎて、おもしろくない。びっくりしない。
 道が揺らめいて、つまり、動いている。道がどこかへ行こうと身震いしている。準備している、と驚きたい。
 何か大変なことが起きそう、と期待したい。

遠く明かりを灯す窓と
夜のとばりで微かに明滅する星は
帰路に迷った鬼火に見せかけて
蝙蝠という暗闇の精霊の顔を
見えるほどには照らせない

 ここでも、私は少し混乱する。文体が交錯する。主語/述語(動詞)が交錯する感じがする。
 三行目の「鬼火に見せかけて」。この「見せかけて」はやはり「比喩」であることを強調している。「鬼火」はほんとうの「鬼火」ではなく「比喩」としての「鬼火」。
 そして「見せかけて」というのは「使役」の表現。何を「鬼火」に「見せかけて」いるのか。窓の明かりと、星の明滅(明かりの変化)。窓と星は、窓の明かりと星の明滅(ゆらぎ)を「鬼火(の明滅/ゆらぎ)」に「見せかけて」いる。うーん、めんどうくさい言い方だなあ。窓の明かりと星が「鬼火」に「見える」(ゆらぐ鬼火のようだ/鬼火らしくゆらいで見える)では「意味」が違うのかな?
 たぶん、違う。
 窓の明かり、星の光が「鬼火らしく(のように)見える」だと、次のことばへとつながっていかない。
 窓や星は、窓の明かり、星の明滅「鬼火らしく見せかけて」いるのだけれど、それは「蝙蝠」の「顔を/見えるほどには照らせない」。「照らせない」という動詞の主語は「窓の明かり/星の明滅」だ。
 でも、これって、「鬼火」が「照らせない」というのと、どう違う? 「鬼火」を主語だと考えると変?
 あ、こんなふうに「厳密」に考えなくて、「窓の明かり/星の明滅」は「鬼火」であり、それは「蝙蝠の顔」を「照らせない」でいいのだろうけれど。そこに「鬼火」という「比喩」が割り込んでくると、次の「蝙蝠の顔」の「比喩」が弱くなる。「蝙蝠の顔」という「比喩」に集中できなくなる。だから、「鬼火」という「比喩」を遠ざけるために、つまり「蝙蝠の顔」という「比喩」を明確にするために、そういうことばの操作がおこなわれているのかな?
 「蝙蝠という暗闇の精霊の顔」の「という」は、やはり「比喩」を強調している。ほんとうは蝙蝠ではない。だから「蝙蝠という」と書いているのだが。
 こういう「文体」は、何か、度の強過ぎる眼鏡を強制的にかけさせられている感じがする。「見る/見える」というよりも、「もの」を網膜に直接焼き付けられている感じ。もう、それ以外のものが「見えない」という感じ。くらくらする。「見えるほどには照らせない」、つまり「見えない」はずの「暗闇の精霊の顔=蝙蝠の顔」が、逆に「見える」ように感じてしまう。遠い窓の明かり、星の明滅は、どこかに消えている。
 ことばの「意味」としては一連目は「梢」が「揺らめいている」、二連目は「窓の明かり/星の明滅」は「蝙蝠の顔」を「照らせない」(蝙蝠の顔は見えない)のに、受ける印象は「空中の道」が「揺らめいている」、「蝙蝠の顔」が「見える」になる。主語/動詞が「比喩」を中心にして、ずれる。何か、「錯乱」してしまう感じがする。

 で、その「錯乱」が次の連で、世界を大きく揺さぶる。

夜は巨大な黒い翼
計り知れないエネルギーをこっそり隠し
空を低くし
大地を上昇させる

 この「空を低くし(下降させ)/大地を上昇させる(高くする)」という、「交錯」がそのまま「事実」として見えてしまう。
 この「見える」は私に田原のことばが「わかった」からなのか、それとも「わからない(間違っている/誤読している)」からなのか。

 どっちでもいいのかもしれない。どっちでもいいことにすればいいのかもしれない。いや、何度もことばを入れ替え、読み違え、「意味」を固定化するのではなく、流動化させてしまえばいいのだろう。
 「意味」はそのつど(読んだ瞬間)、考えればいい。
 「どういう意味?」そうとうときの「どういう」ということはでしかあらわせない何かこそが「意味」かもしれない。「どういう意味?」とことばを揺さぶるときに、思わず問いかけてしまう瞬間に、肉体のなかに走る衝撃。見える何か(見ている何か)、まだことばに固定できない「印象」が、きっといちばん正確に「意味」を納得している。

 たしかに夜、暗闇のなかで「空を低くし/大地を上昇させる」ものがある。「空は低くなり/大地は上昇する」ということがある。そのとき、きっと「空は大地になり/大地は空になる」。そうなることで、「夜」は「ひとつ」になる。
 そして、それが五連目のことばにつながっていく。

距離は疎遠であり また融和である
それは残酷でしかも美しい
見えない力によって
冷静にぶつかりながら殺し合う

 「矛盾」にみえることばが、「ひとつ」になる。「距離は疎遠であり また融和である/それは残酷でしかも美しい」を「距離は疎遠であり しかも融和である/それは残酷でまた美しい」という具合にもことばを動かして読む必要があると思う。




夢の蛇
田原
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